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  月・狐の面を被る鬼


 飄、笛の音が細くたなびく。
 月の明るい晩だった。男は幽かに耳に届いたそれに首を上げた。辺りに人の気配は感じられぬ。遠い屋敷の雅が風に乗り届いただけのようだ。男は再びゆるりと俯いた。
 男は異形だった。
 忌み子である。
 鬼子である。
 山に捨てられたのはいつのことか。鬼子は鬼に育てられ、鬼になった。捨てられたゆえに鬼に成ったのか、鬼ゆえに捨てられたのか、男には解らない。知りようもない。
 飃、笛が呼ぶ。
 いざなう音だなと男はまた首を起こした。遠い音が風に乗り偶然届いたにしては、先より方向が違っている。ゆるり、男は首を傾げた。人はおかしなものを創る。己の声では足りぬのか。男は立った。そこは大木の枝であった。山に棲む鬼の目は人より遠くを見る。だが笛の在処を見通せぬ。男は音もなく高い枝へ飛び移った。山の中腹より目を凝らし耳を澄ます。笛はやはり移動していた。姿は見えぬが笛は確と聞こえている。あるいは近付いているのやも知れぬ。夜更けに人が歩くものか。いかな月夜であれども夜道は人のものではない。夜の権はあやかしのもの。なれば其はあやかしか。しかしあやかしは笛など吹かぬ。人の創るものを使うのはまた人である。男は首に引っかけていた狐の面を被った。
 ひととびに山を下りる。
 飆、風を切る音に紛れ笛の音も震える。
 都が近い。
 笛は谺し男を惑わす。そこと思えば右、右と思えば左。しかしいっかな演者は見えぬ。草鞋をざりりと鳴らし、男は笛に存在を知らせてもみる。
 ふと、音の色が変わった。男の呼びかけに応えたのか、それは、会えば判る。音のとどまるを感じ、男は再び土を蹴った。ふうわり、ふわりと夜風に乗る。雅楽にも似た高貴の音。やがて細い川に出た。川は境界である。その境界を断つ小さな橋、笛の演者はそこにいた。
 赫い欄干に降り立ち、男は驚いた。
 子供だ。
 高く弧を描く橋を渡り来る姿が月明かりに浮かぶ。
 出で立ちは雅、貴族のように見えもする。美しい仕立ての打ち掛けを被るのは、夜風を避けるためか、寒さを避けるためか、はたまた母を恋うるゆえか。質素な篠笛がまるで似合わぬ。腰には一振りの直刀。やはり人か。しかし無論、この月下で笛を奏でるものが人である保証などどこにもない。篠笛は男に頓着することもなく、緩やかに、きりきりと、ただ音を奏で続けた。
 飄、その音は真闇を裂く月光に似ていた。
 飃、その音は遠く過ぎ去る風に似ていた。
 子供は狐面を見ることなく、ないもののように、往き過ぎようとしていた。人であるならば男に気付かぬも無理はない。男は鬼だ。しかし、既に男は子供が気付いていることを知っている。
 涼しげな子供をひたと見つめ、ゆく手に回り込めばようやく、篠笛は止んだ。
 しじまが広がる。
 闇を割る月光が閉じたかのごとく、そこには何もない。
 谷を渡る風が息絶えたかのごとく、そこには何もない。
 ただ、子供がいるのみである。ぬばたまの瞳は夜に繋がる穴のよう。かつん、子供の高下駄など、そこで初めて男に届く。深淵のまなこが狐面を視た。
 見合ったのはどれほどか。
 すう、と口の端を上げ、子供は歩み始める。もはや狐面など視てはおらぬ。篠笛を笑んだ口元へ運ぶ。男を通り過ぎるとき、飆、と甲高い音が立った。
 それほどまでに間近だというのに、音は、ひどく遠く聞こえた。目で追うことも出来ぬ。振り返ることも許されぬ。背後に篠笛を聴きながら男は陶酔した。
 ようよう我に返り振り向くが、子供の姿は既にない。笛の音だけがしじまを揺らす。
 あれは何か。
 同じものか、それとも人か。
 人の作るものを愛でるのであれば、あるいは。
 小さな橋の上、狐面の男はそうしてしばらく、ほうけたようにただ立っていた。
 
 
 
 

  月・笛かなでる鬼


 鬼が出ると聞いた。
 何かの悪さをするでもない。ただ、出るのだと。狐の面を被り、気付くとそこにいて、ただ見るのだと。世がみだれれば鬼が出る。それとも鬼が出るからみだれるのか。いずれにしても、世のみだれのしるしと言える。
 鬼は人に興味があるのだろうか。
 あるいは未練だろうか。鬼は人が成るものだ。もとは人であるものだ。貴族に疑問を抱えた子供は人というものを思い続けた。人を厭い遠ざけながら、離れれば恋しくもなる、彼は子供である。手慰みに笛を覚え、屋敷に招かれる奏者を真似ては、誰に聴かせるものでもなく音を響かせた。簡素な篠笛も音色は竜笛と変わらぬ。人も何の違いがあろうことぞと子供は思う。笛と同じだ、着ている衣の違いのみ。
 そうして、さて、鬼と人とはどう違うのか。
 子供の問いに大人は答えずただ嗤うのみ。
 そんな折りのことであった、鬼が出ると聞いたのは。
 一度会うてみたいものだと夜更けに屋敷を忍び出るようになる。しかし会うこと叶わず、やがて夜歩きは彼の習慣となった。
 夜はあやかしの昼である。
 月はあやかしの母である。
 守られる屋敷の外に出る酔狂は夜盗のたぐいとあやかしのみ。いずれ夜盗も鬼と成ろう。そのさなか、彼は臆せず一人歩いた。
 やがて子供は笛を伴う。人に聴かせる気のない笛は、夜風に乗り、あやかしどもに届くだろうか。しかしやがて彼の耳に届くのは、夜更けにあやかしの笛の音が響く怪である。彼は嗤った。あやかしは笛など吹かぬ。人の作るものを使うのは人である。
 さて、出るという鬼に出くわすことなく、夜盗にも遭わず。
 このままでは己が鬼と呼ばれることにもなりかねぬ、子供がそう思いはじめたとき。普段は往かぬ川へ向かった。
 川はしばしば領土の境界となる。自然の隔たり、しかし斯様に細い川なれば、境界の役目も果たされぬ。子供はうねる川沿いに歩き、笛を奏でた。あやかしよ来い。鬼よ来い。恋うるような思いになりはてた子供の厭世。笛はいざないの音を風に託した。
 果たして、鬼は現れた。
 篠笛に息吹を送り歩を進めつつ、子供は胸のうちで嘆息した。満ちる月のもと、光りかがやく鬣を風に揺らし鬼は欄干に降り立った。うわさの通りの狐面。子供は笑った。面は人が化けるのに使うものだ。鬼はやはり人である。人であったものである。しかし幽玄に揺らめく鬣は人とは思えぬ。光るさまは闇のあやかしとも思えぬ。神々しくさえあるのは、狐面が鬼ではなく神使だからではないのかと彼は思った。面を被るのは人であるなら、神使が人に成りすます手段とも言えまいか。
 笛に趣をそそられるのか、それとも夜をゆく子供に興味を引かれるのか、狐面の鬼は凝っと見つめる。
 子供は満足げに笑った。
 鬼はいた。
 鬼ではなかった。
 あやかしに拐かされるならそれでも構わぬと思っていたが、鬼はただ、そこにいるだけだった。うわさの通りである。それならそれでも良い。笛を望むのであれば聴かせてやろう。子供は鬼に聴かせるための篠笛を吹いた。鬼は追っても来なかった。おかしなものだ。己の心の満たされるさまを感じながら子供は笛を奏で続けた。

 己も鬼と成ったとは、ついぞ気付かぬままである。