Lip balm! Lip balm!

  Lip balm! Lip balm!

「そうね……気にするようになったというのは、良いことだと思うけど。でも、ここまで来て気にするのは、どうかと思うわよ」
「……」
 木ノ葉の割と大きなドラッグストア、とある売り場の前で固まるサスケをサクラは見上げた。
 五メートルほどの距離を空けてサスケが睨む、いや凝視するのは、リップクリームのコーナーだ。ざっと見て20種類は並んでいる。そこで女の子が二人、あれがいいこれはどうかしらと物色している。サクラは横目でサスケを窺いながら、小さく息を吐いた。
 サスケが気にするようになったこととは、たぶん唇の荒れである。ここまで来て気にするのは人目、実用品であるリップクリームの売り場が化粧品コーナーの中にある、ということだ。
 サクラは何も、サスケに何かしらの相談を受けて一緒にそこにいる訳ではない。日用品の買い出しに来て、そこで硬直しているサスケを発見しただけだ。だが、うっすらと汗を浮かべて遠い目をしているサスケの目的がリップクリームであることを察してしまえば、サクラには全てが容易に想像できた。
 今年の冬は乾燥が厳しい。サクラもハンドクリームを使う頻度が高かった。当然、唇も乾燥する。がさがさの唇を晒すなんて、妙齢女子としてはもってのほか。サクラにはキスする相手はまだいないけれど、恋人のいる女の子はこの時期リップクリームは必需品とも言える。
 そう、つまり。
 キスする相手のいるサスケも、自分の唇の荒れが気になったのだろう。
(ナルトが気にするとは思えないけど)
 サスケの相手はナルトであり、ナルトはサスケの唇が荒れていようが肌が荒れていようが、気にするとは到底考え難い。気にする以前に気付かないのではないだろうか。女の子には幻想を抱いている様子が見受けられるけれど、同性のサスケにまで同じ幻想を押し付けたりはしない、ということもある。
「……ここで買うのが恥ずかしいなら、薬局でも売ってるわよ?」
 種類は少ないけど、と一応付け足す。
 サスケが重くため息をついた。
「……メンソレータムばっかりだった」
 何と、既に確認済みだったらしい。サクラは片眉を器用に上げた。
「ふうん。メンソレータムは苦手?」
「匂いが気になる」
 女の子二人組がそこを離れるのをしっかりと見届けて、サスケはようやくぎこちない足取りでリップクリームに近付いた。後ろから見守っていると、実に焦燥感溢れる様子でサスケが振り向く。
「まあ……ごゆっくり?」
「……」
 別に意地悪をする訳ではないけれど、サクラとて自分の買い物がある。カゴの中にはシャンプーやリンス、液体の洗濯用洗剤などが既に入っていて、結構な重さだ。
 だが、もちろんサクラはサスケに甘い。行かないでくれ、と雄弁に目で語るサスケは本気で必死のようだ。はあ、と軽くため息をつくと、サクラはサスケと並んで足元にカゴを置いた。あからさまにサスケの空気が和らいだ。
「メンソレータムは除外なのよね?」
「……ああ」
「香り付きは大丈夫? ほらこれ、オレンジとかグレープとか、ストロベリーとか…」
「……そういうのも遠慮したい」
「ああそう。無香料ね」
 サクラはあれこれ手に取りながら、サスケの希望に沿って絞り込んでゆく。
「固形のとジェルタイプのがあるけど」
「……何か効能が違うのか?」
「これは好みね。ジェルは唇ぷるぷるに見せてくれるから女子には人気あるの。ま、そのかわり結構こまめに塗り直さないとアレなんだけど」
 ぷるつやキープと書かれたパッケージに、サスケの眉間が僅かに狭まる。別にそんなクチビルを目指している訳ではない、という顔だ。それもそうか。
「はいはい。固形ね。これなんかどう?」
 サクラはミツバチの描かれたリップクリームのサンプルを手に取った。
「……あ、結構匂い強いかも」
「そうだな……」
 キャップを取って鼻に近付けると、甘い匂いが漂う。無香料ではあっても、蜂蜜を使ったものは蜂蜜の香りがするのが正しい。
 こうして見ると、自然派志向のリップクリームは意外に少ない。けれどサスケ向けには選択肢が少ないに越したことはないだろう。シアバター配合のシンプルなリップスティックをサスケに渡す。
「これはどう?」
「……ああ」
 サンプルを嗅いで、サスケはほっとしたように頷いた。他のものに比べて少々値は張るが、惜しむような額でもない。
 じゃあこれね、とサクラは自分のカゴにそれを一つ入れた。ここまで付き合うなら、最後まで面倒みてあげようじゃないの。
「サクラ?」
「私の買い物に付き合ってくれたら、これ一緒に会計してあげるわよ」
 言い終わらないうちから、サスケの顔が安堵してゆくのが分かる。助かる、と呟いたその顔は、緊張が解けたせいだろう、非常に柔らかに笑んでいた。
(もう、可愛いんだから……!)
 サスケ的に恥を忍んでまで唇の荒れをどうにかしたいのが、あのスットコドッコイのためだなんて、考えれば腹立たしいけれど。
(てゆうか、全然荒れてるようには見えないけど……)
 ぱっと見では、別にサスケの唇は普通だ。だが、こんな思いをしてまで買いに来るということは、本人は気にしているということなのだ。乙女じゃないけど、乙女心と言うか何と言うか。ああナルトが羨ましい。
 無事会計を済ませ、ドラッグストアを出たところでリップクリームと代金を引き換えて、じゃあまたねと笑顔で別れる。お買い物デートの気分を味わえたのは、ちょっとしたラッキーだったのだと思うことにして、サクラは足取り軽く家路についた。

*     *     *


 サクラの想像は、実際には少々ズレていた。
「なんでこんなの……」
「いいから付けろ」
 厳しい顔のサスケが差し出したのは、リップスティック。ナルトは怪訝に口を尖らせた。既にパッケージから出されたそれは、女の子がよく持ち歩くもの。口紅と同じ形の、けれど使用目的は違う、リップクリーム。
 サスケが恐い顔をするので渋々受け取るが、正直何故こんなものを自分に付けるよう命じるのかが分からない。
「そりゃあまあ、ちょっとは荒れてる気もしなくもねえけど。でも、どうにかしなきゃってレベルでもなくね?」
「……いいから塗れ」
「……ハイ」
 何だろう、この絶対的な威圧感は。
 ナルトは雷が落ちる前に折れることにした。何しろサスケの雷は、本当に雷なのだ。
 キャップを引き抜き、くるりと軸を回すと乳白色の固形クリームがにゅっと顔を覗かせる。人生初のリップクリームだ。が、口紅を塗るのと同じ仕草に抵抗はない。おいろけの術ではそんなこと以上に艶っぽい動作だってお手のものなのだ。サスケの顔色を窺いながら、きゅきゅっと下唇に塗り込める。
「……あ、」
 リップクリームを見ると、何だか大袈裟に削れていた。荒れた部分に引っかかったのだろう。ぐ、と唇をこすり合わせれば、やけにべったりとした感触だ。ほら見ろ、と言わんばかりにサスケはため息をついた。
「……痛えんだよ、キス……する時」
「え、でもすぐ湿って柔らかくなるってばよ」
「……」
 きょとんと見返すと、サスケは大変不服そうに口をへの字に曲げるのだ。
 実は、ナルトはキスの時、乾いた唇が互いの唾液で湿ってゆく感触が大好きだ。するりとしたサスケの唇が、濡れて仄かに色づいて、小さく光を弾いたりするのを至近距離から眺めることが出来るのは、恋人である自分の特権だ。
 ああ、しかし、それはあくまでサスケに対する感想だ。サスケからしてみれば、同じことを思うよりもまず、荒れた唇が触れて痛いという方が気になってしまうのだろう。そんなことでキスに集中できないなんて言うのなら、それはもう治すしかない。不機嫌の骨頂という顔を前にして、ナルトは慌てて謝った。
「あ、えと、ゴメンってばよ! 付ける! 塗る! クチビルガサガサの時にはチューしない!」
「……」
 なっ? と右手にリップクリーム本体、左手にキャップを握り締めたまま、サスケを覗き込む。だが、サスケの不機嫌な顔は更に険悪な色を乗せた。
 ぐい、と。
 不意に胸ぐらを掴まれ、引き寄せられる。
「サス──」
 ちゅう、と唇に吸い付かれてナルトは目を見張った。
 ああ、この顔は。何でサスケがこんな顔をしているのかと言うと。何が気に入らないかと言うと。
 付きすぎたリップクリームをサスケに分けるように押し付けてみる。サスケは避けなかった。別に、ナルトの唇が荒れているのを気遣った訳ではない。ただ自分が、荒れた唇を押し付けられるのがイヤなのだ。だからと言って、キスをしたくない訳でもない。サスケは自分が気持ちよくキスできるように、こんなものを買ってきたのだ。ナルトは嬉しくて、リップクリームを握ったまま、サスケを抱き締めた。
「……唇が荒れてる時は、リップクリーム塗ったら、キスしてもいい」
「ウン、分かった」
 ガサガサの時はチューしない、と言ったのもNGだったのだろう。ああ変なところが可愛いってばよ。

 そうして、しばらくののち。
 ナルトから間接的にリップクリームを塗られ続けたサスケの唇は、女子が絶望しかねないほどにつやっつやとなった。これがいわゆる『キスしたくなる唇』というものだ。
(完璧ね、サスケ君……!)
 結果として、サクラの勘違いは、勘違いではなくなったのだった。