既成事実?

 チュンチュン、どこか近くで雀が鳴く。
 朝である。
 いささかテンプレート的な表現ではあるが、実際雀は鳴いていて、薄いカーテンから輝かしくも朝陽が射し込んでいるのだから仕方がない。ぽろり、とサスケは涙をこぼした。お世辞にも大きいとは言えないベッドの上、丸めた背の後ろには、脳天気に寝息をたてるナルトがいた。

  既成事実?

(屈辱だ……)
 ぽろぽろと転がり落ちる水滴は枕に滲みて消えてゆく。
 ここはナルトの部屋だった。結局一睡も出来なかったサスケは、うるさい雀に急かされるように体を起こす。ナルトは今日はお休みだけれど、サスケは任務だ。スプリングの軋む音にもその振動にも、ナルトは目覚める気配もない。それはそれで丁度いい。うっかりこぼれ出た涙をごしごし拭ってサスケは立ち上がった。
 その姿は、インナーにボクサーというだけのもので、昨夜の状況を如実に物語っている。ベッドを見下ろせば、トランクス一枚というあられもない姿のナルトが健やかに眠っている。サスケはため息を禁じ得なかった。
(期待した俺がバカだった)
 昨夜は、久々に同期の殆どが集まる飲み会があったのだ。酒も人付き合いもさして興味のないサスケだが、昨夜はナルトに引きずられて参加した。当然のように隣あって座り、周囲によれば「いつもよりテンション高え」状態のナルトは、「だってサスケがいるから嬉しい」などと言ったのだ! はにかむように、しかし隠しきれない喜びに溢れた笑顔でそんなことを言われる身にもなってほしい、とサスケは思う。
 ここが肝心なのだが、サスケはナルトが好きだ。
 年々、いや日に日に男らしさの増してゆくナルト。子供の頃にはうざいだけだと思っていたのに、精悍な『男』になりつつあるナルトに懐かれて、もはや悪い気はしなかった。いつから好きになったのかは定かでない。だが、元々自分にはその素地があったのではないかとサスケは思う。女子に囲まれても何とも思わなかったどころか、苛々するほどだったのだから。
 その、憎からず思っているナルトが酔い潰れた。
 寝言でまで「サスケー」と呼ぶナルトを、他の連中も笑ってサスケに託してくれた。半分くらいは引いた笑いだろうが、サスケは気にしなかった。何しろ、これはいわゆる『お持ち帰り』の状態なのだ! しょうがねえなと言いながら、顔が笑ってしまうのは多少なりとも酔っているせいだろう。ナルトの腕を自分の首へ回して腰を支え、ふらふらの足取りに合わせてのんびり夜道を歩いた。どこからどう見ても酔っ払いだった。
 さて、通常『お持ち帰り』と言えば自宅へ連れ込むところではある。が、そこからサスケのアパートまでは距離があった。ナルトのアパートの方が近い。何度か訪ねたことのある部屋だ、別に構わないだろう。サスケはひょいと方向転換して、ナルトのアパートに上がり込んだ。くてんと玄関に座り込むナルトに「しょうがねえなあ」と水を汲んでやったり靴を脱がせてやったりと、サスケ的には浮かれるイベント目白押しだった訳である。ベッドまで引きずっていくと、ナルトはぽいぽいと服を脱いでしまう。それを見てサスケの胸の高鳴りは最高潮だ。
 ちなみに、サスケがどれくらいナルトを好きかと言うと、『抱きたい』から出発して『抱かれてもいい』を通過して、『いや寧ろ抱かれたい』まで行き着いてしまうほどだった。
 だがもちろん、ナルトがサクララブなのは知っている。なので、酔った上での『過ち』ぐらいしかサスケにはチャンスがない。ちょっと情けないような気もしなくもないが、過ちだろうが出来心だろうが一夜の思い出ぐらい欲しいのが正直なところ。
 ……だったので。
 パンツ一枚でベッドに潜り込んだナルトに心臓が飛び出しそうになっても、サスケを責めないでやってほしい。
 へべれけに酔っ払ったナルトには無許可で、下着姿でムリヤリ隣に潜り込んだ。足に当たる脛毛の感触だって嫌ではない。忍び笑いをしてすり寄ると、ううんと唸ったナルトは寝返りを打ち、サスケに背を向けてしまった。おいおい遠慮するなよどうせ男同士なんだからお前にしたらノーカンだっていいんだぜっつうかまあ俺はばっちりカウントに入れるけどな! とサスケが素晴らしくギラギラしたのは、やはりナルトほどではないにしろ酔っ払っていたせいだろう。だがナルトは、名を呼んでも肩を揺すっても髪を引っ張っても頑として目覚めなかった。
 こうなったら『抱きたい』まで遡るのも手かも知れない。ナルトは憎らしいまでに熟睡していた。理性のネジが酒で緩んでいたサスケは、イタズラ半分ナルトの首筋に吸いついた。
 の、だが。
 ナルトからは全く何も反応はない。当然と言えば当然だ。サスケは途端につまらなくなって、ナルトに背を向けて毛布にくるまったのだ。こうなったら、朝目覚めたナルトに「俺に何したか覚えてねえのか」とイジメのネタにするしかない。
 だが、シングルベッドの毛布は当然シングルサイズであることを、サスケは失念していた。サスケがぬくぬくと毛布を使えば、当然ナルトの上には申し訳程度の面積しか残らない。パンツ一枚のナルトがサスケの背中にすり寄ってきたのは、ものの数分も経たないうちだった。
 えええ!
 抱き枕のように抱き締められ、うなじに額をすり寄せられる。むにゃむにゃと何ごとか寝言を言って、大蛇丸の呪印のあったあたりにかぷりと噛みつかれた。甘咬みなどという力ではない。テメエ明らかに夢の中で何か食ってんだろ! とは思うものの、噛みつかれた皮膚には歯の間からナルトの舌先が触れて、ぬるりぬるりと何度も往復する。
 そんな!
 サスケは振り払っていいのかもっとして欲しいのか分からなくなった。こちらも酔っ払いなのだ。たぶんこの瞬間が、これまでのサスケの人生で最大の幸福だったと言い切れる。
 サスケの体温で暖を得たナルトは、噛みついた肩にヨダレを垂れ流しながら、健やかなる眠りの世界に旅立った。そうして冒頭へ続く訳である。手を出して貰えなかったサスケは半ば傷心気味に風呂場へ入った。ナルトにはもちろん無許可だが、そもそも泊まったことすらサスケの勝手なのだ、開き直るに限る。
 洗面所の鏡で見た自分の顔は酷かった。
 それなりに飲酒した上に一睡もしていないことが如実に表れている。うっかり泣いた目元が腫れぼったいし、充血している。背後から噛みつかれた肩(ほとんど首の付け根だ)は、正面からは見えにくいが、指先で触れれば何ともはっきりと歯形が残っている。サスケは力なく息を吐いた。
(一度アパートに戻る……時間があるか……?)
 アンダーは、乾いているがナルトのヨダレが滲みている。いくら好きな男とはいえ結構アンニュイである。これで『一夜の過ち』があったのなら気の持ちようも違うのだろうが、何しろ噛みつかれただけだ。まあいい。今回は勉強になった。今度『一夜の過ち』を期待する時は、ナルトもしくは自分のアパートで二人で飲むのが良さそうである。正体をなくすまで飲ませてはいけなかったのだ。わしゃわしゃと頭を洗いながら、サスケはうっすらと始まる頭痛に顔をしかめた。


 さてこちらはナルトである。
「う……ん……?」
 何かの物音に意識が引き上げられ、しかしまだ眠っていたくて毛布ごと寝返りを打つ。けれど狭いアパートの中で自分以外の気配がすることに、さすがのナルトも不審を覚えた。
 物音、いや、水音だ。
「?」
 むくりと体を起こして風呂場を見遣る。当然扉が閉まっていれば中の様子など窺い知ることは出来ないのだが、ナルトは目を眇めてそこを凝視した。
(……誰?)
 ぽりぽりと頭を掻いて、あくびをひとつ。ゆうべは飲み過ぎたかな、と思うけれど二日酔いはないらしい。
「ふ……ぇえっくしゅ!」
 毛布から出たせいか急に寒気を感じて、ナルトは腕をさすった。
 そこでようやく気付く。
(……何で俺パンツ一枚で寝てんの)
 パジャマならいつもの場所、ベッドのポールに掛けられている。床を見れば、脱ぎ散らかした服が当然のように散乱している。風呂場から水音がするということは、誰かを泊めたのだろうとは思う。
 ただ、その『誰か』がどこで寝たのか分からない。間取りと言えば、ベッドのあるこの部屋とダイニングキッチンに、風呂とトイレしかない。ソファなどという小洒落たものも当然ない。
 ナルトは座るベッドを見返した。
「……」
 つまりこの粗末なシングルベッドで一緒に寝たのだろうか。男二人ではまるでレスリングだ。かといって、まさか自分が女の子を連れ込んだとは思えない。いくら酔っ払っていようが、自分がサクラ以外の女の子に手を出すはずがない。そしてサクラが酔っ払い、ナルトに身を任せるなどということは、それ以上にありえない話なのだ。
 と、なると。
 やはり男だろう。どうやってかギュウギュウになって狭いベッドで一緒に寝たのだ。酔っていた訳だし、多少蹴り合っても目が覚めたりはしなかったのだろう。
(サスケかな)
 ふわあぁ、とあくびをして立ち上がる。
 昨夜は隣り合って座ったし、席を移動することもなかったから、その流れで考えれば高確率でサスケだ。店を出た記憶も帰って服を脱いだ記憶もないから、もしかすると連れ帰ってくれて、そのまま泊まったのかも知れない。自分は今日休みだという解放感があったせいか、飲み過ぎてしまったのだ。
 のそのそと、箪笥から出したTシャツとジーンズを身につける。水を飲もうとダイニングに入った、その時だった。
 ガラリ、と引き戸が開いて、風呂場からサスケが髪を拭きながら出てきた。
「あ、やっぱサスケだ。オハヨー」
「……っ、……ああ」
 ズボンだけ穿いて、上半身は何も着ていないサスケが、一瞬息を詰めた。ワンテンポ遅れた返事に、自分が起きているとは思わなかったんだろうと当たりをつける。こいつでもそういうことがあるんだなあと思うのと同時に、自分の部屋でサスケが警戒を解いていた事実にどこかがくすぐったい。
「いやあ、さっきさあ! 起きた時、誰か連れ込んでイケナイことしちまったかと思って、焦ったってばよ!」
 俺ってば裸だったし~、グラスに水を注ぎながら笑って言うと、目の端に写るサスケがびくりと硬直した。
 え、何で?
 軽い冗談はいつものことだ。この場合だと『フン、テメエにそんな甲斐性があるかよ』とか『何だ、がっかりしたか?』とか、口の端だけ上げたイヤミな笑みで言ってきそうなものなのに。
「……今の科白、サクラには黙っててやる」
「えっ」
 短い沈黙のあと、サスケはそんなことを言った。言われて初めて、危険な発言だったことに気付く。酔えば誰彼構わずメイクラブする危険あり、と言っているようなものだ。
「お・おう……」
「ナルト、Tシャツか何か貸せ。一旦戻る暇がねえ……」
「あ、そか、お前今日も任務だっつってたよな」
 ナルトはバタバタと箪笥に走り、紺色のTシャツを引っ張り出した。ほら、とそれを渡そうとして、ナルトは失敗した。ぱさり、と床に落下する。
「え……、さ……サスケ?」
 バスタオルの隙間から覗く目が赤かった。それはもちろん写輪眼が赤いとかそういう意味ではない。白目の部分が赤いのだ。そう、まるで──泣いたあとのように。
 掴み損ねたTシャツを、いつもの舌打ちもなくサスケは拾う。だがそんなものは、いつものサスケなら床に落ちる前に掴めるのだ。そう、他人の家で他人の気配に気付くのが遅れるような奴ではないのだ。
「サスケ……お前……、泣いたの……?」
「……ッ、はあ? 何でだよ」
 先ほどと同様、一瞬言葉に詰まってからの問い返し。ナルトはざわざわと騒ぐ胸に手を当てた。ドキドキしている。
「目、赤いってばよ……」
 そのままぎゅっと胸元のTシャツを握り、逸らされた目をそれでも見つめた。何だか顔はむくみ気味だし、目元も赤く腫れぼったいし、そんな症状は一般的に言えばブサ顔だ。なのに目を離せない。サスケでも人の前でこんな顔を晒したりするのだ。
 そして、何故今そんな顔をしているのか。
 ドキドキが早くなる。と同時に冷や汗が流れる。まさか自分が、泣かせるようなマネをしたというのだろうか。
「……今、シャンプーが目に入って、こすったせいじゃねえか?」
「えっ」
 ドキドキと冷や汗がさあっと引いた。
 サスケは怒ったような声でぶつぶつと答えたかと思うと、そそくさとTシャツに頭を突っ込む。ナルトはため息をついた。
「何だよ脅かすなよ! 俺てっきりお前を泣かせるようなことを……したのかと…………」
 ありえない想像を一瞬しかけて、慌ててそれを打ち消した、その時だ。
 ありえないものを見た。
 歯形だ。
 首の付け根、シャワーで温められた白い肌にくっきりと浮かび上がる。すぐに紺色で覆われてしまうが、襟首からはその半分ほどが覗いていた。
「サスケー!!」
「なっ」
 がば、と飛びかかって丸襟を引っ張る。このあたりに、大蛇丸の呪印があったのだ。瞬間的に血が昇る。
「何だよこれ、誰にやられた!? 大蛇丸……は死んでんだよな、え、じゃあ昨日の飲み会、え、」
「離せバカ! 伸びるだろ!」
「これ……俺……!?」
 愕然とする手を振りほどかれ、どんと突き飛ばされて後ずさる。俯いたままぐいとTシャツを整えるサスケは真っ赤だった。赤い目から、じわ、と何かが滲んでいた。
「え? 俺……、え?」
 泣きはらしたような目、キスマークなんかよりも確かな印、いまいましげに噛みしめられる唇、今まさに滲む涙。
「……俺、まさか、お前に、ゆうべ……」
「触るな!」
 腕を掴んでこちらを向かせようとする手を、あからさまに避けられる。があん、と鈍くも大きな衝撃がナルトを襲っていた。
「お前は何もしてねえよ!」
「えっ?」
 サスケは中忍ベストを羽織ると、ろくな支度もなく私物を拾い集める。
「寝ぼけて噛みついたんだろ。どうせ何も覚えてねえくせに、いちいちうるせえんだよ、この万年ウスラトンカチが!」
「……」
 ほとんど捨て科白だ。ばたばたと、私物を抱え靴をつっかけて、サスケは逃げるように出ていってしまった。
 取り残されたナルトは、呆然と見送るしか出来なかった。


 本当に全く、潔く何も覚えていないナルトには、訳が分からない。更に言えば、サスケが自分のことをそういう意味で好きだなどとも全く気付いていない。
「俺……本当に……」
 やっちゃったのかも知れない。
 男同士だと壮絶に痛いという肛門は自分は無傷だ。酔ったサスケに無理をして、泣かせて、シャワーを使わなければ任務に出られないようなことをした?
 ナルトには知る由もないが、眠れなかった上に悔し涙で赤くなった目も、酒でむくんだちょっと情けない顔も、サスケにしてみれば見られたくないものばかりだ。歯形だって、ナルトに見られないようとっさにバスタオルで隠して、更に反対側に向けた。わざわざ風呂場に戻ってTシャツを着るのも不自然だと思って、その場で着たのだ。そんなことも知らずに、ナルトはサスケを凝視していた。ゆえに、垣間見えた歯形にぎょっとしたのである。
 それに、「俺に何したか覚えてねえのか」とからかってやろうと思っていたのをサスケが中止したのは、こんな赤い目で言って却って本気にされたら困る、という意外にも冷静な判断だったのだ。サスケが望んでいたのは一夜のアバンチュールであって、酔ったナルトが何も覚えていなければなお良し、という類のものだ。あくまで自分が主体の考えではあるが、それはナルトのためにもとても良いとサスケは思っていた。
 まあ、ただ、充血した目に涙を滲ませて「お前は何もしていない」と逃げ出すことも充分誤解を招く姿だっただけである。加えて、歯形の場所が場所だっただけに、ナルトの側にも誤解を助長する要因が出来てしまった。あんなところに咬みついて呪印を残した大蛇丸を、サスケを連れていってしまった大蛇丸を、ナルトは未だに許せないのだ。
「どうしよう……」
 ナルトは呆然と呟く。
 そんな訳でものの見事に誤解して、ナルトの休日は始まった。その後の二人が大変だったのは、言うまでもない。