事実無根!

「……一体どうしたってんだい」
 綱手の呆れたような問いかけには当然労る優しさも含まれて、あまりの情けなさに、サスケは俯いて首を振るばかりだった。

  事実無根!

 取るものもとりあえず、ナルトのアパートから逃げ出してきたサスケだ。自分のアパートへ寄って体裁を取り繕い、あとはダッシュで集合場所へ向かうという選択肢は、もはや思い付きもしなかった。忍具のポーチと額当て、三日分のサバイバルキットのリュック、連絡用の巻物四本、そしてナルトのヨダレの滲みたアンダーシャツ。それらを腕に抱え、靴は突っかけたまま、ベストの前ははだけTシャツはだらしなくもオーバーで、髪からは水滴が滴り落ちている。極めつけは泣き腫らしたような真っ赤な目だ。今日の任務でコンビを組むキバは大爆笑だったが、段取りの最終確認で会った綱手はぱかんと口を開けたのち、そんなふうに訊いてきたのだった。
 キバはもちろん、昨夜の飲み会に出席している。ナルトの匂いを漂わせるサスケに、ああ泊まってきて寝坊でもしたのかなと思ったという訳だ。そう思ってくれるのであれば助かるのに、キバときたら綱手の前で、
「夜這いに失敗して逃げてきたみてーだなオイ!」
 とゲラゲラ笑うのだ。
 確かにサスケの格好は常からは想像できない有りさまだったから、キバがからかいたくなる気持ちも分かる。けれど色々と飽和状態だったサスケは、見事的確に表現してくれたその科白にビクリと体を竦ませると、じわりと滲む涙をごまかしきれなかった。両手はバラバラの荷物で塞がっていて、俯くことでしかそれを隠せない。
 そこに至ってようやくキバも、サスケの様子がおかしいということに気付いてしまった。赤丸がキュウンと慰めるようにサスケの顔を覗き込む。
「……サスケ。今日の任務、誰かに代わって貰うかい?」
 サスケはそれにも首を振った。綱手のため息が聞こえる。
「じゃあ、その格好と荷物を何とかしな! 打ち合わせはそれからだよ」
「……はい」
 鼻声で辛うじて返事をすると、二人と一匹は一旦退出した。

 控え室で身なりを整え、巻物をベストにセットし、忍具のポーチを腰と腿に巻く。例のアンダーは、少し考えたのち、ゴミ箱にそろりと落とした。
「……お前さあ、」
 神妙に見ていたキバが遠慮がちに切り出した。
「ナルトに、……何か、されたか?」
 ぴくりと肩が動きそうになったのを、リュックを背負う動作でどうにかごまかす。
「別に、何も」
 冷静に言ったつもりだけれど、まあ声は鼻にかかって少々情けない。それでも、控え室には当然他にも指令待ちの忍がいる。余計な勘繰りをされたくはない。なのに背負ったリュックの肩紐が歯形を掠めて、サスケは思わず指先を伸ばしそうになった。
 いやいや、しかし「伸ばしそうになった」だけであって、実際は踏みとどまった。いかにも「何かありました」と言わんばかりの仕草なんか、余計な誤解を招くだけなのだ。
 それなのに。
 唐突に、ぐいっと後ろから襟首を引っ張られた。
「わあ、すっごい歯形」
「!?」
 無感動なのっぺりとした声に振り向けば、いつからいたのかカカシが首を覗き込んでいた。
「なっ、な……な……」
「何でって、さっきから首のあたり、ちょいちょい気にしてるからさあ」
 さすが上忍と言うべきなのだろうか。
 けれど真顔で人を指さすキバに、サスケは慌てた。
「お前、やっぱ、ナルトに……!」
「や、違……ッ! 別に何も」
「でも歯形って……」
「ちょっと噛みつかれただけだ!」
 必死に説得しているというのに、カカシはふむむと唸って、割って入る。
「後ろから、こんなところを? ここって大蛇丸の呪印があったところだよねー」
「あんた黙っててくれ!!」
「サスケ……俺やっぱ綱手様に」
「待てキバ! 話をややこしくするなァ!!」
 せっかく穏便に控え室を出ようとしていたところだったのに、カカシのせいで大騒ぎだ。いや、大騒ぎしているのはサスケ一人なのだが、普段が普段なだけにその様子は大変珍しい。控え室にいた忍の実に全員が、アワアワするサスケを見物した。けれど幸いなことに、キバを追ってすぐに控え室を出たサスケは、残された忍たちの憶測合戦を知ることはなかった。

*     *     *


 一方、取り残されたナルトは水を一杯飲んだぐらいでは冷静になどなれなかった。二間の部屋をぐるぐると歩き回り、とうとう頭を抱え込む。
(やべえ……)
 何がやばいのかと言うと、それはもう自分の性癖が、だ。
 相手はサスケである。男だ。しかし彼が里を抜けてしまった時には、周囲がドン引きする執念深さで連れ戻そうとしたのも事実だ。もちろんそれは、ライバルで親友でかけがえのない仲間だからだ。少なくとも当時はそう信じていた。
 けれど今になって思う。あれは行き過ぎだったのではないか、と。何しろ、サクラに「もう追うのをやめましょう」と言われても、抹殺命令のことを知っても、自分は全く耳を貸さなかったのだ。それどころか「一緒に死んでやる」発言までしてしまった。行き過ぎだ。
 しかし、それでも男同士でどうのという考えなんか、全く、絶対になかったのだ。一緒に水浴びしたり、暑くて脱いだりしてその裸体を見たって、性的興奮など断じて起こらなかった。
 なのに、だ。
 酔った勢いとはいえ、男を相手に勃ったらしい。そして、触るのだって御免被りたい場所に突っ込んだらしい。
 行き過ぎにもほどがある。
(どうしよう……)
 自分の性癖の心配もさることながら、被害者であるサスケの体も心配だった。彼は今日も任務で、しかしろくな支度もなく飛び出していってしまった。赤い目と自分の歯形が目の前にちらついた。らしくもなく動揺する姿がリフレインする。
(任務、大丈夫かな)
 責任を取って、今日の任務を代わるべきだとは思う。しかしプライドの高いサスケが、頑として断るだろうことも予想がつく。何しろ「何もなかった」と言い張っているぐらいなのだ。
 いや、認めたくないだけなのかも知れない。散々ドベだのウスラトンカチだのと罵倒してきた相手に、おカマを掘られただなんて。
(……でも)
 ナルトは苦悩のまま立ち上がった。
 いくらサスケが何もなかったことにしたくても、いくら自分が酔っ払っていて何も覚えていなくても、事実から逃れることなど許されるはずもない。「やっちゃったのかも」という疑念がいつの間にやら「やっちゃったんだ」になったナルトは、とにかく任務を代わるべきだという結論に達した。謝って罰を受けて責任を取るのは、それからだ。ナルトは額当てと中忍ベストを掴むと、玄関の扉を開けた。
 すると。
「……っと、起きてたか」
 今まさに呼び鈴を押すところだったシカマルと鉢合わせた。

「お前、ゆうべ飲み屋に財布忘れてっただろ」
 こんな趣味悪い財布はお前ぐらいしか心当たりがねえ、と言ってシカマルはカエルのがま口を突き出す。しかしナルトは、ああうん悪ィ、とぞんざいに受け取って靴箱の上に置く。
「……お前、今日休みって言ってなかったか?」
 額当てとベストを手に慌てた様子で靴をつっかけるナルトを、シカマルは怪訝そうに見下ろした。
「休み、だけど、でも」
「緊急召集でもあったか」
「や、違うけど、でも」
 要領を得ない返事に、シカマルは鼻でため息をつく。
 たとえば、昨夜ナルトを送ったサスケがここに泊まったと仮定して、その額当てとベストが彼の忘れ物だとする。今日も任務のはずのサスケに慌てて届けようとしているのだとしても、一言「サスケの忘れ物だってばよ」と言うだけで済むのだ。
 いや、しかしあのサスケが額当てもベストも忘れて任務に出るなどということは、まかり間違ってもありえない。ギリギリ想像できるとすれば、ナルトのものと間違えて身につけて行ってしまった、というぐらいだろうか。けれど、間違えたからと言って特別支障の出るアイテムでもない。
 かと言って、サスケがゆうべ泊まらなかったと仮定しても、ナルトが慌てて装備もなしに額当てとベストだけを持って外出しようとする理由は見当たらない。
 それを踏まえた上での問いかけだった訳だが、財布を玄関に放置したままどこへ行こうと言うのか。めんどくせえ奴だな、とは思うけれど、それでも一応同期で仲間だ。様子がおかしいのを放っておくのもまあアレだ。シカマルだって人の子である。多少の人情ぐらいは持ち合わせているのだ。
「……サスケなら、さっき門を出るとこ見たぜ」
「えっ」
 あたりを付けてそう言えば、ナルトはようやくまともにシカマルを見た。その顔は、何やら憔悴しきっている。あっ何か面倒な予感がする。シカマルはじりりと半歩後ずさった。
「……じゃ、確かに渡したからな、財布」
「シカマルー!!!」
 遠くを見る目で撤退しようとしたけれど、一足遅かった。ナルトからタックルを受けて、シカマルはアパートの通路に派手に頭を打ち付けた。

 一人で悶々としていたナルトには、シカマルの登場は天の采配にも思えた。部屋に引きずり込んで、しかしどう話していいのか分からない。ずうんと落ち込むナルトを放って、シカマルはセルフサービスでお茶を入れた。
 その一杯が飲み終わる頃になって、ナルトはようやく口を開いた。
「……俺、サスケに……酷いことしたみてえなんだ」
「したみたいっつうのは何だ。覚えがねえのかよ」
 ナルトは小さく頷いた。
 やっちゃったらしくてと、ぼそぼそと言うけれど、シカマルは真顔で「何を」と訊いてくる。
「な、何って……察してくれたっていいじゃんかシカマルなんだから!!」
「俺はエスパーじゃねえよ。ったく……何をした。喧嘩か?」
「ケンカだったらこんな悩まねーよ! そ、そのっアレだ、ご、ご……っ」
「碁?」
 明らかに別の想像をしているシカマルに、ナルトはとうとうハッキリと告げた。

「強姦だ!!」

 自分の罪状を告白するのは非常に勇気を必要とする。シカマルなら解決の糸口を見つけてくれるかも知れないと思って、勇気を振り絞ったというのに──。
 シカマルは「碁?」と言った時と全く変わらない顔で、ただナルトをじっと見つめるばかりだった。冷静なのにもほどがある。さすが、同期の中で一足先に中忍になった男だ。たぶん上忍になるのもシカマルが先だろう。
 いや、その話はさておき。
 沈黙が長い気がしていたたまれない。将棋では長考するというシカマルだから、この異常事態に対処する手だてを考えてくれているのかも知れない。いや待て、それにしたってまばたきひとつしないで凝視しているのもおかしくないだろうか?
「……シカマル?」
 だが五秒待っても返事がない。目の前で手をひらひらさせると、無表情のままシカマルはようやくまばたきをした。
「あ、良かった。気ィ失ってんのかと」
「良かったじゃねえよ」
 とたんに仏頂面になったシカマルが、深く長く、沈み込むようなため息をつく。
「ナルト、お前、強姦の意味分かって言ってるか?」
「あっ……当たり前だ……ってばよ」
 声が尻すぼみになるのは弱気の表れだが、ナルトはそんな自覚もなく目を泳がせた。シカマルは頬杖に顔を歪める。
「お前が、サスケを……か?」
「うん……」
「お前が? サスケを?」
「……そんな何度も確認すんなよ」
「あのな。覚えがねえっつったよな、お前。なのにサスケを強姦したと思う訳か。ゆうべここに泊めたってこと以外に、何か根拠があるんだろうな?」
 まるで信じていないという顔である。だがナルトだって、根拠があるから打ちひしがれているのだ。ナルトは自分の首の付け根、左側を指で示した。
「……サスケの、ここんとこに、さ。大蛇丸の呪印があったの、知ってっか?」
「ああ」
「今はねえけどさ、あれが俺はスゲエ嫌だった。だってさ、咬んで付けた痕なんだぜ」
 何を言い出すのかと、シカマルが目を眇める。
「……今朝、サスケの様子がおかしくて……。見たら、そこに歯形がついてて」
「お前の歯形か?」
「だってさ! だってさ! 飲み会でベスト脱いでたよな、あいつ! 歯形なんかなかっただろ!? 俺しかいねえじゃん!」
「なるほど。つまりお前はサスケにマーキングした、と」
 シカマルはもはや半眼だ。まずい、呆れられている。強姦の有無を判じる以前の問題だ。
「そっ……そもそも! 俺が起きた時にはあいつシャワー使ってたんだ! 俺ハダカだったし、なんかサスケはぎくしゃくしてるし、目は赤いし動きは鈍いし!! そんで歯形見つけてみろっての、いくら俺が鈍いって言ったって、なんかしちまったって気付くだろ!!」
「ふーん」
「ふーん、じゃねえってばよ!!」
 ムキになって説明するナルトを、シカマルは実に冷静に観察していた。
「シャンプーが目に入ってこすったせいで赤いなんて言ってたけどさ! 考えてみればあのサスケが両目にシャンプー入っちゃったーなんてドン臭え失敗すると思うか!?」
「二日酔いだったらありえなくもねえんじゃねえの。ゆうべは相当飲んでたからな。ここに辿り着いてそのまま寝ちまったなら、朝シャワー浴びて任務に向かうのは不自然じゃねえよ。お前が裸だったのだって、どうせ着替える間もなく寝落ちしたってとこだろ」
「……」
 訴えた内容に悉く反論されて、ナルトは言葉に詰まった。
 そう、第三者から見たら、そんなところなのだ。
「……サスケも、『お前は何もしてねえよ』って言った」
「ほら見ろ。そのままじゃねえか」
「でもさ、そん時、半ベソだったんだよな……顔なんか真っ赤でさ……それで『どうせ何も覚えてねえくせに』とか言われたらさ……」
「……」
 シカマルの顔色が変わった。
 動揺のせいでどうにも上手くあの時の状況を説明できなかったナルトだが、ようやく理解して貰えたようだ。
「……半ベソ?」
「うん。『まさか俺がお前に何かしたんじゃないか』って言いかけたとたんにさ、じわって目ェ潤ませちゃってさ……」
 思い出すだけで動悸がする。これで相手が女の子だったら、ナルトは「責任取ります」と言うしかなかったところだ。言いながら、再びどんよりと落ち込んでくる。
 しばらく考え込んでいたシカマルが、不意に顔を上げた。
「おい。基本的なこと訊くが……。お前、もしかしてサスケのこと好きなのか?」
「え?」
「酔った勢いで押し倒したかも知れない訳だろ。前からか最近からか、それはどうでもいい。ゆうべの時点で好きだったか?」
 意外な質問に、ナルトは瞬間的に頭が沸騰した。
 好き?
 俺がサスケを?
「べ、べ、別に嫌いじゃねえけど! 時々ムカつくことあるけど、そっそれでも友達だしィ!? でもそーゆーコトをしたい『好き』じゃねえってばよ!?」
「でも『した』と思ってんだろ、お前は」
「……ハイ」
 シカマルは至極冷静だった。ナルトはため息と共に沈下する。
「……友達として好きでも、酔っ払ってヤっちまうなんてこと、あんのかなあ……」
「少なくとも俺はない。じゃ、次の質問だ。お前、サクラのことはまだ好きなのか」
 ナルトは目を剥いた。
 ある意味問題発言ではないだろうか。
「どっどうゆう意味だってばよ!」
「サクラで抜いたりするのか?」
 言う人間が違えば大変に侮辱的な科白を、シカマルはさらりと言った。その様子と言ったら、まるで医者だ。しかも精神科に間違いない。
「……サクラちゃんをオカズにしたことなんかねえよ」
「ふーん。じゃあ何で抜いてんだよ」
「エロ雑誌とか」
 シカマルは顔色ひとつ変えない。これでは本当に診察を受けているようだ。何だか却って落ち着かない。
「じゃ、最後の質問だ。お前、サスケとこれからどうなりたいんだ?」
「……え?」
 これから?
 ナルトはきょとんとシカマルを見返した。
「今まで通りの『友達』に戻りたいのか? それとも『恋人』になりたいのか? まあどっちも望みは薄いけどな」
「……恋人、とかって……飛躍しすぎじゃね? つうか、サスケと恋人とか……考えらんねえけど」
「じゃあ『友達』に戻りたいのか」
「うーん……まあ、そうなる、かな?」
「ハッキリしねえな」
 ツッコミすらも冷静で、ナルトは考え込んだ。ハッキリしないのは自分でも分かっている。ナルトにとってサスケは、友達というより親友でありたいし、ライバルでもあり続けたい男だ。決して恋人だの何だのという、男女の間に起こるべき甘ったるい願望などないはずなのだ。
 かといって、ただの『仲間』では嫌なのだ。ただの『親友』では嫌だし、ただの『ライバル』なんて嫌なのだ。
 唯一無二がいい。
 しかし、サスケの方がナルトをどういう位置に置いているのかを知ることも怖い。いいとこ『ドベ』か『ウスラトンカチ』だとは思うけれど、そこでウッカリ『同期の仲間』とか言われたら立ち直れない。
 口を尖らせて黙ったナルトに、シカマルは言った。
「俺の感想を言う」
「感想? アドバイスとかじゃなくて?」
 緩く頷きながらも、その顔は真顔だ。面白おかしく茶化している訳ではないらしい。
「お前はヤった。サスケは忘れたい。なかったことにしたい。表面上は『仲間』だが、この先お前は上手いこと躱されて、任務の時以外ではサスケに口を利いて貰えなくなる」
「え、それ感想!?」
 まるで予言のようではないか! ナルトは慌てた。その通りになってしまいそうで怖い。
「どうしても謝りたいなら謝りに行け。ただし、忘れたいサスケはたぶん迷惑だ。やっちまったことを覚えてねえなら、お前も忘れてやるのが親切だな。以上、俺の感想だ」
「ち、ちょっと待てェ! 何の解決にもなってねえってばよ!!」
「解決してやるなんて言ってねえよ。お前の愚痴を聞かされた感想だっつってんだろ」
 シカマルは立ち上がってナルトを見下ろした。
「愚痴ィ!?」
 かちんときたナルトも、思わず立ち上がる。真剣な悩みを相談したつもりだったのに、単なる愚痴と言われては、ナルトにもサスケにも失礼というものではないだろうか。
「愚痴だろ。恋愛感情として好きでも嫌いでもない男をヤっちまったどうしよう、つう話だったろうが」
「違う!! や、そうだけど! でも違う!」
「どっちだよ」
「俺がムラムラしてんのは! 覚えてねえってことなんだってばよ!!!」
「…」
 シカマルが遠い目をする。
 モヤモヤ、の間違いじゃねえのと呟く声もまた、ずいぶん遠かった。

*     *     *


「サスケ……無理すんなよ?」
「無理なんかしてねえ」
 気遣わしげなキバに、元々導線の短いサスケのイライラは爆発寸前だ。
 結局あのあと、どう割り込んでもキバの話を完全には遮れず、綱手にまで誤解を与えてしまった。綱手ときたら話が見えてくるに従って、目が隠しようもなく三日月形になっていったものだ。明らかに面白がっていた。サスケがキバを止めようと必死になればなるほど、その話に真実味を持たせてしまうことに気付いたのは、任務に出発してからだった。
 それで忍耐の二文字を胸に押し黙っていれば、キバは体調でも悪くなったのかと心配するのだ。
「赤丸も心配してんだぜ。歩くの辛くなったら背中乗ってもいいって言ってる。優しいなあ、赤丸! でもなあ……サスケはケツが大変なんだよ、赤丸……。お前の背中に座る方が辛いのかも」
「キバ」
 とうとう導線が尽き、サスケは静かに爆発した。胸倉を掴んで軽く持ち上げる。
「俺は何ともない。何故なら何もされていないからだ」
「ひゃはは、シノみてーな言い回し!」
 軽薄に笑うキバは一度シメた方が良いのだろうか。いやしかし、任務はこれからなのだ。殴るのは一発か二発か三発か四発ぐらいにしておこう。空いているもう片方の拳を振り上げた時、キバは笑いながら「分かってる」と言った。
 分かっている?
 怪訝に拳を止めると、キバは屈託なくばしばしとサスケの肩を叩くのだ。
「お前のケツから変な匂いはしねえってさ」
「……変な匂いって」
「血とかアレとか。洗ったって赤丸は痕跡を嗅ぎ取れる」
 アレとはアレのことだろう。
 つまりキバは、何もされていないと知った上でからかっていたのだ。サスケの緊張の糸が切れた。深いため息と共に、がっくりと肩から力が抜ける。キバはまだ笑いが治まらないらしい。含み笑いで続けて言った。
「噛みつかれて逃げ出してきたってとこか? ま、あんな泥酔してたんじゃどのみち勃たねえよな! 未遂で良かったじゃねえか」
「良くねえ……」
「は?」
 聞き返されてはっとする。しまった、と思うが、取り消すには遅すぎた。ニヤニヤ笑うキバが間髪入れずに訊いてくる。
「何だよ。本当はして欲しかったとかァ?」
「……」
 そんな質問には答えられるはずもない。なのに、自分の顔が羞恥に染まるのをどうやっても止められないのだ。動揺のせいか涙が滲んだ気すらする。今日の涙腺は朝から調子がおかしいらしい。
 バレてしまった。
 しかも、大して親しくもないキバに。
 どうしたらいいのか分からない。
 唇を噛みしめ、足元を見るともなしに見つめる。
 そうだ、死のう。
「キバ」
「ん?」
「お前を殺して俺も死ぬ」
 この時サスケは100%本気で言っていたのにも拘わらず、キバは大爆笑で答えてくれた。
「ギャハハハハ!!! サスケお前面白ぇ!!! それナルトに言ってやれよ!!!」
「……」
 別にギャグを言った訳ではない。本気の殺気を意にも介さず笑い飛ばすキバは、しかしサスケの本音のことは笑わなかった。サスケはそれに気付いて毒気を抜かれ、ついでに立っている気力も抜けた。
「おい、サスケ?」
 へなへなと座り込むサスケは、結局、赤丸の背に乗せて貰う羽目になったのだった。

*     *     *


 往路は情けない姿のサスケだったが、無事任務を終えての復路はだいぶ調子を取り戻していた。それはキバと赤丸のお陰と言っていいだろう、とサスケは思う。あれ以降、道中は根掘り葉掘り訊かれ続けたが、そのせいか神経が太くなった気がする。それに、答えたくないことは答えなくても、キバは全く気にしていなかった。何と言うか、重くない。キバにとっては世間話の一環であり、その場限り楽しく過ごせればOKというスタンスが、サスケを気楽にさせた。
 そもそも、サスケだってそんなに重く考えた『一夜の過ち』という訳ではなかったのだ。ただ、シチュエーションに期待を煽られまくった挙げ句の悲劇だったので、落胆が大きすぎただけだ。キバと話していてようやくそれを思い出したサスケだ。

 だが、里に帰ってきて、サスケは固まった。『あ』『ん』の門で、ナルトが待ち構えていたせいだった。何故か遠い目をしたシカマルまでいる。
「サスケ!」
 きりりと引き締められた表情が格好良いだなんて、見とれている場合ではない。ナルトは決意を秘めた目でサスケをまっすぐ見つめていた。
 はあ、思わずため息が出る。この様子では、自分がサスケに何もしていないということを、信じていないのだろう。先行きを暗示するかのように空が曇っているのも、地味に気分を重くさせる。
「こりゃ、ちょっとした修羅場じゃねえの?」
 粗方のいきさつを知ったキバが、その雲行きに無関係に、生き生きとサスケに囁く。
「任務報告は俺がやっといてやるよ。あとで話聞かせろよな!」
 ばし、と背中を叩いてキバは赤丸と共に走り去った。場に残されたのは三人、だが、当然人通りはある。今は帰宅ラッシュの時間帯なのだ。どんな話にせよ、まずは場所を変えなければ。
 そう思ってナルトに一歩近付いた時だった。

「悪かったってばよ!!」

 と、ナルトが声を張り上げた。その後ろではシカマルが頭を掻いていた。何故同伴させられているのか、サスケと同じぐらいシカマルも疑問なのだろう。
「……何のことか分からねえな」
 場所を変えなければならない。そう思うのに、ナルトの緊張感に引きずられて立ち止まってしまう。
「責任は取る!」
「責任?」
 何の責任で、どう取るっていうんだ。そんなことは、だがこの場では訊きたくない。
 ナルトの真剣な様子に、通りかかる忍たちも興味を引かれている。まずいな、と思ったのはシカマルも同様だったようだ。おいナルト、とその肩に手をかける。
 けれどナルトは頓着しなかった。
「お前の気の済むまで殴っていいし、千鳥でも火遁でも受けるし、何だったらやり返したっていい」
 やり返す、というのはアレのことだろう。そんな覚悟まで付けてきたのかと思うと、ちょっぴりキュンとしなくもない。だが惜しいかな、サスケは『したい』訳ではないのだ。
「……いい心掛けだな」
 ナルトは何もしていないのだから、サスケとしてもそんなことをするつもりはない。だがこれ以上、衆目のある場で内容がバレる会話はしたくなかった。サスケはそう言うにとどめ、ナルトとシカマルを通り過ぎようとした。
 ああ、けれど、忘れていたのだ。
 ナルトが意外性ナンバー1忍者と評されていたことを──。
「サスケ……でも俺、覚えてねえんだ」
 何を、とは訊かない。
 シカマルが咎めるようにナルトの肩を引く。けれどナルトは揺らがないのだ。じっとサスケの目を見つめる。
「だから?」
「覚えてねえことに責任取るのも、俺からしたら理不尽だってばよ」
 後ろでシカマルが「あああ」という顔を手で覆った。尤もだ。もしこれで本当に『過ち』があったとして、そんな言い草は全くもって男らしさに欠ける。サスケはフンと鼻で笑った。
「だから、お前は何もしてねえって言ってんだろ。覚えてねえのも当然なんだよ」
 周囲の耳目を多少気にして、サスケは小声かつ早口に言う。けれどそれをナルトがどう捉えたのかは、どうか察して頂きたい。
 そして、サスケは自分の耳を疑うのだ。

「サスケ……だから、もう一回したいんだ」

 何だって?
 サスケはぽかんとナルトを振り返った。意味が分からない。もう一回、と言われても、初めの一回など存在しないのだ。
 と言うか、「だから」とはどういう意味なのか。覚えていればボコにされてもやり返されても文句はない、というのは分かる。そんなのは、本当に『過ち』があったのなら当然だろう。けれど今回の場合はサスケが望んだ『過ち』であって、しかも、何も起こらなかった。つまりナルトの言う「もう一回」を実行するなら、正真正銘二人の初めてとなってしまう。そんなのは『過ち』でも何でもない。
 まじまじと見つめるサスケを、ナルトはやけに凛々しく見返す。
「お断りだ」
「サスケ!」
 元々はナルトの隙を掠めて「何かあったらいいな」程度のことだったはずなのだ。覚えていない(と思っている)のは予定のうちだ。もう色々と失敗が重なりすぎた。サスケがナルトに『一夜の過ち』を求めるのは、もはや諦めるしかない。
 そんなことを考えたけれど、「お断り」と言ったのは何故か真剣なナルトに少々引いたせいだった。
(何考えてんだ、こいつ)
 自分が何を考えていたかは棚に上げて、サスケは引き攣り気味に後ずさる。目の前にいるのは好きな男だけれど、今はちょっと、いやかなり気味が悪い。
「頼む、サスケ! このままじゃ俺、ムラムラすんだってば!」
「……モヤモヤ、な」
 後ろからシカマルの注釈がつくが、手遅れだ。サスケは無意識にも三歩下がっていた。
 サスケが好きなのは普通のナルトだ。サスケにムラムラ、いやモヤモヤするような変態男ではない。引いた分だけ詰めてくるナルトは、良く言えばひたむきでまっすぐに、悪く言うならまあ鼻息荒くサスケを見つめている。ああやめてくれ、俺の中でお前が崩れていく。
「記憶に残る一発をやらせてくれ!!」
 ああお前何でそんなムダに格好良くサイテーなこと言ってんだ──。
 ナルトは真剣で、サスケの頭は真っ白になった。シカマルが視界から消える。沈没したか、知り合いだと思われたくなくて逃げたか。だがサスケにはそれを気にかけることは出来なかった。何でこんなことになったんだろう。自業自得とはこのことか。
「分かった」
「サスケ……!」
 ナルトの顔がぱあっと明るくなる。
 これは賭けだ、サスケはぼんやりとそんなことを思う。何しろ、空は曇天なのだ。この重さは間違いなく雷雲である。
「お前が生きてたらやらせてやってもいい」
「え?」
 布石などなくとも、麒麟が使える状況ではないだろうか。サスケは遠い目で乾いた笑いを浮かべる。その目は実に遣る瀬ないが、しっかり写輪眼だ。
 とりあえず、周囲の観客は巻き添えを恐れて散ってくれるだろう。ナルトは九尾もいることだし、たぶん死なない。電気刺激で軽く記憶喪失になってくれたら文句なしだが、まあ、覚えていたなら観念しよう。轟々と不穏な気配を漂わせ始める空とチャクラを練るサスケを交互に見るナルトは、気の毒なほどきょとんとしている。
「ちょっとした運試しだな、ナルト」
「え? え?」
 逃げた訳ではなくそこに沈没していたシカマルが浮上して、ポンとナルトの肩を叩く。そして今度こそ逃げてゆく後ろ姿を見送って、サスケは雷遁をまとわせた腕を振り上げた。