リトル、リトルメモリー

リトル、リトルメモリー


「サスケェ! トリッカットリー!」
「あぁ?」
 聞き慣れない言葉に、サスケは眉間を寄せた。
 知識という点で言えば、サスケはナルトよりはものを知っているつもりでいた。そのナルトから自分の知らない言葉を投げかけられて、多少イラッとした訳である。しかも、ナルトは両の手のひらをサスケに向かって突き出している。何かを寄越せと言わんばかりのゼスチュアだ。
 だが、その仕草でサスケには察しがついた。
 ハロウィンだ。
 そういえばそんな時期だ。先ほどの聞き慣れない言葉はトリック・オア・トリート、お菓子かイタズラか。つまり、お菓子をくれなきゃイタズラするぞという言葉遊び。ナルトの言葉に振り向き、不機嫌な「あぁ?」から僅か二秒で理解した。は、と小馬鹿ににしたため息がサスケの口から漏れた。
「大人に言えよ」
「あれ、サスケこれ知ってんの?」
 ナルトは明らかにガッカリと、眉をハの字にする。
 最近になって近所に引っ越してきた、同学年の男子。外見からも分かるようにガイコクジンそのものだ。ただし生まれも育ちも日本で、日本語しか喋ることが出来ない。けれど「トリック・オア・トリート」を「トリッカットリー」と発音するのだけを聞けばガイコクジンの子供だな、とサスケは思う。彼の親が英語も話すらしいことは知っていたし、教えたのだろうとアタリをつける。
「仮装して大人を襲撃するんだろ」
「お前が言うとなんか物騒だってばよ……」
 ハロウィンなんて、日本では本当にごく最近流行り始めたお祭りだ。もちろん由来や意味などは浸透していない。ただ子供たちがオバケや怪物に仮装して、あちこちで大人からお菓子を巻き上げるだけの行事である。面白いから流行り始めた、ただそれだけのもの。
 ただし、サスケはお菓子にはさほど興味がないのでハロウィンには無関心なままだった。仮装の趣味もない。
 だが──。
「やあ、ナルト君か。こんにちは」
 サスケの兄・イタチはお菓子大好き少年だった。
「イタチ兄ちゃん! コンニチワだってばよ!」
「今日も元気だね」
 にこやかに玄関から出てきたイタチは、なぜか、黒いコートを着ていた。見覚えのある父親のコートは、イタチの身長には丈が長すぎてくるぶしまで届く。袖は通さず羽織っていて、ボタンを一番上だけ留めていて、マントのようだ。サスケははっとした。笑うイタチの唇から、牙が覘いている。マント、いやコートの下は白いシャツに赤いリボンタイ、黒のスラックス、黒い革靴。そして手には黒いエコバッグ。
「兄ちゃん、吸血鬼みたいだってばよ!」
「それっぽく見えるかな?」
「カッコイイ!」
「ナルト君も一緒に行く?」
 子供会のハロウィンパーティーだよね、とイタチは笑った。ナルトは目を輝かせて、もちろん「一緒に行く!」と叫んだ。

 そういえば、回覧板が回ってきた時に母親がハロウィンがどうとか言っていた気がする──と、今更ながら思い出す。サスケは興味がなさすぎて、アーとかンーとか生返事で聞き流したのだ。子供じみた行事だな、と思ったのも確かだ。サスケもまだ小学二年生なのだけれど。
 けれど小学六年生のイタチは、自治会が主催するハロウィンパーティーに参加できるのは今年がラストチャンスだ。子供会とは自治会の中にあり、自治会に入っている家庭の小学生までの子供が登録されている。去年まではイタチが仮装して出かけることはなかったから、この子供会では今までハロウィンの企画などなかったのだろう。あればイタチは絶対に参加していたはずなのだ。
 すっ飛んで仮装をしに家に帰るナルトを何となく見送っていると、イタチがニイッとサスケに微笑みかけた。牙があるだけでけっこう雰囲気が変わるんだな、と見つめ返す。
「サスケ、お前も行こう」
「え、俺は……」
「俺のために行こう」
「そうだね兄さん」
 有無を言わさぬ笑顔に、サスケは文句を引っ込めて引き攣った笑みを返した。要はサスケもお菓子大好き少年である兄のために菓子を回収してくれということなのだ。全くサスケはお兄ちゃん子ね、とよく言われるけれど、味覚に関してだけは相容れない。だがもちろん、それは兄弟仲を悪くするものではないのだ。兄の不得意なトマトは弟が引き受けるし、弟の苦手な甘味は兄が引き受ける。仲良し兄弟ゆえのギブアンドテイク。
「でも俺、仮装出来るようなもの……」
「自治会館にあるよ。家で用意できない子もいるからって、ある程度は自治会で用意してるって」
「あ、そう……」
「お菓子を入れる袋だけ用意して行けばいい」
「うん、持ってくる」
 曖昧に笑って、サスケは家に入った。母ミコトに言うと、当然のように大きなエコバッグを手渡される。それと一緒に白い布も差し出され、サスケは首を傾げた。
「古いシーツなんだけど、捨てないで良かったわ」
 確かにまっさらに白くはない。
「もしかしてオバケ?」
「全身隠れちゃえば恥ずかしくないでしょ?」
 さすが母親だ、仮装なんて恥ずかしいとサスケがコッソリ思っていることなどお見通しだった。
 広げて頭から被ると、ミコトはハサミを構えて長過ぎる丈を躊躇なく裁ち落とした。腕の辺りにも切れ込みを入れて、お菓子を袋に入れるのにもたつかないようにする。そして両目の位置にちょんちょんとマジックで印を付け、一旦サスケから布を剥ぎ取ってから、印の部分をつまんで切る。適当につまんで皺の出来た状態で切るものだから、綺麗な円ではないけれど、ギザギザで却ってそれらしく見える。ほつれた糸くずを払って被れば、即席オバケの完成だった。
「ありがとう、母さん」
「気をつけて行ってらっしゃい」
「うん……行ってきます」
 半分は気乗りしないのだけれど、半分は兄と遊びに出かけるのが嬉しくて、サスケはいそいそとスニーカーを履いた。
 玄関の外では吸血鬼が上機嫌で立っている。オバケに扮したサスケを見ると、きょとんと目を見開いたあと嬉しそうに笑った。どうやら仮装が恥ずかしいという概念のないらしい兄は、やる気になった弟に単純に喜んでいるのだろうか。
「ナルト君、家まで迎えに行こうか」
「うん」
 自治会館までの道のりの途中にナルトの家がある。無駄を嫌うサスケは素直に頷く。普段ナルトとのケンカが多いサスケが抵抗なく頷いたことで、弟のヤル気に信憑性が増したのだろう、イタチは晴れやかに微笑んだ。
 歩き始めれば、そこここで仮装をした子供たちが家から出てきているのだと気付く。ナルトが押し掛けてこなかったら(いや、結局はイタチに連れ出されるだろうが)子供たちがこんなに楽しそうにしているなどとはサスケは気付かなかった。そんなに楽しいものかな、とサスケはオバケ布の下で首を傾げた。ともかく、今の自分のミッションはイタチのためのお菓子集めである。楽しいかどうかはサスケにとって問題ではないのだ。
 数分も歩かない距離にあるナルトの家のチャイムを押すと、金髪の見目麗しい男が玄関の扉を開けた。やあ早いねと笑みを深める美男子こそ、似ても似つかぬナルトの父親・ミナトだ。
「吸血鬼とフラフラオバケだね! ん! かっこいいよ!」
「父ちゃん、これ歩きにくいってばよー!」
 どたどたと割り込んできたのは、着ぐるみを着たナルトだ。後ろから母親のクシナが追いかけてくる。
「……犬?」
 ナルトの頬にはもともとヒゲみたいに三本傷がある。ピンと立った耳とフサフサの尻尾のある着ぐるみ、茶系のそれは柴犬を連想させた。クシナがブファッと吹き出した。
「ほら見なさい! やっぱり黒かグレーのにすれば良かったってばね!」
「でも地味じゃん!」
 狼男のつもりなんだよねアハハ、とミナトが屈託なく笑う。不服そうに頬を膨らませるナルトは、しかしサスケを見てパチクリと目をしばたいた。
「サスケ?」
 こくりと頷くと、たった今の不満など忘れたかのようにナルトは大爆笑した。
「何だよそれ、布被っただけじゃん! 誰だか分かんねえし!」
「……ヨチヨチ歩きの犬っころよりマシだろ」
「ンだとぉ!?」
 簡単に掴み合いのケンカになる二人を、しかしそれぞれの首根っこを捕まえるイタチとミナトである。慣れたものだ。
「じゃあ行ってらっしゃい。またあとでね!」
「はい。行ってきます」
 イタチは礼儀正しくペコリと頭を下げた。またあとで、というのは、大人たちは家にいて子供たちの襲撃を待つからだ。自治会館には当番の役員が詰めている。

 歩き始めると、歩きにくいと言っていたナルトが遅れがちになり、本当に歩きにくそうだなとサスケは舌打ちした。大した距離ではないのに、果てしなく遠く感じる。
「お前、あとから来れば? 俺と兄さんは先に行くし」
「えーっ! やだってばよ、一緒に行く!」
「でもお前遅えんだよ、足手まといもいいとこだぜ」
「で、でもッ俺はイタチ兄ちゃんに誘われたんだからな! お前がくっついてきただけなんだからな!」
 サスケは苛立った。
 何しろ、サスケだってイタチに誘われたのだ。誘われたというか、協力を求められて同行している。居合わせたからついでに誘われたナルトより、重要度は高いのだ。苛立ちのままにドンッと突き飛ばすと、後ろへ二歩よろめいたナルトは尻餅をつく。着ぐるみの布はさしたる厚さではないけれど、特に痛くもあるまい。痛ければいいのに。
 だが──。
 ナルトの青い目は、みるみる潤んだ。
「こら、サスケ!」
 イタチの仕方なさそうな声が、デコピンと共に降ってくる。けれどサスケはナルトから目を逸らせなかった。これしきで泣くのか、という疑念と、そして歯を食いしばって立ち上がるやサスケに向かって突進してくる柴犬から、目を逸らせなかった。身構え、弾き飛ばしてやろうとすると、間に入ったイタチがギュッとナルトを受け止めた。
「離せよ兄ちゃん! サスケむかつくってばよ!」
「ごめんよ、ナルト君。でも、君とサスケがケンカするなら、ハロウィンパーティーには行かれないよ」
「何でだってばよぉ! サスケだけ帰ればいいじゃん!」
「そうはいかないよ。サスケだって俺が誘ったんだからね」
 正確に言えば、サスケが誘われたのは「ハロウィン楽しもう」という意味ではない。漠然とそれを感じたサスケは、不明瞭な苛立ちが沸騰するのを感じた。兄さんは本当はナルトみたいな弟が良かったんじゃないのか。お菓子を回収するのに都合の良い弟より、一緒に楽しんでくれる弟が。ムカムカと膨れ上がる苛立ち、そしてほんのちょっぴり悲しい気がして──やり場のなさにナルトの足にひと蹴り入れると、オバケ姿のままその場を走り去った。サスケ、というイタチの声はナルトの泣き声にかき消されてしまった。


「──ってことあったよなあ」
「……覚えてねえ」
 取り込んだシーツを被ったまま何となくゴロゴロと話をしているのは、十月下旬の暖かい日差しが気持ち良いせいだ。シーツを被って蘇った記憶をナルトが話すのを聞いて、ようやく思い出した程度だ。ケンカだけの記憶なら事欠かないせいで、逆に特定は難しい。それほどに子供の頃はケンカばかりだった。けれどハロウィンなどのキーワードがあれば、ある程度は思い出せる。
 思い出せたのは、蹴り飛ばして逃げ出したところまで。
 あのあとどうだっただろうか。
「何か理由を付けちゃあケンカしてた頃だもんなー」
「お前ほんとクソむかつくガキだったからな」
「おいそれ俺のセリフだってばよ」
 今ももちろんケンカは多い。多いけれど、あの頃とは色々と違う。
「あのあとさー、イタチ兄ちゃんに自治会館まで連れてってもらって、でも兄ちゃんはお前を捜しに一度家に戻ってみるとかしてさー」
 ほんの少し気になった顛末を、訊くより先にナルトが語り始めた。
「そしたら入れ違いでお前自治会館に来て、そこでまたケンカになって大人に怒られて、イタチ兄ちゃんはお兄さんだから心配ないからって言われたけど、気になって二人で捜しに行ったの。思い出さねえ?」
「……」
 言われても急には思い出せない。そうだったかな、と首を傾げていると、ナルトは不意に優しい笑顔になった。
「お前、自分の責任だからとか何とか言って、一人で行こうとしたんだけどさ。そん時なーんか俺もイタチ兄ちゃんには悪かったなーとか思っててさ、一緒にお前ン家まで行ったんだぜ」
 さっぱり思い出せない。
 サスケが思い出したのは、突き飛ばして尻餅をついたナルトが目を潤ませたことだった。それに付随しての記憶はぼんやりと蘇ったが、それだけだ。
 何しろ、サスケもナルトもケンカで泣くことなどなかったのだ。負けん気と言ってしまえばそれまでだが、泣いたら負けだと思っていた訳ではない。ただ単に、泣くような内容ではなかっただけである。それが目を潤ませ、やり返そうと立ち向かってきたものの、イタチに止められやり返せないままに更に蹴りを食らい、大きな泣き声を上げたのだ。
 ああそうだ、今なら分かる、あの動揺は罪悪感というものだ。
 自分のせいではないのに、いやもしかして自分のせいなのか?
 泣かせたのは俺なのか?
「俺は狼の着ぐるみが歩きにくくて、自治会館出る時転んで、二人で歩きながらもう一回つまずいて、そしたらさ! そしたらさ! お前、俺の手ェつないで、ゆっくり一緒に歩いてくれたんだってばよ!」
「……マジか」
 全く記憶にない。
「テメエ、勝手な捏造なんじゃねえのか」
「照れるなよ」
「照れてねえよ見ろこの寒イボ」
「ん? そろそろ寒くなってきたかなー?」
 今のナルトは、サスケの突っかかる部分やイヤミを、状況によって受け流すことができるようになった。そのままケンカに発展する時には、ケンカを楽しみたいか本当に虫の居所が悪いかどちらかだ。悔しいことに、自分もナルトもそれなりに大人になったのだ。
「……それで?」
「ん。お前ン家から出てきたイタチ兄ちゃんと、無事出会えたってばよ。二人して兄ちゃんに『ごめんなさい』したけど……」
「けど?」
「俺たちの間ではゴメンとか何とかはなかったなー」
「ガキの頃はだいたいが有耶無耶だったな」
「今だってけっこうウヤムヤじゃね?」
「それもそうか」
 改まってゴメンナサイと言う間柄ではないし、そもそも自分が悪いとは思っていないケンカばかりだ。あのハロウィンの時イタチに二人で謝ったというのなら、イタチに対しては何かしら申し訳ない気持ちがあったということだろう。
「兄ちゃんさあ、俺たちが手ェつないでんの見てメチャクチャ嬉しそうな顔してて、なんかそれ見て俺も嬉しくて、お前は泣くの我慢してるみてーに膨れっ面だったけど、結局三人ですげえ笑いながら自治会館に戻ったんだぜ」
「……覚えてねえ……。でもアレだろ、それからもケンカばっかだったよな?」
「そこが不思議なところだってばよ」
 シーツ被ったから何となく思い出したけど、とナルトは至極真面目な顔でため息をついた。
 ふと、イタズラ心が芽生える。
 日に焼けた頬をぷにっと押す。三本傷は成長と共に多少薄れた気がしなくもないけれど、それでもまだハッキリと浮かんでいる。何だよ、と視線を寄越すナルトを続けざまに突っつく。柴犬、いや狼男のヒゲにはピッタリの頬。
「ちょ、おい、」
 しつこくプニプニされてナルトの頭がどんどん逃げる。
 ムギュ、と抓るとイテッと声が上がるが、怒った空気ではない。サスケは笑んだ。
「トリッカットリー」
「えっ」
 頬を押さえたナルトが、まさかサスケがそんなこと言うなんてという顔で凝視していた。何だか可笑しくてサスケは笑った。あの時ナルトには「大人に言えよ」と言った。
「……お前、子供じゃねえんだからさぁ」
 今、ナルトは大人の顔でそんなことをサスケに言うのだ。同い年のサスケだって、間違いなく大人だ。子供同士のやり取りと、大人同士の子供じみたやり取り。
「子供じゃねえから何だよ」
「うん……まあ、子供じゃねえんだから、お菓子よりイタズラしなきゃな?」
「そうか。ならイタズラしてやる」
 幸い、シーツを被っていることだし、ハロウィンのおふざけも許されるだろう。
 日差しの透けるシーツの下で、サスケとナルトは子供みたいにふざけ合った。

 ただし、大人のイタズラだけれど。