2LDKの幸福

 がらんとした小さな部屋を、玄関から振り返る。忘れ物はない。大きな荷物は粗方運び出したし、最後までここで使っていた日用品と寝袋はひとまとめに背負っている。普段散らかしていた分、引っ越しの荷造りは地獄のようだった。
「ナルト?」
「……ん、何でもねえ」
 最後の二日間は、サスケもこのアパートで過ごした。サスケの住んでいた部屋は既に引き払っている。
「行こーぜ!」
 今日からふたりで、新しい部屋に移る。いつもと変わることのないサスケの顔を見つめて、ナルトは堪えようもなく笑った。

  2LDKの幸福

 本当は、もっと時間をかけて口説くつもりだった。
 ライバルで、親友と言える友達になって、色々あったけど、今また『最も親しい友達』として俺の隣にいてくれるサスケ。敵同士みたいに闘ったり里を襲撃したりしたことは、サスケにしてみれば負い目なんだろう。一見すれば昔と変わらない、クールでスカした男。でも今のサスケのクールさは、他の奴らより前に出ない控え目さが原因だって、俺にも分かる。スカして見えるのは、下手に親しくなって楽しく話す相手を作らないため。サスケは自分が笑ったり、楽しく人生を過ごすことが罪だと思っているみたいだった。
 サスケには時間が必要だったんだ。
 それはたぶん、何ヶ月とか何年とか、そういう単位じゃない。何十年っていう単位。そして、そういう『時間』をかければ笑えるようになるってことでもない。サスケが神妙な態度で何十年も里のために働いて、ようやく少しはサスケのしたことを大目に見てやってもいいって人がいるんだろう、ということだ。そうなったって、完全に許してくれる人ばっかりじゃないだろう。
 でももちろん、俺はそんなのイヤだった。
 サスケのしたことで傷ついた人は、そんな俺のことも嫌って詰るかも知れない。でも俺は、サスケのことが好きなんだ。好きな奴が苦しんでいるなら半分背負ってやりたいし、出来れば笑ってほしいと思う。皆そうなんじゃないかな。人間だから間違いは犯すかも知れない。でも何度か間違ったからって嫌いになる訳じゃないと思う。自分の思い通りの奴じゃなかったからって幻滅したり嫌いになるなら、そんなの始めから『好き』じゃなかったってことだろう。上っ面しか見ていなかったってことだろう。俺はどうやったってサスケが好きで、どう頑張っても嫌いになんかなれなかった。アイツが「間違いだった」と頭を下げるっていうなら、俺も一緒に下げたいと思う。それは同情とは、やっぱり違うんだ。
 俺は周りが落ち着いてサスケも落ち着くまで、待とうと思ってたんだ。俺はサスケが必要とする時に側にいてやりたいし、そっとしておいてほしいって時には邪魔はしたくなかった。辛い時には俺を頼っていいんだって分かってほしかった。
 もちろんサスケは、大抵のことは一人でこなしてしまうし、辛い時ほど一人になりたがった。サスケは弱い自分をまだ誰にも見せられないのかも知れない。でも俺は、それを思うと胸が張り裂けそうなんだ。俺はサスケの居場所になりたかった。
 だから俺は、根気強くサスケに声をかけ続けたし、ほっといてくれっていう眉間の皺を見た時や、無関心に明後日の方向を見つめる時にはそっと引いた。昔だったら意地でも視界に入ろうとしたかも知れない。でも俺だってもう子供じゃない。大人とは言えないかも知れないけど、子供じゃない。俺はサスケに頼られたくて、居心地のいい居場所になりたかった。そして些細なことで喧嘩して、笑いあいたかった。俺は時間をかけて、サスケを慣らしていこうと思ってたんだ。
『──あのさ』
 でも俺は忘れていた。
『──あのさ、一緒に暮らさねえ?』
 俺は我慢とか辛抱とかが、滅法苦手だってこと。
 三週間の任務から帰ってきたサスケが、俺の誕生日を覚えていた。俺は過ぎた誕生日のことは既に、出来の悪い頭から雫れ落ちてた訳だけれど。サスケは自分の任務期間中に俺の誕生日があったことを、ちゃんと覚えていたんだ。それがどんなに俺を喜ばせたかなんて、サスケは知らない。
 俺は小さい頃ずっと、誕生日だからって人から祝って貰ったことなんてなかった。どんなにアピールしても、俺の生まれた日は里の人たちにとって悲劇の日だったから、結局悲しみの中に流れていくだけだった。アカデミーを卒業して七班に配属されて、そして初めて皆に「おめでとう」と言われた時には、帰ってからこっそり泣いた。それ以来、誕生日プレゼントを貰うことがあっても直視できないでいる。アパートに帰って何日も眺めて、心を落ち着けてから開けたって、やっぱり嬉しすぎて泣けてくる。生きてて良かったと思う。
 サスケは「ありがとう」なんて言った。
 誕生日、ありがとう、だって。
 俺に『おめでとう』じゃない、俺の両親に向けた言葉だった。それってさ、俺が生まれて良かったってことだよな。お前は俺に会えて良かったってことだよな。俺は感激のあまり豚肉を片面焦がした。
 本当は、もっと時間をかけて口説くつもりだった。
 俺はお前と家族になりたいんだ。俺はお前と家族になれると思うんだ。仲間や友達より近い存在になりたいんだ。行ってらっしゃい、行ってきます。ただいま、お帰り。おはよう、おやすみ。そんな他愛もない日常の挨拶をお前と交わしたいんだ。
 なのに、祝いの言葉なんか貰ったら、浮かれちまって我慢とか辛抱とかは全部すっ飛んだ。気が付いた時には、誕生日プレゼントにかこつけて、一緒に暮らさないかと言っていた。ああ、本当は、家族になってくれって言いたかったけど。それを言うのはさすがにまだ早い。
 サスケは条件付きでOKしてくれた。
 ちょっと意外だった。
 いくら誕生日プレゼントだとはいえ、無碍に断られる可能性の方が高いと、俺は勝手に思ってたんだ。あつかましいなとか、面倒くせえとか、お前そんなに金ねえのかよとか。断られたって、とにかくサスケと『会話』が出来ればいいと思ってた。断られたら、やっぱりこの先時間をかけて、口説いていけばいいんだって。でもサスケはOKしてくれた。条件付きだけど。このOKが、俺に対する引け目のせいじゃないといい。
 順番としては逆になっちまったけど、一緒に暮らしながら、家族みたいに挨拶しながら、家族になろうって口説けばいいよな。誰からも距離を取ろうとするお前だけど、俺からも距離を取ろうとしたお前だけど、部屋の換気なんていう理由を付けてお互いのアパートに行き来するところまで漕ぎ着けた。俺はお前の居場所になりたいけれど、お前の中に俺の居場所も作りたい。少しずつ分けあって、少しずつ家族になろう。言葉にしないで伝わったら理想的だけど、言葉が必要ならちゃんと言うから。

 だから、まずは一歩。
 お互いに一歩ずつ踏み出して、一緒に暮らすんだ。

*     *     *


 新居は真新しいアパート、一階の角部屋だった。里の中心からは少し離れた、静かな場所だ。白い息を吐きながら、二人してそこを目指した。新しい生活を、サスケは想像するのも恐ろしかった。なのにとうとう、ここまで来てしまったのだ。
 新築の2LDKは、結局今までの二人の家賃を合わせた額と同じくらいだった。だがサスケは文句は言わなかった。家賃は変わらなくとも、光熱費は多少減ることを見込んでいる。
 引越に際して、家具などを買い換えたりはしなかった。そもそも、まだ使えるものを処分してまで新調する気にもなれない。だが、新築の綺麗な部屋に置かれた古い持ち物は、酷く不釣り合いに見えた。自分とナルトが不釣り合いである証明のように見えた。
 自分のアパートを引き払ってのちの二日間は、ナルトのアパートで過ごした。家財道具の既にない部屋は、演習の合宿のような雰囲気だった。ベッドも布団も運んでしまったので、二人とも寝袋を使っていたのも理由のひとつだろう。七班の頃を思い出しかけて、気を逸らすのに必死になった。
 新居は、玄関を入ってすぐ両脇に部屋がひとつずつ。右側の、窓が二面ある方がサスケの部屋。左側がナルトの部屋。左側は窓が一面にしかない代わりに、右側より広い。サスケより荷物の多いナルトが広い方、と言われて頷いた。それに、サスケは布団だけだがナルトはベッドだ。どう考えても場所を取る。
 右側の部屋に隣接する形で浴室とリネン庫、左側にトイレと納戸。奥にリビングとダイニングキッチン。
 ナルトがどうしてもと言い張って買った、長方形の大きなコタツがリビングを占拠している。テレビもナルトの私物だ。被る持ち物は、余分を納戸にしまった。処分しない理由は、ナルトは聞かなかった。同居を解消する時のためだ、と気付いているのだと思う。それはいつか必ず同居を解消するという前提ではなく、処分しないことでサスケに逃げ場を作っているということだ。サスケが嫌だと思ったら、すぐに同居を解消できるように。サスケは何となくそう思った。コタツを眺めて、そこに座る自分とナルトを想像する。ナルトの横顔は笑っている。自分はどうなのだろう。後ろ姿では分からない。
「あれ、もう片付いたのかよ」
 ばたばたと自分の部屋を整理するナルトが、リビングを眺めるサスケを見つけて言った。早ぇなあ、言いながらふと足を止めた。
「……雪だ!」
 カーテンを開け放ったリビングの窓、ほたほたと綿のような雪が降っていた。言われて初めて気が付いた。
「初雪だな!」
「……そうだな」
「サスケ、コタツつけといてくれってばよ! 俺ももう終わるから!」
 ナルトは喜々として、部屋に戻って片付けを再開する。サスケはぼんやりと外を見つめて、そしてコタツのスイッチを入れた。エアコンは既につけてある。
 まだ冷たいコタツには入らず、窓を開けてベランダに出る。寒い。けれど刺すような寒気が、解けてしまいそうになるサスケを正気付かせてくれる。今日からナルトと暮らすのだ。放置された誕生日プレゼントを思い出せ。それに耐えられなくなったらここを出るのだ。甘やかすみたいなナルトに、本気で甘えたりしたらバカを見る。雪に手を伸ばす。ひさしの中に舞い込むひとひらを受け止める。あ、と思う間に結晶は解ける。自分に体温があるなんてことは忘れていた。
「わ! 何やってんだよ、寒ィだろ!?」
 振り向くと、粗方の片付けを終えたらしいナルトが駆け寄っていた。
「……悪い」
「や、俺じゃなくて! お前が!」
 サスケは皮肉に笑った。昔であれば確実に、ナルトはそんな大人みたいなことは言わなかった。お前のせいで寒いと言ったはずだった。
「蕎麦……食うだろ。引越蕎麦」
「あ、うん」
「コタツ入って待ってろ」
 後ろ手にカラリと窓を閉める。
「カーテンどうする。閉めた方が暖まるけど」
「ん、ちょっと雪見てえから、開けとく」
 ナルトが笑う。
 サスケはそこから逃げ出した。
 世帯向けだけあって、キッチンは広い。シンクは今までの倍もある。鍋に水を張って火にかけ、振り向くとナルトと目が合った。後ろ姿をずっと見られていた。もどかしさがこみ上げる。
「……何乗せる」
「えっと、エビとイカとかき揚げ!」
 来る途中で、惣菜屋で天ぷらを買っている。ナルトはずっと上機嫌だ。サスケはそれを見る度に唇を引き結んでいた。
 出来合いの惣菜に市販の麺つゆ、ご近所への挨拶用のものと一緒に買った乾麺の蕎麦。形式的な挨拶でもしないよりいいでしょ、と言ったのはカカシだ。蕎麦を茹でながら、挨拶へ行くことを考えただけで気が重い。
「おっ! サンキュー!」
 各自持ち寄った食器は統一性なんかない。サスケはともかく、ナルトはラーメン用のどんぶりだ。だが当然、ナルトはそんなことは気にしない。
「あ、お前もここ座れってばよ」
「は?」
 ナルトはそう言ってポンポンとすぐ横の座布団を叩いた。長方形のコタツの長辺にナルトが座っているので、狭い方(と言っても普通のコタツほどの広さだ)に自分の蕎麦を置いたサスケは、思わずナルトを見つめた。
「何で並んで……」
「雪見ながら食えんだろ!」
「……」
 別にいい、と言おうとして、サスケは何故か口を閉じた。窓から外を見る。雪がしんしんと降っている。サスケは蕎麦をナルトのラーメンどんぶりの隣に置いた。座るまでを見守られて、思わずため息が出た。もちろん、ナルトは意に介さない。
「へへ、んじゃ、いただきます!」
「ああ。いただきます」
 ナスの天ぷらを口に運びながら、ああ、一人では「いただきます」なんて言って食べることはなかったな、と思った。窓の外の雪が綺麗で、辺りはしんと静かだった。


「……おい、ナルト」
 んん、と唸っただけで、ナルトは目を覚まさない。
 蕎麦を食べたあと、ナルトはコタツに入ったまま、ごろりと横になっていた。行儀が悪いと咎めると、いいじゃん家なんだからと言われて、それもそうかと放置した。
 夜が近付くにつれ冷え込んできて、雨戸とカーテンを閉める。新しいアパートは石油ストーブ禁止なので、エアコンだ。こんなところでごろ寝していては喉を痛める。寝るなら自分の部屋へ行け、と揺すってみても、引っ越し疲れかナルトは寝返りを打つだけだ。
 放置して、自分は部屋で寝ても、ナルトは文句は言わないだろう。
「……」
 だがサスケは無防備に眠るナルトを覗き込んで、ほんの僅か、笑った。
 何の警戒もなく眠るナルト。ここは彼の家で、彼が警戒を解いて寛げる場所なのだ。その彼の家は自分の家でもあって、しかしサスケが警戒を解けるのは自分の部屋だけだ。しかもナルトのたてる物音でもすれば、寛ぐ空気など消し飛んでしまうのだろう。まるで隠れんぼのように息を潜めて日々をやり過ごすのだろう。
 サスケはナルトの部屋に入ると、枕と毛布を持ち出した。コタツで大の字に眠るナルトの頭に枕を押し込み、二つ折りにした毛布を掛ける。コタツは付けたまま、エアコンだけを切った。
「……慣れねえと、な……」
 家の中に、自分以外の気配があることに。
 昔はずっとあった、自分以外の気配。誰かしら任務に出ていて、家族四人が全員揃うのは珍しかったとはいえ、いつもサスケ以外の誰かは家にいた。一度『独り』を経験してしまうと、酷く臆病になるものなのかも知れない。同時に、『独り』は気が楽で開放的であることも知ってしまうのだ。
 ふと、立ち上がりかけて、サスケは再び座り込んだ。ナルトの寝顔を見つめたまま、足をコタツに突っ込む。じわりと暖かくて、駄目になっていく感じがする。警戒など必要ない。ナルトを相手に警戒するなんて、全く必要のないことだった。ここは自分の家でもあるのだ。サスケはナルトを真似て、そっと横になってみる。二人の体の隙間から、コタツの中の暖まった空気がこぼれ出る。何となく、もったいないなと思って体を寄せる。ナルトは目覚めない。横になったまま、至近距離からだらしない寝顔を見つめる。コタツは暖かくて、寄り添うナルトは温かい。部屋に戻って布団を敷くのがバカバカしくなってきた。健やかな、規則正しい寝息。眠くはないと思っていたのに、暖かさに体の強ばりが解けると、瞼は自然と重くなった。

*     *     *


 ふと目が覚める。
 リビングの照明は付けっぱなしだ。見慣れない天井に、ナルトは自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。ああそうだ、引っ越したんだ。ぼんやりと広がる視界に、黒髪が映った。
(サスケ)
 心臓が止まるかと思った。暖を求めてだろうか、ナルトの肩に頭をすり寄せている。その体はこちらを向いている。緩やかな呼吸は深い眠りを表している。顔は見えない。さらりと流れる前髪から、白い額と鼻の頭が覗くだけだ。
(ああ)
 気付けば、自分の頭の下には枕らしき感触がある。毛布が体に掛けられている。その毛布は自分のものだ。コタツでごろ寝した自分のために、サスケが持ってきてくれたのだ。
 そして、そればかりでなく。
 サスケまで、自分の部屋ではなく、こんなところで眠っている。寄り添うように眠っている。ナルトが目覚めたというのに、サスケはまだ眠っている。
(ああ)
 それが嬉しい。
 どうしようもなく嬉しい。
 身内と認められたみたいで嬉しい。
 自分にしか掛かっていない毛布をサスケにも掛けてやりたいし、枕だって譲ってやりたい。けれどナルトは動かなかった。身じろぎもせず、乱れかけた呼吸を静かに整える。じわり、何かが滲んだ。視界が歪む。
 サスケはまだ、こんな場面を自分に気付かれたくないだろう。ナルトの側で警戒を解いて眠ったなんて、知られたくないだろう。今ここで気が付けば、能面のような顔で自室に帰ってしまうだろう。
(ありがとう)
 とんだ誕生日プレゼントだ、こめかみを伝う喜びが髪の中に滲みてゆく。いつかは、コタツでごろ寝して夜中に目覚めて自分と目が合っても、逃げ出さないでくれるといい。
(これから、宜しくな、サスケ)
 引越蕎麦を食べた時には言いそびれたことを、そっと心で呟く。考えてみれば、同居をOKしてくれたことが既に、サスケにしてみれば最大の許容だったのだ。
(ありがとな)
 体の右側に感じる体温に、ナルトは感謝した。空気は冷えている。外はまだ雪が降っているのだろう。静かで明るい部屋で、ナルトは再び眠りに就いた。サスケとふたりで眠りに就いた。