子狐たゆら

 日暮れにはまだ猶予のある時間に、雨は降り出した。
(ちィ…)
 つい十分前までは多少雲が出ている程度だったのだ。それが、急に雨雲が広がったかと思うと、大粒の雨がバラバラと落ち始めた。
(あとちょっとだってのに)
 里まで、あと少し。現に門は見えている。
「走るか」
「そうだな」
 チームを組む他のメンバーと顔を見合わせて頷くと、サスケも彼らと一緒になって走り出した。長期任務の仕上げがこれか。疲れた体に鞭を打つ。道沿いの川にちらりと目を遣る。川面が打ちつける雨粒にけぶっている。通り雨でないなら増水するだろう。やれやれ、と思わず気が重くなる。増水が酷ければ、どこかで堤が壊れただの、流された人がいるだのと緊急の任務が多くなるものだ。そうなれば、たとえ長期任務帰りであろうとも、里にいる忍は総出で借り出される。
 疲れていると言っても、日帰り任務よりは余裕がある。中忍以上に割り振られる日帰り任務は、通常であれば二~三日かかる内容を「一日で終わらせてこい」というものが多い。比べて、長期任務は計画的に日数を使う内容がほとんどだ。夜にとはいかなくとも、交替で眠ることが出来る。どちらかと言えば規則的だ。まあ、つまり、急な任務が入ろうとも何とかなる。
 が、豪雨や地震など天災による被害での任務は、人命救助が最優先である。人間がいる可能性のあるところが残っている限り、休みなど来ない。すぐに全ての人間の所在が確認できれば良いが、運が悪ければ何日も不眠不休で任務は続く。人命に関わることだから、そういう任務が嫌だとは言わない。そうまでして救助にあたっても、命が失われることもままある。くたくたに疲労が蓄積される挙げ句の心の疲弊。それが遣る瀬ない。
 サスケは頭を振った。
 先々を憂えても仕方ない。いざ救命活動を命ぜられれば、鬱々と考える暇もなく集中するものだ。目にも口にも容赦なく叩きつける雨粒、ようやく門まで辿り着いた時には、全員が川に飛び込んだかのような有りさまだった。
 

  子狐たゆら

 
 代表の一人が任務報告へ向かい、残りのメンバーはその場で解散となった。サスケはもはや急ぐ気力もなく、視界の悪い雨の道を歩いた。真冬ではないのが救いだ。深夜という訳でもなかったが、表に人の出歩く気配はない。傘も意味をなくす雨足だ、人々は家屋に引きこもっているのだろう。
 サスケの暮らすうちは集落は里の外れだ。土地や家屋の権利を返却されて、結局サスケはあの惨劇のあった家に暮らしていた。ナルトは何も言わなかった。ただ一言「遊びに行ってもいいか」と聞いてきただけだった。返事もせずに見つめると、微笑みを返されたのを覚えている。
 うちは集落は、里の中を流れる川の向こう側だ。小さな橋を渡ろうとして一瞬迷う。橋が落ちれば、緊急召集がかかった時に面倒だ。ナルトの顔が脳裏を過る。橋を渡らず、うちは邸に帰らず、ナルトのボロアパートに押し掛けても、たぶん文句は言われない。
 サスケは歯を食いしばった。口がへの字に曲がる。びしゃびしゃと重い音を立てる靴で橋を渡る。積極的にナルトを頼ることは、サスケには出来ない。
「…ん」
 ふと、川の中に何かが目に留まった。
 もう暗い中、視界はほとんど利かないが、水流以外のものが川べりの杭に引っかかっているのが感じ取れる。流木ではない、もっと柔らかいもの。
(犬…?)
 ちぎれた舫いのように水流に靡いている。
「…」
 水嵩はすぐに増す。杭を上回れば呆気なく流されるだろう。サスケは小さく息を吐くと、橋を回り込んで土手を下りた。大量に水を含んで、草の茂る足元がふかふかと沈む。木から川へ向かって伸びる枝を頼りに、慎重に杭へ手を伸ばす。掬い上げた物体は、やはり動物だった。
 ぐったりしている。死んでいるのかと思った時、がふりと口から水を吐き出した。薄く目が開く。サスケを見ても、その身を委ねたまま短い呼吸を繰り返すのみだった。人に慣れているのか、それとも身動きもままならないほど衰弱しているのか。子犬ほどの大きさの獣を、サスケは腕に抱えて走り出した。

 屋根があるということが、これほどありがたいと思ったことはない。古いうちは邸に駆け込んで風呂場へ直行する。湯船に湯を張りながら服を脱ぎ捨て、シャワーを捻る。給湯式に変えたのはつい最近のことだったが、こんな時ばかりは強引に勧めてきたサクラに感謝である。
 冷えた自分の体より先に、小さな獣にシャワーをあてる。
「…尻尾が…」
 多い気がする。
 犬のようなその獣は、時折目を開けたり身じろいだりするが、体を自力で動かせる状態ではないらしい。すっかりサスケの腕の中に収まって、丁寧に泥水を流す作業を受け入れていた。
 盥の湯に獣を浸けて、今度は自分の体を流す。長期任務の垢を落として、湯船に入る。
「…はあ」
 肩まで浸かって思わず漏れたため息は、ことの外、浴室に大きく響いた。救助第一号の獣が、盥の中からチラリとサスケを見上げた。
 

*     *     *

 
「何だ、それは」
「忍犬です」
 綱手はサスケの懐から顔を出す獣を見咎めた。
「お前のか」
「はい」
 その隣ではじっとりとナルトがそれを睨んでいる。
 一昼夜降り続いている豪雨は、案の定あちこちで被害を齋していた。ただ、里の家屋のほとんどが新しく、被害は川沿いの地盤の緩い地域に集中している。堤防は一ヶ所が決壊しかけたが、予め待機していたヤマトが修復済みだ。
 あれからサスケは、土砂降りの中に召集を受けた。せっかく風呂で温まったのに、とは口には出さない。そしてサスケは獣を置いて出ようとした、のだが。
『…あの』
 呼び止められた。
 振り返ると、ドライヤーで乾かしてやった尻尾をふさふさと揺らめかせながら、その獣がサスケを見上げていたのだ。
『何だ、お前、喋れるのか』
『…はい』
『忍犬か?』
『いえ』
 温まって多少は回復したようだったが、消耗は激しいのだろう、足元がひよひよとおぼつかない。
『…』
 狐、か。
 サスケはため息をついた。ドライヤーの温風を遠めに当てながら、乾いた尻尾は立派に九本生えていた。
 それは、つまり。
『九尾か』
『…』
 小さな獣は俯いた。違うとは、言わなかった。だが、かつてナルトの内側で対面した九尾とは、あまりにも違う。
 主に───サイズが。
 子犬ほどの大きさしかなく、あの九尾の縮小版という訳でもなく、顔つきも幼い。
 更に言うのであれば、封印が破られたのなら、今頃大騒ぎのはずである。ナルトに封印されたあの九尾とは別物なのか。
『…あの』
 九尾が再び顔を上げる。
『己(おれ)も行きます』
『ああ?』
『己はあなたに…助けられた。あなたの役に立ちたい』
 そんな状態で一体何の役に立つと言うのだろうか。だが、仮にも『九尾』から目を離すのも危機感がなさすぎるかも知れない。
『…来い』
 手を差しのべると、九尾はするりと腕を伝って肩に乗った。
『お前のことは、とりあえず「たゆら」と呼ぶ。忍犬のふりをしてろ』
『はい』
 うちは邸を出てすぐに、ふたりは再びずぶ濡れとなった。濡れればたゆらの尻尾はぺそりと量が減る。多少尻尾と耳の長い犬だと言い張れなくもない。
 災害時の緊急召集は、任務内容も同時に伝えられる。一旦集合せずにそのまま任務にあたるのだ。サスケとたゆらは指示された区域の救助活動を始めた。
 サスケは驚いた。
 たゆらはこの土砂降りと川の轟音の中、人間のいる場所を的確に言い当てていった。音や匂いは関係ないのだとたゆらは言う。チャクラを捜し当てている様子でもない。たゆらには、ただ『分かる』のだ。動ける住人を高台の避難場所へ誘導し、動けない者を担ぎ運ぶ。名簿と照らし合わせ、まだ所在の掴めない住人を捜しに走る。延々とその繰り返しだが、たゆらと組んだサスケは、そのスピードは群を抜いていた。逐一入る報告に綱手は舌を巻いた。ほんの数刻の間に、サスケを指令塔とした中隊が自然形成されるほどだった。
 結果、一人の死者を出すこともなく里人全員の所在と安全が確認され、サスケは綱手に報告を求められているという訳だ。
 全神経を集中させていたたゆらは、もはや自力で立つことを諦め、サスケのコートの懐にしまわれている。尻尾を隠すついでに、サスケは『九尾』を綱手に引き渡す考えも引っ込めた。
 大儀そうに首を綱手へ向けるたゆらは、サスケに助けを求めている訳ではなさそうだ。だがサスケは、この疲れ切った獣をこのまま里の上層部へ差し出すことを躊躇したのだ。背信行為と言われればそうなのかも知れないな、とサスケは思う。
「お前の地域の救助活動が異常に早かったのは、そいつのお陰だっていうことだね」
 まとめられた報告書をパラパラと眺めながら、綱手が感心したように言う。
「川に沈んじまった者も見つけたって話じゃないか」
「病院で意識を取り戻したと聞いている」
「ああ。上出来だね」
 たゆらの何かを疑った様子はない。忍猫は数が少ないが、忍犬なら割とこの里には多いのも幸いした。綱手が笑った。
「そいつ、まだ子供なんだろう? 疲れたって顔してるよ。もういいから、早く帰って休ませてやりな」
「はい」
 失礼します、と軽く一礼して、サスケは火影の執務室から退出した。

「サスケ!」
 当然のようにナルトもついてくる。
 追いつき隣に並んで歩く金髪を横目で見ると、非常に不機嫌そうな青い目が『九尾』を睨んだ。たゆらはフンと鼻先を背け、頭をサスケの胸に擦りつけた。
「…顔見知りのようだな?」
「ば…ッ、違っ! 顔ッ、つうかな!」
 救助任務が終わって執務室で顔を合わせた時、ナルトはたゆらを見てぎょっとしていた。非常に気まずい様子で眉と口元を歪めたのは、当然この『九尾』が彼に関係しているからだろう。
「どういうことだか説明して貰うぞ」
「せっ説明することなんて何もねえってばよ! そんな奴知らねーし!」
「お前ん家でいいか」
「えっ」
「俺ん家でもいいが、お前のアパートの方が近いだろ」
「…」
 わめく言葉を無視してそう言えば、ナルトは「ああうん」と口ごもり、頬を掻いて明後日の方向を見る。相変わらず扱い易い。
 救助活動は終わったとはいえ、雨はまだ降っている。たゆらを口実にして、サスケは楽な方を選択した。こんな口実でもなければ、自分からナルトに歩み寄ることなど、サスケには出来ないのだ。意地を張っていると言うべきか、臆病になっていると言うべきか。
 サスケが里に帰ってきてから、もう数年が経っている。それこそ帰ってきた当初はべったりだったナルトも、いつの間にか落ち着いた。サスケがもう里を抜けることはないと、ようやく信じることが出来るようになったのだろう。ナルトのサスケにかける時間は減り、サスケは精神的にも自由を得たはずだった。
「…散らかってっけど…」
「いつもだろ」
 サスケは幽かな寂寥感に気付かないふりをして、懐に丸くなるたゆらを見つめた。小さな目は閉じられているが、眠ってはいない。会話は聞こえているだろうに、ナルトのアパートへ向かうことに文句は言わない。構わないということなのだ、とサスケは判断した。ほとんど意味を成していない借りた傘の下、二人と一匹は黙ってナルトのアパートへ向かった。

 夏と冬のはざま、短い秋という季節。冬ではないとはいえ、疲れた体は簡単に雨で冷える。ナルトのアパートに辿り着いた途端、サスケは言いようもない疲労感に見舞われた。感付いたたゆらが首を上げ、ちろりとサスケの顎を舐める。
「おい、シャワー貸せ」
「ああ」
 この救助活動の直前にナルトに任務があったかどうかは、サスケは知らない。だがサスケよりはまだ余裕がありそうだ。狭い部屋の中をばたばたと走り回り、サスケにタオルを渡すと風呂場へ駆け込む。
「お湯、溜めてっから。コーヒーか何か…」
「あとでいい。俺たちはシャワー使いながら湯が溜まるのを待つから、先に…」
「俺『たち』!?」
 たゆらの毛並みを拭ってやりながらそう言うと、ナルトは目を剥いた。
「おっ、おま、お前そいつと風呂入んの!?」
「…お前が入れてやるんなら先に入れよ」
 今回の救助活動が迅速に終わったのは、たゆらの功績と言っていい。たゆらを優先してやりたいと思うのは、サスケとしても人情だ。それに、小さいたゆらは湯船でなくとも盥で足りる。
「じ、じゃあッ、全員で入るってのは!?」
「何言ってんだ。狭いだろ」
 うちは邸なら問題なかっただろうが、ナルトのアパートでは手狭に過ぎる。
「そんなに時間はかからねえから、お前こそコーヒーでも飲んで待ってろ」
「サスケェ…!」
 全員が濡れそぼっているこの状況で、本来なら家主に先に湯を使わせるのが礼儀だろう。だが『九尾』について何か隠しているナルトに、気を使うのもバカバカしい。サスケはさっさと、何度か使ったことのある風呂場へ入った。

 湯から上がってナルトと交代し、たゆらにドライヤーをあてていると、ナルトが慌てた様子で浴室を出てきた。カラスの行水と言うか、湯には浸かっていないのだろう。気持ち良さそうに目を閉じてドライヤーの温風を受けているたゆらを、膨れ面で見咎める。獣を相手に大人げない。
 それなら、とサスケはナルトを手招いた。
「座れ」
「え?」
 乾かし終えたたゆらをソファに置き、ナルトをダイニングの椅子に座らせる。背後に立ってドライヤーのスイッチを入れると、サスケはナルトの金髪をくしゃくしゃと乾かし始めた。
 すると、先ほどまでの仏頂面が嘘のように、目を細めてなすがままだ。獣と同じ扱いをしているのに機嫌が良くなるとはどういうことだろう。サスケは小さく息を吐いた。サスケの髪は、もうほとんど乾いていた。
「で?」
 ナルトの短髪もすぐに乾く。
 ドライヤーを片付けながら問えば、ナルトにはもはや何のことだか分からないらしい。ソファで丸くなる『九尾』にサスケが視線を向けるのに、ようやく気付いた様子だ。
 たゆらは眠っているようだが、その長い耳は時折こちらを窺っている。獣の眠りは浅いのだ。
「…実は」
 二人分のコーヒーを手に、ナルトはテーブルにつく。小さなテーブルの向かい側にサスケが座るのを待って、ナルトは意を決したように口を開いた。
「実はアレは、九尾なんだ…」
「…」
 サスケはじっと見つめるナルトを、同じようにただ見返した。
「…ビックリした?」
「…気付かれてねえと思っているお前にビックリだ」
「え、気付いてたの!? アイツから聞いた!?」
「お前オレをバカにしてんのか」
 ナルトは息を吸い込んだままサスケを凝視し、三秒置いて、その息を長く吐き出した。
「バアちゃんに『忍犬だ』って言うから、気付いてねえのかと思ったってばよ…」
「そう言うお前こそ、『九尾』がこんなサイズで飛び出したことを五代目に言わなかっただろうが」
 この状況が原因不明であるならば、ナルトはあの場で綱手に助けを求めたはずだ。そうしなかったということは、少なくともナルトには事情があるということなのだ。
「…封印の問題か? それともお前に問題があるのか」
「んー…。九尾のチャクラを使えるようにしてあるっていう点では、封印の問題かなあ」
 ナルトは難しい顔で、だが半分以上は何かが不満という不機嫌さを隠しもしない。首を捻って『九尾』を見遣る。睨む、と言う方が正しいかも知れない。
「俺はさ、九尾の陽のチャクラを引っ張りだして使えんだけど、気をつけてねえと陰のチャクラに負の感情を引き出されちまう」
「…」
 それは以前にも、ナルト本人から聞いたことがあった。彼の父親が、チャクラを阻害しない封印を組んだのだと。
「そんでさ、逆に九尾の奴に、俺のチャクラを奪い取られるって危険もある訳」
「一方向にだけ有効な封印じゃねえってことか」
「まっ俺の父ちゃんは、俺がコレを使いこなすって信じてくれた訳ですよ」
「信じるって次元か? 博打だろ、どう考えても。壮大なる賭けだ。ギャンブルだ。一か八かの危険なルーレットだ」
「ちょ、ソレ父ちゃんじゃなくて俺をバカにしてねえ!?」
「会社はたいてい二世が潰すもんだろ」
 今では一般的なこの定説を当時の彼の父親が知っていたら、無謀な封印にはしなかっただろうに。何しろこの場合には、会社ではなく里全体の運命がかかっている。下手を打てば里ひとつにとどまらない、世界規模の厄災なのだ。
 ただ、現状として深刻な事態には陥っていない。彼の父親は賭けに勝ったと言える。
「…それで?」
 サスケは真顔で、コーヒーカップを両手で包んだままテーブルに突っ伏した男を促した。
「その封印に問題が発生してるのかよ?」
「…いや、えっとな…」
 ナルトはのろのろと頭を上げるが、打ちひしがれたようにため息をつくと、再びがっくりと額をテーブルに落とす。
「やっぱ俺がダメだからかな…」
「ダメかどうか判断してやるから言ってみろ」
 薄めのブラックを口に運びながら根気強くナルトの言葉を待つ。ややあって、観念したようにナルトは説明を始めた。
「…昔は、険悪だったけどさ。今はそれなりに、アイツと上手くやってんだ」
 アイツとは、九尾のことだろう。
「でさ、結構いろいろ話したりするんだよ。術や技のこととか、そーゆうの以外の、何つーの、世間話とか? 雑談みたいな?」
 ちらりと視線を向けられる。
 一瞬目が合うと、すぐに逸らされた。
「お…っ、お前のこととか、も…」
「俺?」
「ホラ、俺が強くなりたかったのって、お前に負けたくねえとか、お前を…連れ戻してえとか、そうゆうのがあったしさ! アイツもそれは知ってて、なんか、からかわれたりしたりさあ!」
「…」
 面白くなくて、サスケはじろりとナルトを睨む。ナルトに負けたから里に帰ってきたのだ、とも受け取れる科白だ。
 無論、ナルトがそういうつもりで言ったのではないことは理解している。だが、面白くないものは面白くない。サスケはこちらの不機嫌になど気付きもしないナルトから目を背けた。
「でな、これが重要なんだけど…」
 ナルトはサスケの目が向けられるのを待って、言葉を繋いだ。
「アイツの陰のチャクラが俺に影響を与えるように、俺のとあるチャクラもアイツに影響を与えます」
「…さっき言ってた封印のことか」
 ナルトは頷いた。
 じっと見つめていると、ふとナルトの顔が火照っていることに気付く。湯上がりだからではないだろう、十分とかからずに出てきたのだから。
「その…、あのですね」
 何故か敬語で、ナルトは目を彷徨わせた。

「俺がサスケサスケ言いすぎたせいで、アイツもサスケのことが好きになっちゃったみたいなんデス!!」

「…」
 意表を突かれて、サスケはまばたいた。
 一瞬思考が停止する。
 じわじわと思考能力が戻ってきて、しかし何と言ったら良いのか分からない。
 アイツも、とナルトは言った。
 も、である。
「そっそっそれで! ちょっとした喧嘩になっちまって、チャクラの引っ張りあいになって、まあ俺が勝ったんだけど! 引っ張ったアイツのチャクラがこう、スポーンと飛んでっちまって…」
 はあはあ息をしながら、ナルトはそろりとソファを振り返った。
「…気が付いたら、こうなってたんだってばよ…」
 つられるようにサスケも振り返る。
 ソファの上でちんまりと丸くなるたゆらは、我関せずという様子ですやすやと眠っている。もちろん話は聞こえているだろう。だが、否定も肯定もしない。本当に疲れ切っているのだ。サスケはナルトに目を移した。
「俺がビックリしてる間に、飛び出しちまってさ。どうしたらいいか分かんなかったけど、ほっとく訳にもいかねえだろ? あちこち探し回って、そしたら雨降り出すし、召集かかるし…」
「…終わってみたら五代目の前にいたってことか」
「うん…」
「ならどうしてあの時、五代目に言わなかった」
 だって、とナルトは口を濁した。
 だって、じゃ分からない。じっと見つめると、渋々ナルトは口を開いた。
「…アイツは、その…、お、ぉ、俺が『サスケを好き』って気持ちが、凝縮されて出来てんだもの…。そ…そんなのバアちゃんに説明すんの、」
 恥ずかしいってばよ、消え入りそうな声で、ナルトは言った。
「…ナルト」
「…」
 一番の引っかかりに、サスケは疑問を口に乗せた。
「お前、俺のことが好きなのか」
「…ウン」
 胸の内が仄かに暖まるのを感じる。
 嫌われている気はしなかったし、どちらかと言えば好意を感じることの方が多かった。里を抜けている間のことは、好意云々より意地みたいなものだったはずだ。だが、里に帰って落ち着いてみれば、ナルトの意地が好意に由来するのだと、何となく理解できた。
 その『好意』は友情だろうか?
 全部をひっくるめた『友愛』だろうか?
 ナルトの顔は、一時間湯船に浸かったかのように火照っている。
「…ナルト」
「なっ…、なに…?」
「お前のチャクラは関係ねえだろ」
「…」
 サスケはその顔をまじまじと見つめながら言った。
 九尾に影響を齋したのはナルトの気持ちであって、それは直接チャクラとは関係がない。チャクラの話が出てくるのは喧嘩になってからだ。
 チャクラに陰と陽がある以上、誰かを『好き』というエネルギーはもちろん無関係ではない。そのエネルギーが陰に向かうか陽に向かうかも、人それぞれだろう。この場合は、ナルトに影響を受けた九尾が『サスケを好き』という気持ちで張り合った結果が『たゆら』なのだ。
「…サスケ君」
「君はやめろ」
「サスケェ! あのなァ、俺なァ、今すっごい重要なこと言ったんだけどォ!?」
「重要?」
 顔を真っ赤に怒らせて、ナルトは腰を浮かせた。重要なこと、それは。
「…俺、今、お前のことが好きって言ったんだけど」
「ああ。聞いた」
「それについて何かねえのかよ!!」
 近所迷惑なほどの大声でがなり立てるのを、サスケは半分呆れて見上げていた。
「何かって?」
「ウザいとかキモいとか死ねとか俺も好きとかさあぁ!!!」
「ウザい。キモい。死ね。俺も好き」
「ギャアァ!! ホントに言うことねえだろ!! …って、え?」
 ぴたりと黙ったナルトは、九尾のことなど忘れたように、おとなしく椅子に座り直した。
「え、と…、す…好き…?」
「ああ」
 それは特別隠さなければならないものではない。第一、サスケが里へ帰ることを決意したのはナルトのためだ。少なくとも嫌いではないし、彼を頼るのは良しとせずとも、彼を助ける力になりたい。そういった自分の気持ちに従って、サスケはここにいる。そしてそれは周知の事実だろう。鈍感な本人だけが、今更のように目を輝かせているのが可笑しい。
「そっ…か」
 へへ、と笑って下を向く。
 好きだと言われて、喜んでいるのはこちらの方だ、とサスケは思う。ナルトの『好意』は八方美人だ。あちらこちらに振り撒いて、際限などない。サスケに対するかつての『意地』も今は鳴りを潜め、他の仲間へ向けるのと同程度の『好意』に落ち着いたと思っていた。それが、いまだ関心は失われていなかった。嬉しくないはずはない。
 だが、同時にサスケは、埋没しなければならないとも思っている。特別な関心を、いつまでも独占していて良いはずもない。その他大勢の中に埋没し、平等な好意を受ける平凡な一人にならなければいけない。
(…今だけだ)
 火影になろうとする男の偏愛の対象は、妻を中心とした家族に限られるべきだ。家族ですらも贔屓と揶揄される場面が多々あることを、サスケは知っている。
 互いに家族のいない身だ。欠けた部分を補い合いたい気持ちもあるのかも知れない。今だけだ、サスケはもう一度自分に念を押した。自分が側にいることに慣れれば、ナルトは他へ目を向けることが出来るようになるだろう。頑なに引けばむきになって追ってくるのは学習済みなのだ。引かず、否定せず、自然に周囲に埋没するのを待てばいい。ナルトは気分を害することなく妻を娶り、火影になるだろう。
「…影分身みたいなものか」
「え?」
 たゆらを示せば、ナルトは面白くなさそうに口を尖らせる。
「お前、切り替え早くね? 今すっげえイイ雰囲気だったと思うんだけど…」
「本題はたゆらのことだろ」
「へ? タユラって?」
 まさか、とナルトが九尾を───『たゆら』をじっとりと睨めつけた。たゆらの片耳がピンと反り返る。
「おま、名前とか付けちゃってんの!?」
「とりあえずだ。外で『九尾』なんて呼べねえだろうが」
「そ…ッ、そうだけどさあ!!」
 不満そうな声を無視して、サスケは続けた。
「実体はある。お前の影分身と同じと考えると、衝撃を与えたりチャクラが尽きたりすれば…消えるんじゃねえのか」
「…ナルホド」
「あとは、たゆらを作り出した九尾が術を解除するか、たゆら自身が解除するか…だが」
「あ、それは分かんねえって言ってる。九尾もアイツが分離した時、目ぇまん丸にして口ぱかーん、だったしなあ」
 言うと、よし、とナルトは立ち上がった。腕まくりなどしている。
「…どうする気だ」
「叩き潰してみりゃいいんだよな!」
「…」
 あくまでも仮説だというのに、既にナルトは解決したような顔をしていた。ソファの上のたゆらが、警戒に顔を上げる。
「…ナルト」
「ん?」
「叩き潰すのか」
 咎める空気を感じてか、何故という顔が振り向く。サスケはうっすらと笑った。
「そいつ、お前の『俺を好きだ』って気持ちの塊なんじゃねえのか?」
「え、あ、まあ…そうだけど」
「俺を好きだって気持ちを叩き潰すのかよ?」
「…」
 ナルトの顔がはっと歪んだ。やはりそこまで考えが及んでいなかったらしい。その様子が可笑しくて、サスケは笑みを深めた。立ったままのナルトを通り過ぎてソファに座る。
「たゆら」
 名前を呼ぶと、じっとサスケを見つめていたたゆらがぴょこんと立ち上がり、膝に乗ってきた。耳の後ろから背中を撫でてやる。
「アレ…少し縮んだか?」
 不機嫌そうに隣に座って覗き込んだナルトが、ふと気付いたようにそう呟いた。たゆらは聞こえない素振りで鼻面をサスケの手にすり付けている。
「お前、やっぱりチャクラで出来てんのか」
「はい」
「ずいぶん消耗したんじゃねえのか?」
「…はい」
 一生懸命に見上げてくる獣の鼻筋を、指先で撫でる。
 元々ちゃんとした術で生み出された訳ではないたゆらは、そう長く保たないのかも知れない。サスケがあの川で見つけた時には、既に今と同じほどの大きさだった。ナルトが見て「縮んだ」と言うのなら、あの時点で相当チャクラを消耗していたのだろう。
 なのに、救助任務を手伝った。
 弱っていた体に鞭打ったのだ。
「頑張ったな」
「…いいえ」
 たゆらは赫い目をきらきらと潤ませてサスケを見つめていた。
「ただ…あなたと一緒にいたかった」
「そうか」
 見つめ返すと、たゆらは小さな体で懸命に伸び上がって、サスケの口元をぺろりと舐めた。
「あー!!!」
「うるせえな」
「だって、サスケェ!!」
 一体何を張り合っているのか、サスケには分からない。
 たゆらはもはや長くは存在できない。叩き潰さなくとも早晩消える。そしてたゆらは、この姿単体の生物ではないのだ。大元は九尾である。たゆらは消えても九尾はナルトの腹にいる。本当に影分身と同じであるならば、たゆらは記憶を携えて九尾に還ることになる。
 たゆらは小さく薄い舌でサスケの口をひとしきり舐めると、満足げに膝の上で丸くなった。もぞもぞと座りの良い位置を探り、ふさふさの尻尾に鼻先を埋める。
「お前…まさかそこで寝る気じゃ…」
「いいじゃねえか。疲れてんだろ。つうか俺も眠い」
「えっじゃあベッド使う?」
「…いい。ソファで充分だ」
 言いながら、サスケはナルトを払いのけてソファに横になった。それにつれてたゆらも膝から腹に移動する。
 空腹も感じていたが、それ以上に今は眠い。長期任務から帰って、寝る間もなかった。所在なげなナルトをあえて無視して目を閉じれば、自分で思うよりも深い眠気が襲い来る。腹の上の獣が温かい。
 諦めたようなナルトが二人に毛布を掛けたのだが、そんなことにはサスケは気付けなかった。
 

*     *     *

 
「…おはよ」
「ああ…」
 目覚めた時、サスケは自分がどこにいるのか理解できなかった。ナルトの控えめな声に、ようやく事態を把握する。腹の上にたゆらはいなかった。のろのろと体を起こすと、マグカップを差し出される。コーヒーだ。
「たゆら、いつの間にか、消えてたってばよ」
「ああ」
 眠りに落ちる寸前、もしかしたら眠っている間に消えるかも知れないなと思ったことを思い出す。
「んで、九尾に聞いてみたけど、なんかあんまり良く分からねえってさ。戻ってきた感じはあるらしいんだけど」
「そうか」
 考えられない話ではない。
 影分身は、その名の通り、本体と同等の分身を作り出す。決してミニチュアではない。たゆらが何かの弾みで形成された未成熟な九尾の一部と考えれば、記憶や体験を吸収できているとしても、大海に真水を一滴垂らすようなものなのかも知れない。
「アイツさあ、…結構可愛かったかもな」
「そうだな」
「役に立ってたみてえだし」
「ああ」
 サスケは小さく笑ってコーヒーに口を付けた。ナルトの方がよほど惜しんでいるように見える。
「お前の腹の中にいることは間違いねえんだろ。そのうちまた出てくるんじゃねえか?」
「えっ」
「喧嘩には気を付けることだな」
「…」
 引き攣った笑みが視界の端に入った。
「…お前の長期任務が、引き金になったんだってばよ」
「ああ?」
「二ヶ月が三ヶ月に延びたじゃんか。寂しくってさあ、会いたくってさあ。でもそうゆうのって、言える相手って限られるだろ?」
 それで九尾を相手に愚痴を吐き出していたということか。ある意味究極だ、とサスケは思う。
「九尾もいい迷惑だな」
「いいんだってばよ別に。九尾の奴ヒマなんだし」
「そうか」
「そうだってばよ」
 不意に、ナルトが金髪をすり寄せてきた。
 反射でコーヒーを避けると、そのままずるずると頭が膝に落ちてくる。膝枕の格好だ。ずるいってばよ、ぼそぼそとナルトがぼやく。
「何がだ」
「…膝枕も頭撫でて貰うのもチューも! 全部先越されたってばよォ…」
「…」
 思わずため息が漏れた。本気で張り合っていたとでも言うのだろうか。コーヒーを脇へ置いて、サスケは膝に乗る頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。うう、と不満げな唸り声が上がる。
「…キスは、お前が先だっただろ」
「へ?」
 ナルトはのそりと頭を起こした。目をぱちくりさせて、そして頬に朱が走る。
「も、も…もしかして、アカデミーの卒業前のこと言ってんの…?」
「忘れてたかよ」
「だって、アレは、あんなのは! 事故だし、俺もお前もあん時は全然、好きでも何でもなかったじゃん!」
「そうだな」
 でも、俺はあれが初めてだった。
 遠い記憶を手繰り寄せる。まだ何も知らないに等しかった頃。十年ひと昔とは良く言ったものだ。
「じゃ、なかったことにするか」
「えっ」
 わざとらしく笑ってみせると、ナルトはぽかんとして、それから歯ぎしりをした。やだ、という小さな声は聞こえないふりをした。好かれるというのは気分が良いものだ。そして同時に、しくりと胸が痛くなるものだった。
(今だけだ)
 いずれ緩やかに埋没する、それまではひたすらに手厳しく甘やかしてやろう。日に焼けた顔の輪郭をそっと指先でなぞる。懐かしい匂いがする。郷愁を押し退けて、サスケはナルトの首筋に顔を埋めた。


       










「…たゆら?」
 前回よりは短い、けれど二ヶ月を超えた長期任務。
 帰り着いた里の門に、小さな獣の姿を認めてサスケは思わず立ち止まった。ふさふさの豊かな尻尾が喜びに揺れている。
「お、こいつか? 水害救助の時の忍犬って」
「え、ああ…」
 同僚に答える隙に、子狐は一直線に駆け寄ってスルリとサスケの体を登る。首を巡って肩に落ち着くと、ぺろりと頬を舐めた。
「また…出てきたのか」
「…待てなかった。すみません…」
 その申し訳なさそうな声の向こうから「あああー!!!」と遠く叫び声が響き渡る。言わずと知れた、愛しい男。
 ああ、帰ってきた。
 騒々しい英雄がすっ飛んでくるのを待ち受けながら、サスケはそっと、たゆらと目を見合わせた。