初熱

「へっくしゅ!」
 ぶるりと肩を震わせたかと思うと、ナルトは派手なくしゃみをした。サスケはそれを横目で見る。
「うー、今日寒ィな!」
「そうだな」
 こすった鼻が赤い。
 いつもは真冬でもコートなど着ないナルトが、まあ今日もジャケットだけれど、マフラーをしていた。マフラーや手袋すら、すぐなくすだの邪魔だからだのと言い訳をして、普段は身に付けたりしないのだ。そのナルトが、マフラーをしている。何しろ今日が受験当日の真冬である。毎日寒いし、今日がいつもに比べて特別寒い訳ではないとサスケは思っている。
 それでも、ようやく自分の忠告を受け入れて、ナルトがマフラーだけでもしてきたという事実は感慨深い。受験生の自覚が今頃になって出てきたのだ、と。
「ふえぇっくしょい!」
 二の腕をさすっていたかと思うと、ナルトがオマケでもう一度、大きなくしゃみを飛ばした。
 サスケは怪訝に眉間を寄せる。
「おい」
「んあ?」
「そんなに寒いか?」
「あー、ダウンジャケットにすれば良かったかなー」
 今日は登校したらすぐに、受験高校別に班を作って受験に向かう。受験終了後はその場で解散だが、半数ぐらいの生徒は答え合わせなどを含めてファストフード店などへなだれ込む。
「な、サスケ、終わったら駅前のマックな! 絶対だぞ!」
「…チィ」
 念を押されて思わず舌打ちが出る。
 けれど、いつもはそれに過剰反応するナルトが、黙ってサスケの袖を引くのだ。何だそれは。うっかり喜んでしまう自分が恨めしい。
 さすがのナルトも、受験当日でナーバスになっているのかも知れない。心細そうに見上げられて、サスケは「分かってる」と渋々返事をしたのだった。
 

  初熱

 
 特に緊張することもなく試験を終えたサスケは、約束のファストフード店に入った。禁煙席のフロアを見渡せば、集団の中の金髪がまっすぐに目に飛び込んでくる。解放感からか、その横顔は明るい。
「おっサスケー! お疲れー!」
「おう」
 その集団の中で、いち早くサスケに気付いたナルトが大きく手を振った。ここだ、というジェスチャーなのかも知れないけれど、サスケにはそんな些細な動作も毒だ。誰よりも先に自分に気付いた、それだけでも心臓は跳ね上がるというのに。
「俺さ! 俺さ! 結構できたかも!」
「ふうん?」
「あっ何だってばよその流し目は!!」
 幸福を噛み殺して、ナルトの隣に空けられた椅子に座る。
 サスケの受験した高校は、地元からは結構離れている。待ち合わせの一番最後に到着したサスケは、フライドポテトを口に放り込みながら問題用紙を覗き見た。
(へえ…)
 ナルトの汚い文字がぐちゃぐちゃと書き込まれているのを確認して、軽く驚く。意外に正解が多い気がする。
「お前にしちゃ上出来だな」
「だろー!?」
「凡ミスも割と少ねえし」
 漢字の書き間違いや年号の記憶違いなんかを何ヶ所か見つけるけれど、以前に比べれば格段に減った。素直に褒める気持ちが湧いて、サスケは問題用紙からナルトに目を向けた。
(…ん?)
 ふと、ナルトの頬がいつもより赤いことに気付いた。その目前でナルトが鼻を擦る。心なしか目元も腫れているような。
 店内は暖房が効いているし、暑いだけなのかと思うのだが、見ればナルトはジャケットを脱いでいない。
「なあなあ、サスケ採点で何点?」
「それよりお前、暑いのか? 寒いのか?」
「え?」
 サスケが訊くのと同時に、ナルトの手が腕をさする。朝も見た、寒さを紛らわせる行為。
「あー、うん? どっちかってえと寒いかな?」
「…もしかして熱あんじゃねえか?」
 眉を顰めて覗けば、思いも寄らないという顔で「えっそう?」と首を傾げる。受験が終わって気が抜けたのか、或いは既に朝から発熱していたのか───。一瞬、本当に一瞬、そんなことを考えた時だった。不意にその熱っぽい顔が大写しになって、サスケは硬直した。
「…どう? 俺、熱ある?」
 ぴとりと額を合わせられ、あろうことか鼻の頭もくっついている。尋ねるナルトの吐息は熱が籠もってサスケの唇にふわりと当たる。
 何をしている?
 パニックを起こしかけるが、額に当たる高熱に我に返った。肩を掴んで引き離し、掌をナルトの額に当てる。
 熱い。
 外から入ってきたばかりのサスケの体がまだ冷えている、そのせいだけでは到底なかった。サスケはがたりと立ち上がった。
「帰るぞ」
「へ?」
「すげえ熱だ、このバカ! ジャケット脱げ、俺のダウン着ろ!」
 ナルトと同じ高校を受験した生徒たちは呆気に取られたようにナルトを見た。
「お前でも風邪ひくのな」
「そういや朝から寒ィ寒ィうるさかったよな。お前、自分で熱あるって分かんねーの」
 そうだ、ナルトが自主的にマフラーなんか巻いてくる時点で『おかしい』と気付くべきだった。
「さ、サスケ、サスケ!」
「何だこのウスラトンカチ!」
 端から見れば苛々と、その実心配のあまり怒りすら沸き上がっているサスケは相槌も喧嘩腰だ。もたもたと脱ぎ始めるジャケットを剥ぎ取って、マフラーをぐるぐる巻いて自分のロングジャケットを着せる。
 ナルトは何故か顔を輝かせて、
「俺、人生初かも!」
 と宣った。
「何が!」
「熱出したのが!」
 一体何に感動しているのか、サスケには分からない。されるがままのナルトに、ロングジャケットのジッパーを上げてやりながら、新婚さんのシチュエーションを思い描きかけて自分で否定する。違う! 園児だ! 旦那様じゃねえだろ何考えてんだ俺は!
「俺、風邪はいっつも咳とかお腹とかに来て、熱出した記憶ねえんだってば」
「ああそうか。良かったな。これでお前も人類の仲間入りだ」
「おお…俺もとうとう人類か」
 頭の中がぐるぐるしているサスケに、暢気な病人の声がすぐ上から降ってくる。
「おーいナルト、お前バカにされてんだぞー? 気付けー」
「無理だバカだから。人類の新米だから」
 ナルトの介護をすっかりサスケに任せてしまった生徒たちは、もはや安心してしまっているようだ。サスケはナルトの腕を取って立ち上がらせる。発熱を自覚したせいか、ナルトは一瞬バランスを失い、ぐらりと揺らいだ。
「おい…っ」
 縋るように抱きつかれて慌てて支える。ふと、二学期の終わりに自分が熱を出した時のことを思い出した。あの時と逆なのだ、と思うと支える腕に力が籠もった。
「お前んち、誰かいるか?」
「あー、ばあちゃん、いる」
「病院寄るか?」
「いい。ばあちゃんの薬、よく効くから」
 自分の時と比べたら、ナルトの症状は軽いようだ。
「気ィ付けてなー」
「お前らも早めに帰れよ。予報じゃ今夜から雪だ」
「おう」
 自分の顔も赤い自信がある。サスケはちらりと視線だけを向けて言うと、ナルトと歩き出した。足下がふわふわして、今日が受験だったなんてことは、サスケの頭からは淡雪が解けるように消えてなくなった。

*     *     *


 タクシーを捕まえようとすると、ナルトに止められてしまった。
「うち、すぐそこだし」
「すぐって…どれくらいだよ」
「えっと、五分ちょい? ぐらいだってばよ」
 微妙だな、とサスケは迷った。普段の元気なナルトが時速4kmとすればだいたい350~400mといったところだろうか。確かにタクシーには乗車拒否されそうな距離ではある。だが、のろのろと歩いて倍の時間がかかれば、それだけナルトには負担だ。なのにナルトは上機嫌でサスケに笑いかけるのだ。
 いったい何が可笑しいのか。
 熱はたぶん、38℃は軽く超えている。
「あの角、左な」
 前方を示すナルトは、自力で歩いていた。ファストフード店を出る時には下りの階段があって、サスケの肩を抱くように掴まっていたというのに、歩道へ出たナルトは存外しっかりとした足取りを見せていた。
 それを、少し寂しいと思う気持ちを押し殺して並んで歩く。
 ナルトの足取りは、やはり安定していた。狭い店内や階段ではバランスを取りにくくても、広い歩道なら歩きやすいということだろうか。サスケはそれとなく様子を窺いながら、時折よろめきかける度に腕を掴んで支えた。ナルトの赤い横顔、半分開かれた口から吐き出される白い息。健康的な肌の色、こんな寒さの中でも暖かな金色の髪、晴れた空の色の瞳。
「そんな見てなくても大丈夫だってばよ」
「えっ」
 幼さを残した声にはっと我に返れば、病人とは思えない朗らかな笑顔が間近にあって、サスケは思い切り顔を背けた。それとなく窺っていたはずが、いつの間にやら凝視とは。
(バカか、俺は)
 ああ、近すぎたのだ。
 ずっと距離を置いてきたのに、急に熱なんか出しやがるからいけないんだ。早く卒業してしまわないと、おかしな期待をしては打ちのめされるばかりだ。サスケは歯を食いしばって、ナルトと並んで歩くという苦行に耐えた。
「あ、あそこだってばよ!」
 大通りから脇道へ入り、いくつか角を曲がるうちに住宅街へ入った。ナルトの指さす一軒家は、古びた平屋だった。だが、大きい。手入れのそれほど行き届いているとは言い難い、塀代わりの垣根。寒椿が咲いている。
 腕時計を見ると、十分も経っていない。それでも、ナルトと一緒に歩く時間としては長すぎるのだ。サスケはため息を飲み込んだ。
「ばあちゃん! ただいまー!」
 ガラリと引き戸を引くのを見て、施錠もされていないことにぎょっとする。お帰りィー、というノンビリした声は「ばあちゃん」と言う割には張りがあって若々しい。
 もたもたと靴を脱ぐナルトを見下ろして、サスケは一歩後ずさった。
「サスケ?」
「…じゃあな」
「えっ、帰っちまうの?」
「…」
 何故引き留める。思わず顔が引き攣るのは、喜びを押し隠すせいだ。バカバカしい。
「何だい、友達かい?」
 奥から出てきた女性は、お世辞にも『ばあちゃん』には見えなかった。いや、『ばあちゃん』には見えないことがお世辞になるんだろうか。サスケは目をぱちくりさせて、豪快(※主に胸が)な美女を見上げた。
「ばあちゃん、こいつ! こいつがサスケ!」
「ああ、お前の恋敵か。…ん? ああ! 先月熱出して倒れたって子だね!」
 恋敵、と言われてズキンと心臓が萎縮する。俯いたのをごまかすように、サスケはぺこりと頭を下げた。
「あの、こいつ…熱があって、」
「熱ぅ?」
「そーなんだってば、俺初めてじゃねえ!?」
 彼女は座るナルトの額にぺたりと掌を当てると、顔色ひとつ変えずに「38.7℃」と呟いた。何故言い切れるのだろう。
「39℃超えるかも知れないね」
「うお、スゲエ!」
「ま、寝てりゃ治るよ。アハハ、ナルト、これでおあいこだねえ!」
 やりとりを聞きながら、サスケは更に後ずさった。恋敵、という単語が耳から離れない。失礼しますと辛うじてボソリと呟いて、開いたままだった引き戸に手をかけた。
「え、サスケ、まじで帰っちまうの?」
「…は?」
 聞き逃さなかったナルトが、慌てて立ち上がる。熱があるくせに急に立ち上がったりして、しかもスニーカーを半分脱ぎかけた不安定さに、ナルトは当然よろめいた。とっさに踏み出して腕を取る。
「…っ」
 けれどナルトを支えたのは、もう片方の腕をしっかりと掴んだ『ばあちゃん』だった。ああ俺は余計なことをした。サスケは必死に平静を装って手を離した。
「サスケと言ったね。急ぎの用がないなら上がっていきな。このバカを送ってくれたんだろう? お茶ぐらい飲んでいくといい」
「え…」
 不意の言葉に、一瞬とまどう。冷静に受け止めるのなら、それはいわゆる社交辞令だ。しかし『ばあちゃん』は威圧感たっぷりの笑顔で、がしりとサスケの肩を掴むのだ。
「用事は? あるのかい?」
「いっ…いえ…」
「そりゃ良かった。何なら夕飯も出すよ」
「いや…その、そこまでは…」
「何だい! 子供が遠慮するんじゃないよ!」
 気圧されて思わず引き攣る。「はあ」と曖昧な相槌を打つと、ようやく肩は解放された。
「サスケ、イタチ兄ちゃんは?」
「…出張で今週はいねえ」
「何だ、じゃあ丁度いいってばよ」
 ほっとしたようにナルトが笑う。サスケは夢の中を歩くみたいに「お邪魔します」と足を踏み出した。


 家の中は昔の日本映画で見るような様相だった。
 きしきしと僅かに軋む板張りの廊下、下半分が板の障子戸、い草の擦り切れた畳。丸いテーブルに紺の色褪せた座布団、角に黒い金具の打たれた飴色の箪笥、骨董品店で見るような振り子の大きな掛け時計。広い居間に見合う大きさのストーブの上にはヤカンが湯気を立てている。そんな中に、50インチはあろうかという大きな液晶テレビが鎮座していた。
「…お前、寝なくていいのかよ」
「え、晩メシ食ったら寝るけど」
 居間に案内してきたナルトも当然のように入り、座布団など勧めてくる。病人の自覚は全くないようだ。
「晩メシって…まだそんな時間じゃねえだろ」
「え、でもさ、お前がいんのに寝るのって寂しくね?」
「アホか。何のために早く帰ってきたと思ってんだ…」
「全くだね。さっさと寝な、ナルト」
 急須と湯呑みを持ってきた『ばあちゃん』は、呆れ顔でナルトを見下ろした。
「お前、そのコートはサスケのかい?」
「あっそうだった。ありがとな、サスケ」
「…いや」
 何ということだ、すっかり忘れていた。とたんに顔が熱くなる。そう、忘れていたのだ、自分がナルトのジャケットを着ていたということを。『ばあちゃん』がハンガーを寄越すので、慌てて脱ぐ。ナルトはサスケのロングジャケットを鴨居に引っかけると、自分のジャケットを受け取って居間から出た。自分の部屋に持っていったのだろう。意外に躾が出来ている。
「手間かけさせたね、サスケ」
「あ…いえ」
 勧められるまま座布団に座ると、『ばあちゃん』は手慣れた動作でお茶を入れてくれた。
「手間ついでで悪いんだが、私はこれから町内会でね。留守番頼むよ」
 何だって?
 半分口を開きかけると、どたどたとナルトが居間に帰ってきた。
「何だよばあちゃん、また酒盛りか」
「町内会だよ! 人聞きの悪い」
「町内会で酒盛りすんだろ? 同じだってばよ」
 ナルトは制服姿のまま、サスケの隣に腰を下ろす。ジャケットを置いてきただけのようだ。話の展開にぽかんとしていると、ナルトがサスケの袖をつまんで引いた。
「なあ、イタチ兄ちゃんいねえなら、泊まってかねえ?」
 思わず振り払う。
 何を言い出すんだ。
 変な期待をさせるな、と思う。けれど、振り払われてほんの少し傷ついたような、寂しそうな顔にサスケはぎくりとした。そうだ、元気そうであっても、ナルトは病人なのだ。どこか心細いのかも知れない。
 でも、嫌だ。
「ダメだ、帰る」
 そんなのは拷問だ。ええー、と抗議の声を上げるナルトが、たとえいつもより心細そうであっても。
「…お前が眠るまでは、いてやるから」
「じゃあ寝ない」
 何だって?
「バカなこと言ってんじゃないよ!」
「痛え!」
 ゴツッと意外に容赦のない『ばあちゃん』の拳が、ナルトの脳天に落ちた。ええ、あの、こいつ一応病人なのでは…と、さすがのサスケも狼狽える。
「夕飯は用意してあるし、私もなるべく早く帰ってくるから、頼んだよ」
「え、はい…」
 力強く肩を叩かれて、サスケは引き攣りながらも頷くより他になかった。


「ゴメンな、サスケ…」
「何がだよ」
「や、なんか…色々?」
 台所で一通り説明をして、『ばあちゃん』はいそいそと町内会へ出掛けていった。振り子の時計を見れば、四時半だ。ナルトによれば、会議を1~2時間してからそのまま宴会になだれ込むらしい。
「ばあちゃん、酒とギャンブル大好きでさ。しかも、酒にはやたらと強いくせに、ギャンブルはメチャクチャ弱えの。『伝説のカモ』とか言われちゃってんだぜ」
「…」
 コメントに困ることを言わないでほしい。だがナルトは、無言のサスケを気にすることもなく鞄をひっくり返していた。
 問題用紙の束が出てくる。
「なあ、さっきの続き! お前の採点で何点!?」
「…ああ」
 それをナルトが忘れていなかったことに、軽く驚いた。赤ペンあるかと訊くと、赤と青の二色の鉛筆を差し出される。ナルトの覗き込む横で、サスケは採点を始めた。
(…へえ)
 やはり、ファストフード店で流し見た印象は間違いではないらしい。答えは丸のついてゆく数が増えてゆく。カチコチという振り子時計の音が居間に広がった。
「…」
 数学と国語の採点を終えたところで、その時計の刻む音がやけに耳につく、と顔を上げた。ナルトが喋っていないせいだと気付くのと同時に、テーブルに突っ伏すナルトが目に入る。
「ナルト!」
「…あー」
 その顔は真っ赤だった。
 充分すぎるほど暖められた居間だ、のぼせたのかも知れない。やっぱり殴ってでも寝かせれば良かった、サスケは激しく眉間を寄せた。
「おい、お前の部屋どこだ」
「…あっち」
「どっちだ!」
 腕を取って立ち上がらせる。ファストフード店で支えた時より格段に重さを感じて、サスケは歯を食いしばった。バカだ、俺はバカだ。先月自分が倒れた時のことを思い出す。自分だって急激に悪化したのだ。
 障子戸を開けると、いくらか冷えた空気が流れる。深く息を吸い込んだナルトが顔を上げた。ナルトの進みたい方向を察して支えながら歩く。
「あ、ここ」
 奥まった場所にある襖を指され、サスケは勢いよく開けた。
「…」
 目を疑った。
(汚え…!)
 散らかし放題の六畳間、勉強机の上は辛うじて片付いているのが奇跡としか言いようがない。積み上げた漫画雑誌、CDデッキ、カラーボックスの中はCDとDVDが無秩序に突っ込んである。部屋の隅には布製のボックスが積んであり、一番上に覗くバスケットのボールから察するに部活関連のものが形ばかり『収納』されているのだろう。
 その部屋の中央に、布団が敷かれていた。
 今朝、寝坊しかけて飛び出したのではという状態を物語っている。だが今は文句を言っている場合ではない。既に敷いてあるという点ではラッキーとも言えるのだ。
「おい、制服脱げるか」
「ん、だいじょぶ」
 机に手をついて、それでも笑うナルトにサスケはぞっとした。本気で言っているのなら相当ダメな状態だ。サスケはナルトを椅子に座らせ、手早く制服のボタンを外した。学ランを剥ぎ取ると、中はTシャツ一枚でサスケは仰け反る。
「おま…っ、これで寒くねえとか、ありえねえから!」
「あ、うん。寒かったってばよ」
「このバカが!!」
 怒りと心配がごちゃまぜになって、サスケは半泣きだ。蹴散らされた掛け布団の上に投げ出されていたパジャマを掴んでナルトに着せる。一瞬躊躇したが、ズボンも脱がせて着替えさせる。えへへと笑う気配に苛立ちはピークで、サスケはぎろりとナルトを見上げた。
 ナルトは、困ったように笑っていた。
「ほんと、これ、おあいこだってば」
「ああ!?」
「先月は、逆、俺がお前、着替えさせたし」
「…」
 何だって?
 サスケは固まった。先月倒れた時、気付けば自分の部屋で眠っていた。どうやって着替えたかなど、全く考えてもいなかった。瞬間的に頭に血が昇り、ほとんど背負い投げの要領でナルトを布団に叩き込んだ。
「い、痛え…!」
「うるさい黙れ! 早く寝ろ!!」
 ずれた枕を金髪の下に押し込み、足元の毛布と掛け布団を肩までかけてやる。熱が上がるようなら飲ませろと言われた解熱剤を、飲ませた方がいいのかも知れない。だがそれには、何か口に入れた方がいいのだ。
「お前、何か食えそうか?」
「うん、何でも平気…、あ、」
 祖母の用意した夕飯を思い描いたらしいナルトが、不意に思い付いたという声を上げた。
「な、サスケ、お粥作れる?」
「は?」
 サスケは夕食のメニューを頭に浮かべる。白米に煮物、生姜醤油に漬け込んだ豚肉は、食べる時に焼けと言われている。お粥はその白米を使えば作れなくもないだろう。
「何だ、急に」
「なんか、病人って感じ、するじゃんか」
「感じ、じゃねえよ。お前は病人だ」
 ナルトはアハハと笑った。
 アハハじゃねえ。
 脳天気な病人に、サスケは苦々しく口を歪めた。掌をナルトの額に当てる。『ばあちゃん』のように熱を計ることなど不可能ではあるが、やはり上がっている気がする。
「気持ちいー、お前の手」
「…」
 ほう、と息を吐くナルトは、高熱の割には辛そうな顔はしていないのが救いだった。しばらく掌を当てたままにしていると、ナルトの呼吸が次第に規則的になってゆく。そっと手をどけても、ナルトは何も言わなかった。眠ったのだろう。サスケは静かに立ち上がった。


 夕飯には早いし、ナルトは眠っている。サスケは居間に戻って、少し考えて試験の採点の続きを片付けた。
 悪筆の上に、問題用紙への殴り書きだ。判読も難しいものもある。答案用紙には丁寧に書いてるんだろうな? と不安になるほどだ。けれど、驚いたことに全ての教科で75点以上だった。これがオール赤点を取ったこともある人間の答案とは。
(…頑張ったんだな、ナルト)
 微かに笑みが漏れる。
 問題用紙にはナルトの思考がそのまま残されていた。これで答案用紙に書き移すのを間違えていなければ、あの高校のレベルならまず合格と見て間違いないだろう。この一年間、苛立ちを発散するようなスパルタで勉強を見たことも、少しはナルトの役に立ったのだろうか。
 それでも、高校受験のための勉強は、ナルト一人でやり遂げたのだ。力強いシャーペンの跡を指先で辿る。ああまずい、惚れ直してしまいそうだ。思ってからはっとして頭を振った。
(惚れ直すって何だ、惚れ直すって!)
 そうだ、お粥だったなと立ち上がる。時間はまだ早いけれど、これ以上はもうサスケの方が耐えられなかった。

 普通に炊いたご飯をお粥にするのは初めてだ。生米から炊いたことしかない。棚から小さな土鍋を探し出して、慎重に水を足しながらご飯をほぐしてゆく。冷蔵庫の中に卵は見つからなくて、仕方なくシンプルな塩粥にする。
(こんなもんか…?)
 ひとさじ味見をするけれど、何だか良く分からない。柔らかくなっているのだから大丈夫だろう。
 あとは、『ばあちゃん』の用意した通りに豚肉を焼き、煮物を温め直す。時計を見ると、六時半。意外に手間取った。でも、丁度良い。
 作業をしている間は、結構冷静だった気がする。なのに、いざナルトの部屋へ向かうととたんに緊張してくるのだ。自分がここにいるのは、全てナルトのため。ああこちらまで熱が出そうだ。
 サスケはそっとため息を吐き出すと、そろそろとナルトの部屋の襖を開けた。
 しんとしている。
 足音を忍ばせて枕元に膝をつく。
「…ナルト」
 小さく呼びかけ、その額に触れる。ん、と呻く声がして、ナルトは暗くした部屋の中で目を開けた。あれ、という顔でサスケを見る。
「わ、俺、寝てた?」
「ああ」
「な、何時?」
「六時半」
 存外はっきりした声に、サスケはほっとした。
「メシ…食えるか?」
「おお、食う!」
「待ってろ、持ってくる」
「え? 向こう行くってばよ」
 ナルトは当然のように起きあがる。大丈夫なのか、と思うけれど、布団から体を起こすのなら確かに居間の方が暖かい。背もたれ付きの座椅子があったし、ここよりいいのかも知れない。一瞬の判断でサスケはナルトに手を貸した。
「おお、スゲエ! お粥だ!」
「いいから座れ」
 ナルトの部屋に運ぶつもりでお盆に乗せていた小さな土鍋を見て、ナルトは何やら感動している。鴨居にかかるダウンのロングジャケットを取ると、サスケは座るナルトの膝にかけてやった。
「一応…肉と煮物も用意したけど、食えるものだけ食えよ」
「ん、たぶん全部大丈夫」
 上機嫌のナルトは、いただきますと手を合わせた。
「あち!」
「気をつけろ、バカ」
 土鍋は冷めにくい。何の警戒もなしに土鍋を掴んだナルトは、ぱっと手を離して耳たぶに触れる。高熱を出している耳では大して冷えないだろう。ナルトは土鍋をテーブルに置いたまま、レンゲで山盛り一掬いのお粥を口に運んだ。
「あっちィ!」
「お前に想像力はねえのか!」
 冷ますこともしないで口を付けたナルトが慌ててレンゲを離した。その拍子にぽたぽたとお粥が滴る。
「あー! 俺のダウン!!」
「あっゴメン」
 今度はサスケが慌てて、ティッシュを掴んでロングジャケットに落ちたお粥を拭った。
「貸せ、このバカ!」
 ナルトは高熱を出していて、つまり病人だ。これくらいの失敗は仕方がない。ナルトの手からレンゲを奪うと、サスケは山盛りにされていたお粥を半分ほどに減らし、ふーふーと息を吹きかけた。ナルトはきょとんとして様子を見守った。
「ほら食え!」
 充分冷ましてレンゲを突き出すと、ナルトは大きく口を開けてぱくりと食べる。いや、そうじゃねえだろ、レンゲ持てよ自分で。けれど、満面の笑みで「美味い」と言うナルトに、サスケは言えなくなってしまった。
「…ただの塩味だぜ」
「うん、でもなんか、すげえ美味い!」
 上手く出来た自信なんかないお粥だというのに、ナルトはご満悦の様子だ。顔が熱い。ストーブ効きすぎだ。サスケは視線を彷徨わせた挙げ句、もう一掬い、お粥を冷まして突き出した。何かの雛みたいに待ち受けるナルトの口に入れてやる。
「…何が可笑しい」
 ほとんど声を上げて笑い出しそうなほどの笑顔で次のひと匙を待つナルト、正視できなくてサスケは半分俯いてレンゲを握り締めた。
「や、お粥美味いし、お前は優しいし。たまに熱出すのもいいもんだなーと思ってさ」
「…バカじゃねえのか」
 何と返したらいいのか分からなくて、サスケの口から出たのは、そんなバカみたいな科白だった。

*     *     *


「俺が思うに───」
 合格発表の日、雪の庭で飛び跳ねる子犬のように全身で喜びを表現するナルトに、サスケは遠い目で言った。
「お前が受かったのは風邪のお陰だったんじゃねえかと」
「え、何それ、この喜びに水差してんの?」
「お前、一旦考え始めると迷うだろ。熱で考えるとこまで行かなくて、覚えてたものそのまま書けたってことじゃねえのか」
「…確かに暗記系は点良かったってばよ…」
 言われて、ナルトまで微妙な顔付きになってしまった。だがいいのだ、ナルトは自力でこなした受験勉強の成果を出せたのだから。
「な、サスケ。ありがとな」
「ああ?」
「受験の日。俺が熱出してんのに気付いてくれてさ!」
「…」
 サスケは一瞬返答に詰まる。ずっとナルトを見ていたサスケだ、本当なら朝気付くべきだったのに。
 悔しくて口がへの字になるのを、ナルトは小言の前兆かと勘違いしたのか、怒んなよと笑って走り出した。転べこのバカ、と念じたら、雪の凍ったアスファルトに出たとたんにナルトはステンと尻餅をついた。