天然父さん計算兄さん

 

  天然父さん計算兄さん

 
 俺の兄貴は超デキる。
 勉強は常にトップでスポーツは個人競技ならやっぱりトップ、団体競技だって兄貴が入るだけで全国クラスだった。大学では下手な教授より博識だったし、院に進まないかと誘われ続けてたし、卒論なんかそのまま経済理論系の学術雑誌に全文掲載されてしまうレベルだった。気難しい教授にも気に入られ、乞われるまま院に進んでいたら博士号なんか欲しいままだっただろう。気分転換にかじるスポーツだって、何をさせてもプロレベルだから、兄貴を勧誘するスポーツ関係のスカウトはいつだって周囲をウロウロしていた。一言で言えば、俺の兄貴は天才だった。
 でも兄貴は、院に進むこともプロのスポーツ選手になることもなく、大学卒業と同時に普通に就職した。理由の大半は、たぶん俺だろう。
 両親が亡くなったのは俺が小一の頃で、十歳上の兄貴はずっと、親代わりでもあった。つまり家事も兄貴がこなしていたということだ。俺だって子供心に「兄さんを助けたい」と懸命に手伝ったりもしたが、まあアレだ、ガキの手出しなんか却って余計な仕事が増えるだけなのだ。でも兄貴は俺が失敗しても、怒ったり邪険にしたりは絶対にしなかった。客観的に見て、兄貴の進路は全て弟である俺を中心に考えられていたと思う。両親が亡くなった時点で、兄貴は既に世の無常を知り、全てにおいて達観し、そして超越してしまったのだ。
 まあ、「普通に就職」とは言っても在学中から破格の待遇でバイトに行っていた会社だ。シューカツだの就職氷河期だのという言葉は、兄貴の辞書には載っていなかった。そして兄貴の就職した会社が羽振りが良いことも、俺は実体験として実感していた。就職祝いヨ社宅代わりに使うといいワ、とおカマさんみたいな社長がマンションを買ってくれたのだ。兄弟二人暮らしには広すぎる4LDK、生体認証システム採用の超高級マンションだった。両親と暮らしていた家の方がもちろん広かったが、いかんせん古かった。愛着はあったが何しろ一等地と言われる場所にあったので、固定資産税を払い続けることは事実上不可能で、俺たち兄弟は学校近くのアパートに移っていた。狭い空間で生活することに慣れた俺は、超高級マンションの広い部屋を持て余し、しばらくは隅っこでちんまり過ごしたものだ。
 待遇は破格、だがつまりは、それに見合った仕事をしろということだった。バイトから正社員になった兄貴は、それまでの比ではなく忙しくなった。それでも兄貴は、たとえ数時間しかいられなくてもマンションに帰ってこようとした。だから、泊まりの出張がある時以外は、俺は兄貴の顔を一応毎日見ることが出来ていた。
 デキすぎるのも問題だ。普通だったら過労死レベルの仕事量をこなし、会社での拘束時間は労働基準法違反も甚だしく、けれど兄貴は家で「疲れた」なんて顔は絶対にしなかった。兄弟の前ですら元気なフリなんかしなくていいのに。家族の前でぐらい愚痴を言えばいいのに。俺はずいぶん歯がゆい思いをした、
 が。
 兄貴のそれは、演技でも何でもなかった。
 兄貴は元気で、笑顔は本物だったのだ。
 俺は戦慄した。
 俺の兄貴は人間じゃない。別の星から来たのだと言われたら俺は信じただろう。MIBの世界だ。
 まあ、もちろんそんなことは俺の戯言に過ぎない。兄貴は生物学的な分類で言えばホモサピエンスの一員だ。ただし、完璧なホモサピエンス、遺伝子の奇跡と言っていい。完璧すぎる兄貴は当然モテたが、その完璧さゆえに女の方が耐えられなくなる。更に、兄貴の優先順位第一位は俺なのだ。打ちのめされ、打ちひしがれて兄貴の元を去る女は、俺の知る限りでも両手で足りない。多少ズボラで感覚の鈍い女でなければ兄貴とは付き合えないのだろう。でもそういう女は、まず兄貴狙いの才媛に叩き落とされ近付くことも出来ないのだ。そして悪いことに、兄貴はさして生殖活動に興味がない。ああ、宇宙人通り越して聖人だ。聖者だ。だから自分から女に近付くことはなくて、兄貴と(恐らくは)相性がいいだろう女との出会いは、たぶん今もまだない。俺はそれを気の毒に思ったし、心配もした。けれど本人だけは、女と長続きしないなんてこと自体を全く気にも留めないのだ。もしかしたら『付き合っていた』とかいう認識すらなかったのかも知れない。

 さて、生殖活動に興味がないのは、弟である俺も同じだった。父と母の生殖活動の末にこの世に生まれ出た割には、兄弟揃ってその辺りの大事な欲求を置いてきてしまったのかも知れない。
 ただ、俺は兄貴と違って、好きな奴はいる。
 そうだ、女じゃない。
 男だ。
 男、正確に言えば『うずまきナルト』を好きだと気付いた時には自分に絶望したものだ。自分の嗜好を矯正しようと努力したし、ナルトから意識的に離れようという努力もした。俺は徹底的に『ナルトを嫌い』という態度を取り続けていたし、小学生で出会った時から喧嘩ばかりの俺たちだったから、俺が本当はナルトを好きだなんて誰にも気付かれなかった。
 ただ一人、いのだけは知っている。
 いのは俺がナルトを諦めたくて試しに付き合ってみた女だ。結局は友達以上に思えなくて、ついにナルトを好きだと気付かれてしまった。いのは諦め続ける俺を慰めてくれて、誰にもそれをバラしたりしなかった。秘密の共有者だ。
 今もいの以外の奴らは、知らない。
 もちろんナルト本人もだ。
「あれ…なんか皿多くねえ?」
「客が来るんだ」
「客ぅ? 俺以外に?」
「てめえ客のつもりかよ」
 溶いた卵をクレープみたいに薄く焼き、皿に広げて冷ましているのをナルトが覗き込んだ。その横にはチャーシューの塊が鎮座している。
「手際が良くなったな、サスケ」
「…」
 珍しく家にいる兄貴まで覗きに来る。毎日やってるからな、と呟くが、別に兄貴を責めている訳じゃない。家族は兄弟二人きりだ。兄貴が就職してから少しずつやるようになって、今では八割方俺が食事の準備をしている。
「なあ、兄ちゃん。客って兄ちゃんの客?」
 イタチは俺の兄貴であってテメエの兄ちゃんじゃねえだろ。けれどナルトから言わせると、友達の兄貴って訳じゃないのだそうだ。曰く、友達の兄貴とも友達になった。もはや腹も立たない。
「ああ。取引先の会社の社長さんだよ。何だか気が合うみたいでね、時々プライベートでも会う人なんだ」
「へええ、スゲエ! 自分ちに呼ぶって相当仲良くね?」
「今日が初めてだけどね」
 兄貴とナルトの会話を聞きながら、俺はため息をついた。今朝の電話の様子では、どうしても遊びに来たい社長に兄貴が押し切られた格好だったからだ。
 兄貴が押し切られるなんて、そんな場面は初めて見た俺だ。ぽかんと見つめてしまったが、考えてみれば、本気で来てほしくないならこの兄貴が容赦なんてするはずがない。それがたとえ取引先の社長でも、だ。つまり、来ても来なくても、どちらでも良かったのだろう。兄貴の今の格好は完全にお寛ぎモードだ。もちろん俺もナルトもTシャツにジーンズで、兄貴はそれを咎めない。
「俺たちもいていいのかよ」
「ああ、構わないさ。仕事の話なんかしないしね。俺の家族にも会ってみたいって」
「ええ、俺ってばトモダチだけど、いいのかな」
「いいんじゃないか? 家族同然に仲が良いんだし」
 だがまあ、そんな訳で俺は四人分の昼食の準備をしているのだった。どんどん口がへの字になるのを止められない。
「おい、ナルト。テメーも手伝うとかねえのかよ」
「え、俺、不器用だけど。なんか出来そうなことある?」
「まず手ぇ洗え。そしたら冷蔵庫から麺とキュウリとトマト出せ」
 兄貴はダイニングから新聞を持ってリビングに消えた。その横顔が笑っているのを見逃す俺じゃない。
 俺がナルトを好きだってことは、兄貴にもバレていない。単なる喧嘩友達だった時よりは仲が良くなった、と思っているようだ。そして何より、兄貴はナルトを気に入っている。兄貴とナルトが話していれば、俺は内心ハラハラしながら聞き耳を立てるのだ。
「わ! な、サスケ! サスケ! これもしかしてラーメン!?」
「はあ? 冷やし中華だ。何でクソ暑ィ中ラーメンなんだよ!」
「えええ!? 俺ラーメン最近食ってねえんだってばよォ!!」
「知るか!!」
 冷やし中華の麺を見て一喜一憂のナルトは、正直可愛い。既に俺の身長も体重も追い越して、顔からは丸っこさが取れてきている。外見ばかりは大人に近付いているが、根本はほとんど中学生の頃と変わらない。
「サスケェェェ!! ラーメン~!!!」
「うるせえ!!! キュウリ千切りにしとけ!!」
「え、千切りって?」
 子犬のようにうるさいが、ちょっと矛先を変えるだけで気が逸れるのは毎度のことだ。
 少し切って見せて、あとは任せる。意外に真剣に取り組み始めるナルトの横顔は精悍で、俺は危うく見とれるところだった。
「…指切んなよ」
「ん」
 慎重に時間をかけて切る割には形はいびつだ。まあ、男の料理なんてこんなものだろう。そしてナルトがキュウリを切り終わるまでに、他の全ての準備は整うのだ。
 二人並んで料理をする日が来るなんて、ちょっと前までは想像だにしなかった。こんなことぐらいで俺はドキドキするし、充分幸せだった。
 その時、インターホンが鳴った。兄貴は一言二言喋ると、すぐにドアを開けに向かう。兄貴がお世辞にも「気が合う」などと言う『社長』がどんな人物か、俺もナルトも興味津々だ。
「やあ、イタチ君! 久しぶりだね!」
「昨日も会いましたよ、社長」
 玄関から聞こえてくる朗らかな声に、ナルトが何故かきょとんと口を開けた。
「やだなあ、ミナトって呼んでよ! 今日は仕事じゃないんだからねっ」
 非常に慣れ慣れしい甘ったれた科白じゃねえか。俺は完全無欠の兄貴にそんな口を利ける『社長』の顔を拝んでやろうと、キッチンから覗き見た。
 おお、何だ、見事な金髪碧眼だ。役職からは想像していなかった若さだし、背も高い。美形だけれどいかつい感じはない。美丈夫というのは兄貴のためにある言葉だと思っていたが、この『社長』もなかなかだ。つうか何してんだ。すげえ花束だし。いや本当に何してんだよ。仕立てのいい明るい色の涼しげなカジュアルスーツ、その腕が───。
 兄貴の腰を抱き寄せていた。
 アメリカ人のスキンシップは日本人には過剰に感じるものだけれど、いや、それにしたって過剰だろ。花束を持ったまま両腕の輪の中に兄貴の細腰を閉じ込めて、引き寄せて、顔なんか10cmと離れていない。優しいまなざしで兄貴を見つめて、何てゆうか、そうアレだ、恋人でも相手にしているかのようだ。
 軽く硬直した俺の背後から、しかし、悲鳴のような声が聞こえた。

「と───父ちゃん!?」

 ぎしぎしと振り向くと、俺以上に引き攣ったナルトが愕然と玄関の二人を指さしていた。
「あれ、ナルト? 何だ、奇遇だね!」
「何が奇遇なんだってばよ!!」
「ええ、だって、友達の家に泊まりに行ってくるって言ってただろう? それってイタチ君の弟のことだったんだねえ」
 ぽかんと見つめながらも、いやそれはないだろ、と冷静に思う。この兄貴が未成年の子供を預かるのに、親に連絡を取らないはずがない。ナルトがゆうべここに泊まったことは知っていて然るべきなのだ。
「いやイタチ兄ちゃんとも友達だけど!! つうか、そーじゃなくってェ!」
 ナルトは頭を掻き毟った。

「くっつきすぎだってばよォオ!!!」

 兄貴は堪えきれなくなった、というふうにクスリと笑った。何と言うか、慈愛に満ちた微笑みだ。ええーそうかなあと言いながら頭を兄貴にすり寄せる『社長』の腕の中で、ああそうだ、庭で遊ぶ子供を見守る母親のようだと俺は思った。
 俺の兄貴は超デキる。
 たぶんこの『社長』のあしらい方なんて、既に心得ているのだろう。俺は乾いた声で、とりあえず「初めまして」と頭を下げた。
 

*     *     *

 
「だいたい何で花なんか持ってきてんだってばよ!」
「ええ、だって、手ぶらじゃ来られないじゃない」
 ナルトは急に現れた父親に、ずいぶんと攻撃的だった。目が離せないと判断したのか、キュウリはほったらかしてダイニングのテーブルで社長を監視している。短い幸せだった。
 まあ、気持ちは分からなくもない。
 自分の父親が、若い男に抱きついているのを見てしまったのだ。しかも、息子に見られても全く動じず、寧ろ余計にくっついて見せていた。一見すれば優男なのに、結構剛胆だ。まあ剛胆なのは俺の兄貴も同様だが。
(あんまり似てねえ親子だな)
 共通点は金髪碧眼というぐらいだ。
 冷やし中華を仕上げつつ、俺はナルトの分だけラーメンを用意してやった。何だかんだ言ったって、俺はナルトのことが好きなのだ。
 余った具であるチャーシュー、卵、キュウリと湯剥きしたトマト、それにモヤシのスプラウトを大皿に盛り、食卓へ運ぶ。貰った花を花瓶に生けた兄貴も戻ってきた。食卓から見えるリビングに、何やら有名な華道の家元が生けたのではないだろうかという芸術的な光景が映る。無造作に移しているだけに見えたんだけど。包装に使われていたリボンまで活用している。さすが兄貴だ。わあー凄いねえ上手いねえ、とはしゃぐ社長の暢気さが羨ましい。俺は控え目に冷やし中華を食卓に並べた。
「わあ、冷やし中華だね! 俺、食べるの何年ぶりだろう…!」
 そしてナルトの前にはラーメンだ。
「え…何これイジメ? 嫌がらせ?」
「何でだよ。ラーメンがいいって言ったじゃねえか」
「言ったけど! 皆が冷やし中華なのに俺だけラーメン!? しかも具は冷やし中華と同じだし!!」
「文句があるなら食うな!」
 少なからず、俺はムッとした。あれだけ騒いでおきながら、希望を叶えてやればその言い草かよ。ほんのちょっぴり傷付いたのは、もちろん誰にも内緒だが。
「いくら何でもラーメンにトマトはねえってばよ!」
「具の追加は各自でお願いします」
 俺はナルトを無視して中央の大皿を示す。うんありがとう、と社長は大らかに笑った。俺たちは四人揃って「いただきます」と言った。四人で囲む食卓は、家族みたいだと俺は思った。両親がいた時とは全く違うけれど、家族みたいだと、俺は思った。
「あ」
 ずず、とラーメンを啜るナルトが声を上げる。
「意外に美味いってばよ、トマトとかキュウリとか」
「トマトもキュウリも、油や塩とは相性がいいからね」
 向かい側から兄貴が笑う。ふーん、と感心しながら、ナルトは横に座る俺を見てニコリと笑った。さっきはイジメだの嫌がらせだのと言いやがった癖に、今頃愛想良くしても遅えんだよ。
 ああ、だが、畜生。ほっとしているのも本当なのだ。これがいわゆる『惚れた弱み』って奴か。俺の冷やし中華にはナルトが切ったキュウリが乗っている。
「サスケ君が作ったんだよね。すっごく美味しい!」
「…どうも」
 社長はご機嫌で、具を追加しながらもりもり食べている。ナルトも負けじと具を(主にチャーシューだが)追加している。その箸がトマトにも伸びて、俺はほんの少し、いや大分機嫌を持ち直した。
「ねえねえ、イタチ君は休みの日は何してるの?」
「色々ですよ」
「趣味のこととかかな!」
「いえ、俺は趣味は特にないので」
 兄貴は全くいつも通りだ。
「俺はねえ、観光するのが好きだよ」
「観光ですか?」
「ん! この辺でも、まだ行ったことないところって沢山あるしね」
「仕事でよくいらしてるじゃないですか」
「仕事と観光は全然違うよ! ね、ナルト!」
 ナルトはラーメンに夢中で「ン? あー」と適当な相槌を打っている。お前はまだ仕事なんかしてねえだろ、と思うけれど、俺は黙って冷やし中華を啜った。
 社長はよく喋る人だ。だが、忙しない印象がないので食事中のお喋りも気にならない。それはある意味特殊能力だな、と俺は思う。ナルトなんか喋ってなくても、いるだけでうるさいのだ。この二人は本当に親子なのか。遺伝子の謎だ。
 いや、もし本当に血が繋がっていなかったらこの話題はここでは出せない。母親は亡くなっているという話だし、社長とは苗字も違うし、複雑な事情があるなら迂闊なことは聞けないだろう。
「あー、俺、イタチ君の会社に就職しちゃおうかなあ!」
 俺が話題から離れて違うことを考えていた隙に、社長のそんな科白が耳に飛び込んだ。
「ハア!? 何言ってんだよ父ちゃん!」
 皆より一足先にラーメンを食べ終わったナルトが、呆れた視線を父親に向ける。
「だってさあ、イタチ君はウチの会社に転職する気ないって言うし」
「今の職場が気に入っているので」
「破格の条件でヘッドハンティングしてるのに」
「職種も業種も違いますからね」
 兄貴はさらりと受け流しながら冷やし中華を食べている。お寛ぎモードは切り替える気がないらしい。
 だいたい、今の会社だって待遇は破格なのだ。兄貴は俺と二人で暮らしていくのに不自由しないだけ稼げればいい、というスタンスだし、滅多なことでは転職なんかしないだろう。
「でも! 今のままじゃ、時々しか会えないし!」
「先月から週に一回は会っていると思いましたが…」
「俺は毎日会いたいよ…!」
 社長はちょっと情けない顔で兄貴を見つめた。
 何なんだ。
 ナルトを見遣ると、半分口を開きかけたまま、信じられないものでも見るように父親を凝視していた。
「朝会って、昼も会って、夜も会って、君の顔を見て、たくさん話をしたいよ」
 これは───口説いているようにしか見えない。だが非情な兄貴は冷やし中華をもぐもぐしながら、部外者のこちらが鳥肌の立つような科白を聞き流しているのだ。剛胆である。
「だから、イタチ君が転職する気がないなら、俺が転職しようかなって思ったんだけど」
「…あなたが転職するとなると」
 冷やし中華を食べ終わった兄貴はナプキンで口を拭うと、少し首を傾げた。兄貴はラフな格好なのに、そうしていると、今食べたのが高級フレンチみたいに見えるから不思議だ。
「こちらの会社でヒラの社員から始める…ということですか?」
「ン、そうだね。役員待遇なんて望まないよ! イタチ君と一緒にいられればいいだけなんだから」
 ああこの社長は本気で兄貴を口説いているのか。弟の前で兄を。美形が目をキラキラさせてるから絵にはなるが、正直こんな調子でよく社長なんて務まっているなと感心する。
 兄貴は小首を傾げたまま、隣の社長に視線をくれた。クスリ、と小さく笑う。
「でも俺は、『社長』のミナトさんが好きですよ」
 何だって。
 耳を疑ったのは俺だけじゃなかった。ナルトも当の社長も、ぱかんと口を開けて兄貴をまじまじと見つめていた。
「そ…っ、そうかな!」
 社長はもう目ばかりか顔全部がキラッキラに輝いてしまっている。ああこれは「好きですよ」に重点を置いた顔だな、と俺は少々気の毒になった。天然か? 天然なのか?
 さらりと言われてしまったが、これはつまり「ヒラ社員になったらあなたに価値はない」と言っているようなものだ。彼が取引先の『社長』であるからこそ好き、『価値がある』と。気が合うのも仕事の上でのことだったのだろうか。
「イタチ君は、俺が『社長』やってると、好き?」
「ええ。格好良いですよ」
「そ…そう!?」
 そして暗に「転職してこられては困る」と言いたいのだろう。ナルトですら、浮かれる父親を可哀想な目で見ている。
「ね、ナルト、聞いた!? イタチ君、俺のこと好きだって!」
「あ…ウン」
「お前もお父さんが『社長』の方がカッコイイと思う!?」
「ンー、そりゃあ、まあ…」
 たぶんどうでもいいはずのナルトだが、ニコニコと笑う兄貴に合わせた返事をする。次に目を合わせられた俺は、こくこくと頷くしか出来なかった。
「ん! そうだよね! 男ならやっぱり一国一城の主だよね! 俺、『社長』頑張るよ!!」
 屈託のない社長もいたものだ。
 兄貴の両手を握り締めて宣言するのを、今度はナルトも咎めることなど出来なかった。兄貴はと言えば、社長の転職を阻止できたためだろうか、これからもどうぞご贔屓に…などと笑顔で答えていた。
 ああ、なるほど。
 これがいわゆる『営業スマイル』というものなのだろう。働くって大変だな、俺はナルトと目を見合わせて、がっくりと項垂れた。
 

*     *     *

 
 ところが、である。
 初めて社長に出会ったその一年半後、兄貴は「そういえば」と朝食の席で俺に言った。
「ミナトさんなんだが」
「ああ…ナルトの親父さん?」
「今度社長になったんだ」
「…は?」
「うちの会社の」
 何だって?
 兄貴の言ったことが良く理解できなくて、俺は卵を持って振り返ったまま固まった。
 あれから社長はうちに来ることもなく、元々会社のことなどあまり喋らない兄貴だし、俺はあの衝撃をほとんど過去に流していた。ナルトは相変わらずウチに通ってきていたけれど、父親のことは「前よりスゲエ忙しくなった」と言っていて、まあつまり兄貴を構っている余裕がなくなったのだろうと思っていたのだ。
 ただ、兄貴や俺の誕生日にはバースデイカードと花(何故花なんだ)が送られてきているし、クリスマスとニューイヤーのカードも当然届いている。あと、アメリカにはない慣習だろうに、お歳暮とお中元まで届くのだ。これは本来目下であるこちらが贈るのが正しいんだろうが、社長としては兄貴と何か接点が欲しかったのかもしれないな、と思う。
 ナルトから社長の話を聞くにつけ、本当に変わった人なんだと納得した。そしてかなり本気で兄貴を気に入っていることも知った。兄貴は優秀な人間だし、会社を経営する側から見たら是非欲しい人材だろう。それが高じたのだと思えば、あの熱っぽいキラキラしたまなざしも何となく理解できる、かも知れない。チーン、とトースターから食パンが飛び出す。
 いや、だが、何だって?
「社長?」
「ああ。すごいと思わないか」
「スゲエけど。経緯が分からねえ…」
 兄貴の報告がピンポイントすぎて、俺には却ってピンボケだ。
「うちの会社は、本社がアメリカにあるだろう? それが乗っ取りに近い買収話が持ち上がってな。ミナトさんの会社が『白馬の騎士』になってくれた」
「…乗っ取り?」
 俺は怪訝に顔をしかめた。そういう場合の対処は、兄貴は得意なはずなのに。気付いた兄貴が苦笑した。
「俺は担当ではなかったからな」
「それでナルトの親父さんが…?」
「ああ。ちょっと出来すぎだとは思うが」
 兄貴は焼き上がったトーストに手を伸ばすと、マーガリンなしにかじり付いた。ざくり、厚めのトーストが良い音を立てる。
「全部計画されていたにしろ、今回颯爽と現れたにしろ…経営手腕は伊達ではない、ということだろうな」
「…周りが優秀なだけかも知れねえんじゃねえの?」
 たとえば、兄貴のような。
 含みを持たせて言うけれど、兄貴はソツのない笑顔で平然と言った。
「優秀な人材を最適な場所で使いこなしてこそ、経営者と言うものだよ」
「ああ…なるほど」
 つまり、前のおカマ社長は、兄貴を上手く使えなかったせいで失脚の憂き目に遭ったということか。
「なあ、兄貴」
 それはそれとして、俺は今まで何となく恐くて訊けなかったことを口にした。
「兄貴は…ナルトの親父さんのこと、どう思ってんだ」
「どうとは? 好きだよ?」
「…好きって。あのさ、あの人…なんかヤバくねえの?」
「何故。面白い人だろう?」
「…」
 あっけらかんと言い放つ兄貴は、どこまで本気で言っているのか、弟である俺にも良く分からない。人間として『好き』なのか、俺の心配する恋愛的な『好き』なのか、はたまた行動観察的に興味のある『好き』なのか。トーストを平らげる兄貴はいつもと全く違いはない。
 だが、ここで訊けないならこの先一生確認できないままだろう。俺は腹を括ると卵を放り出した。
「たとえばだけど、社長が兄貴に迫ってきたとしたら、兄貴はどうすんだよ」
「迫る?」
「押し倒したり、その、クソ! ホモだったらどうすんだって聞いてんだよ!」
「ホモ」
 兄貴はぽかんと俺を見上げた。
 目をぱちくりさせて、もう一度「ホモ…」と呟いて、パンくずの散る皿を見つめる。
 え、何だその反応は。
「…サスケ。彼はその…同性愛者だと、思うか…?」
「少なくともノーマルとは言い難い」
「…決めつけるのは、失礼にあたらないか?」
「いや、兄貴。普通の男は男の家を訪ねる時にバラの花束は持ってこない」
 それがたとえヘッドハントしようとしている相手であろうとも、だ。兄貴は衝撃を受けたように、口をぱくぱくさせた。
 そんな兄貴を見るのは初めてだ。
「…サスケ。どうしよう」
「え?」
 兄貴に相談されるなんてことも初めてだ。
「…兄は社長にキスされました」
「はァ!?」
 俺は目を剥いた。
 兄貴は目眩を押さえるように、指先で額を支えている。
「いや、口にではなくてだな…頬とか髪とかこめかみとか手とか」
「…あ…兄貴、おかしいと思わなかったのかよ…!?」
「いや、二人きりじゃなくて人前でのことだったし、アメリカ人はキスは挨拶だと言うし…」
「兄貴…」
 俺は貧血でも起こしたみたいにふらついた。
「なあ、兄貴。今まで会った本社の人間に、そういうことをしたアメリカ人はいたか…?」
「…」
 そんなもの、思い返すまでもなく、皆無だったのだろう。兄貴はふるふると首を振った。俺は兄貴に対するイメージが塗り替えられた。
 全てに完璧であると思っていた。
 全てを達観し、物事を見通し、それでも出しゃばらず、しかしやるべきことはやる。いや、完璧であることには変わりない。兄貴の時折見せるボケが、実は計算ではなく天然だったのかも知れない、ということだ。
 逆に、ナルトの親父さんは明け透けな天然ボケの人かと思えば、兄貴が賞賛するように実にやり手の経営者だ。あの天然ぶりは、もしかしたら、計算の上のことなのかも知れない。
 ああ、世界は広い。
「兄貴」
 俺はどうしたらいいだろう。俺はナルトが好きで、ナルトの親父さんは兄貴が好きだ。ナルトは俺のことを好きだと言い、兄貴はナルトの親父さんを好きだと言ってしまっている。相思相愛が二組だ、と言えるならどんなに簡単だろう。ことはそう単純ではない。
「兄貴…?」
 コーヒーを差し出しても気付かない兄貴を覗き込む。俺はそれを後悔した。兄貴の目が、何故か、キラキラしていた。

 ああ、ことは、結構単純なのかも知れない。