夢路に帰りて

  夢路に帰りて

「ふう……」
 どさり、とスポーツバッグを地面に下ろしてため息を吐く。おんぼろのバスの後ろ姿を見送って、サスケは手の甲で顎を伝う汗を払った。半分壊れているとしか思えないバスは、空調など効いてはいなかった。錆びついたブリキ製のバス停は、二~三時間に一本のスカスカの時刻表が斜めに貼り付いている。一体何年このまま放置されているのだろう? それとも時間の概念すら失われているのか。サスケは今日からこの町、いや、この村に暮らすのだ。
 サスケはその時14歳だった。
 両親は既に亡く、10歳年上の兄イタチが親代わりだった。そのイタチに海外勤務が命じられた。条件が単身赴任だったため、イタチは後々自分の出世に不利になると承知の上で断ろうとしていた。俺なら一人だって大丈夫だ、反発心と自立心が急成長しつつあったサスケは、イタチを海外へと蹴り出した。だが、未成年の一人暮らしには色々と問題がある。サスケは遠い親戚の家に預けられることとなった。
 それが木ノ葉村のはたけカカシだ。数少ない親戚の中で、それまで住んでいた場所から一番近くにいたのがカカシだったのだが、冗談のような田舎っぷりに目眩を起こす。ここは本当に関東なのか。私鉄を乗り継ぎ無人駅を降りて、奇跡的に待機していたバスに乗り、一時間揺られてここまで辿り着いた。乗客は数人、スーツ姿の人間など一人も見かけない。農作業の途中じゃねえのかと思う老人、大きなカゴを背負った老婆、夏休みと思しき子供を連れた若い夫婦。だが終点近い『木ノ葉村入口』まで乗車していたのはサスケだけだった。
 暑さと遣る瀬なさにため息を止めようもない。
 離れたくない友達がいた訳ではない。両親が亡くなってから移り住んだ土地に愛着があった訳でもない。田舎村に数年暮らすことなど、サスケにとって何も問題などないはずだった。そう思っていたのに、いざここまで来てうんざりする。決して後悔ではない、けれどやはり、ため息は出るのだ。ポケットの中から手書きの地図を出す。バス停まで迎えに来るというのを固辞したのは社交辞令ではなく、この年頃特有の条件反射のような反抗心の表れに過ぎなかった。簡単に書かれた地図は、ぐるりと周囲を見回して照らし合わせれば実に明快に理解できる。このバス停からはたけ邸まで、相当の距離があることが──理解できるのだった。
 ため息をついていたって、距離は縮まらない。ぬるくなったアクエリアスを飲み干してスポーツバッグに押し込むと、サスケは砂利道を歩き始めた。
 道路は舗装されていないし平坦ではないが、幅は広い。おまけに滅多と車は通らず、空気は良い。サスケの歩く側には雑木林が広がり、その背後には低い山が連なる。反対側には緩やかに段を作る畑、果てにはやはり低い山々。空は遮るものなどなく、大パノラマだ。そういえば道路沿いに電柱はあるものの、信号や外灯は一本たりとも見あたらない。大人であれば環境の良さに感動するのだろうか。だが東京から来た子供には退屈なばかりの風景だ。くだらないゲームになど興味のないサスケも、それは変わらなかった。
 ふと、雑木林の中へ続く細い道が目に入る。地図を確認するが、その道ははたけ邸へは続いていない。もう少し先の大きな通りを、畑側へ向かうのだ。
 関係ない道だ。ただ、気になった。それはその道の先に神社マークが書かれていたせいではない。地図から目を上げ、じっと道の先を見つめる。それは、そこにいた。始めからいたのか、途中からサスケの視界に入ってきたのか。サスケはそれと目が合っている事実に、ずいぶん遅れて気付いたのだ。
(金髪……?)
 気付いて、ぽかんと青い目を見つめる。同じ年頃だろうか。白い半袖のシャツにジーンズ、明るい金髪が木陰に煌めき、この晴天の空のような瞳で少年は佇み、サスケを見ていた。気付いてしまうと、異様な違和感だった。ここは日本のド田舎だ、金髪碧眼の少年がそこにいる不思議に目が離せない。それなのに、少年の背後に遠く見て取れる鳥居の僅かな赤は、おかしなことに少年以上の違和感なのだ。そこに金髪の少年がいなければ、鳥居は風景に溶け込んで、この距離では目立つこともなかっただろう。ただそこに、その少年がいるせいで、何もかもがちぐはぐなのだ。
 だが、サスケは始め、その少年に気付かなかったはずだ。少年がいたから足を止めた訳ではない。いつから彼はそこにいたのだろう。どこから現れたのだろう。少年は、静かにこちらへ足を向けた。サスケはただ、それを待ち受けるしか出来なかった。
「……うちはサスケ」
 呼びかけられて、サスケは怪訝に眉を寄せる。
「あなたを待っていた」
 何だって? サスケはとたんに不機嫌になった。
「迎えはいらねえっつったはずだぜ」
 見るからに外国人の少年からするりと淀みない日本語が出たことよりも、カカシが余計な気を回したことに臍が曲がる。少年は、だがサスケの態度を気にした様子はなかった。
「知っている」
 知っている?
「お参りのついでに、待っていた」
 お参り?
 果てしなくそぐわない。サスケはじろりと少年を眺めてから歩きだした。
 少年もそれに続く。広い道だ、律儀に端を歩くこともない。サスケに並ぶ少年は、微笑みのひとつも浮かべることなくゆったりと前方を見ている。
「お前、名前は?」
「波風たゆら」
「たゆら? ……つうか、なに人だよ」
「日本人です」
「マジで?」
「はい。この村で生まれた」
 たゆらと名乗った少年は、血統はともかく国籍は日本なのだろう。ふうん、とサスケは彼の横顔を見つめた。
 不意に、その横顔がサスケに向けられた。
 ほんの微かに──笑んでいる、のだろうか?
「……会いたかった」
 ああ、何かが心許ない。会いたかった? 教師であるカカシから転校生のことを聞かされていたようだ。それにしたって、そんなふうに微笑みかけられる理由がサスケには分からない。まるで幻想だった。暑い夏、照りつける太陽、道の先は陽炎さえ立つ。田舎の村に金髪碧眼の少年、暑気に当てられて白昼夢でも見たのだと言われれば信じるだろう。
「……お前、学年は?」
 サスケは幻想を払うように、話題を変えた。
「中学三年です」
「……いっこ上じゃねえか。俺は中二、敬語はやめてくれ。気持ち悪ィ」
「分かった。でも、クラスは同じだ」
「は?」
「人数が少ない。一年から三年、全部で一クラスだから」
「……ありえねえ……」
 何とも長閑なことだ。
 たゆらが畑の向こうの建物を指した。
「あれが中学」
「ふうん」
 地図を思い描く。位置関係はだいたい把握した。サスケの視線を追って、察したたゆらの指先も動く。およそ住宅街とは言えない、畑の中に点在する家々。
「二軒続いている赤い屋根の家、手前がカカシ先生の家だ。もうひとつが己(おれ)の家」
「何だ。お隣さんかよ」
「サスケ、己の兄弟に会ってほしい」
「兄弟?」
 何故かどきりとした。まるで能面のようなたゆらの顔、ふと幽かに綻ぶ口元。それが何かの冗談のように、ひまわりのような全開の笑顔が、サスケの脳裏を埋め尽くしたからだ。
「双子の兄弟だ」
 双子。
 それを聞いて初めて、自分が想像したものが現実に存在するかも知れないのだと気付く。たゆらと同じ顔で思い描いたのは偶然の一致だろうか。そうに決まっている。サスケはたった今出会ったばかりのたゆらしか、想像のモデルがいないのだ。
 いや、本当は、想像などではない。サスケは物事に、こと人間に関して積極的な興味がない。ゆえに、情報だけで人物像を想像したことなどない。たゆらが「兄弟」と言った瞬間に思い浮かべた、違う、浮かんだのだ。勝手に。
「……少し、特殊な事情がある」
「特殊?」
 ほんの僅か見上げると、たゆらは仕方なさそうに笑ってみせるのだ。

 たゆらに促されるまま、荷物を下ろさずカカシの家を素通りする。その向こう、『うずまき』という表札の、古いが大きい家を見上げた。うずまき? たゆらの苗字とは違う。特殊な事情とやらが関係するのだろうか。たゆらに続いて鍵などかかっていない玄関を入り、サスケは大きく息を吐いた。家の中は太陽が遮られているというだけで涼しく感じる。あちこちを開け放った家には、温い風が通っていた。
「二階だ」
 振り向くたゆらに、サスケはスポーツバッグを玄関に置いて靴を脱いだ。
 みしみしと音を立てる階段を上る。二階には部屋が四つ、その内の一つはドアが閉まっていた。たゆらはそのドアを軽く叩いた。
「ナルト、己だ」
 たゆらは返事を待たずにドアを開けた。とたんに、さあっと冷気が流れ出す。この部屋だけは冷房をかけていたのだ。炎天下を歩いてきた体に、冷房の風は確かに涼やかだ。だが、淀んでいる、とサスケは感じた。人工的な不自然な風。大自然のさなかにあるこの村で、それはいかにも不自然なのだ。
「何だってばよ」
「会わせたい人がいる」
 たゆらはそう言いながらリモコンを操作する。勝手に下げんなよという不服そうな声を無視して、たゆらはサスケを招き入れた。
「転校生だ。名は……うちはサスケ」

 同じ青が、目に飛び込んだ。

 いや、同じではない。明らかに二人は一卵性双生児だ。同じ顔、同じ髪、同じ瞳、同じ声。だが違った。能面のようにほとんど変わらないたゆらの表情は、その瞳も同様だ。静かで揺らがず、作り物のようでいて感情を表さないフラットな光は野性の獣をも思わせる。
 対し、ナルトと呼ばれた彼の兄弟は、違った。全てに不服そうな顔、感情の渦巻く瞳。怒りと苛立ち、諦めと怯え。特殊な事情? サスケは一歩遅れて部屋のありさまに気付く。乱雑にもゲームソフトが堆く積み上げられ、DVDやブルーレイはケースと中身がばらばらになったまま投げ出され、勉強机の上の教科書は開かれた形跡もなく、その上に不安定にノートパソコンが置かれている。それだけを見れば、不登校や引きこもりといった言葉が浮かぶ。だが、単純にそれだけではないということもサスケには理解できた。
 ナルトはベッドの上だった。
 たゆらより一回りも痩せていて、ベッドの脇には大仰な機械が二台置かれ、壁にはAED──自動体外式除細動器が取り付けられている。今は何もぶら下がってはいないが、点滴スタンドも隅に置かれている。
(……特殊な事情、か)
「転校生……ね。関係ねえじゃん、俺には」
 拗ねた声ではなかった。本当に関係ないのだ、とサスケは思った。
 と同時にこちらが苛立つ。何故だ? 脳裏を占めた、屈託のない満開の笑顔がどこにも存在しないせいだろうか?
「サスケっつったっけ? 俺の兄弟を宜しくな」
 言いながら目を逸らす。何もかもを諦めている、けれど本当は悔しくてたまらないという、青い瞳。初対面で何故こんなにも心が波立つのか分からない。
「……お前、学校には行かねえのかよ」
 返事はない。ナルトは何も聞こえていないように、逸らした目を窓の外へ向けた。行かないのではなく、行けないのだろう。察しはつくが、サスケは自分の苛立ちを抑えることが出来なかった。
「ゲーム、パソコン、テレビ、エアコン……。この部屋から出なくても生活できるって訳か。いいご身分だな」
 目の端に、不服そうに口をへの字に歪めるナルトが映る。
「自主学習ぐらいしたらどうだよ」
 ずかずかと部屋の中へ踏み入り、ノートパソコンの下の教科書を手に取る。案の定、綺麗なままのそれ。体が弱くて登校できないなら自ら勉強したって良いはずなのだ。いくら義務教育といえども、これでは留年だろう。
「……ウルセーな、何なんだよ、お前」
 一段低くなるナルトの声にも、たゆらは割って入ることはしなかった。
「転校生だっつってんだろ。中二でお前よりいっこ下で、同級生だ」
「ふん。いっこ下かよ、エラソーな奴。いいからもう出てけってばよ」
「言われなくたって出ていく。お前みてえなつまんねえ奴、俺だって関係ねえよ」
 唐突に、固いものを投げつけられた。1メートルと離れていない距離からのそれを、サスケは避けられなかった。絨毯に転がったのはPSPだ。さすがにたゆらが歩み寄った。
「ナルト」
「うるせえな! 何でこんな奴連れてくんだよ!」
 ナルトは肩で息をしていた。ぶつけられた腕を押さえ、サスケは冷ややかにナルトを見下ろす。つまらない男、取るに足らない男、全て病のせいにして卑屈になるばかりの男。今までだって、そういうつまらない人間はサスケの周囲にも存在した。サスケはそれらを無視して、無関係に生きてきた。そんな奴らには興味なんかない。ないのだ。
 なのに、何故か、苛ついた。
 もどかしい思いが喉元までせり上がっているのはナルトばかりではなかった。何故もどかしいと思うのか、サスケ自身にも分からない。
「いいじゃねえか、俺のことなんかほっとけよ! どうせすぐ死ぬんだから勉強なんかどうだっていいんだってばよ!!」
「ナルト」
 それはほとんど悲鳴だった。
 青い目が爛々と苛立ちに揺れている。それを一番否定したいのはナルト本人なのだと、サスケにだって分かる。PSPを拾い上げるたゆらに、ナルトは枕を投げつけた。
「お前だって、早く死ねばいいと思ってんだろ! 同じ顔は二つもいらねえもんなァ!! サクラちゃんだって他の皆だって、どうせ俺なんかいてもいなくても変わんねえしなァ!!!」
 サスケは反射的にたゆらを押しのけ、ナルトの顔を打った。力任せの平手に、痩せたナルトの体は勢い良くベッドに沈む。
「じゃあ死ね。もうすぐ死ぬなら今死ねよ。全部病気のせいか? うぜえんだよお前」
「ッ……、何も知んねえくせに、テキトーなこと言ってんじゃねえよ!」
 はたかれた頬に手を当て、それでもナルトはぎらりと睨み上げ体を起こす。
「そうだよ、全部病気のせいだ! コイツも同じ病気だったのも、同じ手術でコイツだけ治ったのも、何回手術しても俺だけ治んねえのも、俺のせいじゃねえ!!」
「手術だァ? 何回したんだ」
「五回……っ、」
「フン。言うほど『何回も』って回数じゃねえな」
 サスケは身震いを押し込めて、わざと鼻で笑った。興奮に息の荒いナルトの目は、それでも全てを諦めている訳ではないと思う。怒りや苛立ちは、本当に絶望した人間には持ち得ないものだ。パジャマの襟ぐりを無遠慮に掴んで引き上げる。
「治んねえっつう割には、お前、生きてんじゃねえか。……今すぐ自分で死ねねえなら、簡単には死なねえんだよ、この、ウスラトンカチ!」
「……ウスラ、え?」
 サスケは自分の苛立ちを押し付けるようにナルトを突き飛ばす。面白くない。出会ったばかりの人間に、ここまで苛つくなどということは、今までなかった。苛つく前に興味すらなく、いや、そもそも他人に関心など持った試しがなかったのだ。
「邪魔したな、たゆら」
 言い置いて、サスケは振り返りもせず部屋を出た。むっと熱気が押し寄せる。何だか急に、現実に戻ってきた気がした。暑気の中をたゆらと歩いた時は、白日夢のようだとすら思ったものを。どちらも夢なのだと言われれば、そうなのかも知れないと納得しそうだ。心許ない。
 ただ、ナルトの頬を打った右の掌だけが、じんじんと余韻を残してサスケに現実を訴えかけていた。サスケは右手をぎゅっと握りしめた。

*     *     *


「昨日はありがとう、サスケ」
「……は?」
 翌日カカシの家を訪れたたゆらは、サスケを前にしてそんなことを言った。カラン、麦茶の中で氷が音を立てる。
 これから数年世話になるカカシに挨拶をして一息ついてから、隣の家の事情を知った。うずまきクシナという女性が、入籍をしていない男との間にできた双子を産んだこと。ひとりで育てていたものの、双子には心臓に疾患があり、専門の大病院で手術を受けさせるために一旦上京したこと。たゆらが完治したのち、クシナが交通事故で亡くなったこと。そして、アメリカにいた父親がこの村に移り住んで、双子を自分の籍に入れたこと。
「手術をもう一度受けると言い出した」
「……アイツが?」
「手術なんかしない、このまま死ぬのを待つと言っていたナルトが」
「……」
 たゆらは小さく笑んだ。
 ナルトの心臓病がかなり重篤だと聞かされたサスケは、自分のしたことに内心冷や汗をかいたのだ。だがたゆらは、その場にいたにも拘らず、手を挙げるサスケを制止しなかった。言い争うのを止めなかった。
「今まで、誰が来ても……あんなふうに激高したりしなかった。心が高ぶると、心臓に良くないから、己たちはあまり感情的にならないようにしていたから」
「……大丈夫だったのか……?」
 ああ、たゆらはそっと頷いた。柄にもなく、サスケはほっとした。
「夢を……見た」
「え?」
「あなたの夢だ」
 たゆらが幽かに笑みを口端に乗せる。能面のようなそれは、幼い頃の病を物語るのだと分かっても、どこか幽玄で現実味が薄かった。
「うちはサスケ」
 ああ、前にも、そんな呼ばれ方をした。
「己は……己たちは、あなたを待っていた」
「……たゆら……?」
 もうずっと夢の中にいるようだ、とサスケは思った。
 自分の夢ではないのかも知れない。
 誰か──例えばたゆらの夢の中にしか、自分は存在しないのかも知れない。現実感を取り戻したくて、サスケはグラスを掴む。カラリ、氷が泳ぐ。この氷はいつ融けるのだろう? 指先が冷やされてゆく。その掌が、再びじんじんと熱を持ち始めた。ナルトの頬を打った感触が蘇ってくる。
「……死なねえよ、アイツは」
 たゆらは黙って見返した。
「待ってたんだろ、俺を。だったら…死なねえよ」
「はい」
 見つめる先で、氷はその大きさに変化はない。が、時折順序を入れ替えて音を立てるのは、確かに融けているからだ。ひまわりのような大輪の笑顔を思い浮かべる。それは夢などではない。この先いくらでも見られるようになるものだ。氷を見つめたまま、サスケはその笑顔に微笑み返した。