春立ちて

 彼の生まれは日本ではない。東欧の小国の出身で、親戚の伝を頼って日本に来ていた。金髪碧眼の容貌は日本では人目を引いた。
 名をリオン・ヴィルベルという。
 彼は人を捜していて、それは日本でこそ見つかるのではないかという、仄かな期待を抱いていた。

  春立ちて

 物心つく頃、彼は既に自分が何者であったかを明確に意識できていた。いわゆる前世の記憶である。幼い脳が機能し始めて、持っていたその前世の記憶を理解したのだ。己の小さな掌を見つめて泣く我が子を、両親は持て余し気味だった。それを察した彼は、前生についてを誰にも話さなくなり、人前では快活にふるまうようになった。
 前生は前生であり、今生は今生である。
 昔がどうあれ、今の彼はリオン・ヴィルベルだ。一人の人間を愛した記憶があろうとも、戦い、老いて死んだ記憶があろうとも、リオン・ヴィルベルの人生には関わりのないことだった。
 殆どの記憶を、それでも彼は忘れることが出来なかった。やがて成人し、教職に就いてもなお、記憶と思いは薄れることなどなかったのだ。政情の不安定な国、両親は彼が成人するのと同時に、親類のいるドイツに移り住んでいた。彼がこの国にいなければならない理由はなかった。遠い親戚が日本にいると知り、もしかすると運命なのか、と彼は思った。
 はっきりと「愛したひとを捜そう」と意識した訳ではなかった。彼が前生で愛した人間は、恐らく日本人で間違いはない。懐かしさを追っただけで、出会えるなどとは思わなかった。己がリオン・ヴィルベルであり、前世の記憶はあっても、現在の人生とは関係はないと理解していた。無論、捜す相手も存在しているのなら同様だ。お互いに今生を生きている。
 日本行きは特に問題なく運び、彼は関東の私立中学で英語教師としての職を得た。母国語は英語ではなかったが、もともと英語の教師だったのだ。日本語は、学び始めた途端に理解した。前生の影響だ、とその時はっきりと彼は感じた。
 親からも母国からも離れた彼は、無理に快活にふるまう必要はなくなっていた。周囲からは、彼は実年齢より落ち着いて見えた。それもそのはず、彼は年老いた記憶を持っているのだ。だが体が若ければ、精神も若返る。彼自身はそう感じていたが、殊に日本では『外国人』の外見年齢は実年齢を上回って見えるものだ。彼は「こう見えてもまだ若いんです」と笑い飛ばしたが、彼の母国が不安定であるがゆえと思われることがしばしばだった。苦労が透けて見えるのだろうか、と少々心配するほどだった。その『苦労』が前生のものであるのか、リオン・ヴィルベルのものであるのか、彼に判断は付かなかった。
 時々不思議に思うのが、その記憶のありようだった。
 前世の記憶を持つという人々の話を集めた本を読み、それは深まった。覚えている、という人々。それはあくまでも『前世』であるのだ。出来事、ものごと、感じたこと、思ったこと。それらは全て、自分が前に生きていた頃のことだと、彼らは理解しているのだ。
 リオン・ヴィルベルにはそれがない。
 前生からの延長線上に自分がいる、と感じている。それは大胆な言い方をすれば、一人の人間の生だった。
 もちろん、自分が誰の子として生まれ、どこで育ったかということは理解している。言葉では、前生は今生とは違うのだと言い切ることが出来るし、前生を引きずることなど無意味だとも思える。生きる時代も土地も背景も違う。言うなれば別の世界の話、おとぎ話と大差ない。だからこそ、前生では考えられなかった教職にも就くことが出来た。
 だが、言いようのない孤独感は絶えず付きまとった。リオン・ヴィルベルには友人がいる。母国にも日本にもいる。なのに、彼はどうしようもなく孤独だった。両親は確かに血が繋がっているというのに、それはリオン・ヴィルベルの繋がりであって、彼からすれば借り物のようだった。名を偽ってそこへ侵入している気すらした。
 鏡を見る。
 通常、前世は人によって様々だ。今は女性でも前世は男性だったとか、今は白人でも前世は黒人だったとか。つまり顔かたちは前生と今生では違うのが当たり前なのだろう。だが、鏡に映るリオン・ヴィルベルは驚くほど前生を引きずっていた。金髪、碧眼、その面立ち。伸び悩んだ身長。トレードマークだった両頬の三本傷がないだけ、という気もする。
 前世の記憶について、彼は幼い頃に口を噤んで以来、一切を誰にも明かしていなかった。ゆえに、誰にも相談などはしていない。生まれた時に教会で洗礼は受けたが、自分がキリスト者である気はしなかったので、牧師に打ち明けることもなかった。だが、お陰で前生の記憶を心の病だと変に疑うこともなかった。
 前世の記憶などではない。
 これは己の過去の記憶なのだ。
 自分が何故この時代に生まれたのかは分からない。だがそれは、彼にとって老いた自分の続きなのだ。彼が積極的にかつての仲間を捜さなかったのは、同じ時代に生まれているとは限らないと思ったせいだった。しかも、自分は偶然にも似たような容貌で生まれたが、他の彼らまでそうとは限らない。一見して分からないのであれば困難だ。
 それでも、縁あって日本へ来て、かつて愛したひとがいるのではないかと思うと、叫びだしてしまいそうだった。
 いるのなら──会いたい。
 そのひとを思うたび、胸が苦しくなった。体の中で激情が溢れ、行き場を失い、涙がこぼれた。
 かつて、などではない。
 今も変わらず愛しているのだ。
 不器用な生き方しか知らないひとだった。激しくぶつかりあい、情は交わしたけれど、とどまってはくれなかった。
 そのひとが今、この世に生きている確率はどれほどだと言うのだろう? 殆ど『いない』と言って間違いないのだ。だが彼は、日本にとどまり続けた。あのひとの魂に近い場所で死にたいと思っていた。
 いないだろう、と思っていても、黒髪を見ればついあの面影を捜す。新しい教室に入る時にはつい一人一人をじっと見つめる。それは『捜す』というよりは、いないということを確認する作業だった。
 彼が日本へ来て五年も過ぎた頃、彼の母国では軍事クーデターが発生し、政情は更に悪化した。彼は帰るに帰れなくなり、やはり日本に縁があったのだと奇妙にも納得した。旅券が無効になった彼は、難民申請が受け付けられ、日本在住の権利を得た。彼は周囲からそれを慰められたが、愛するひとを失うこと以上の悲劇ではなかった。
 だが、そうなって初めて、彼は逃げ場を失った。
 愛するひとがいたであろう国で、彼は一人だったのだ。気にかけてくれる女性も皆無ではなかったが、彼にとってそれは一時の慰めに過ぎなかった。彼が愛するのは、今も一人だったのだ。
 だが、そのひとはいない。
 彼は孤独だった。年月ばかりが過ぎ去っていった。彼は与えられた生を忠実に消費するだけだった。

 そして、春。
 彼が日本へ来て十年が過ぎた、春だった。

 中学の正門で、登校する生徒を迎える彼の前に、少女が現れた。肩に届く黒髪、艶やかな黒い瞳。小さな肩、真新しい鞄と制服。
 挑むように見上げられて、彼は呼吸を忘れた。

*     *     *


 彼女の姿は、ずいぶん遠くにある時から目に入っていた。彼女は彼だけをまっすぐに見つめながら歩いていた。おはようございます、おはよう、通り過ぎる生徒たちに辛うじて挨拶を返す。だが彼女が近付くにつれ、それは不可能になった。黒々とした宝玉のような瞳はまばたくたびに潤んで輝いた。生意気そうな唇は小さく笑んでいた。その歩調は決して揺らがず急くことはなく、しかし確実に彼に近付くのを歓喜していた。
 はらり、と何かが目の前を過ぎ去った。
 桜の花弁だった。
 ああ、桜が咲いていたのだ。正門の通りは八重桜の並木だった。そうだ、桜は咲いていたのだ。ずっと咲いていて、今、散っているのだ。彼はそれらを見過ごしていた。ふわりと彼女の肩を撫でるように舞い落ちる桜に見とれた。ああ、世界はそんな色をしていたのだ。不意に視界が歪んだ。体の中に溢れたものが、雫となって目から落ちた。
(お前なのか)
 そこにいるのは、お前なのか。
 彼は涙を振り払うことも忘れて、ひたと彼女を見つめていた。登校する生徒たちは驚いたように彼を見上げては通り過ぎていった。
(お前なのか)
 以前の面影は確かにある。
 だが、少女だった。
 少年ではなかった。
 彼の愛したひとは男だったが、そこにいるのは少女だった。だが、何の確証もないというのに、彼にはそれが愛するひとだと理解できた。魂の寄り添うようにただ感じた。
 同時に、彼は諦めた。
 セーラー服の校章の色は、彼女が新一年生であることを示していた。新一年生、つまり12歳だ。比べて、自分はどうか。27歳で来日し、今年で十年、37歳だった。彼は笑った。出会えただけでも奇跡だった。彼女はそこに存在し、虚ろだった彼を満たしてくれた。
 彼女は静かに彼の目の前で立ち止まった。
 ああ何て小さいのだろう。触れることさえ叶わない。きっと彼女は今生を生きている。
「ずいぶん待たせたようだな」
 鈴を振ったような声が、懐かしい響きで彼の耳に届いた。彼はただ笑った。それだけで充分だと彼は思った。
「あと六年、待てるか?」
 彼女は声ばかりは可憐に、しかし不遜に言った。
「ろく、ねん……?」
「ああ。俺が高校卒業するまで」
 生意気そうにニコリと笑って、彼女は小さく首を傾げてみせた。
 ああ! 一体どれほどの時間を待ったと思っているのだろう。どれほど思い、どれほど泣き、その面影を捜しただろう。いつしか、いないのだという確認にすり替わってしまうほど長い年月を。彼は笑った。
「しょーがねえから、待ってやるってばよ」
 そう返すと、彼女は初めて、ほっとしたような吐息を漏らした。涙を拭う仕草で彼はそれを見なかったふりをした。ああ彼女も同じだったのかも知れない。
 幼い彼女は、この先どんな人生を送るのだろう。そこにはたぶん自分はいない。高校卒業までの六年間は、子供には途方もなく長い年月なのだ。前生の記憶などより優先すべきことが山積みで、恐らく幼い恋もするだろう。彼は自分が彼女の良き相談者となる姿が想像できた。縛ることは出来ない。だが、前生の思いを否定されることの恐怖を、彼は知っている。彼女の寄る辺になれればそれでいい、と彼は思った。小さな約束で前を向いて生きられるならそれでいい、と彼は思った。

 少女の名は仰木小夜子といった。
 彼の受け持ちは三年生で、彼女との接点はないままだった。
 学年が違えば校舎も違う。彼女は積極的に接触を図ろうとはせず、彼もまた同様だった。時折職員室の前でゆき交う程度で、その時ほんの数秒目を合わせるのが関の山だった。だがお互いそれで充分なのだと感じていた。彼がそこにいる、彼女がそこにいる、ただそれを確認できるだけで良かった。とうとう三年間、彼らは話をすることも、もちろん触れ合うこともなかった。自分がここに存在していることが彼女の支えになったのだと彼は思った。彼女と二度目に口をきいたのは、彼女の卒業式の日だった。
「高校卒業したら迎えに来る」
 まだ寒い三月、コートも着ていない彼女が卒業証書を胸に抱いて言った。この三年間でずいぶん背が伸びた。声も少し大人びて聞こえる。
「……うん」
 なんだかプロポーズのようだなと彼は笑った。夢でも見ているようだと可笑しかった。
「結婚しよう」
「うん……?」
 なんだかプロポーズのようだなと。
 いや、それは。
 彼は目を剥いた。
「結婚!?」
「今『うん』って言ったよな」
「言ったけど!!」
 彼女は当然だとでも言うように「ハンコ用意しとけよ」と、口の端に笑みを乗せて彼に背を向けた。ふわりとスカートが風を孕んで、彼の口から言葉を奪った。とても現実とは思えなかった。

 それからの三年間は長かった。いや、過ぎてしまえば早いのだ。だがただの一度も連絡のない彼女に、ようやく今生を生きる道を見つけたのかも知れないと思えば、それもまた彼にとっては幸福に違いない。彼女はこの世に存在していたのだ。この世に自分一人ではなかったのだ。出会えたのは運が良かった。彼女もそう思って今を生きているのかも知れないのだ。
 考えてみれば、お互いに連絡先を教えあうこともしていない。言うなれば口約束だ。心の拠り所になりはしても、現実的な約束ではなかった。それを思って彼は時々可笑しくなった。それを支えに生きているのは自分の方だ。どうしても手に入れたいなら、かつてのように追えばいい。それをしないだけの分別がついてしまった。リオン・ヴィルベルは43歳になっていた。親子ほども年の離れた男が望んでいいことではなかった。彼女の幸福を祈ればいいのだ。彼女の付き合う男に多少の難癖をつけて、のちに認めてやればいいのだ、父親のように。
 だが、彼は甘かった。
 彼女は言葉通り、小雪の舞い散る中、彼を迎えにやってきた。

*     *     *


「行こう」
 一日を終えて、生徒たちより遅く正門を出た時、聞き覚えのある澄んだ声が彼を呼び止めた。見慣れない制服の彼女がショートコートを羽織って、卒業証書の入った筒と薄い鞄を手に、そこに立っていた。ああ、高校の卒業式は中学のそれより早いのか。暗い空、だが舞う小雪に、出会った日を思い出す。彼は笑った。
 彼女は、来てしまった。
 こんな幸福があっていいのだろうか。
 彼は彼女に傘を差しかけた。
 当然のように肩を並べて歩く彼女を横から見下ろして、彼は知らずため息が出た。ああ、綺麗になった。いや、昔から綺麗だった。昔は、そんなところには関心がなかったのだ。不意に、夢を見ている気分になった。年老いたあの頃の自分が、死の間際に幸福な夢を見ているような。ああ、それでもいい。今リオン・ヴィルベルの生涯が終わっても構わない。だが、リオン・ヴィルベルの波乱に満ちた生涯はここから始まると言って過言ではなかったのだ。
「ここだ」
「……ここって」
「俺ん家」
 見れば分かる。堂々たる門構え、艶やかに磨かれた表札には『仰木』と彫られている。右を見る。延々続く屋根付きの塀。左を見る。同様に続く塀。手入れの行き届いた松が見える。電車と徒歩で辿り着いた先にあったもの、それが仰木邸だった。
 カラカラと引き戸を引いて踏み入る彼女に続いて、彼も敷地へ入った。純然とした日本庭園、小雪に濡れる敷石の続く先には、文化財のような屋敷が待ち構えていた。
「……お前、名家に生まれる運命な訳?」
「名家ってほどの名家でもねえよ」
 ただ古いだけだ、彼女はつまらなさそうに言うと玄関を開けた。
 広い。
 とにもかくにも、それが第一印象だった。
 通された広い部屋で待っていると、彼女がお茶を入れて持ってきた。
「父さんたち、すぐ来るから」
「……あのさ、もしかして、これってさ……」
 いわゆる『顔合わせ』ではないのか。そう訊こうとした時、荒い足音が近付いて、彼は観念した。座布団を降り畳に正座する。スパンと障子戸が開くと、存外冷静な顔が彼を見下ろした。

「初めまして、リオン・ヴィルベルです」
「……こちらこそ。小夜子の父の富岳です。これは妻の美琴」
 富岳に続いて入ってきた美琴がたおやかに一礼した。座布団を勧められ、彼が座り直すと、その隣に彼女が楚々と座った。
 富岳に年老いた印象はなく、美琴に至っては小夜子の姉と言っても通用しそうだ。
「父さん、母さん。彼は私の通っていた中学の、英語の先生なの」
 彼女は『小夜子』の口調で澄まして言った。
「私、ヴィルベル先生と結婚します」
 結婚したいの、ですらない。両親に許可を求める訳でもなく、それは宣言に過ぎなかった。彼を含めた三人が、あぜんと彼女を見た。ごほん、と咳払いが聞こえた。
「……ヴィルベル、先生」
「はい……」
 低い声は、当然と言えば当然だが、怒気を含んでいる。
「先生は、小夜子とは……中学で知り合ったということですか」
「はい」
「中学生を誑かすとは、とても教育者とは思えませんな」
「いえ、あの……」
 彼は焦った。彼はどちらかと言えば彼女の父親と近い年齢なのだ。娘の父親としては当然の反応だろう。だが、彼が焦ったのは富岳の科白にではなかった。隣から、すさまじい殺気を感じたせいだった。
「父さん」
 声だけは怜悧に父を呼ぶ。
「先生は私に指一本触れてはいない。言葉を交わしたのも、入学してすぐの時と卒業式の時の二度だけよ」
 そう、そして今日が三度目だ。別の意味であぜんとした富岳と美琴が彼女を見た。運命なの、と言って彼女は胸ポケットから生徒手帳を出した。そこから、丁寧に折り畳まれた紙を広げ、机上に置く。何だ? 彼も両親と一緒になってそれを覗き込んだ。
 黄ばんだ紙は、古い新聞の切り抜きだった。彼には見覚えがあった。『祖国燃ゆ』という見出しの地方記事、写真には、彼の姿が写っていた。
「……これは……あの時の」
 そう呟いたのは富岳だった。はっとしたようにそれを手に取り、英語教師の境遇と名前に、写真と彼を見比べた。
「お前、まさか、この男がいるからという理由であの中学を」
 彼女は澄まして「理由の大半はそうでした」と言い放った。
「これを見た時、これが私の夫になるべき人だと思ったので」
 察するに、あの中学を受験する理由にこの記事を彼らに見せたのだろう。どう説得したのかは定かではないが、ここから決して近くはないあの中学へ、彼女は来た。
(偶然じゃ、なかった、のか)
 出会ったのは偶然ではなかった。不意に涙がこみ上げた。昔より涙腺が弱い気がする。嗚咽を堪えて口を覆う。
「お前、が……」
 小夜子の両親の前だというのに、彼は彼女を「お前」と呼んだ。
「お前が、俺を、見つけて……くれたのか」
 彼女はそっと笑った。
 無駄ではなかった。今生に生まれたことも、日本に来たことも。この記事が出たのは彼が32歳の時のことだ。彼が日本に留まることが出来るよう尽力してくれた日本人たちの顔が思い浮かぶ。
 彼女は膝で立つと、その胸に彼を抱いた。彼は細い腰を抱き返し、幸福に臆面もなく泣いた。
「結婚しよう」
 三年前と同じ科白に、彼は頷いた。
「お前を大統領にしてやる」
 頷きかけて、彼は聞き咎め顔を上げた。ハンカチで涙を拭われながら、彼女を見上げる。
 何だって?
 彼女はにっこりと見返し、両親を振り返った。
「父さん、母さん。小夜子はこの人を祖国の大統領にしてみせます」
 彼は彼女に抱きついたまま、ぽかんと彼女の両親を見遣った。口を開けたままの富岳と目が合った。じゃあ小夜子は大統領夫人ね、美琴がのんびりと呟いた。婚姻届はその日の五時ぎりぎりに区役所へ持ち込まれた。


 彼が妻を伴って祖国へ帰るのは、その凡そ五年後。政治家となり政党を旗揚げし、軍部から政権を奪取するのが更に十年後。その頃の彼は実年齢より若く見え、隣に立つ妻に見劣りすることはなかったという。
「でもさ、何で『大統領』だった訳?」
「お前が教師ってガラかよ。それより、何か『火影になる』みてえなでかい目標があった方が、お前らしいだろ」
「ふうん……」
 彼の秘書でありボディーガードでもあるファーストレディは、いたずらに肩を竦めてみせた。