ペチカ

  ペチカ


 吐いた息がくっきりと白い。凍えた指先には既に感覚もなく、防寒の厚手のコートを突き通す冷気は腕や脚の骨まで届くかのようだ。晒される顔も痛いほどで、眼球すら冷えている。
(降るかな)
 辛うじて内臓だけは温度を保っていることを主張する、白い息。
 昼間は予報より暖かかったけれど、日が傾いてから急速に気温は下がった。この分だと雪が降るかも知れない、ナルトはどこか楽しい気分を抑えきれなくて笑った。いくら寒くても、雪は嫌いではない。それも、雨から始まるのでなければもっと良い。
(それに)
 そう、それに、ナルトには帰る家がある。
 どんなに寒くても、冷え切っても、雨風をしのぐ家がある。暖房を利かせて、こたつを付けて、体を休めることの出来る場所がある。ナルトは笑った。
(それに)
 それに、である。
 その家は、ナルト一人のものではない。
 サスケがいる。
 二人で同居を始めて、もうすぐ一年になるのだ。
 人と暮らすということに、ナルトもサスケも慣れていなかった。ゴミの捨て方、茶碗の洗い方、掃除の仕方、ナルトからすれば些細なことだがサスケにしてみれば気に障る事柄は多く、言い合いは喧嘩腰になることもしばしばだった。もちろん、同居を持ちかけたナルトの方が折れる場面がほとんどだ。サスケの方が常識的というか合理的な考え方であるということも、当然の前提だが。
 それでも、サスケは同居を解消したいとは言わなかった。
 この同居はナルトがねだった誕生日プレゼントで、サスケは気に入らなければ自分の誕生日に「同居を解消したい」と要求するかも知れないことを言ったものだ。
 けれど、同居を始めた今年、サスケは自分の誕生日にそんなことは言わずにいてくれた。完全に許容されたのではないことは分かる。ただ、再び引越の手間がかかることを面倒がって同居を続けている、というだけではないことも分かる。同じ空間に二人でいることに、サスケはどこか緊張感を持っていた。下忍の頃、任務で一緒に過ごした時には感じなかったものだ。
 サスケは里を抜けていた時に、人との付き合い方というものを忘れてしまったのかも知れない。だから、ナルトはサスケに気を使ってはいけないのだ。一人で暮らしていた時と同じように、また、かつての七班の頃のように振る舞った。もちろん、お互い快適に同居生活を送るためにはルールが必要だということも知った。サスケがナルトに関して気に障ったのはそういうところで、自力で気付きそうもないと思うと、ちゃんと言葉にして言ってくれた。口調は次第に喧嘩腰になっても、納得すればナルトは素直に謝った。同居のルールを守りつつ、サスケに対しておかしな気を使わない、というナルトなりのスタイルが出来上がったのはつい最近のことだった。
 ただ、肝心な「家族になろう」という提案は、口に出せないまま。
(あ)
 辿り着いたアパートの部屋には、明かりが灯っていた。
 サスケがいる。
 ナルトは笑った。

「ただいまぁ!」
「おかえり」
 鍵のかかっていないドアに、ナルトは酷く気持ちが弾む。ただいま、おかえり、そんな挨拶を同じ部屋で交わす幸運。どたどたと居間に入ると、中忍ベストを着たままのサスケが出迎えた。
「あれ、お前も帰ったとこ?」
「いや……これからだ」
 言われてみれば、部屋は充分暖まっている。
「あれ? でも今日、任務だったよな」
「ああ、それは半日で片付いた。さっき急に呼び出されたんだ」
「ええー」
 病欠の奴がいて人手が足りないらしい、とコートを羽織りながら言う。
「外、寒いぜ。雪降りそうだってばよ」
「……みたいだな」
 ナルトの真っ赤になった鼻を見て、サスケは小さく笑った。胸がぎゅう、と締め付けられる。こんな些細なやりとりが、ナルトは愛おしくてたまらなくなるのだ。
「長えの?」
「予定では明後日まで」
 明後日。
 カレンダーを見ると、ナルトはアッと声を上げた。
「クリスマスだってばよ!」
「……お前はそういう行事ごとが好きだな」
「だって楽しいじゃん」
 サスケは口を半分開きかけたままナルトを見て、そして目を逸らした。そうかもな、と小さな同意が聞こえた。
「俺、ケーキとか買ってこようかな!」
「いいけどな、俺が明後日までに帰れなかったら、お前が全部食っとけよ」
「ええー! そんなんつまんねえよ!」
「どうせ俺はそんなに食わねえよ、ケーキなんか」
 ちぇ、と口を尖らせる。
 コート姿のサスケが玄関で、靴を履くのに俯いた。俯いたまま言った。
「どうせなら、サクラとかヒナタを誘ってみればいいじゃねえか」
「え? 何で?」
「……恋人とかと、過ごすもんなんだろ、クリスマスは」
 サスケの声はいつもと変わりない。
 けれど、何かを試されているのだな、とナルトは思った。俺かお前、どちらかに女が出来たら同居は解消。そんな条件を思い出す。
「サクラちゃんもヒナタも、恋人じゃねえってばよ」
「だから、クリスマスを一緒に過ごす恋人になってくれる女を探してみろよって言ってんだ」
「……変なの」
 恋人がいれば、別にクリスマスに限らなくても一緒に過ごすものではないだろうか。ナルトは正直、今は女性とのお付き合いを考えたくなかった。ずっと好きだったサクラとさえ、付き合いたいとは思っていないのだ。
「せっかくお前と暮らしてんのに。恋人なんかいても邪魔なだけだってばよ」
「何だそれは。逆だろ、恋人がいて邪魔になるのは俺……」
「んもー! 同居やめたいって言ってんの!? 俺はまだまだ、お前と一緒にいる方がいいの!」
「……そうかよ」
 靴を履き、立ち上がってもサスケはナルトを振り返らない。けれどナルトは、無理矢理こちらを向かせるような真似はしなかった。
「明後日、俺休みだから、なんか飯作っとくな」
「……ああ」
 サスケはそこでようやく振り向いた。
 何でもない顔をしていた。
「今夜の飯、台所に置いてあるから」
「おっ、サンキュ!」
「面倒臭がらねえで、ちゃんと温めて食えよ」
「おう!」
 サスケはまだ、少し臆病なままなのだ、とナルトは思った。
 見送って玄関を施錠して、自分の部屋から普段着を掴んで風呂場へ入る。汚れた服をカゴに入れる、ということを覚えたのは、サスケと同居を始めてからだ。
 見れば、風呂も焚けている。サスケはナルトが帰ってくる日に自分に余裕があれば、こうして風呂も食事も用意してくれるのだ。たぶん共用部分の掃除もしてくれている。同居を始める前も、どちらかが長期任務で部屋を空ける時には手の空いた方が世話を焼いていた。やっていることは、その頃とほとんど変わらない。けれど、同居というものは、そういう通いの付き合いとは全く違うのだ。ナルトはその違いが新鮮で、そしてどうしようもなく嬉しいけれど、実のところサスケには精神的に負担を強いているのではないかとも思う。
 それでも、もうすぐ一年が経つ。
 あの頃よりは確実に、サスケのガードは弛められている。クリスマスもいいけれど、一周年の方がナルトには重要だ。ただ、あんまりはしゃげばサスケは引く。互いにお付き合いまで発展する女性がいないことも、ナルトには都合が良くても、そんな条件を出してきたサスケには何か思うところがあるのかも知れない。
(なんか、これじゃあ俺、サスケと付き合いたいみてえ)
 湯船のへりに頭を預け、天井を見上げる。
 もうしばらくは、そんな女性が現れなければいい、と思う。いや、もうしばらくなどと遠慮がちな希望でもない。もっと、ずっと、何年も、何十年も。ずっとずっと、サスケと二人で暮らせたら。野生動物みたいなサスケの、一番近くにいて許される存在で居続けたい。本当の兄弟のように、本当の家族のように。
 サスケにお付き合いする女性が現れれば、今のナルトの座は奪われる。サスケはナルトを放り出して、ナルトに接する以上の親密さをもってその女性と愛を育むのだ。
(……なんか、想像つかねえな!)
 サスケがもてることは知っているし、その顔が大変整っていることも認める。声もいいし、多少無愛想なだけで、仏頂面に隠された深い情を知れば余計に心惹かれるだろう。
 なのに、女の子とお付き合いするサスケ、というものは全くと言っていいほど想像できなかった。女の子に愛想を振りまいて、その女性しか目に入らない様子なんて。いや、サスケのことだから愛想を振りまくなどという芸当は出来ないかも知れない。亭主関白よろしく、楚々とした女性がサスケの二歩後ろを歩く姿がせいぜいの想像だ。
(……変なの)
 そんな素っ気ない態度を取りつつ、男と女の話である、夜にはその女性を相手に励む訳だ。
(うっわ……)
 ことさら想像の範疇を超える。
 サスケは男だし、格好良いし、すごくもてる。なのにそのイメージは清廉潔白で、いかがわしい想像などナルトには及びもつかない。
(……サスケ、好きな人いるのかな)
 不意に切なくなった。
 ざぶん、と頭のてっぺんまで湯船に浸かる。サスケが何を考えているのか分からない。けれど、許容できるラインのぎりぎりのところまで、こちらに歩み寄る努力をしてくれていることだけは感じる。ぷはあ、と水面に顔を出して湯を払う。友達、親友として、自分はきっとこれ以上はないところにいる。兄弟のように、家族のようになりたいと思うのは、望みすぎなのだろうか。
(……そっか、でも……)
 家族でも、サスケが結婚するなら同じなのかも知れない。
 こうして一緒に過ごすことが出来るのは、本当に一瞬にすぎないのかも知れない。
 変わらずにいることは難しい。サスケの場合は変わろうと努力してここにいる、ということもある。
「はあ……」
 最近は一人になると、そんなことばかりを考えている。
 同居を始めた当初には思いも寄らない事態だった。気を使わないつもりで、実は使っているのだろうか。元々考えることは苦手のナルトである。もやもやを抱えたまま、区切りを付けるように立ち上がった。

*     *     *


 まるでぬるま湯だ、サスケは白いため息を吐いた。
 刺すような寒気が緩みきった神経には丁度良い。
(何がクリスマスだ)
 何が「恋人なんか邪魔」だ、何が「お前と一緒にいる方がいい」だ。ナルトは同居を始めてから、サスケを最優先する傾向がそれ以前より強くなった。信じてしまいそうな自分がバカみたいだ、と思う。冗談めかして「じゃあ俺と付き合うか」と言ってしまいたくなる。陰でどんな言われ方をされているのか、ナルトは知っているのだろうか。木ノ葉の英雄が男色に走っただの、サスケを追い続けていたのは恋慕ゆえだっただの。
 自分のことについて言われるぐらいは我慢できる。里に戻るためにナルトを誘惑しただの、ペナルティで薄給だからと言ってナルトに寄生しているだの。どんな言われ方をしたところで、今更サスケの心に傷など付かない。
 けれど、ナルトは違う。
(そろそろ…潮時かもな)
 ナルトは純粋に、サスケを兄弟のように思っている。そこに邪な思いなど、感じようもなかった。
 確かに、男や女という垣根なく、ナルトの最優先はサスケだ。同居を始めて一年近く経つが、かつて危惧したように放置されることもない。開けられることのない、放置された誕生日プレゼント。サスケはいずれ、自分も「ただそこにあるもの」になるのだと恐れていた。アパートの内と外を問わず、いつでも意識を向けられ、いつでも自分がナルトの特別であるかのような、幸福な錯覚。ナルトは優しい。昔からサクラ一筋の癖に、そのサクラよりもサスケを優先してくれる。
 一度里を抜けたことで、傍に置いて見張っているのだろうかと疑ったこともある。だが、ナルトはいつだってそれはそれは嬉しそうにサスケを見るのだ。単純に、サスケが里にいることが嬉しいと、そういう顔なのだ。
「よう、サスケ。久しぶりだな」
「ああ……」
「悪いな、帰ったとこだったんだって?」
「まあな。気にするな」
 このままいつまでも、ナルトの笑顔と注意が自分に向けられる保証はない。その前に出て行くべきだ、と理性では理解している。
 どんなに後ろ向きだと嘲られても、臆病だと罵られても、心の奥深くまで楔を穿たれる前に離れるべきだ。いや、サスケの方は既に手遅れなのかも知れない。ナルトといれば、緊張する癖にどうしようもなく安らぐ。それは本来、サクラやヒナタといった、ナルトに心を添わせる女性が受け止めるべき、甘やかな楔だ。
「クリスマスが終わる前に帰らねえとなー」
「意外だな……。シカマルでもそういうこと気にするのかよ」
「じゃねえと却ってめんどくせーことになるんだよ……」
「それは……」
 そうかもな、と同意の呟きを漏らした。
 去年のクリスマスはどうしていただろうか。
 自分は確か、任務で里にはいなかった。どこかの豪邸でパーティーの警備にあたっていたような記憶だ。ナルトはどうだったか。やはり任務で、どこかに出ていた気がする。
「ナルトも面倒くせえだろ」
「……ああ。ケーキを買いたいとか言ってたな」
「ケーキねえ……」
 ため息が重なった。
 シカマルが話しているのは女のことだろう。なのに、当然のように同じ位置にナルトを置き換える、この違和感のなさは何だろう。事態は、サスケが思うより進行しているのかも知れなかった。
(潮時……、か)
 同期の仲間たちは、二人のことを誤解している訳ではない。同居を同棲だと言ってからかうのも、親密さを表しているにすぎない。けれど、こんな風にシカマルからすらも、二人の親密さを男女の仲と同列に語られては形無しだ。はあ、とため息を吐いて空を見上げる。星は見えない。サスケの視線を追ったシカマルが「雪降るな」と呟いた。
「ホワイトクリスマスになったら…ますますうるせえな」
「何で」
「ロマンチックなんだと」
「……分からねえ」
「俺にだって分からねえよ」
「ナルトは、」
 はしゃぐくらいだろうけどな。
 女との違いを見つけて、ほんの少し安堵する。去年のことは覚えていないが、引越の日に降った雪はそれなりに積もって、翌日満面の笑みで外に飛び出したナルトを思い出す。
「ガキか」
「アカデミーの頃から変わらねえってことだ」
「じゃあ、お前も早く帰ってやらねえとな」
「……正直もう逃げたい」
 こぼした科白は、半分以上は本音だった。
 はは、と笑うシカマルは、単なる冗談だと思っただろうか?
「逃げられると思ってんのか?」
「……」
「諦めろよ、サスケ」
 シカマルが不敵に笑う。
 諦めなら、全部ついている。けれど、サスケは開きかけた口を閉じた。

*     *     *


「……ただいま」
 そうしてサスケが帰ってきたのは、二十五日の深夜だった。
「おかえり。大丈夫か、サスケ」
「……大したことはねえよ。ちょっとした打撲だ」
 帰り着いたのは、もう少し前だった。依頼人を庇って高所から落ちた時、強か肩を打った、それだけだ。ただ、一瞬脳震盪を起こしたので、解散してから病院に寄った。激しい戦いを繰り返してきた体には、脳震盪もバカに出来ない。
 解散の時にシカマルが「ナルトには伝えておく」と言ったのを、サスケは止めたのだが、この様子では間違いなく伝えたのだろう。
「手、届かねえから、湿布貼る時は手伝ってくれ」
「うん……」
「メシあるか」
「うん。ケーキもあるってばよ」
「……本当に買ったのかよ」
「いいじゃん、たまになんだし!」
 ナルトが笑ったことに、サスケはほっとした。
 任務中の怪我なんて、大なり小なりあるものだ。先の忍界大戦では、もっと酷い怪我を負った。それはナルトもサスケも変わらないし、互いにやりあったせいで負った怪我だってある。そんなものに比べれば、打撲なんて些細なものだ。あまり心配の度が過ぎるようだったら、サスケはそう言って宥めるつもりだった。余計な気遣いだったようで、ほっとした。
 ナルトの用意した夕食は、グラタンにローストチキンにバゲット、マカロニサラダとコーンスープまで付いていた。
「グラタンとサラダは俺作ったんだぜ! ローストチキンは、まあ……出来合いを買ったけど」
「チキンがあるとクリスマスっぽく見えるな」
「だろ?」
 サスケが着替えて居間に入ると、こたつの上に二人分の晩餐が並べられていた。
「お前、食ってなかったのかよ」
「食った! でも待ってるうちにまた腹減ったってばよ。サスケ、酒飲む? あ、怪我してるし、やめた方がいいかな」
「大丈夫だろ。薬飲んでる訳でもねえし」
「血行良くなって痛むかも……。じゃあ、一杯だけ……な!」
 打撲程度の大したことのない怪我、そう言っているのに、ナルトは勝手に制限をした。余計な気を使うな、という罵声が喉まで出かかった。
「赤ワインと焼酎と日本酒があるけど……どれにする?」
「……ワイン」
 情緒不安定とでも言えばいいのだろうか。
 ナルトが心配してくれているのは分かる。大したことはない、と言ったサスケに過剰な心配を見せなかった、大人なナルト。けれど本当は酷く心配しているのが、透けて見える。それは嬉しくて、そして悔しい。
 並んで座ってグラスを突き合わせ、「メリークリスマス」と笑うナルトに上手く笑い返せない。いや、いつだって、上手く笑い返せた試しなどないのだ。潮時ではない。限界なのだ。サスケはひと息にグラスを呷った。
「サスケ?」
 だん、とグラスを置く。
 その勢いのままナルトを絨毯に押し倒す。訳が分からない、という顔をしたナルトに、サスケは、唇を押し当てた。
 柔らかい。
 まだ冷えていたサスケの唇に、ナルトの唇は酷く熱かった。
 ナルトは瞬間びくりと体を硬直させ、息すら止めた。はあ、と吐息と共にそっと離れる。唖然、という単語がぴったりくる顔で、ナルトはサスケを見上げていた。ぱちくりとまばたきをする。関係を壊すのなんて、こんなにも簡単だ。自嘲気味に笑うと、サスケは無防備な唇をもう一度塞いだ。
 ナルトからは抵抗も反応もない。
 突き飛ばしてくれれば、出て行き易いのに。
 引くに引けなくて、サスケは深く唇を合わせる。吐息からワインの香りが漂う。追うように舌を滑り込ませると、サスケの下でナルトの体が跳ねた。それでも、抵抗はなかった。ぬるりと滑る舌を押し付け、絡めて吸う。漏れ出る吐息に声が混じる。何で抵抗しねえんだ。何で。このまま手酷く抱いてしまえばいいのだろうか。温かい。気持ちいい。キスの感触は全身にざわざわと広がってゆく。不意に、差し入れた舌を吸われてサスケは動揺した。
 応えている。
 ナルトが応えている。
 どういうことだか分からない。思わず体を引くと、顔を真っ赤に染めたナルトが大粒の涙を浮かべていた。
「サスケ……」
 掠れた声にぞくりと背が粟立つ。
 意味が分からない。
 強い力で腰を抱き寄せられ、あっと思った時には体勢は反転していた。ぽたり、ナルトの涙がサスケの頬に落ちた。そうだったんだ、とナルトが呟いた。何が「そう」なんだろう。今度はこちらがきょとんとする番だった。近付く泣き顔を、ただ受け入れた。何故ナルトがこんなことをするのか分からなかった。分からなかったけれど、サスケはナルトの口付けを受け入れていた。
(何してんだ……)
 ナルトもだけれど、自分もだ。ここを出て行く口実を作りたかっただけなのに。飲んだばかりのワインが回ったのか。打った肩が痛いはずなのに、全身気持ちいい。ぎゅうぎゅう抱き締めてくるナルトの背を撫でると、するりと舌が侵入してくる。
 キスを、している。
 ナルトがキスをしている。何故だろう。少し興奮気味の呼吸につられて、サスケの方まで息が上がってくる。胃が焼けつくようだ。そういえば、空きっ腹にワインを流し込んだだけだった。けれど空腹は感じない。焼けつくようなのは、胃だけではなかった。
(ナルト)
 余裕のかけらも見えない忙しない口付け。
(ナルト……)
 熱く柔らかい唇が唾液に滑る。
 歯が当たる。
 自分が何を考えていたのかも、何だか遠い昔のことのように、朧になっている。気持ちがいい。何かを間違えたようだったけれど、サスケは、その何かを探すことを放棄した。


 こういうことだったんだ、ナルトは嗚咽するほどの衝撃をサスケに、唇で訴えることしか出来なかった。
(サスケ)
 何がどうして、こんなことになったのかは分からない。
 肩の打撲と軽い脳震盪。任務中に負った怪我は確かに軽いと言える部類で、取り立てて騒ぎ立てるものでもない。それでもサスケが怪我を負って帰れば、ナルトは胸がざわめくのを止めようがないのも事実だった。
 一杯だけ、と言ったのが気に入らない様子ではあったけれど、その一杯を呷って出た行動が──キスだとは。
 嫌がらせ、と言うには優しく、情熱的なキスだった。
 嫌われている訳ではなさそうで、それはつまり、好きということ。単純な思考はすぐにそう結論を出した。
 友達だとか、親友だとか。
 兄弟だとか、家族だとか。
 自分の感情が行きすぎるきらいがあることには気付いていた。ただ、それが本当にこんな、恋愛感情と変わらないものだとは信じたくなかった。もやもやは形にする前に霧散させていた。恋愛には、結局は情愛が含まれる。男女の間にあるような性愛は、自分とサスケには存在のしようがないと思っていた。
 けれと、関係なかった。
 サスケが同じ気持ちを持っているなんて、想像もしなかった。唐突に口付けられて初めて、何もかもが一致した。もの言いたげな揺れる瞳、開きかけては閉じられる唇。訴えかけるように歪む柳眉、試すように背けられる顔。なのに同居にはOKした。つまり、そうだったんだ、とナルトは感じた。
(同じだったんだ)
 出発は、きっとナルトと同じく『友達』だったのだろう。どこで間違えたんだ、と舌打ちもしただろう。自分より数段頭の良いサスケは、きっと何かの結論が出て、キスを仕掛けてきたのだろう。
 友達だとか、親友だとか。
 兄弟だとか、家族だとか。
 そんなものは一切合切、関係なかった。ただサスケのことが好きなだけだった。サスケが一番で、サスケの一番でもありたかった。サスケの居場所になりたくて、サスケの中に自分の居場所も作りたかった。
(ああ、でも、)
 恋人だって、最終的には家族になる。一足飛びに求めなくても良いものだった。サスケはここにいる。それが既に、答えだった。一年近くを一緒に過ごして、ようやくスタートラインに立つことが出来たのだ。
「サスケ」
 同じだったとするならば、サスケもナルトがこんな気持ちを抱えていたことは想像もしていなかったということになる。踏み出す勇気は、きっと想像も付かないほどの難関を突破しなけれはならなかっただろう。
「ありがとう」
 困惑のまなざしが、至近距離のナルトをじっと見上げている。珍しく頬を紅潮させて、薄く開いた唇で浅い呼吸を繰り返す。
「これからもずっと、クリスマスや誕生日や、特別な日とか関係なく……毎日、ずっと、一緒に暮らそう」
「ナル……ト……?」
「俺たちは友達で、ライバルで、親友だけど、兄弟で、恋人で……だから、家族になろう」

 サスケは理解不能、といった風情で片眉を下げた。
 五十年後ぐらいには理解して貰えるかも知れないな、とナルトは笑った。