遅れてきた男

 うっかり失念していた? そんなことはない。
 おめでとうと言うのが恥ずかしい? そんなのは今更だ。
 ナルトの誕生日に「おめでとう」と言えなかったのは、単純かつ回避不能の致し方ない事情──つまり任務で、サスケが里を離れていたからなのだった。

  遅れてきた男

 10月10日を挟んでたっぷり三週間の任務から帰ると、ナルト本人ですら誕生日などというものは過ぎ去った記憶の中の出来事だった。
「おかえり、サスケ!」
「……ただいま」
 そもそも、ナルトは自分の誕生日のことなど何もアピールしてこなくなっていた。七班の頃はやたらと喧しく宣伝していた気がする。なのに、気が付いたらナルトは全く自分の誕生日というものに注意を払わなくなっていた。
 サスケが里へ戻ってから数年が経つ。その数年のうちで、ただの一度も昔のような「俺もうすぐ誕生日なんだってばよ!」という科白を聞いていない。いつからそんなに落ち着いてしまったのだろうか? サスケが里を抜けていたあの頃だろうか? あの頃サスケが修行に明け暮れていたように、ナルトも修行で誕生日など気にかけている余裕はなかったのだろうか。
 言い出さないのは、ナルトが大人の分別を身につけたためである訳でもない。大人と言うにはまだ子供じみた部分の多い男だ。だが、それを上げつらって言うつもりはなかった。大人の分別でもって誕生日を喧伝しなくなったのではないところを、サスケは見た。
『おめでとう、ナルト君』
 去年のことだ。
 ヒナタに小さな包みを渡されて、きょとんと首を傾げるナルトを、サスケは見た。
『誕生日、おめでとう』
 そう言われるまで、ナルトは全く何の祝いの品なのだか見当も付けられずにいたのだ。
 誕生日、という単語にようやく「あっ」という顔をしてみせたが、かつてのように大袈裟にはしゃぐこともなく「ありがとだってばよ!」とだけ返していた。自分の誕生日を忘れてたのかよ、と声をかければ、最近それどころじゃなくってさ、とバツの悪い笑顔が向けられた。乾いた笑いと共にポケットにしまわれた小さなプレゼントは、その翌週ナルトの部屋を訪れた時に、そのままの形で放置されているのを発見してしまった。ヒナタ以外からの誕生日プレゼントらしき包みも幾つか転がっていた。広げたままの巻物、積み上げられたカップラーメンの残骸、取り込んだだけで畳まれていない洗濯物。そんなものの中に紛れて転がっていたのだ。
 ナルトの中で、誕生日は重要ではなくなったのだろう。それに付随する祝いの品などといったものも。
 サスケは何故か、小さなショックを受けていた。
 ナルトはそういうものを大事にしているのだとばかり思っていたのだ。サスケの中で、ナルトはそういう人間だった。そういう、ささやかな、けれど人間らしいもの。
 今になって思うのだ。
 あの時の小さなショック、それは、里に戻ってきた自分も『そういうもの』の中のひとつに過ぎないと気付いてしまったということなのだ。里を抜けていた間、確かにナルトの中は大部分がサスケで占められていたはずだ。おかしいのではないかと思うほど執拗に追いかけられた。すったもんだの挙げ句に帰ってきた訳だけれど、それに気付いてしまってからのサスケはもどかしさばかり感じるようになった。ふとした拍子に、放置された誕生日プレゼントが脳裏を過る。同じだ。同じなのだ、あれと、自分は。ただそこにあるもの。いつでもそこにあるもの。好きな時に開けることが出来ると思って、放り出されたままのもの。ナルトはもう俺を見ていない。
 怒りは感じない。
 ただ寂しい。
 寂しいと感じていることを認めるのには時間がかかった。
 だがこのもどかしさは、寂しさが由縁としか思えないのだ。
 それも仕方がない。
 サスケだとて似たようなものだった。己を棚に上げてナルトにだけ「俺を見ろ」とは強制できない。
 だからせめて、今年は言ってやろうと思っていたのだ。誕生日おめでとう、という祝いの言葉を。プレゼントをやっても、それがどうなるかは分かっている。だから形のない『言葉』をやろう、と。
 本当は、もう少し考えた。
 何か、小さくて邪魔にならないプレゼントはないものかと。もしかしたら、自分のあげたプレゼントだけは、特別扱いしてくれるだろうかと。けれど散々迷った末、決めかねて何も買えなかった。誕生日の当日は任務で里を離れることが直前に分かって、自分の出発前までしか猶予がなかったのも敗因のひとつだろう。
 結局サスケは、出発前にナルトを訪ねることもなく、事前に「おめでとう」と言うこともなかった。柄じゃない。これでいいのだ、帰ったら「そういえば誕生日だったよな、おめでとう」と言えばいい。恐らくたくさんの人々から祝いの言葉やプレゼントを貰うであろうナルトは、時期外れのサスケの言葉をどう受け止めるだろう?
 だがこれで任務で何かあったら、たとえば殉職でもしたら、自分は後悔するのだろうか。
(後悔、までは、)
 辿り着かないだろう。ほんの少しのもどかしさがサスケに寂しさを齋すだけだ。そして後悔に辿り着く前に死ぬのだろう。まあ、あくまでも仮の話である。サスケには死ぬつもりなどないし、任務を成功させて生還する自信もある。
 全くもって予定通りに任務を遂行し、そうして木ノ葉の里に帰ってきたのは10月下旬のことだった。お帰り、サスケ。当然のことのようにナルトの笑顔が出迎えるアパートの部屋の前で、ただいまと呟いてサスケは立ち尽くすのだ。
「昼間先触れが帰ってきたから、大慌てでこっち来たんだってばよ」
 見れば、ダイニングには夕飯らしきものが並べられている。まだ作りかけなのだろう、コンロにはフライパンと片手鍋が湯気を立てていた。
 お互いにお互いの部屋の鍵を持っていて、こうして片方が長く留守にする時には換気をしたり、掃除をしたりということを何となく続けている。カップラーメンにお湯を注ぐくらいしか能のなかったナルトが、いつの間にか簡単な食事を作れるようになっていた。
「サスケ?」
 エプロンなどしないナルトが、フライ返しを手にこちらを窺った。狭い玄関に立ち尽くすサスケにそのまま近付く。どうした、と訊かれる前にサスケは口を開いた。
「誕生日」
「え?」
「過ぎたな」
「あ、俺?」
 10月下旬、と言うか月末と言う方が近い。ナルトは笑った。
「お前、覚えてたんだ。なに、なんかくれんの?」
「……何も用意してねえよ。どうせ何かやったって、あの部屋じゃゴミになるだけだしな」
「わ、ヒデー! んなことねーってばよ!」
 ナルトは否定するけれど、サスケがいつナルトの部屋へ行っても、ごちゃごちゃのぐちゃぐちゃだ。サスケの神経が耐えられない時のみ、片付けてやっている。転がる誕生日プレゼント。次に行った時にはタンスの上に移動していた。その次に行った時にはなかった。やっと開封したのだろう。
 やはり、ナルトには形のない『言葉』だけをやる方がいいのだ。
「……」
 おめでとう、と。
 誕生日おめでとう、と。ずいぶん過ぎちまったけど、誕生日おめでとう。
 と──。
 口を開きかけたのに、何故だか声が出てこない。サスケがくれるもんなら何でも嬉しいってばよ~、ゴミになんかしねえってばよ~、目の前で喚くナルトはまるで昔のようでサスケは見とれた。誕生日というものに関心を失ったと思ったのは気のせいだったかと思うほどだ。
 けれど、去年見たものは、気のせいでもなければ幻でもない。
「……誕生日、」
 うっかり声が低くなる。
 おめでとうなんて言いたくなくなった。
 代わりに出たのは、

「ありがとう」

 だった。
「へ?」
 ナルトがきょとんとサスケを覗く。サスケはイタチを思い出していた。幼い頃、サスケの誕生日にはサスケへだけでなく、両親へもプレゼントを用意していた兄を。
「何でサスケが『ありがとう』?」
「……お前に言ったんじゃねえよ。お前のご両親にだ」
「ええ!?」
 ナルトを産んでくれてありがとう。ナルトをこの世に送り出してくれてありがとう。お陰で俺はナルトに出会えた。
 そんなことはナルトに説明したりしなかったが、驚いたふうのナルトは次第に穏やかな顔つきになった。そうして微かに笑って「うん」と言った。たぶん同じことを考えたのだ、とサスケは思った。
「……おい」
「ん?」
「煙」
「あ!」
 今更のように、ナルトの握るフライ返しに気付いてキッチンを見遣れば、フライパンからはもくもくと煙が立ち昇っていた。ナルトが玄関から数歩のキッチンに慌てて戻る。良かった、これで誕生日の話は終わりだ。そして来年以降も『言葉』だけで乗り切れる。何でも嬉しい、ゴミになんかしない、ナルトは本気で言っていたとしても、その場限りのことなのだ。
「大丈夫、味噌が焦げただけだった!」
「味噌?」
「豚肉の味噌漬け貰ったんだってばよ。すぐ食うだろ? 着替えてこいって」
 ほら、もう、切り替わっている。サスケはほっと息をついたが、同時にやはり、どこかがもどかしかった。

*     *     *


「あのさ、やっぱさ、欲しいものあるんだけど」
 油断していなかったと言えば嘘になる。一瞬何のことか分からなかったサスケは、うっかりナルトを見返してしまった。期待のこもる目とぶつかる。
「何のことだ」
「誕生日!」
 止まった箸を握り直し、ナルトの用意した夕飯に再び手を伸ばす。出来映えはアレだが味はそう悪くない。
「や、欲しいものっつうか、お願いっつうか」
「……言ってみろ。内容による」
 サスケは辛うじて舌打ちとため息を飲み込んだ。ナルトは、サスケが何を思うのかなど察することなく、茶碗と箸を持ったまま言うのだ。

「あのさ、一緒に暮らさねえ?」

 サスケは豚肉を取り落とした。
 何だって? 今度こそはっきりとナルトを見る。
「俺たちさあ、こうやって行き来してんだろ? なんかもう、同居しちゃった方が面倒がねえっつうか、寧ろ経済的じゃね? 今1DKだけどさ、2DK借りたらたぶん1DK二部屋の家賃より安いよな!」
「……」
 そうくるとは思わなかった。サスケは皿に転がった豚肉に視線を落とした。
「そ……っ、それにさ! 長期任務で一ヶ月単位で部屋空けても、家賃無駄になんねーし! それにそれに、ただいまとかお帰りとか、行ってきますとか行ってらっしゃいとか、言う相手ができるっていうの、いいと思わねえ……?」
 黙って俯いたサスケを、ナルトは必死で説得していた。だが、サスケは気に入らなくて黙った訳ではない。
 思いがけない提案に、何故かあのもどかしさがこみ上げるのだ。普通に考えれば、ナルトに特別扱いを受けるということは、あの放置された誕生日プレゼントと自分は違うという証明だろう。なのに何故。
「あっホラあの、食事当番とか掃除当番とか決めてさあ! 俺、二人で暮らすんなら片付けとかもちゃんとやるし!」
「……」
 ああ、そのもどかしさは、不安によるものだ、とサスケは気付いた。ナルトの懐に潜り込んで、特別扱いをぬくぬくと受け入れて、特別でいるつもりで実は放置されているのと変わらないのではないか、と。一緒に暮らせば、あの部屋が自分の部屋ともなるのだ。置き去りにされる誕生日プレゼント。置き去りにされるサスケ。
「……やっぱダメ?」
 何も反応を示さないサスケに、ナルトは萎れた。萎れているのはこっちの方だ、サスケは皮肉に笑った。それに、これはナルトの望む『誕生日プレゼント』なのだ。
「幾つか条件がある」
「えっ」
 誕生日プレゼントということを差し引いて、冷静に考えれば同居というのはナルトの言う通り経済的だ。
「お前の散らかし方に俺が耐えられなくなったら同居は解消」
「うっ……いや、やるってばよ!? 片付けるってばよ!?」
「俺かお前どっちかに女ができたら解消」
「ううっ……それお前の方が確率高ぇ……!」
「あと、2DKじゃなくて2LDKがいい」
「ん? あ、そう?」
 それでサスケが黙ると、聞く姿勢を解いたナルトはほっとしたように笑んだ。サスケはそれを見なかったふりで、箸を口に運ぶのだ。
「……もし」
「ん?」
 黙々と食べるのがいたたまれない。サスケは小さく呟いた。
「もし、来年の俺の誕生日に、俺が同居を解消したいって言ったらどうする」
 先ほどの条件をクリアしても、他人と──ことナルトとの同居にサスケが耐えられなくなることは、容易に想像できる。その問いはサスケの防御反応のようなものだった。
 ナルトがじっと、食事を続けるサスケの横顔を見つめる。見つめているのがサスケにも分かる。ナルトはぎゃあぎゃあ喚きたてることもなく、しばらくして静かに、しかしはっきりと答えた。
「そしたら、俺の誕生日の時に、また『同居して』って言う」
 サスケは目を上げた。
 からかうでもなく、責めるようでもなく、仄かに笑んでナルトはじっとサスケを見ていた。いつの間にナルトは、こんな大人みたいになったのだろう。もちろん、まだ子供じみている部分が多いことに変わりはない。大人の分別も特にない。
 けれど、こんなふうに穏やかな笑みを人に向けるようになったのだ。
 そうか、と答えてサスケはまた俯いた。
 ああ、きっと俺は、ナルトが好きなんだ。
 友情だろうか? たぶんそれだけじゃない。寂しくてもどかしいのも、不安でもどかしいのも、きっとそのせいなのだ。ナルトの箸も再び動き始める。ご飯は柔らかめだし、豚肉の味噌漬けは片面が焦げているし、味噌汁はちょっと塩辛い。どこかのスーパーで買ったと覚しき焼売とポテトサラダだけが一般的な味だ。それでもサスケには充分なのだ。
「味噌漬け、美味いな」
「おう! イルカ先生に貰ったんだってばよ! 今度会ったらお礼言ってな」
「会ったらな」
 他愛のない話題を振れば、誕生日のことも同居のこともふわりと消える。もしかすると同居も案外うまくいくかも知れないな、とサスケは思った。

 二人が2LDKの世帯向けアパートに引っ越したのは、年が明けたある雪の日のことだった。
 遅い遅い、誕生日プレゼントだった。