青、恋、便り

  青、恋、便り


「ナルト、明日デートしようぜ」
「うわっ出たァ!」
 後ろから突然、気配もなく現れたサスケにナルトは飛び上がる。
 教室は選択授業の移動後で、ナルトがそこにいるだなんて、サスケはいつ知ったのだろう? ちなみにナルトは数Ⅰを取っている。高校二年に進級したものの、大学受験に不安要素ありと判断した当時の担任に勧められるままに選択したのだ。本当は大学なんて行く気はない。けれど、それが金銭面の心配からだと思い込んだ祖父母に怒られた。いくら「違う」と言い張っても信じてもらえない。挙げ句の果てには「大学ぐらい行かせないとお前の両親に申し訳が立たない」などと言い出したので、ナルトはひとまず黙ることにした。両親は既に他界している。受験がことごとく失敗すれば諦めるのではないか、という期待もある。いまどき、大卒よりも高卒の方が就職成功率は高いのだ。選り好みをしなければ。ナルトのように学力に不安のある子供であるなら尚さら。
 そこをいくと、サスケはすごい。
 文武両道とはサスケのためにあるような言葉だ。
「ヒマだろ、どうせ」
「ヒマだけどヤだってばよ! こないだだって映画観ようって言って、パシフィック・リム字幕なしで英語のベンキョーだったじゃん!」
 五回も通してBD鑑賞させられた記憶は新しい。
 周囲は二人のやりとりを奇異の目で遠巻きに眺めていた。いや、主に──サスケを。
 きんこん、と予鈴が鳴った。
「いいだろ、一石二鳥で。明日行くからな。待ってろよ」
「……つうかさ、そんなんわざわざ言いに来なくても、LINEでいいじゃん」
「同じ校舎にいるのに? 顔ぐらい見に来たっていいだろ」
 教室から出ていきかけたサスケが言った。振り向く笑顔は朗らかで、明るく綺麗だった。ナルトは遠い目でそれを見送った。周囲の視線がいたたまれない。

 サスケは文武両道、何をやらせても一級品。おまけに非常に整った顔をしていて、背も高校二年生の標準程度にあり、もちろん太ってもいなければ痩せぎすでもない。声も良い。当然モテる。非の打ち所のない男子、のように見えるだろう。だが画竜点睛を欠く。サスケの性格がそれである。
 全て自分が基準、いやサスケの上をゆく完璧人間の集まったうちは家が基準となってしまった彼は、出来ない人間の気持ちが分からないし、分かろうともしなかった。俺が出来るんだからお前らも出来るはずなのに、出来ないのは努力が足りないせいだろう。という、このまま育てばブラック企業の社長にでもなってしまいそうな発言もあった。ただ、唯我独尊なのかと言えばそうでもない。サスケよりも優れたうちは家の兄、ご両親、親戚のお歴々が「いつか俺もあんな風に……!」とサスケを謙虚にさせている。そう、自分のレベルはまだまだ低い、とサスケが純粋に思っているところが、クラスメイトたちの悲劇なのだった。何もかも通り越して「サスケくんカッコイイ」と恋する女子は多かったが、そんな訳で「顔は良くても性格がNG」と敬遠する女子もそれなりにいた。男子の方は、お察しの通り、ほぼ総スカンである。高みを目指すサスケはとかく周囲を見下しがちだったのだ、仕方がない。
 さて、そんなサスケだが、不幸な事故があった。
 この夏、家族旅行中に死にかけたのだ。
 豪華客船のクルージングで、寄港したグアムでのミニツアー中にその事故は起きた。生死の境をさまよい、辛くも一命を取りとめたサスケは、性格が一変していた。
 これが、クラスメイトたちの奇異の目の正体だ。
 夏休み以前のサスケは、全てを超越してしまったかのように、クラスメイトたちに興味のひとかけらも示すことがなかった。遠くを見つめる孤高の瞳、憂いに閉じられた唇。何かの物語に出てくる美男子のようだった。それが良かった、という女子には、今のサスケは絶不評だろう。
 夏休み以後のサスケは、頭からネジが一~二本抜け落ちたとでも言えばいいのか──非常に明るい笑顔を振りまくようになったのだった。それまで意識にも上らなかっただろうクラスメイトたちにも、事故に遭ったんだってね大丈夫? と声をかけられると、ああもう全然! と良い笑顔を返すのだ。ただの男子がそうしたところで円満なだけだが、美形の全開の笑顔である。殺傷能力はハンパない。しかも、それまで付き合いの悪かったサスケだ。バタバタと女子は討ち死にし、距離を置いていた男子たちまでもが「こいつちょっと付き合いやすくなったな」と遊びに誘うようになった。
(普通、逆じゃねーのかな……)
 明るかった子が事故を境に暗くなる、というパターンならよくある話だ、とナルトは思う。
(それに)
 ハア、とため息をついて教科書を広げる。去年もやった授業をもう一度、という選択教科は正直だるいだけだ。しかし内容は新鮮なのだから、いかに去年の授業を聞いていなかったかが窺える。
 更に、今はナルトの頭を悩ませるサスケが、授業への意欲を失わせていた。もともと薄かった意欲なのに。
(何で俺なんだってばよ!)
 サスケの「デートしよう」攻撃は、夏休み以後のドローである。
 ナルトとサスケは生まれた時から同じ地域に住んでいて、幼なじみと言ってもいいのかも知れない。けれど旧家で名家で辺り一帯の地主であるうちは家と、幼くして両親を亡くし祖父母の元で慎ましく生活する庶民のうずまき家に交流はない。サスケとも、小学生の頃に一度同じクラスになったことがあるという程度の繋がりだ。
 それが、唐突に声をかけられたのだ。
『週末、空いてるか?』
 はにかんだような、嬉しさを隠せないような、期待を孕んだ顔だった。噂のクールガイはどこへ行った?
 まず、ナルトは驚いた。サスケが自分のことを覚えていたという事実に。
 もちろんナルトの方は覚えている。
 同じクラスだった小学生の頃、サスケはナルトのライバルだった。サスケが歯牙にもかけていないのは先刻承知。ナルトはことさら突っかかったものだ。
 誰のことも見ないサスケの視界に入りたくて、けれど一年経っても二年経っても何も変わらなかった。学年が上がり、違うクラスになったのをきっかけに疎遠になった。校内、家の近所、子供会、見かける機会は少なからずあったから、目が合うぐらいはよくあった。サスケは、ナルトが笑いかけようと睨みつけようと、何も思わないようだった。つまらない景色を眺めるのと何ら変わらないみたいに、ただ視線はナルトを通り過ぎるだけだった。高校に入る頃には、ただ見つめるだけの存在になってしまっていた。
 名家の割にこだわりのないうちは家は、サスケもその兄も地元の公立校に通っていた。さすがに高校からは良いところへ行くのだろうと思っていたが、彼が同じ制服を着て──お世辞にも偏差値が高いとは言えない公立校の入学式に参列する姿を見て度肝を抜かれた。
 まるで他人のような態度にも慣れた。
 けれどナルトだって、いつまでも子供ではない。すれ違えば「よう」ぐらいの声はかける。まるきり知らない相手ではないのだから、という大人な対応だ。ちらりと一瞥するサスケから返事があった試しはないまま。それを見たクラスメイトに「友達?」と訝られるほどである。前に同じクラスだったことがあるだけだけど、と答えれば、たいていのクラスメイトは気の毒そうに眉をハの字にした。
 それが。
 それが、だ。
 夏休み以後のサスケはほとんど別人だった。週末空いてるか? 唐突な問いに、ナルトはおろか周囲のクラスメイトたちは戦慄した。今まで邪険にしていたナルトに対してのお言葉である。
『あ、朝は……バイトがあるけど』
 今までの恨みとは言わないまでも、やり返したい気持ちはたしかにあったはずだ。けれど思わず正直に答えてしまったのは、せっかくの機会を逃したくなかったからかも知れない。決して気圧された訳ではない。と思いたい。
『バイト? 何やってんだ?』
『……新聞配達、朝刊だけ』
 それで朝だけか、と納得したサスケはニッコリと笑った。ただの美形ではない、つい二ヶ月前までは能面みたいに表情の変わらなかった男の笑顔である。胡散臭さを飛び越して、男女の別なく心臓を撃ち抜かれたとして、仕方もない。
『あ、えと、ケータイ代とか遊ぶ金は、自分で稼ぐ主義なんだってばよ!』
『へえ……偉いな、お前』
『いっいや、ケータイは基本料金は、払ってもらってんだけどさ……お小遣いの代わりに』
『ふうん。そういうの、いいな』
 こちとら庶民、それも経済状況はあまりよろしくない部類の家庭環境だ。賭け事大好きな祖母のせいばかりではない。バイトをしてまで遊ぶ金を捻り出そうとするナルトだが、そこまでして? という気がしなくもない。そういう自覚はある。バイトに精を出して遊ぶ時間が減るのも本末転倒だからと、朝刊配達に絞っているほどだ。大した金額は稼げない。しかし、子供にはそれくらいで丁度良いという祖母と、早起きは良いことだという祖父の了解は得ている。雨や雪の日は大変だけれど、基本的に体を動かすことは苦ではない。陸上部の体慣らしにもなる。早起きというより深夜の時間帯に起き出すのももう慣れた。昼食後に耐えきれなくなって昼寝はするし、午後の授業も時々は寝てしまうのだが、なかなか健康的だと自負している。
 俺もバイトしようかな、と言い出すサスケになぜか慌てたりもしたけれど、爆弾はそのあと炸裂した。
 で? 週末って、なんかあんの? そう訊くと、サスケは、

『デートしようぜ』

 と言い放ったのだ──。
 もちろん周囲の女子は固まったし、男子は爆笑である。
『ハア!? デート!? 何で!?』
『何でって……。友達だろ?』
 サスケはおかしくなってしまったのか。
 友達。
 間違いではない。たしかにナルトは、サスケのことを友達だと思いたかった。過去に突っかかったのも、ライバル宣言したのも、友達になりたかったからだ。念願叶ったというのにどこか嘘寒い。じっとまっすぐに見つめられて、まるでヘビに睨まれたカエルだ。
 とにかく、サスケのこの発言で、友達と遊びに行く=デートという図式が浮かび上がり、女子たちのターン「サスケくん私も友達よねデートしましょ!?」攻撃が発動されるようになった。ちなみに今のところ、その攻撃は全て「親に誤解されると困るから女子は却下」というカードで防御に成功しているサスケである。
 ただ、それ以来、サスケが「デートしよう」と誘う相手がナルトに限定されることに気付いてしまったクラスメイトたちの視線が痛い。サスケが奇異の目で見られるのも、もしかしてホモ? という疑惑のせいだ。
 当初それは、事故で頭の打ち所が悪かったのではという心配も含まれていたはずだ。それほどに様子が変わっていた。張りつめたような空気は消え、声をかければ返事や相槌がある。清々しささえ感じる明るい顔に、優しい声。事故で誰かと中身が入れ替わった線も考えるべきだ、とは犬塚の言だったか。
 しかし、頭脳明晰成績優秀スポーツ万能っぷりは夏休み以前と変わらない。性格だけが一変したのだ、と納得するのに時間はかからなかった。生死の淵に立ち、人生観でも変わったのだろう、と。
 だが、それにしては、ナルトへの懐き方がおかしい。
 次第に気付き始めたクラスメイトたちの視線が、以前とは別の意味で気の毒そうなのがいたたまれないナルトである。『遊びに行く=デート』だったはずが、デートはデートというごく当然の意味として聞こえ始める。犬塚に嫌みたらしく「お前ナルトのこと好きなんじゃねーの」と言われても、きょとんとして「当たり前だろ、友達なんだぜ」と返すサスケだったけれど、信じてもらえているかはビミョーだ。
 それでもナルトが『友達』として変わらず接しているのは、嬉しいからだ。ライバル視していた相手が、見向きもしてくれなかった相手が、今は自分を見ている。デートというのが友達と遊びに行くことでも、真実デートでも関係ない。友達になれたのが、嬉しくてたまらない。
 けれど。
(なんで俺だけなんだってばよ!)
 サスケが皆と一斉に仲良くなったのは嬉しい。その『皆』の中で一番仲良くなるのが自分なら、それはもっと嬉しい。でもそんなのは、妄想だったはずなのだ。
 ナルトの頭の中で、主人公はもちろん自分自身。だから、一番気にかけていた相手が特別視するのが自分となるのは、当たり前の希望であり妄想だ。けれど現実は違う。それは痛いほど分かっている。他人は自分の妄想通りには動いてくれないものだし、思う通りにことは運ばない。ナルトはもう、単純に有頂天になれるほど幼くもないのだ。
 だからこそ、何でも出来るサスケがなぜ今さら自分に声をかけるのかが分からない。
(なんで!)
 見つめる教科書の数字が呪文のように、ナルトを惑わせる。本当に事故で頭がおかしくなったのではないだろうか。明日は土曜日、授業はないし試験前で陸上部の活動もない。そうだ、試験前なのにデートのお誘いとは。サスケは余裕なのだ。だが余裕のないナルトのために、勉強の世話を焼く気なのかも知れない。
(なんで……)
 都合のいいように思い込んでしまいそうだ。でももしクラスメイトたちの心配するように、サスケがホモ的に好いてくれているのだとしたら? ナルトの妄想のように、一番の仲良しでライバルというサスケではなかったとしたら?
(…………)
 嫌われるより、好かれる方がいい。応えられるかどうかは別の話だけれど。しかも、もしかしたら、満更でもないという気持ちがあるような気が、しなくもなかったり。どうせ明日、訪ねてくるのなら結局は家に上げてしまうのだ。玄関先で「出かけよう」と言われれば、靴を履いて飛び出してしまうのだ。そんな予感なら当然のようにある。
 はあぁ、と大きなため息が盛大に飛び出す。
 数Ⅰの先生が出席簿の背をゴスッと金髪に叩き込む。なぜか痛くも痒くもない。クラスメイトたちは憐憫の視線をナルトに注いでいた。

*   *   *


 ごぼ、と一際大きな空気の塊が遠ざかる。
 奇妙なほどに透き通る海、もがく腕が自分のものだと、すぐには気付けない。
 飛鳥Ⅱの夏休みクルージングは、横浜発着のグアム・サイパンを巡るコースだった。父親は仕事の都合で来られずに、イタチと歳の近い親戚の男が代わりに同伴していた。父と母、イタチと自分という部屋割りだったはずなのに、シスイは当然のようにイタチと同室になって、サスケは小さな不満を抱いていた。
 些細な不満だった。と、ばかばかしく思う。
 シスイはイタチ同様、全般に優れた男だった。うちはの男たちはいずれもサスケの目標に足る、文武両道に秀でる者ばかりだった。それでも兄のあとを追わずに地元の底辺校に入ったのには訳がある。
 ナルトだ。
 なぜかずっと、気になっていた。
 小学校で同じクラスになってからというもの、何かと突っかかってくる小さな金髪。身体能力はそこそこあるようだったが、技術はまるでなっていない。学力に関しては教師もお手上げ。つまり、他のクラスメイトたち以上に、サスケには得るもののない相手だった。
 けれど、あの青い瞳だけは、サスケの意識を攫ってゆくのだ。
 たいていの取るに足らないクラスメイトは、無視を続けていれば無視し返してくる。嫌がらせめいたイジメに発展しないのは、サスケがうちはの者だからだろう。きゃあきゃあと付きまとって何かとうるさい女子も、今のところ実害までには発展していない。
 けれど、ナルトだけは。
 無視しても突っかかることをやめない。クラスが替わっても、目が合えばなぜか手を振る。無視すると怒る。青い瞳に気を取られるのはなぜだろう。どこか癪で、あんなものに興味はないのだと自分に言い聞かせて、景色の一部のように無視する努力を続けた。
 けれど、ダメだった。
 あの青が自分を見なくなるのはもっと癪だった。近いからいう理由でナルトと同じ高校に入った。またいつか同じクラスになるんじゃないかと、期待のようなものまで抱いていた。ごぼごぼ、と抜けてゆく空気の代わりに海水を吸い込み、噎せる。水を吐き出したくて、咳き込みたいのに、空気がない。塩辛い水をがぶりと飲む。苦しい。ダメだ。ナルトを見たって得るものなどないはずなのに。鼓膜まで満たされた海水のせいで音が遠い。苦しい。死ぬのか。そんなのはダメだ。イルカが労るみたいに周囲を泳いでいた。イルカウォッチングのミニツアーで、小さなクルーザーで海に出ていたことを思い出す。大きな船に衝突したのか、されたのか。救命胴衣は着ていたのに、何かが引っかかって浮上できない。不意にぶつりと背中に音が伝わって、体が自由になって、俺は明るい方へと死に物狂いで腕を掻き、足をばたつかせた。ぽかりと浮いた先には空気が満ちていて、広がる青が、ただ広がっていた。
 唐突に、知らない記憶が、膨大な記憶が空一面に蘇った。
 ああ、俺は生きている。
 何でもできる。
 何かを我慢する必要なんか、もうどこにもない。
 したいことをして、伝えたいことを伝えていい。
 今度は俺が追いかければいい。
 ああ、俺は自由だ、と。
 意識を失う寸前、何もかもから解放された。


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