ソーダとアイスクリーム
じーわ、じーわと蝉が鳴く。
いや、声帯を使って音を出している訳ではないから、鳴っていると言うのが正しいのか。或いは、鳴らしている。
ああ、どうでもいい。
こめかみを伝う汗は、大粒の滴となってサスケの顎から乾いた地面へ落下した。
「サスケ」
涼やかな声にゆるりと首を回すと、カカシが両手にアイスを持って笑っていた。コーンにディップが乗っている。右手にシングル、左手にダブル。
「先生のおごりだよ」
「…」
差し出されたのはダブルの方だった。
この猛暑では、いつもはアイスなど食べないサスケでも、その冷たさに誘惑される。けれど基本的に甘いものが好きな訳ではない。サスケはシングルの方へ手を伸ばした。
けれど、カカシは右手を引っ込めて、左手の方をサスケの鼻先に突きつけるのだ。不服げに見上げると、「これはサクラの分なの」と飄々と言い放った。シングルは、色合いから言ってたぶんストロベリーチーズケーキ。渋々受け取ったダブルは、ロッキーロードの上にチョコミント。
「…何でダブルなんだよ」
「ナルトと二人分に決まってるでしょ」
先生の手、二つしかないんだからさ。カカシはそれ以上の質問は受け付けないとばかりに、木陰に座り込むサクラの元へと向かった。熱射病の一歩手前というサクラは、ペットボトルの温い水を飲み干してなお怠そうだった。その横ではナルトが懸命に、ウチワでサクラに風を送っている。
カカシがサクラにシングルコーンを渡しながら、ナルトに何か言っているのが見える。ええー、という不満げな声はサスケの耳にも届いた。そんな声は聞こえなかったふうを装ってアイスクリームを見つめる。ロッキーロードがじわりと溶けだしコーンを伝うのを、ぺろりと舐め取る。溶けたチョコレートアイスなんて甘いだけで、不愉快だった。
「サスケェ!」
怒ったようなナルトの声に顔を上げれば、この暑い中を走り来る金髪の姿が飛び込んだ。サスケはナルトが睨みつける前で、チョコミントに歯を立てた。冷たい。かりりと歯がチョコレートチップを噛んだ。
「何だよ」
「…」
ぎりぎりと歯ぎしりをして、握り拳をぶらさげたナルトは、サスケの手にあるアイスクリームを凝視する。
サスケは密かにため息をついた。カカシが、小さな喧嘩をした自分たちを仲直りさせたいのだとしか思えなかった。そんな押しつけがましいことは一切何も言わずに、だ。
中学一年生の夏休み、林間学校の帰りのことだった。派手な喧嘩ならしょっちゅうだから、寧ろ周囲はそんなに気にしない。けれど、サクラの体調に絡んでは、ナルトは本気でサスケを詰った。
帰りのバスの中は冷房をかけていなかった。サクラと同じバスに乗っていたサスケは、彼女の不調に最初に気付いた。席は離れていたし、はっきりと気付いた訳ではない。サクラは通路側の席で、何となくふらついて見えたのだ。けれど隣に座る女子から話しかけられれば笑顔で受け答えしていたし、そもそも疲れているのは皆同じだ。
それでも一応、中学まで帰り着いてバスを降り、校庭に集合する際に訊いたのだ。お前、具合悪いんじゃねえのか。それに対して、サクラはビックリしたように「えっ大丈夫よ!」と答えたのだ。
けれど、結局整列してしばらく経って、サクラはしゃがみ込んでしまった。大丈夫じゃなかったのに大丈夫と答えたのか、さっきまでは大丈夫だったけれど今になって大丈夫じゃなくなったのか。それとも、具合悪いのかと訊かれて、何となくそんな気になってしまったのか。サクラよりも後ろに並んでいて、彼女がへたり込むのを見たサスケは、もちろん駆け寄った。
『お前、ダメならダメって言えよ』
『え、だ、大丈夫よ! 大丈夫なの!』
『何がだよ』
思わずついた大きなため息は、遠くからダッシュで駆け寄ってきたナルトを大いに刺激した、という訳である。サスケを突き飛ばし、詰り、大声で喚くナルトと元凶であるサスケの二人を、カカシはつまみ上げてサクラから遠ざけた。
サスケもナルトも知らないが、サクラの不調は月経のせいだった。男の子には言えなかったことでも、カカシになら言えるのは、担任として信頼しているというよりは男として見ていないせいだったのだが。
これで解散してしまえば、長い夏休みの間ずっとスッキリしないままだろう。サクラを送り届けるカカシは、ナルトとサスケも連れてきた。カカシが途中で「ちょっと休憩しようか」と言ったのは、サーティーワンを見かけたせいだろう。
「…早く食えってばよ」
口を尖らせるナルトは、チョコミントを齧り始めたサスケの手元ばかりを睨みつけている。きっとサクラやカカシから、サスケが何も悪くはないことを聞かされたのだろう。怒ったような顔は、怒っている訳ではなくて、ばつの悪さが表れているだけなのだ。サスケはアイスクリームをナルトに突き出した。
「え?」
「チョコミントも食うだろ」
とまどった顔を無視して押しつける。ナルトは少し見つめてから、齧りかけのチョコミントに口を付けた。
「…ゴメンってばよ」
「何が」
「サクラちゃんのこと。お前が一番先に気付いてたんだってな」
木陰のサクラは、顔色は良くなかったが機嫌は良さそうにアイスクリームを食べている。ウチワ係は、ナルトと交代したカカシだ。
「お前だって、同じバスに乗ってたら気付いてただろ」
「…どうかなあ。俺ってば、鈍いって評判だし」
何で店内で食べないんだろう、熱射病なら涼しくしてやるのが一番じゃねえのか。溶け始めたアイスを慌てて舐めるサクラはやけに楽しそうだ。
「…お前、サクラのこと好きなんだろ」
「なっ! 何だよ急に!」
「好きな奴のことなら、鈍いお前でも、気付けんじゃねえの」
「…だといいな」
ん、と返されるアイスクリームは、チョコミントはほとんど残っていない。溶けたミントの香りの移ったロッキーロードを齧る。歯ごたえはあまりない。暑さで柔らかくなっていて、もうほとんど溶けていると言って過言ではない。齧るより、舐めるものになってしまった。
「なあ、サスケ、怒ってねえの」
「何を」
「俺がお前のこと、怒ったり、突き飛ばしたりしたこと」
「そんなの、いつものことだろうが」
湿って柔らかくなったコーンをかじる。その時、「あ、垂れる」と言って反対側からナルトの舌がチョコレートアイスを掬い取った。
「…」
ロッキーロードを挟んで、目と目が合った。
あんまり近くてビックリしたけれど、ナルトの深いブルーの瞳に、サスケは見とれた。同じように瞬いたナルトもまた、じっとサスケの目を見ていた。
(何やってんだ、俺たちは)
端から見たら、とんだ仲良しだろう。
じわり、と心のどこかが溶けた、気がした。アイスをナルトに押しつける。
「もういいの?」
「ああ」
とろけたロッキーロードを受け取ったナルトは、コーンごとあっさり平らげる。
(…あ)
その口の端に、チョコレート色の雫が滴った。
「ナルト」
ここ、と指で示すと、気付いていたのか「ん」と答えながら、舌が器用にぺろりと舐め取った。
その子供らしい仕草は、仕草としては子供じみているのに、何故だかひどく艶めかしかった。ぼんやりとそんなふうに感じてしまった自分にとまどって、慌てて目を逸らす。くしゃくしゃと音がして、コーンを覆っていた紙が握り潰されたことを知る。乱暴な仕草は、やはり子供らしいと言うかナルトらしい。けれど何故だか、ひどく、男くさくも感じるのだ。
(…何考えてんだ)
おかしな方向にナルトを意識してしまうのは、今に始まったことでもない。じとりと汗が首筋を這う。ナルトがサクラを好きなのは知っている。この美しい瞳を向けられて、無関心でいられるサクラを信じられない。
(…俺でさえ、見とれんのに)
もやもやするのは、決まってナルトがサクラに意識を向けている時だと、最近気付いたばかりだった。
「な、サスケ。お前、カネ残ってる?」
「ああ?」
そもそも林間学校に参加するのに、持参できる小遣いの額は決して多くはない。小銭入れを探ると、百円玉が一枚と十円玉が三枚。
「俺、六十円残ってる」
「俺は百三十円…何でだよ」
「先生にも買ってやろうぜ!」
「…」
何でだよ、と言いかけて、サスケは口を噤んだ。
考えてみれば、喧嘩のあとにこんなに何でもなく話せるようになるのは、過去最速かも知れない。勝手におごられたアイスクリームだが、多少の感謝がない訳でもなかった。
でも。
「足りねえだろ」
「え?」
「一番小せえサイズでも二百五十円だぜ」
二人合わせても百九十円では、せいぜいコンビニアイスが関の山だ。けれど、周囲を見渡してもコンビニの看板は見当たらない。この辺りは駅まで出ないとないのだ。
「じゃ、なんかジュースとか?」
ナルトが自動販売機を指さす。ああ、サスケは曖昧に頷いた。
「はい、センセー! 俺たちのオゴリだってばよ!」
ナルトが適当に選んだサイダーのボトルをカカシに突き出す。一瞬きょとんとした担任は、意味ありげに笑って「ありがとう」と受け取った。
「ソーダかあ。先生、茶色いソーダの方が好きなんだけどなあ」
「え、茶色? そんなんあるの?」
「先生…それビールのこと? 昼間っからやめて下さいよ!」
思わずため息が出る。けれど、サクラはずいぶん調子が戻ったようだった。
それを、サスケは一歩退いたところから眺めていた。場所は同じところにいる。けれど、カカシからウチワを奪い取って再びサクラを扇ぎだすナルトは、さっきまで一緒にアイスクリームを食べていたナルトではない気がした。
(…だって、)
そう、だって、もうナルトはサスケを見ていない。じわり、嫌な汗が腕を伝う。蝉が鳴く。太陽が背を焼く。
「サスケ、お前もすごい汗だね」
サイダーを呷りながら、カカシが見咎めた。
「…夏だからな」
「そうだね、夏だからね」
カカシの言葉に、サクラが「私はもう平気だからサスケ君を扇いであげなさいよ」と言う。ええー、と軽い不平の声を漏らして、ナルトのウチワが仕方なくサスケに向けられた。何故だか無性に苛ついた。
「俺は平気だ」
「でもお前、ほんとすげえ汗だってばよ」
心がナルトの風を拒絶する。
「平気だ」
「でも、」
「いらねえっつってんだろ!」
「なァッ!? 俺の好意を無にすんのかァ!?」
「サクラに言われて仕方なくだろうが!」
言ってから、気が付いた。
ああ、そういうことなのだ。くしゃりと顔が歪む。カカシには感付かれたかも知れない、と思った。
(違う)
違わない。
(違う)
違わない。
違わない。
これが、サクラに言われたのではなく、ナルトが自主的に扇ぎ始めたのだとしたら、どんなに心地良い風だっただろう。
ああ、それは、そういうことなのだ。
「サクラちゃんの優しさに感謝すべきだってばよっ」
「こらこら、ナルト、照れ隠しもその辺にしとかないと。また喧嘩になるよ」
「フン! 喧嘩なんか、いっつもしてるってばよ! つうか、照れ隠しって何だよ! 俺ってば何も照れてなんかねーっつうの!」
「あのね…せっかくサクラの具合が良くなってきた前で…って、サスケ!」
聞いていられない。サスケは歯を食いしばって背を向けた。暑い日差しの下を競歩みたいに歩く。サスケ君、という慌てたサクラの声が微かに耳に届く。聞きたい声はその声ではなかった。振り切るように歩き続けていると、軽快な足音が近付いてきた。
まさか、と何気なく振り返る。
そのまさかだった。
ナルトだった。林間学校の重い荷物をゆさゆさと背に揺らしながら走っていた。遠くでカカシとサクラが、座ったまま手を振っている。
「俺、送ってく」
「…は?」
予想もしない言葉がナルトの口から飛び出て、サスケは間の抜けた声をあげた。
「お前、具合悪ィんじゃねーの?」
「具合?」
具合は悪くない。悪いのは機嫌だ。
「ん。送ってくってばよ」
「…」
機嫌は更に降下した。
「また、サクラに言われたのかよ?」
「え? 違うってばよ、具合悪ィかもって、思っただけ」
何だって?
機嫌の降下が停止する。
「さっきさ、お前言ってただろ。好きな奴のことなら、気付けんじゃねえかって。お前は男だから、好きとか何とかじゃねえけどさ、あん中でお前と一番付き合い長えのって俺だし」
何なんだ。何が言いたい。
機嫌の上下など、サスケの頭から吹き飛んだ。
「なんか、さっき…いつもと感じが違ったからさ。もしかしてって思っただけなんだけど」
「…別に、暑くてちょっと苛々してるだけだ」
「もー、何だよ、無理しちゃってェ! 具合悪ィ時ぐれー素直に頼れっつうの! ホント素直じゃねえなあ、サスケちゃんはよう!」
何だそれは。
苦々しい気がして顔を背ける。
「…サクラはいいのか、置いてきて」
「カカシ先生がいるし、大丈夫だってばよ」
不意に、口の中にチョコレートの味が蘇った。甘ったるい、ナルトと共有したアイスクリームの味。
(違う…)
違わない。
もう二度と、あんなふうにしてアイスを食べるなんてことは、サスケには出来ない。
「…ナルト」
「んー?」
「駅まででいい」
「何だよ、遠慮すんなって」
「遠慮じゃねえよ。さっきより気分はいいんだ」
サスケは無理矢理笑った。
屈託なく、ナルトは笑った。
「何だよ、やっぱ具合悪かったんじゃん」
「そうかもな」
ナルトは何故か満足げだ。
それならそれでいいじゃないか、とサスケは思った。たぶん自分は疲れているのだ。暑いし、甘ったるいアイスなんか食べたし、重い荷物を背負ってるし。
「あー、早くシャワー浴びてえ」
わざと間延びした声をあげると、ナルトは笑った。
「俺ン家はシャワーついてねえから、水風呂だな!」
「水風呂もいいな」
サスケはナルトと、友達みたいに喋った。駅までの道をだらだらと、まるで友達のように。
シャワーを浴びて、一晩寝たら、たぶんアイスクリームの味も忘れられる。
「じゃあな」
「おう、新学期なー」
駅でナルトが引き返すのに軽く手をあげ見送る。すぐに路地へ姿が消えるのを見届けて、サスケは階段に、座り込んだ。
俯いてしばらく頭を上げられなかった。
口の中に蘇る甘い味を打ち消そうと躍起になっているはずなのに、必死に思い出そうとしているようにも思える。シャワーを浴びて一晩寝たら忘れられる、そう思っているはずなのに、サスケはまだこんなところにいるのだから。
けれど、仕方がない。サスケが打ち消そうとして、なのに大事に思い出そうとしているもの。
それが、恋心というものだった。