春立ちて・小夜子編

 彼女は物心ついてしばらくしても尚、自分が女であるということを理解できなかった。それよりも、終わったと思ったはずの人生が続いている不思議の方が重要だったのだ。小さな体は当然昔の己とは別のものだ。名前も違えば家族も違う。
「……兄さん」
 ある日、五歳年上の姉の膝で眠ってしまった午後。
 いつもは『お姉ちゃん』と呼んでいたものを、寝ぼけてそう呟いた。自分の声の幼さに我に返り、はっとして口を押さえて飛び起きる。違う、これは、兄ではない。
 だが姉は、
「何だ、お前も覚えているのか」
 と言って、額を指先で突つくのだ──。

  春立ちて・小夜子編

 幸運だったのだ、と彼女は思った。
 かつて兄だった人と、再び兄弟に生まれた。何故だか揃って性別が女なので、兄弟ではなく姉妹と言うべきだろうか。両親は、名に聞き覚えはあるが、どうやらかつての両親とは別人だ。古い家は昔を思い起こさせるが、それとて血塗られている訳ではない。ただ古いだけだ。
 かつての記憶、恐らく前世の記憶と言って差し支えないのであろうそれは、ずっと自分一人が持ち得たものだと思っていた。周囲に前世の記憶があるなどという人間は見かけない。特殊な血を持ったがゆえの因縁だろうか、と思っていたのだ。全てを忘れ、新しい人間としてやり直すことも許されないのだ、と。業を背負ったまま仰木小夜子の人生を担わなければならないのだ、と。
 だが、兄がいた。
 兄の年齢を超えてから人生を終えたが、兄は変わらず兄だった。彼女は五歳の時に、姉の涼子がかつての兄だったと知ったのだ。以来、二人きりの時にはかつての口振りで話した。それは彼女にとって、心のバランスを取るには必要な時間となった。
「兄さんは、怖くなかった?」
「何がだ?」
「俺より五年も前に生まれただろ。全部覚えてるまま、女に生まれて、変だと思わなかった?」
「いや、別に。ただ……俺が生まれたということは、お前も生まれるのではないかとは思ったな。同じ女だといいな、とか」
「に……兄さんの呪いかよ……」
 前生で、戦った末の結末を兄は何も言わなかった。自分を憎ませる方向へ弟を導いたその原因を、既に知られていると悟ったせいだろう、と小夜子は思う。
 自分は赦されている。
 あの戦いで憎しみをぶつけたことを謝れば、恐らくは兄の方こそ謝るだろう。でなければ「何のことだ?」としらを切り、また突き放す素振りすら見せるかも知れない。それが嫌で、彼女はそのことには触れなかった。涼子もまた、それを話題にすることはなかった。過ぎ去ったことなのだ、とは思えない。だが、兄弟の間にはもはや蟠りはなくなっていた。
「俺たちは幸せをやり直せばいいんだ」
「兄さん……?」
 明るく、どこか思慮深い顔が笑うのを見て、彼女はほっとするのだ。もう憎まなくてもいいのだ、と。

 前生そのままの心で生きることは困難だった。何と言ってもまだ幼い少女が、乱暴な口を利けば窘められる。彼女は涼子に倣って、女の振る舞いを覚えていった。子供たちの輪の中にどうしても入る気になれなくても、黙って楚々としていれば大人たちから文句は出ないのだ。態度を繕うことは、忍の任務にも通じるところがある。彼女はそう思うことで幼稚園という場所を乗り切った。
 小学校に上がると、彼女は武道の名の付くものを片端から始めた。既に涼子が始めていたので、姉の影響だろうと思われただけで済んだのは幸いだ。体を動かしている間は、自分が小夜子であることを忘れられた。勉強は好きではなかったが、涼子が教えてくれるのが嬉しくて楽しかった。
 小学二年になったばかりの頃だった。
 スクラップをする涼子より前に、新聞に目を通していた時だった。
「兄さん!」
 それは地方記事だった。
「ナルトがいる……!」

 それは、ナルト、だった。

 手が震えて新聞に皺を作る。『祖国燃ゆ』という見出しに、大勢の日本人に囲まれた男の写真が大きく載っていた。どこか虚ろな瞳はカメラの方を見てはいない。リオン・ヴィルベル(32)という注釈に愕然とする。その下には彼の授業風景と思しき小さな写真、彼はこの日本で英語教師をしているのだ。小夜子は自分の眉間が寄っていることに気付かなかった。
 32歳?
 彼女は小学二年生になったばかりで、まだ七歳だった。
 英語教師?
 あのドベのウスラトンカチが教師だって?
「ああ……本当だ。ナルト君だね、これは」
 彼女の手元を覗き込んだ涼子は、大して驚いたふうもなく呟いた。
「兄さん……」
 言葉が続かなかった。
 兄に打ち明けられる話ではなかった。前生で、自分がナルトと深い仲だったのだとは。
 そのナルトが今生で、同じ時間の中に存在している。漣のようにざわざわと、心の内に何かが広がって彼女を満たした。兄と再会したことで落ち着きを見せていた心が、再びざわめき立っていた。兄と出会えたこと自体が僥倖だったというのに、その上ナルトまで。
 だが、彼の方は彼女より四半世紀も前に生まれ、リオン・ヴィルベルとして生きていた。ここではないどこかを見つめるような目は、祖国へ向けられているのか、それとも。
「この中学、行こうと思えば行けるんじゃないか?」
「……え?」
「電車通学だろうけどな」
 兄の言葉に、彼女は再び食い入るように写真を見つめる。そうだ、これは地方記事、彼女の住む地域の記事なのだ。それでも、通える距離だというのは奇跡と言っていいだろう。
 彼女は一瞬何かを期待し、そして諦めた。
「……別に、会いたい訳じゃ……ねえし」
 32歳だ。
 女の一人や二人はいてもおかしくない。実際、前生では彼は年を重ねるごとに人気が増した。今生で祖国が軍事政権となったことで、彼は帰る国をなくしている。その不幸を慰める女が一人もいないとは考えられない。そこへのこのこと25歳も年下の子供が現れたとて、相手にもして貰えないだろう。この中学へ進学して、教え子となるのであれば尚更だ。
 それに──。
 彼の方も、覚えているとは限らない。
 自分が覚えているからといって、彼まで前生の記憶を持っているのか分からない。いや、覚えていなくとも構わないのだ。たとえ覚えていても、再び強烈な絆を結べるとは限らない。それならいっそ覚えていない方が諦めもつく。かつて自分を諦めることなく追い続けた男であっても、生を跨いでまで捕らわれることはない。万が一今生でも追うと言うのであれば、それこそ突き放してやるのが優しさと言える年齢差でもある。
「何だ、会いたくはないのか」
 心の読めない笑顔で、涼子は小夜子を覗き込む。
「あいつが、俺のことを覚えてるか、分かんねえし」
「会ってみれば分かるんじゃないか?」
「……このナリで、かよ」
 悔しくて唇を噛む。
 彼は再び男に生まれた、なのに自分は女、それもまだ七歳という少女だ。どう思ったのか、兄は朗らかに言い放った。
「お嫁さんにして貰えばいいじゃないか」
「……は?」

 兄の思考についてゆけずに──彼女はぽかんと口を開けたまま見返した。

 お嫁さん?
 一瞬にして血の気が引く。ナルトとのことは兄には一度も言ったことはないし、匂わせたこともない。
「だって、せっかく女に生まれたんだし」
「……え?」
 楽しそうに新聞を見つめる兄が、ちらりと意味ありげに視線を寄越す。
「いい男だと思うがな」
「……冗談ならやめてくれよ、兄さん……」
「別に冗談ではないぞ」
 彼女は苦々しげに笑ってみせようとしたが、それは口元を歪ませただけだった。
「だ……大体、32だろ。もう結婚してるかも知れねえし、してなくても、女……いるんじゃねえの……」
「何だ、そんなことを気にしていたのか。別れてもらえば済む話だろう?」
「……」
 実に合理的かつ利己的な科白に、彼女は絶句した。
 確かに、別れる男女はいるし離婚する夫婦もいる。だが、他人の幸福を押し退けてまで手に入れるべきものだろうか、とも思う。
 いや、だが。
 前生であったなら確実に身を引いた。自分がナルトと同じく男だったからだ。
 今はどうだ。
 引くべき理由は年齢差以外には何もない。
「お前にその気がないなら、俺がお嫁さんになろうかな」
「は……!?」
 黙った彼女に何を思ったのか、兄は実にさらりと言ってのけた。
「お前よりは俺の方が年も近いし」
「な……なな何言ってんだ兄さん! だだ大体20歳差も25歳差も大して変わらねえし!」
「何だ、乗り気なのか」
「……」
 からかわれた──様子でもなかった。
 兄は『将来の夢』を語るより現実的に、ナルトとの未来を捉えているのだ、と彼女は思った。
「……兄さん、俺がなる」
「そうか」
 自分が「なる」と言わなければ、涼子がリオン・ヴィルベルと結婚してしまう。不言実行の兄は有言するなら確実に実行がモットーだ。そうなったら彼女には太刀打ちできる気がしない。
 なる、と言ってしまってから、彼女の心臓は早くなり始めた。
 お嫁さん、ということは、結婚なのだ。
 前生では考えも及ばなかったことだ。手が震える。なる、と言ったは良いものの、具体的にどうしたらいいのかが全く分からない。何しろ彼女は七歳なのだ。
「なら、まずは勉強だな」
「え、何で?」
 興奮に震える手から新聞を奪った兄が、記事の中の私立中学を指さす。
「この中学に入ろう」
「え、兄さんが?」
「ばか、お前だ。ここは有名校だからな、今から頑張ろう」
「……うん」
 掌が熱い。熱くて湿っている。
 視界いっぱいに、あの金髪の笑顔が浮かぶ。清濁を併せ飲んでなお屈託なく笑う顔、自分だけに向けられる色めいたまなざし。兄の細い指先が辿る先を目で追いながら、彼女は何も考えられなかった。
「あとは……受験勉強以外にも、ドイツ語・ロシア語・英語を覚えないとな」
「え、どうして……」
 唐突な三ヶ国語に現実に引き戻され、怖じ気付く。
「彼の母国語はドイツ語だ。旧ソ連の国に隣接していて、ロシア語も第二言語だったはず……。英語は、ほら、彼の担当教科だから」
「……それ、どうしても覚えないと……?」
「サスケ。もし彼と祖国へ帰ることになったらどうするんだ? 喋れないと苦労するぞ」
「いや、そうかも知れないけど……この国は軍事クーデターが……」
「治まるかも知れないし、もしかしたら彼が治めてしまうかも知れないじゃないか。ナルト君は火影になるって言っていた子だし」
「……そう、だけど」
「それにな、こっちの方が重要かも知れないが……。目の前で、知らない言葉で愚痴を言われたり内緒話をされても分からないのは、妻としてどうかと思うぞ」
「……やる」
 うまく乗せられた気もするが、兄の言うことはいちいち尤もだった。
 それに、あのナルトに出来てこの自分に出来ないなど、癪にさわるというものだ。そして、ナルトは火影にまで上り詰めた男だ。現在は教職の彼が、いつまでも精彩を欠いた顔でおとなしくしているとは思えない。
「……兄さん」
「何だ?」
「ナルト、政治家とか……なれねえかな……」
 政治家? と兄は可憐な12歳の少女の目をまばたかせた。そうだ、この兄は、もしかしたら彼が治めてしまうかも知れないと言ったではないか。
「なるほど。政権奪取か」
 兄の目が生き生きと煌めいた。
「なれないことはない。不安ならお前も手助けしてやればいい。忙しくなるな、サスケ」
「……望むところだ」
 詰まるところ、目標があれば頑張りようもあるということだ。ナルトへ向かう心が彼女を突き動かすのだ。
 ナルトが過去を覚えているかどうかは、会えば分かる。そしてそれは重要ではない。年齢差など関係ない。女がいるかどうかも問題ではない。過去を覚えているのなら、話が多少早いだけだ。
 中学入学まで、あと五年。
 仰木小夜子は脇目も振らずに武道と勉学に明け暮れた。


 少し遠い私立中学に行きたいという希望だったが、両親は少々渋った末に承諾した。努力の成果は如実に表れ、彼女の成績は全国でもトップレベルとなっていた。それは兄の協力なしには成し得なかった成果であると、彼女は思った。
 だが、晴れて入学した日、列席する学年担当教諭陣の中にリオン・ヴィルベルの姿はなかった。少なからず落胆する心を押し隠した。何故なら、彼はこの学校を去ってはいない。
 焦ってはいけない。
 五年も耐えた。
 彼はここにいるのだ。
 そして、彼女は大きなチャンスがあることを知った。この学校では、生徒の登校時に正門で教諭が出迎えてくれる。それは厳格なこの私立校の、身だしなみや素行のチェックも兼ねている。そしてその担当は、ローテーションで全ての教諭に回ってくるのだ。
 校内で出会う可能性は低くとも、登校時にいずれ必ず出会えるのだ。

 そして、それは意外に早く訪れた。

 入学して三日目のことだった。
 まだ桜は咲き残っていて、はらはらと散り始めた頃だった。駅からの長い道のりを歩いた、一体どの辺りから気付いただろう。学校の塀沿いの道に入ってすぐだろうか。正門の前に、生徒たちより頭ひとつ身長の高い、その頭が──金色だった。
 ああ!
 彼女は飛び上がりそうだった。
 彼女は走り出してしまいそうだった。
 金髪に桜の花弁が引っかかっている。
 ああ!
 駄目だ、落ち着かなくてはいけない。
 彼は覚えていないかも知れないのだ。
 覚えているのなら余計に、会えて嬉しい素振りなど見せてはいけない。勝ち負けと言う気はないが、つけあがると手に負えないのが彼だった。いや、何より、37歳と12歳──教師と中学一年生なのだ。抱き合うどころか、下手に触れることすら危険を孕む。厳しいことで有名なこの学校なら、不穏な噂だけでも退職・退学に追い込まれかねない。
 ああ!
 だから、彼女は出来るだけ、平静に再会しなければならないのだ!
 目が合った。
 緊張を悟られてはならない。
 青い目が、あの日新聞記事で見た写真のように、どこか別のものを見ていた。見開かれたりはしていない。何度かまばたいて、通り過ぎる生徒たちに朝の挨拶を返す。そしてすぐにこちらを見る。
 気付いている。
 見つめるその青が不意に潤んだ。
 ああ、彼は、小夜子を見ているのではないと彼女は気付いた。かつての自分、うちはサスケを見ているのだ、と。彼は錆びて動かなくなった機械のように、ただじっと彼女が近付くのを見守っていた。ほろほろと溢れ出す綺麗な水滴は、精悍と言って差し支えないその頬を伝い落ちる。彼はもはや生徒たちへの挨拶など頭から抜け落ちていた。
(ああ、お前、)
 覚えている。
 俺を覚えているんだな。そしてこの少女が俺だと分かるんだな。薄く開かれた唇が僅かに動く。ああ俺にも分かる。お前、今、俺の名を呼んだんだろう。心臓を直接掴まれたように胸が痛んだ。お前は俺を捜していたのか。ずっとずっと捜していたのか。この世に生まれて37年、俺を捜していたのか。
 彼の前で立ち止まる。
 見上げて、己の小ささを知る。
 何もかもが、足りない、彼には届かない。
 彼を手に入れるには、今度こそ彼を手に入れるには、まだ時間が必要なのだ。
「……ずいぶん待たせたようだな」
 かつてと同じように言ったつもりが、この口から出るのは少女の幼い声。だが、彼はゆっくりと笑んだ。慈しむようなそれは、確かに、自分に向けられていた。
 ああ、本当に。
 ずいぶんと待たせてしまったのだ。
(お前、そんな早く、生まれるから)
 ああ、そうだ、これは孤独を知る者の目だ。
「あと六年、待てるか?」
「ろく、ねん……?」
 彼の声は掠れていた。
 あと六年、それは彼女が計画する最も短い準備期間。
「ああ。俺が高校卒業するまで」
 現行法では、女子は16歳から結婚が可能だ。だが男女共に18歳からとすべき気風もあり、何より彼女の準備が足りなくなる可能性があった。
 準備。
 それは彼女が日本語以外の三ヶ国語をマスターし、彼を政治家にするための基礎知識を詰め込む期間だ。そしてそれ以上に、彼の隣に立つのに相応しくあるためだった。16歳では子供すぎる。18歳でもまだ子供とは思うが、もうそれ以上は彼女自身が待てない。
 彼は笑みを深めた。
「しょーがねえから、待ってやるってばよ」
 ああ!
 懐かしいふざけた口振り、彼女は再びそれを耳にする幸運に、そっと息を吐いたのだ──。