神様なんかに頼れない

「行かねえ」
『何で!』
「めんどくせえ」
『シカマルかよ!』
「あのな、神頼みする時間があったら勉強しろって言ってんだ」
 中三の冬休み、俺はかかってきた電話を何気なく取ったことを、受話器の向こうの声に早々に後悔した。
 

  神様なんかに頼れない

 
 高校受験を控えた冬休みだ、みんなラストスパートで黙々と勉強している。…と思っていたら、ナルトから「一月三日にみんなで初詣に行こう」なんていう脳天気な電話があった。みんな、というのは一学期・二学期で俺がテスト勉強の面倒をみた数人のクラスメイトのことだ。もちろんナルトも含む。普通は各自でするべき勉強を、俺が教師代わりに面倒をみた。つまり自力でどうにも出来ない生徒たち、ということだろう。
 普通の学力の生徒より努力が必要な生徒が、貴重な時間を潰して初詣。
 それでなくてもお正月なんて、新年の挨拶なんかで時間が潰れるものだろうに。うちの場合は、親戚は距離的にも血縁的にも本当に遠くて、年賀状だけのやりとりしか繋がりはない。顔なんか、覚えていない訳ではなく見たことがない。冬休みは普段の休みと変わりなく、大晦日とお正月に食卓がちょっと贅沢になるぐらいのものだ。俺は普通に受験勉強をして過ごすつもりだった。
「それに、寒い中出かけて風邪でもひいたら本末転倒だろ。お前らもおとなしく家にいろ」
『どんだけ慎重派なんだってば!』
 ぎゃあぎゃあ喚く声を聞きたくなくて、俺はさっさと受話器を置いた。
 嘘だ。
 聞きたくない訳じゃない。
 聞いていたい。電話なら一対一だから尚更だ。俺はずっとナルトが好きで、それをずっと隠している。いのにはバレたが、いのにしかバレていない。俺は不毛な恋心を捨てられずに、忘れたくて勉強に打ち込んでいた。
 これは俺が女に生まれていたとしても、不毛であることは間違いない。ナルトが好きなのはサクラなんだから。
 だからナルトと一緒にいたり話したりするのは、嬉しくても、結局は辛くなる。俺は唇を噛んだ。きっと顔は歪んでいる。兄貴はまだ仕事で、そこに自分一人なのが救いだった。

 正月は、ただ静かに兄貴と過ごすのが習慣だ。両親が亡くなったのは何年も前だけど、それ以来何かがめでたいなんていう気持ちは大部分が欠けた。新年は、また一年が始まるというだけのもの。区切りとしては四月の方が新年ぽい。だから正月は、正月だからといって俺の中では地位が低いのだ。
「はい…あ、ナルト君? ああ、あけましておめでとう。うん、こちらこそ宜しく」
 一月二日の夜、風呂から上がった時、家の電話が鳴るのが聞こえた。兄貴の声に相手が知れて、俺はぎくりとした。
「年賀状? ちゃんと昨日届いてるよ、ありがとう。え? ああ…はは、そうだった?」
 そうだ、今年のナルトからの年賀状は、宛名には兄貴の名前も入ってた。クリスマス前に風邪をひいた俺は、何でかナルトの世話になったらしい。兄貴はその時ナルトと知り合っている。
 知り合って二週間足らずで、何やら親しげだ。俺はちょっとムッとした。
 うちに電話をかけてきて、俺に取り次ぐでもなく、兄貴はナルトと喋っている。ナルトと喋る兄貴の声が、俺と喋る時より明るく聞こえる。何なんだ。
「明日? いや、別に何もないよ。いつも通り、勉強するって言っていたな」
 髪を拭きながら居間に入って、兄貴と目が合う。
「うん? ああ、いいんじゃないか? え、何で…、ああ…サスケの言いそうなことだな」
 その目が笑っている。
 ナルトの奴、初詣のことを言っているに違いない。俺は知らないフリで居間を横切った。
「…うん、うん。13時に中学の正門前だね、分かった」
 待ち合わせの連絡か。行かないと言ったはずなのに。でもナルトが話している相手は兄貴で、もしかして、俺を誘うのを諦めて兄貴を誘ったのか? モヤモヤと胃の辺りが重くなる。
「あはは、大丈夫だよ。そこまでひ弱じゃないはずだから」
 ひ弱? これは絶対に俺の話題だ。モヤモヤする。
 冷蔵庫からアクエリアスを出して、グラスに移す。風邪以来、水分補給にはスポーツドリンクをと兄貴に言われて、律儀に守っている。もうそろそろ止めてもいいと思うが、この2リットルのボトルが空くまでは続けざるを得ないだろうか。
「え? ふうん…。うん、うん…。そんなことしてたのか」
 え、何だ。
 何をしていたんだ? グラスのアクエリアスを半分飲んだところで、俺はキッチンから聞き耳を立てた。情けない。兄貴がナルトと何を喋っているのか、気になって仕方がないのだ。
 だが、そんな素振りは兄貴に悟られてはいけない。
 いつも通りの行動をして、ナルトからの電話になんか興味はないと知らせなければ。ナルトと兄貴が何を喋っていたって俺には関係ない、と知らせなければ。俺は半分残ったグラスを手に、洗面所に戻って髪を乾かさなければ。何でもないようにキッチンを出る。
 その時だった。
 兄貴と目が合った。
 ナルトに相槌を打っていた兄貴が、ぽかんと俺を見て───。

 大爆笑した。

「ぶ、あはは、アハハハハ!!! サスケ、お前、あははは!!!」
「な…っ!?」
 人の顔を見て笑う兄貴はどうにも治まらないのか、とうとうソファに突っ伏して、それでもまだ笑っている。何なんだ。何か変なのか? 髪が面白くハネてるのか?
 俺は後ずさった。
 お笑い番組を見たって、兄貴は笑ったりしないのに。いや、そもそもこんな大爆笑なんて。
 冗談ではなく、俺は生まれてこの方見たことがなかった。
「い、いや、それは…っ! いいことを聞いた!」
 何を言ったんだ、ナルト!?
 息も絶え絶えに「うんうんじゃあね」と電話を切る兄貴を、ただ見守る。大丈夫なのか兄貴。
 子機をローテーブルに転がして、兄貴はようよう体を起こした。視線を上げて、ボーゼンと立ち尽くす俺を見て、口を押さえて「ぶふっ」と吹き出す。ああイヤな気分だ。そういえば結局ナルトは電話を俺に代われとは言わなかったのか。
「…サスケ」
 声が震えている。まだ笑いは治まらないらしい。
「明日は13時に、中学の正門で待ち合わせだそうだ」
「ああ? 俺は断ったんだけど…」
「行ってきなさい」
 兄貴はようやく通常に近い笑顔に戻って言った。俺は「何で」と眉を寄せてみせる。今まで一度だって、友達関係で兄貴に口出しされたことなんかなかったのに。
「みんなはお前と行きたいんだよ」
 みんな?
 引っかかった瞬間、兄貴の肩がまた笑いに震えた。あ、と気付いた。
「だが、お前が、鬼教官とはな」
「…」
「ずいぶん慕われているようだ」
 特にナルト君に、と付け加える兄貴を、俺は正視できなかった。

 鬼教官というのは、俺がテスト勉強をみてやった奴らの付けたあだ名だ。スパルタを貫いた指導だったせいだ。テスト前じゃなくても、何かと言うと「うちは教官」と呼ばれる始末で、いい加減忘れて欲しいあだ名だ。
 でも、だからと言って、そんなに笑うほどのあだ名ではないはずだ。それで何となく分かった。兄貴はストライクゾーンが辺鄙なところにあるんだろう。普通のお笑い番組で笑わないのは、本当に面白いとは感じていないからだったんだ。俺は返事を保留して、なるべく兄貴を視界に入れないように遠くを見ながら、洗面所へ向かうのだった。

*     *     *


「おっ! 来た来たー!!」
「あけましておめでとー!」
「あけおめー」
「今年も宜しくねっ教官!」
 結局兄貴に押し切られる格好で、俺は待ち合わせの場所へ渋々向かった。指定された時間通りに正門に着くと、数人が待ち構えていた。おう、とだけ返事をして、しかしナルトがまだ来ていないことにイラッとくる。人を無理矢理呼び出しておいて、自分は遅刻かよ。
 だが、そう思った瞬間に、背後から遠く呼ばれた。
「サスケエェェェ!!!」
 振り向いてぎょっとする。
 猛スピードで自転車を飛ばして突っ込んでくるバカはナルト以外の何者でもない。ガシャーンと自転車を乗り捨て、その勢いのまま抱きつかれる。クラスメイトに囲まれていて逃げ場のなかった俺は、タックルでも受けたようにナルトに拘束された。
「来てくれたってばよォー!」
 ぎゅうぎゅうと抱き締められて、冷たい空気の中で耳にかかるナルトの荒い呼吸が熱い。お前犬だなと笑う声、全くだ、俺はナルトを引き剥がした。
「てめえ、キタネーんだよ」
「え、何が」
「兄貴を使いやがって」
「へへ、作戦成功だってばよ!」
 兄貴に言われなかったら絶対に来なかった。そう、兄貴に言われて仕方なく来たんだ。兄貴が言ってくれたから、俺は来ることが出来たんだ。俺の心情なんて分からないナルトは、逃がさないとばかりに俺の手首を掴んで離さない。何度か振り解こうとしても、ナルトは笑って離さなかった。
 ナルトはジーンズにフリースのハイネック、フライトジャケットという軽装だった。俺はと言えば、ボトムスは同じくジーンズだが、膝丈のダウンコートにマフラーと手袋。風邪を心配する兄貴に着せられたものだ。だが、他のクラスメイトも俺と似たり寄ったりの格好だ。
「…お前、寒くねえのかよ」
「え? あー、ちょっとはな。でも昼間だし、動いてりゃそんなでも」
 俺は舌打ちをした。
「だから、それで風邪ひいたらどうすんだって言ってんだ。受験前なんだぜ、少しは用心しろ!」
 待ち合わせ時間から10分経って全員が揃い、のろのろと歩き始める中でナルトに小言を垂れる。俺がナルトの隣を歩いているのは、ナルトが俺の手首を離さないせいだ。必然的に、会話はナルトとする羽目になる。
「大丈夫だって。俺いつもこんなもんだし」
「いつもと違うだろうが、今の時期は」
 これで本番までろくに勉強できなかったり、あまつさえ本番当日に寝込んだりしたら、今までの苦労が水の泡だということがこのバカには想像できないらしい。俺は苛々とため息を吐くと、手袋を外してナルトに突きつけた。
「え」
「貸してやる」
 俺が着ているのはダウンのコートだ、ポケットに手を突っ込んでいれば充分温かい。
「面倒見がいいなあ、教官」
「つかマジでお前見てる方が寒いって」
 見ていたクラスメイトが笑いながら言う。全くその通りだ。俺は実は暑くなっていたマフラーも外して、ナルトの首にかけた。
「サスケ!」
 文句は言わせない。首を絞める勢いで巻いてやる。慌ててそれを緩めながら、ナルトは焦ったように手袋を突き返してきた。
「俺よりお前だろ! 病み上がりなんだから!」
「その病み上がりを無理矢理呼び出したのはテメエだろうが」
「だから、お前はあったかくしてなきゃダメなんだってば!」
「新年早々殴られてーか」
 じろりと睨んで手をポケットに隠せば、ナルトは複雑そうに手袋をはめた。
 だいたい、病み上がりなんて言っても寝込んだのは二週間も前の話だ。今は受験前で用心しているに過ぎない俺より、肝心な時に失敗の多いナルトの方が心配なのだ。
「…ゴメンってば」
 ぼそぼそと言いながら遅れた距離を取り戻すナルトを、ちらっと流し見た俺はぎくりとした。
 今更だが、ナルトは俺のマフラーと手袋をしている。アッシュブルーのグラデーションのマフラー、グレーのフリース地に黒い皮のパイピングの手袋。ナルトには似合わない。
 似合わない、のに。
 俺のをしているんだ、と思った途端に体温が上がった。ああヤバい。やっぱり来なければ良かった。俺のマフラーを巻いて俺の手袋をはめていたって、ナルトが好きなのはサクラで、マフラーも手袋も用が済めば突き返されるのだ。
「お前は? 寒くねえの?」
「…暑い」
 正直に答える。ナルトは「ふうん」と言うと、はにかんだように笑った。
「俺さ、俺さ! マフラーとか手袋とかって、あんまりあったかいって思ったこと、なかったんだってばよ」
「阿呆だな。ウスラトンカチ」
「や、でも! でもさ!」
 手袋の手で俺の袖を摘んで笑うのだ。
「なんかお前のは、あったけーな!」
 ああ、あと三ヶ月。いや、二ヶ月だ。
 卒業したら、これを見られなくなる。それでいい、分かっている。これでいい、そのためにわざわざ、ナルトと違う高校を選んだ。
「…今の今まで俺が着けてたからじゃねえの」
「そっか。そうだな」
 歩道を行き交う人数が、いきなり多くなってきた。神社が近いのだ。元日よりは空いているはずだが、それでも人込みはすさまじい。晴れ着の人、普段着の人、家族連れ、友達同士、恋人同士。笑っている人、人込みに苛つく大人、どこかで泣き喚く子供の声。鳥居をくぐっていよいよ混雑が激しくなって、俺はふと、このままはぐれてしまいたくなった。押しあい、へしあい、ナルトと密着して、ナルトの髪の匂いなんかが鼻を掠めて。
 ああやっぱり来なければ良かった。
 わいわいと騒ぎながら前へ前へと進んでいくナルト、俺の足は次第に動きが鈍くなる。このまま誰にも気付かれないように、はぐれることが出来るだろうか。俺は臆病者だ。でも仕方ないじゃないか。あれは俺のものにはならないんだから。眺めるだけなんて辛いじゃないか。俺はお前なんか忘れてやる。
 俺は自分の意志では進めなくなっていた。後ろから押されて、押されただけ前へ進む。一緒にここへ来た奴らはずいぶん前にいる。不意にナルトが振り返った。
「サスケ、遅え!」
 何笑ってやがる。
 何で手なんかこっちに伸ばす。俺は絶対にそんな手なんか取らないのに。
 猛烈に引き返したくなったが、俺の体はもはや自分の意志では動いていないのだ。押され、そこで踏みとどまって待つナルトに辿り着いてしまう。だが意地でもポケットに突っ込んだ手は、伸ばさなかった。
 ああ、だが、忘れていた。
 ナルトは俺が何を考えてたって、関係ないのだ。こっちに伸ばした手で俺の肘を掴んだ。
「はぐれんなよ、ダセエな」
「はぐれてねえよ、ちゃんとこっちからはお前らが見えてた」
 ナルトの腕が、そのまま俺の腕に絡まる。
 何やってんだ、お前。
 何やってんだ。
 ああ分かってる、俺がポケットから手を出さないせいだ。でも手を出したら、お前は俺の手を取るんだろう。どっちもどっちだ。俺は真っ赤だし、心臓は壊れそうだし、そんなのは全部人込みのせいだと言い訳したい。
 組んだ腕を引かれて、やがて賽銭箱が見えてきた。
 しょうがねえから祈ってやる。
 お前の幸せなんか祈らない、サクラとのことなんか祈らない。お前は勝手に幸せになればいい。俺はせめて、高校受験を祈ってやろう。俺は受かるからいい。お前が無事合格できるように、俺はポケットに入っていた小銭をありったけ、賽銭箱に投げ入れた。