熱病クリスマス

 中三の二学期の終わり、冬休みの直前。
 街中がクリスマスのイルミネーションに溢れ返るそんな時期に、サスケは高熱を出してブッ倒れた。
 

  熱病クリスマス

 
 思い返せば、その日は朝からサスケの様子がおかしかった。
 ぼんやりして、ため息ばっかり。数学で当てられて黒板に向かっても、まあ答えは合っていたけど、チョークを二回落としてた。何に上の空なのかと思ったけど、二時間目にはどんどん顔が赤くなって呼吸は浅くなって。座ってるのにフラフラして、あっと思った時には机に突っ伏していた。単なる居眠りじゃないと分かったのは、それでもサスケが目を開けていたからだ。教科書とノートがずるりと滑って、缶のペンケースが派手な音を立てて床に落ちた。斜め後ろの席でそれを見てた俺は、反射的に立ち上がったんだ。
 音にクラス中がサスケを見た。先生もびっくりして、でもサスケはバラバラに転がった筆記用具を拾うことなんか考えもつかないみたいに、ただ一生懸命に息をするばっかりだった。
「先生、サスケ、熱あるみたいなんだってばよ!」
 俺は先生の返事なんか聞かないまま、保健室行ってきますと宣言して、サスケを担いで教室を出た。


 教室を出る時には、肩を貸す格好だった。でもサスケは俺に掴まる力も出ないのか、どんどん体が沈んでいく。足も縺れに縺れてる。普段だったら皮肉のひとつも出てくるところなのに、半分開かれた口からははあはあという息継ぎみたいな呼吸しか聞こえない。暖まった教室から出たら、体はがくがく震え始めた。酔っ払いだってもうちょっとマトモに歩けるんじゃねえの。飲んべえのばあちゃんを思い出しながら、俺は焦れてサスケの足を掬い上げた。
 うん、重いけど、こっちの方がラクだってば。
 なるべく揺らさないようにしっかり抱えて、階下の保健室を目指す。今更だけど、これっていわゆる『お姫様だっこ』だ。サスケから抗議の声が上がらなかったから気付くのが遅れた。つまりサスケは相当ヤバいってことだ。
「失礼します!」
 両手は塞がってるので足でスライドのドアを開ける。保健医の先生はそれを咎めるより早く、俺の抱えてる病人に気付いてくれた。
「熱があるみたいで、急にダウンしたんだってば」
「座れない…みたいだね。じゃ、ベッドに寝かせてくれる?」
 先生が素早く仕切りのカーテンを開けて誘導する。俺がそっとベッドに下ろすと、先生はサスケの上履きを脱がせて、薄い毛布を掛けてくれた。
 保健室の中はちゃんと暖かかったけど、使われていないベッドは多少冷えていたみたいで、サスケは苦しげに身震いする。先生が体温計を持ってきて、サスケの学ランのボタンを外した。Yシャツのボタンも三つ外して、体温計を押し込む。瞬間サスケは不快そうに歯を食いしばった。体温計が冷たかったのかも知れない。学校指定の薄手のセーターを着てはいたけど、ないよりマシって程度で、サスケは震えっぱなしだ。
 体温を測っている間に、俺はサスケの代わりに保健室使用ノートにクラスや名前なんかを書き込んだ。
「急に具合悪くなったの?」
「朝からぼんやりしてるなーとは思ったけど、二時間目始まってすぐにグラグラしだしてさ、もうダメだった」
「インフルエンザかなあ」
「『かなあ』じゃなくってさ! センセー保健医だろ!?」
 暢気な声に俺は憤慨した。
「まあまあ。あとはいいから、君は授業に戻りなさい」
「良くねー! スッゲー不安!! 任せらんねー!!」
 どうせ期末テストの返却と、間違いが多かった問題の復習みたいな内容の授業なんだ。でも先生は困った顔で、こっちが怒られるんだからと勝手な理由で俺を追い出した。

 悶々としながら英語の授業を終えて、俺は誰に何を聞かれるよりも早く教室を飛び出した。
「先生サスケは!?」
 ガラッと勢い良くドアを開けて保健室に飛び込むと、先生はメガネと同じくらい目をまん丸にして、慌てて『静かに』のジェスチャーをする。あっそうか、サスケは寝てるんだ。俺はそろそろとドアを閉めて、カーテンからサスケを覗く。
 サスケは、ここに運んできた時と変わりなく、顔を真っ赤にして苦しそうに息継ぎを繰り返していた。俺が来たことにも気付いてないみたいだった。
「何だよ、全然良くなってねーじゃんか!」
「あのね…保健室に入ったからって、そんなすぐに良くなる訳ないでしょう」
「熱、何度だった?」
「38.6℃」
 うわ。前に平熱が低いって言ってたサスケにしたら、それってもう異常だ。
「薬は?」
「飲ませてないよ」
「何で!?」
「学校では無闇に薬を飲ませちゃいけないんだよ。アレルギーの出る子もいるし、解熱剤飲ませちゃいけない病気かも知れないし、インフルエンザだったら別の薬が出る訳だから…」
「じゃあ病院行った方が早かったんじゃんか!」
 先生はエキサイトする俺にまたしても『静かに』と口に指を当てる仕草。ああ、うん、分かってます。
「もう少し様子を見て、熱がもっと上がるようなら病院に連れていくから。うちは君は、どのみち今日は早退だね。君、うちは君の荷物まとめて、次の休み時間に持ってきてくれる?」
「…はい」
 俺は渋々頷いた。

 三時間目は音楽で移動があった。なので俺は終わったら直行するつもりで、荷物をまとめたサスケのショルダーを持って音楽室に行った。音楽の授業なんて退屈なばっかりで、俺はじりじりと時間が過ぎるのを待った。
 待ったんだ。
 でもやっぱり待てなくて、10分もしないうちに、俺はショルダーを掴んで音楽室から脱走した。先生のびっくりしたような怒った声は聞こえてたけど、そんなことよりサスケの方が大事だったんだ。
 サスケは俺にとって、特別な奴だ。
 ライバルで、ケンカ友達で、イヤな奴だけどすごくいい奴なんだ。口を開けば罵詈雑言、気に入らないとすぐ手や足が出る暴力男。でもそれは、そんなのは俺に対してだけなんだ。俺はそれが嬉しくて、だから俺もあいつが特別なんだ。だからあいつが文句もなく俺にだっこされて運ばれるなんて、本当はあっちゃいけないことなんだ。
 息急き切って飛び込んだ保健室には、保健医の先生はいなかった。

 あれ、いない。
 一歩下がってドアを見るけど、特に不在の貼り紙もない。鍵もかかってなかったんだから、ちょっと外してるだけなんだろう。でも俺にとっては都合のいいことこの上なかった。
 慎重にドアを閉めて、先生の机を見ると、サスケの体温と覚しき数字のメモがある。38.6というのは、ここに運び込んだときの体温。次の38.8というのは、たぶん俺がさっき来たあとに測った体温だろう。
(上がってんじゃねーか)
 登校時から二時間目の上げ幅に比べたら、たぶん小さい値だ。でも上がってる。俺は急に不安になって、カーテンを見つめた。
 恐る恐る近付いて、カーテンの向こうに滑り込む。
 サスケは目を閉じ、でもやっぱり口は半開きで、苦しい呼吸を繰り返していた。額には汗が浮いていて、ハンカチなんか持っていない俺は側にあったティッシュを掴んで、そっと押し当ててみた。
「…、ナルト…?」
「えっ」
 眠ってはいなかったのか、それとも俺が起こしてしまったのか。サスケが薄く目を開けていた。その目尻まで赤い。潤んだ目がまばたいて、俺を見上げていた。
「…だいじょぶか?」
 月並みな科白しか出てこないのが悔しい。大丈夫なんかじゃないことは分かりきってるのに。
「…はい、が、あつい…」
 肺が熱い。
 掠れた声でそう言うと、サスケは咳込んだ。こういう時は、仰向けは辛いんだ。少ない経験を思い出して、俺はサスケの肩を押して横向きにさせた。しばらく咳が続いて、やがておとなしくなる。
 その横顔を上から覗き込んで、俺はうっかり、本当にうっかり、サスケの唇に見とれた。
 湿って、色付いて、半開きで、熱い吐息が漏れている。
 実は、俺のファーストキッスの相手はこの唇なのだ。去年の球技大会の時、ちょっとしたアクシデントで俺とサスケは公衆の面前でキスをしてしまった。あの時も、こうして上からサスケを見下ろしていた。当時も思ったけど、サスケはエロい。普段は全くそんなことないのに、ちょっと顔が赤くてちょっと呼吸が激しかったりすると覿面だ。
 あ、いやいや、だからって何がどうって訳じゃないってばよ!
 そうだ、サスケが苦しんでる時にフキンシンだ。俺は汗で頬に張り付いた黒髪をそっとどけてやった。
 また目が開く。
 こんな頼りないサスケを見るのは嫌だった。弱ってるところを簡単に俺に晒しているサスケは嫌だった。たぶん俺は、サスケが頼りないところを俺に見せてくれるのは、嬉しいんだ。だけどサスケは、絶対に俺に弱ってるところなんか見られたくないはずなんだ。そうゆうサスケを、俺は本当は見ちゃいけないんだ。サスケはそうゆうところ、野生の獣みたいなんだ。
 だから意識モーローの今の状態は、俺にとってもサスケにとっても好都合だった。
「…早く、治さねーとな、サスケ」
 小さく呟いてみるけど、やっぱりサスケはあんまり分かってないみたいだ。俺はいても立ってもいられなくなって、毛布ごとサスケを抱き上げると保健室をあとにした。


 学校を(上履きのまま)飛び出して大通りに出ると、タクシー乗り場がある。案の定ヒマそうに何台も並んでいて、俺はドアを開けて待ち構える先頭の一台に乗り込んだ。
 一番近くの病院まで、と言うと、駅前の総合病院に着けてくれた。車内でサスケが急に高熱を出して倒れたことを話すと、病院に着くなり運転手のおっちゃんも降りて、受付で「急患だよ!」と怒鳴ってくれた。そしたらすぐに診察室に案内されたんだ。俺はおっちゃんに感謝した。タクシー代もワンメーターで切ってくれたし、不況なのに本当にありがとう、だ。
 結局サスケはインフルエンザじゃなくてただの風邪だった。でも肺炎を起こしかけてて、病院に来るのが遅かったらしばらく入院という羽目になっていたようだ。
 待合室のロビーの長椅子にサスケを横たわらせて、俺はサスケの学ランの胸ポケットから生徒手帳を抜き取って、しばし悩んだ。
 住所は書いてある。
 行ったことはないけど、またタクシーに乗ってこの住所を言えば着くとは思う。でも、サスケのポケットのどこを探っても、鍵が見当たらないのだ。住所の最後はどうやら部屋番号だから、アパートかマンションか。もし高級マンションだったらエントランスにも入れないかも知れない。
 俺は迷った挙げ句、緊急連絡先の『兄・携帯』に、ロビーの端に設置された公衆電話からかけてみた。
『…はい?』
「サスケが倒れました!」
『どちら様でしょうか』
 明らかに怪訝そうな声で電話に出たサスケ兄は、俺の焦った声にも全く動じなかった。そうだ、公衆電話からかかってきた電話に、サスケ兄は警戒してるんだ。
「あっ俺、サスケの同じクラスのうずまきです! 今日、二時間目に熱出して倒れちゃって…」
『…うずまき? うずまきナルト?』
「へ? あ、はい…」
 サスケ兄が俺の名前を知っていることに、一瞬びっくりする。でも、ああサスケが俺のこと兄貴に話してるんだなと単純なことに気付いて、でもなんかそれってスゲエなあ、と思った。
『今学校にいるのかな?』
「いや、病院に来ました。今診察終わったところで…」
『どこの病院?』
「駅前の空座総合です」
『すぐに行くから、待ってて』
 すぐに?
 普通の電話と違って『ガチャン』という音もなくフッと切れた通信に、俺は思わず受話器を眺めた。
 声の感じからすると、大人だな、と思う。中三のサスケの兄貴なんだから、高校生以上ではあるだろう。緊急連絡先が親じゃないのはどういう都合だろう。色々と疑問は湧いたけど、受話器を眺めるよりサスケの側にいてやりたい。俺は長椅子に戻って、サスケの頭のすぐ横に座った。

 サスケの兄貴は、その電話から十分で病院に到着した。颯爽と入ってくるなり、横たわるサスケに一瞬で気付いて、俺と目が合った。
「ナルト君? 初めまして、サスケの兄です」
「あっはい! 初めまして!」
「電話、ありがとう」
 スゲエ!
 サスケ兄はサスケにソックリだった。でも顔立ちはやっぱり大人で、スーツを着てて、高校生には見えない。更に言えば、大学生ってよりは社会人だった。俺はサスケの顔について特に感想はなかったけど(女の子ってこうゆう顔好きだよな~というぐらい)、サスケ兄は俺にも分かる美形だった。もしかしてサスケもあと数年経てばこうなるんだろーか。色々と無敵だな、と俺は脳天気なことを思っていた。
 会計は待ってて貰ってたので、窓口に連れていく。
「今日は保険証はお持ちになってますか?」
「え、保険証? 保険証…忘れました」
 財布は出したけど、病院で診察を受ける時の必需品を忘れてきたらしい。会社から直でここに来たなら持ってなくても仕方ないなあと思う。でもその時のサスケ兄は、そんなものの存在は忘れてましたという顔で、俺はちょっと意外だった。
「じゃ、次回必ずお願いしますね」
「はい。すみません」
 会計のお姉ちゃんは、苦笑して頷くサスケ兄に目がハートだ。美形は多少ヌケててもチャームポイントにしかならないんだろう。世の中不平等だ。
 会計で貰った処方箋を隣の薬局窓口に出して、サスケ兄はサスケを駐車場に停めた車の後部座席に積み込んだ。
「何これスゲエ! でけェ!」
「ああ、これ、会社の車だよ。借りたんだ」
 黒塗りのデラックスな外車は、ドラマなんかでヤクザさんが使ってるのをよく見るけど。君も送ってあげるからここで待っててと言われて、俺はサスケに膝枕を提供して車内で待った。サスケ兄は薬局に戻っていった。
 サスケは、診察を受けただけでまだ何も処置されていない状態で、つまり変わらず苦しそうだ。でも、俺は学校で悶々としていた時よりはマシだと思った。肺炎になりかけてたなんて、ホント保健医なんてアテになんねー。毛布でくるんでてもガタガタ震えるサスケに、俺は自分の学ランを追加で掛けてやるぐらいしか出来ないんだけど。
 しばらくして、白い薬袋を手に戻ってきたサスケ兄は、完璧に無駄のない動作で運転席に座った。
「ナルト君、悪いけどウチに先に行くからね」
「当たり前だってばよ!」
 サスケ兄はちょっと笑って、シートベルトを締めた。


 サスケの家はマンションだった。結構大きい。やっぱりエントランスに入るには、住んでる人の暗証番号か、訪問先の部屋の人にロックを解除して貰うしかなかったらしい。大正解だ。先に入ったサスケ兄が、管理人さんのような人と少し話しているのが見える。出てくると、自動ドアのところに立って、サスケを抱える俺を迎えてくれた。
 サスケ兄が車を車庫に入れてる間に、俺は教えられた部屋の扉を開けた。暗証番号と、サスケの静脈パターンチェックの二重鍵。網膜パターンでもいいらしいけど、それは今はサスケが辛そうなので、掌で済む方を選んだ。間違いなく高級マンションだ。
 玄関を入って右側の突き当たり、それがサスケの部屋。俺は脱ぎ捨てた上履きはどうしようもなくそのままにして、どたどたとサスケの私室に向かう。幸いドアノブはちょっと肘で引っかけるだけでも開けられるタイプで、俺は整えられたベッドにサスケを横たえた。
 保健室から奪ってきた毛布は、体温が移って心地いいだろうけど、病院であちこちに触れたものだからサスケからひっぺがすように言われてる。途端に呻くサスケに「はいはいゴメンな」と囁いて、ついでに制服を脱がしにかかった。
 四苦八苦してパジャマに着替えさせていると、サスケ兄が帰ってきた。助かった、二人がかりで着替えさせた。サスケ兄がおかゆを作ってる間に、俺はサスケの顔と首の辺りを、熱いタオルで拭いてやった。濡らして絞ったタオルを電子レンジで温めればいいんだそうだ。なるほど。
 汗を拭われるのは、気持ち良さそうだったことにホッとする。皮膚が敏感になってしまっているのか、辛そうではあったけど、やっぱり汗は不快だったんだろう。
 俺は苦しそうなサスケから目が離せなかった。
 自分がたまに風邪をひく時だって、こんな苦しそうなはずはない。感覚的には「あーちょっとしんどいな」ていうぐらいだ。今にもどうにかなってしまいそうな、こんな酷い状態じゃない。それでも入院の必要はないと言われたんだから、最悪ではないということだろうけど。でもおデコに貼ったひえピタは、上から触ってももう冷たくも何ともない。今貼ったばっかりなのに。
 ふと、サスケの手がもぞもぞと上がって、掛け布団を首元から押し退けた。
「暑い?」
 返事はない。
 返事をするのも大変なのかも知れない。布団は羽毛で軽いのに、押し退けるのも一苦労みたいだし。手伝うつもりで手を伸ばすと、軽くぶつかったサスケの手がびくりと跳ねた。わ、ゴメン。
 一瞬触れた手はすごく熱くて、俺は切なくなってきた。でも、サスケの手は次には俺の手を探すように動く。何だろう? と思いながら手を差し出すと、きゅっと握られた。
「…」
 熱い。
 俺が熱いと感じるってことは、サスケには俺の手は冷たく感じるんだろう。体は寒がってるのに、手は暑がってるのか? 振り解くのも可哀想で、俺はじっと手を握らせておいた。
 身じろぎも出来ないでいると、サスケ兄がお盆を持って入ってきた。
「あれ…」
 その状況に苦笑しながら、サスケ兄は勉強机の上に一旦お盆を置く。俺は急に恥ずかしくなって、アワアワと言い訳をした。
「え、あの、これはその、さっサスケが手を」
「うん。冷たくて気持ちいいんだろうね」
 サスケ兄には、たぶん同じ経験があるんだろう。俺は一気に鎮静化した。助かった。
「サスケ。ちょっと起きて、おかゆ食べよう」
 丁度お昼の時間だ。お盆の上には卵粥と水と薬が乗っていた。
 いらない、というふうに僅かに首を振るサスケは、完全に眠ってた訳じゃなさそうだ。でも俺が自分の部屋にいて、自分が俺の手を握ってることになんて、全く気付いてない。ああダメだ。こんなのはダメだ。お前は早く治らなきゃダメだ! 俺はサスケ兄を手伝ってサスケの体を起こすと、枕で支えきれない上半身を支えてやった。
 サスケ兄の運ぶ陶器のスプーンが口に当たると、条件反射のようにその口を開く。何かの雛みたいだ。おかゆは小さなお椀に半分も入ってないのに、サスケは全部を食べきる前に「もう無理」とでもいうように、ぐらつく頭を俺に凭せかけた。
 サスケ兄は無理はしなかった。
「飲めるか?」
 カプセルと錠剤、それに粉薬。
 うわ、こんなにあんのか! 自分が飲む訳でもないのに、俺は「うへえ」と顔を歪めた。サスケは粉薬を飲んだ時に少しだけ咳込んだけど、カプセルと錠剤は上手いこと飲み下した。
 早く治せ、このバカ。
 つい先週まで『鬼教官』だったサスケの方がまだマシだ。いつまでも弱ってんなバカ。
 サスケ兄の手前そんなことは心の中でしか言わなかったけど、力を使い果たしたサスケを寝かせて、俺たちはそっと部屋を出た。


 リビングに入ると、サスケ兄がお茶を用意してくれた。
 本当に『お茶』、緑茶だ。
 うーん、渋いってばよ。あ、味がじゃなくて趣味が。啜ったお茶は、ウチで飲むのと明らかに味が違う。まろやかだ。たぶん高級なお茶なんだ。
「イタチ?」
「そう。うちはイタチ」
 テーブルに差し出された名刺には『うちはイタチ』とプリントされていて、会社の名前とか住所とかもある。裏には、たった今書いてくれた携帯の電話番号。病院からかけた番号は忘れたけど、たぶん同じだ。
「弟が世話になったね、ありがとう」
「えっいや別に! 大したことしてねーってば!」
「でも、学校抜け出してきた…んだよね?」
「あっ…まあ…」
 何でバレた、と一瞬ぎくっとしたけど、考えてみればサスケは靴もなしに毛布にくるまってたし、俺は俺で上履きのままだった。普通に出てきたんじゃないことは、玄関で俺の上履きを見て察したんだろう。
「サボリ?」
「…そ、そうゆうことに…なるかも?」
 えへへと目を逸らしても、イタチ兄ちゃんは別に怒ったり窘めたりなんてしなかった。きっと、よその子供のサボリより弟の体調の方が優先なんだ。ちょっとホッとして、俺は息を吐いた。
 ホッとした途端に、ムラムラと保健医に対する怒りを思い出した。
「だ…だってさ! だってさ! 保健室のセンセーってば、薬は無闇に飲ませないとか言って、寝かしとくだけだったんだってばよ! 全然良くなんねーし、熱上がってくし、埒あかねーと思って…なんか丁度センセーがいなかった時に、こう、ショードー的ってゆうかトッサのハンダンってゆうか…」
「…先生が、いなかった?」
 ブツブツとグチる俺の科白に、引っかかったらしいイタチ兄ちゃんが呟いた。
「あ、うん…。俺、三時間目の途中で授業ほっぽって保健室行ったんだけど、そん時センセーいなくて」
「…熱を出した生徒を、そのままにして?」
 一瞬背筋がぞくっとする。
 何で急に寒くなったんだろう。あっ確かにまだ部屋は暖まりきってはいないけども。
「う、うん。でも正解だったってばよ! 病院じゃ、もう少し遅かったら入院の必要があったかもって」
「入院」
「は、肺炎…起こしかけてたって言ってた…です」
「肺炎」
 ズドンと気温が下がった。
 ああ明らかにイタチ兄ちゃんが温度を下げてる! もしかして俺は余計なことを言ったのかも知れない。でも事実は事実だし。でも俺が怒られてる訳じゃないのにメチャクチャこええ!!
 俺がガクガクしてると、ふっとイタチ兄ちゃんは笑った。
「なら、君の機転には余計に感謝だな」
「も、も…もったいないお言葉…だってばよ…!」
 やっと温度が戻ってきて、解凍された俺は引き攣った顔で、訳の分からない敬語で答えたのだった。
 イタチ兄ちゃんは、きっとサスケをすごく大事に思ってるんだろう。表札には『うちはイタチ・サスケ』としか書かれてなくて、兄弟二人暮らしみたいだし。
「じゃあ、サボリついでに、うちでお昼食べていくか?」
「えっ!」
「大したお礼にはなっていないけど」
 いい人だ!
 でも、そこではっと気付いた。
「あー…俺、学校に弁当あるんだったってば」
「何だ、自分の鞄は持って出なかったのか」
「う、ホラ、ケーカク的犯行じゃなかったので…」
 イタチ兄ちゃんはアハハと笑った。
 時計を見ると、12:30だった。今から戻れば、それから弁当を食べても13:00からの五時間目にはギリギリ間に合うだろう。もう殆ど授業に対する意欲なんかなかったけど、ばあちゃんが作ってくれた弁当は無視できない。
「よし、ナルト君。今日はサボろう」
「へっ?」
「どうせ今日はあと一時間か二時間だろう?」
「うん、今日は五時間目までだから…あと一時間」
「君の荷物と靴を取りに行ってくるから、留守番を頼むよ」
 俺がもう授業なんか戻りたくないってゆうのを、イタチ兄ちゃんは的確に察してくれた。俺が顔に出やすいタチなのは、散々言われてたけど。でも、だからって『サボっていい』なんて言う大人は初めてだ。それっていいのかな?
「ついでに上手く言い訳しておくから」
「兄ちゃん、意外に融通利くってばよ」
 ニシシと笑うと、イタチ兄ちゃんはイタズラっぽく笑い返してくれた。
「俺も結構サボった」
「イタチ兄ちゃんが!?」
「サスケは真面目だから、ちょっと面倒くさいっていうだけではサボらないんだけどね」
 さりげなく比較されるけど、イタチ兄ちゃんは意外にも楽しそうなので、俺は悪ノリさせて貰うことにした。

 それから、戻ってきたイタチ兄ちゃんと二人で別々のお昼を食べながら、色々な話をした。俺のこと、サスケのこと、サスケとは関係ない学校のこと、高校受験のこと。でも殆どの話は結局はサスケに繋がっていて、小・中と俺の学校生活の全部にあいつが関係していたんだと再確認させられた。
 イタチ兄ちゃんについても聞いた。両親はサスケが小学生の時に飛行機事故で亡くなっていて、思った通り兄弟二人暮らしだった。十歳離れているイタチ兄ちゃんは、サスケの親代わりという訳だった。遠い親戚は本当に遠くて、結局は両親の保険金と奨学金で高校から大学を乗り切り、現在勤める外資系の会社に就職したんだ。俺は名刺を見ながら、素朴な疑問を口にした。
「会社の住所、品川になってるけど…すごく早く病院着いたような?」
「今日は偶然、社長と一緒に三鷹の支社に行っててね。話を聞いていた社長が、三鷹支社の屋上から立川支社の屋上まで、ヘリコプター出してくれたんだ」
「すげえ!」
「で、準備しておいてくれた社用車を飛ばしたという訳」
 本当はフライトプランを提出しないといけなかったみたいだけど、とイタチ兄ちゃんはさらりと笑った。
「でも、弟が熱出したぐらいで、よく会社早退できたってばよ」
 熱を出したぐらいで、というのは、俺が電話でそれしか言っていないという意味だ。決してサスケの発熱を軽く言った訳じゃない。イタチ兄ちゃんも、それは分かってくれたみたいだった。
「それがね、『弟が一大事で病院に運ばれた』って言おうとして『大惨事で』って言っちゃって、上司も慌てて送り出してくれたんだよ」
 うーん、それって天然なのか計算なのか。
 アハハと笑うイタチ兄ちゃんは、たぶんそれだけ聞いたら単なる『ウッカリさん』なんだろうけど。でもさっき気温の変化と間違うくらいの寒冷前線を発生させたのを体験しているので、一概には断定できない。でも、保険証忘れたりサボろうって言ったりするのも見てる。たぶん半々なんだ。顔も立ち姿も完璧な美形だから、そうゆうウッカリが余計に目立つのかも知れない。サスケとは、顔は似てるのに全然違うんだ。面白い。
 俺は五時間目と帰りのホームルームの終わる14時まで、うちは家でイタチ兄ちゃんと話した。帰り際サスケの部屋を覗いて「サスケ」と声をかけたけど、今度はちゃんと眠っているみたいだったから、俺はそっとドアを閉めた。
 社用車でウチまで送ってくれたイタチ兄ちゃんは、ばあちゃんにそれはそれは丁寧な挨拶をして、聞いてて恥ずかしいほどに俺を誉めそやしてくれた。午後はサボっただけにいたたまれない。いつの間に用意したんだか(たぶん学校に荷物を取りに行った時?)という菓子折りを手に、ばあちゃんは上機嫌だった。イタチ兄ちゃん恐るべし、だってばよ。

 イタチ兄ちゃんは学校にどんな言い訳をしたのか、翌日登校した俺は誰からも叱られなかったし、却って誉められる始末だった。
 保健医の先生にも謝られた。ちょっと青ざめてたから、たぶんイタチ兄ちゃんに凄まれたんだろう。怒られる筋合いじゃない俺ですらガクブルだったんだから、相当怖かったはずだ。ご愁傷様だってばよ。俺も保健医の先生にはそれなりに怒ってたはずなのに、ちょっと気の毒に思えてくるぐらいだ。それくらいイタチ兄ちゃんは迫力がある。
 当のサスケは、終業式の前日までそのまま休んだ。とはいえ早退した翌日から三日、そのうち一日は祝日で、授業的には大した痛手でもないだろう。
「おい、ナルト」
 終業式の日、登校一番サスケは俺のところへまっすぐやってきた。
 珍しい。
 何かと思ったら、包みを差し出された。赤と緑のリボンがかかってる、これってもしかしてクリスマスプレゼントとかいう。そう、終業式は12月25日なのだ。
「何これ」
「兄貴と、俺から。…世話んなったみてえだから」
「え、何? お前覚えてねーの?」
「…あんまり」
 嫌そうな顔は、照れ隠しというよりは、覚えていないことへの不安感みたいだった。早く受け取れ、とばかりに突き出されて、俺は包みを受け取った。そんなに大きくはないけど、ずしりと重みがある。本かな、という重さだ。
「あ、りがとう、ってば…。なんか、却って悪いな」
「…入院しなくて済んだの、お前のお陰だって言うし」
「あー、うん。それは俺もビックリしたってば。もう平気なのか?」
「ああ。昨日もう一回病院行ったし」
「そっか。良かったな」
 イタチ兄ちゃんからは、一昨日の夜に家に電話がかかってきた。平熱にまで体温が下がったことはその時聞いたけど、その時点では終業式に出られるかどうかは分からなかった。俺は嬉しくて笑った。
「…ナルト、お前…」
「ん?」
 俺が笑うのを見て、サスケは複雑そうな顔をすると一瞬口ごもる。
「何?」
「…いや、やっぱりいい」
「何だってばよ」
 言いかけてやめるなんて気持ち悪い、気になるじゃんかと言おうとした時、カカシ先生が「そろそろ講堂に移動するよー」と暢気な声で教室を覗いた。遅刻癖のあるカカシ先生は、朝のホームルームが出来たのは結局一年間で片手で足りる程度だった。
 サスケはその声にさっさと俺に背を向けた。仕方なく、俺も包みを鞄に入れるとみんなの後を追った。

 結局サスケはそのまま、口をきく隙も見せずに帰ってしまった。意地でもこっちを見ようとしないのは、たぶん照れくさいんだろうと思って、俺も絡んだりしないでただ見送った。病み上がりなのに、下手に暴れさせてもアレだし。熱で辛そうだったサスケに、俺もちょっとは大人になったんだってば。
 そうして帰って開けたクリスマスプレゼントは、受験必須科目五教科の問題集だった。あああ。中間と期末はサスケに縋りついてた俺が「受験勉強は自力でやる」って宣言したせいなんだろーか。
 サスケから初めて貰ったクリスマスプレゼントは(いやイタチ兄ちゃんとの連名だけど)、そんな実用品だった。

*     *     *


 ナルトの声が聞こえる。
 やばい。
 何だ。
 ここはどこだ。
 重い瞼を上げると、見慣れた天井があった。俺の部屋だ。
 おかしい、学校に行ったと思ったのに、夢だった? 寝坊した? だがうっすらと、保健室やら病院やらの記憶が舞い戻って、ああ俺は熱を出したんだと思い出した。
 昨日から何となくだるい気はしていたが、登校してから何だかフラフラした。授業が始まって、ちょっと気持ち悪いなと思ったが、無視してたら急激に頭を支えられなくなったんだ。それ以降の記憶は曖昧だ。気付いたら保健室にいた。体温を測って、水分を取りなさいと言われたが、枕元のコップに手を伸ばすのも億劫で放置していた。次に気付いたのはタクシーの中、そして病院の診察室、待ち合いのロビー。
 恐ろしいのは、そのどれもにナルトの金髪が写り込んでいるということ。
 何でだ。
 現実なのか。
 それとも願望か。高熱のあまり幻でも見ていたのか。俺は笑った。幻想なんだと気付いたからだ。
 だってここは俺の部屋だ、なのに遠くでナルトの声が聞こえるんだ。これが幻聴じゃなくて何なんだ。恥ずかしい。俺はもうダメだ。弱ってる時にナルトの幻聴なんか聞こえるようじゃ生きていけない。
 でもどうせなら、幻聴じゃなくて幻覚が良かった。俺は想像する。ベッドの横で俺を見守るナルト、俺の心配をするナルト。時々頭を撫でてくれたりするといい。幻覚ならいい。現実にはありえないし、こんな無様な姿は晒せない。でも幻覚なら構わない。ああ俺はバカだ。ナルトの声が耳元に聞こえる。だいじょぶか、と囁く声。早く治さねーとな、と囁く声。俺は惨めだ。ああでも幻なんか。いやでも幻なんだから。せっかくだからキスのひとつもしてくれたっていい。球技大会のキスを思い出す。完全なる不慮の事故。サクラが怒ってた。いのが引いてた。俺は事故なのに嬉しくて、あと悲しくて、ぐちゃぐちゃだ。三学期が終わったら高校も違う。もう殆ど会うこともなくなる。これでいいんだ。離れれば忘れるし、忘れられる。たまに会う時には喧嘩すればいい。無視すればいい。そうやって何年も何十年も経てば恋心なんて寂れる。
 まずい、どんどん落ち込んできた。
 熱で弱ってるせいだ。
 楽しいことを考えないと。
 笑っているナルト、俺に笑いかけているナルト。俺の肩に腕を回して、友達みたいに笑っているナルト。ああダメだ、そんなのは、全部苦しい。俺はネガティブ思考の持ち主だったのか。
「サスケ」
 うとうとと眠りに落ちる、その間際。
 ああ、何だかずいぶんハッキリとナルトの声が聞こえる。でももう体は動かない。幻聴万歳。俺はナルトの声に満足して、縋っていた意識を手放した。
 俺がなりゆきを知るのはその二日後、体温が平熱に戻った夜。覚えていないのか、と呆れた兄貴から聞かされてのことだった。

 火を噴くほど真っ赤になった俺を、また熱が上がったのかと、兄貴は本気で心配した。