ケーキ余波。

 よろりと後ずさって、腹筋に叩き込まれたチョコレートを受け止め、顔を上げた時にはサクラの姿は既に豆粒ほどの大きさに遠ざかっていた。
「……」
 お子さま同士の恋愛事情なんて正直どうでもいいのだけれど、明日からが思いやられる。カカシは軽くため息をついた。
 手の中の箱は、完璧とは言えないけれどそれなりに凝っていて、どれだけサクラが一生懸命作ったのかが窺える。たぶん中身だって手作りなんだろう。これは、サスケのためのものだ。だがサスケは絶対に受け取らないし、食べない。
 これを身代わりに受け取ったからと言って、自分が食べるのは違う気がするカカシだ。かと言って、食べないでダメにする訳にもいかない。これにはサクラの想いが詰まっている。
 まあ、サスケが食べないのなら誰が食べてもサクラにとっては同じだろう。
(可哀想にね……)
 サクラもこのチョコレートも、可哀想に。
 カカシはその箱を手に持ったまま、定食屋の暖簾をくぐった。

  ケーキ余波。

「あれ、カカシ先生! お久しぶりです」
「イルカ先生。どうも」
「おひとりですか?」
 夕食どき、注文を終えてぼんやりと待っていると、混雑の始まった定食屋にイルカが入ってきた。テーブル席に座るカカシは、向かい側をイルカに勧める。周囲を見回して、イルカは遠慮がちに座った。
 ここにはよく通っているのだろう、イルカはメニューを見もせずに注文する。
「……最近どうですか、あの子たちは」
「うーん、頑張ってますよ」
 その問いは抽象的に過ぎる、カカシは曖昧に笑った。
「最近はDランク任務でも嫌がらないで真面目に取り組んでますし。むしろ元気すぎて困るぐらいです」
「はは、そうですか」
 ちょっとは成長してるんですかねえと、イルカは照れたように笑う。アカデミーで彼らを担当した教師として……というよりは、ほとんど保護者のような顔だ。
 そんな彼に、余計なことは言えそうもない。
 ナルトとサスケが付き合っていて、サクラがサスケに勘違いされた挙げ句、冷たくあしらわれているなんて。
「……あのう、それ……もしかして」
「あ。ええ……まあ」
 サクラのチョコレートだ。
 入店した時からチラチラと見られている気はしたが、やはり気になるだろう。一見してバレンタインの贈り物だが、何しろ変形している。
「い、いいですね! 俺なんか、生徒からの義理チョコすらないですよ!」
 アハハと引き攣った笑いを浮かべるイルカに、カカシもつられて笑う。バレンタインなどという行事に全く興味のないカカシには、世の男子の悲哀に対して同情するしか出来ないのだ。
「俺だって似たようなもんですよ。これ、サクラのチョコですしね」
 サクラから貰った、とは敢えて言わない。イルカの顔が「えっ」と固まる。
「あ、せっかくですから、分けませんか? 昔と現在の保護者繋がりってことで……」
 どうせ、サスケ以外の誰が食べても同じなのだ。だが、イルカは神妙にその箱をじっと見つめる。
「……イルカ先生?」
「あ、はは……えっと」
 乾いた声が、明らかにその提案を拒否している。
「……あの」
 言いにくそうに、イルカは目を彷徨わせた。その顔はとうとう青ざめていた。何かを思い出している顔だった。
「サクラの料理の腕は、壊滅的でした……」
「……はあ」
「あ、その、今はどうだか知りませんが!」
「……」
 カカシはテーブルの上の箱を見つめた。
 サクラがアカデミーを出て下忍となったのは、つい最近だ。数ヶ月でメキメキ上達、というのは考え辛い。イルカの笑顔はあからさまな作り笑いのままだ。
「……これ、本当はサスケのために用意してたものなんですよ」
「は、ああ……そうなんですか」
「受け取って貰えなくて、俺に回ってきたという訳で」
「サスケは命拾いした訳ですね」
 命拾い。
 言ってしまってから、イルカははっとしたように口を押さえる。完全に手遅れだ。イルカはサクラの料理の腕は絶対に上がっていないと思っている。それどころか、命に関わるとまで思っているのだ。
 カカシから、食べる勇気は失われた。
 当然、イルカも食べる気はないだろう。
「……これは、サスケに受け取って貰うべきだったなあ」
「食べずに『美味しかったよ』って言うのも白々しい……ですよねえ」
 かといって、バカ正直に食べて感想を伝えるのも酷だ。サクラにも、もちろん自分たちの胃にも。
 二人の間に沈黙が流れ、いらっしゃいませーという声が何度か谺した。
「あっカカシ先輩」
 不意に、聞き覚えのある声がカカシの耳に飛び込んだ。
 何度目かの「いらっしゃいませ」で入店してきたのは、ヤマトだった。暗部では別の名前を使っているが、顔を出している時には基本的にヤマトと名乗っている。イルカが「お知り合いですか?」と囁いて、カカシは小さく頷いた。二人の心は、今、ひとつだった。
 店内は混雑している。カウンターは空いているから、一人ならそこに滑り込める。だがカカシは、決意を持って手招いた。
「ここ、いいんですか?」
「込んでるし、四人掛けに二人っていうのも悪いしね」
「じゃ、遠慮なく」
 ヤマトはイルカの隣に座って「どうも初めまして」なんて暢気に挨拶している。初対面の会話を一通り見守って、カカシはテーブル越しに少々身を乗り出した。
「ヤマト、頼みがある」
「え?」
 途端にヤマトは顔を引き攣らせた。
「おごりませんよ?」
「そんなことじゃない……」
 過去にたかられたことでもあったのだろうか、イルカは二人を横目で見守る。カカシは真剣な目で、箱を差し出した。
「……これは?」
「何も言わずに、受け取ってほしい」
「は?」
「運命なんだ」
「……は?」
 見るからバレンタインのラッピングだ、ヤマトは怪訝にカカシを覗き込む。
「色々あって、箱は潰れてしまったが……中身はたぶん無事だから」
「はあ……」
「受け取ってくれればそれでいい。食べるか食べないかは、自分で決めてくれ」
 真剣な表情のカカシに、ヤマトは心底疑わしいというまなざしを向ける。こんなところ(定食屋)でカカシが真剣な話など、裏があるに決まっているとヤマトにはバレているのだ。イルカは戦々恐々だった。
「……受け取れば、いいんですか?」
「そうだ」
「……分かりました」
 渋々、ヤマトは箱を手に取った。
 途端に緊張の糸が切れる。イルカは盛大に安堵のため息を吐き、カカシはほっとした笑みで「ありがとうさすがは俺の見込んだ男だ」と社交辞令ミエミエのお世辞を吐いた。
「いやあ、お前が入ってきた時にはほんと運命だと思ったんだよ!」
「……何も聞くなと言うなら聞きませんけど、先輩的にこの状況はどうでもいいんですか?」
「え?」
 はっと気付くと、店内のほとんどの目がこのテーブルに集中している。イルカは「しまった」という顔を壁に向けた。どう考えても、いい年をした男が、これまたいい年をした男に、真剣な面持ちでバレンタインのチョコレートを渡した場面にしか見えないのだ。
 だが、カカシはそういう点では肝が太い。
 にっこり笑って、
「うん、ほんと、どうでもいい!」
 と言い放った。

*     *     *


「……何だ、普通に美味い」
 その後ヤマトは、三日かけてそのチョコレートを調べまくったのだが、結論としてただのチョコレートに過ぎないということが分かっただけだった。あのカカシが曰くありげに差し出すものだから、絶対に何かあると思っていたのに。忍は裏の裏を読め、が彼の忠告ではなかったか?
(裏の裏……)
 まさか、カカシが本気で自分に用意したものでは? と思い当たって、ヤマトはぶんぶん頭を振った。
(食べちゃったよ!)
 そういえば、運命だとか、言っていなかったか。
 あのタイミングで定食屋に入ったのがカカシの知り合いであれば、誰でも良かったのか、それともヤマトだからこそ『運命』だったのか。
「……」
 サクラのチョコレートは、そうしてあちこちに波紋を広げた。
 ちなみに、チョコレートを手作りしようとしてカカオから調達したサクラだったが、まあ当然のように大失敗を重ね、市販品をせめてラッピングだけでもと手作りしたのだった。
 当のサクラは、ヒナタが余らせたナルトとサスケの分のチョコレートを、バレンタイン残念会という名の女子会で食べていた。

 甘くて少ししょっぱい、悲喜こもごものバレンタインは、今年も波乱を巻き起こして過ぎ去っていった。