Liar!

 最近、あいつの態度が違う。
 出会った頃とも、尸魂界の頃とも、新学期が始まった頃とも。
 違う、と感じるのは気のせいなどではない、と一護は思う。
 それなりに距離は縮まっていた筈だった。
 距離、それだけを言うのなら、今が一番近い気もする。顔が合えば挨拶ぐらいするし、話もするし、笑顔まで見られる。あれでいて付き合いが悪い訳でもないので、誘えば出てくる。
 だが、違うのだ。
 一護の感じる違和感、それは非常にムズムズ、いやイライラと神経を刺激した。その刺激は緩慢で、ささやかで、ともすれば気も付かない程の些細なものだ。
 なのに、気付いてしまうとそればかりが気になった。
 距離、
 そうだ、それだ。
 挨拶が普通だ、話をしても突っかからない、いつの間にか雨竜からカドが取れていた。
 普通に考えればそれは距離が縮まったとか、壁がなくなったとか、肯定的な変化だ。けれど、一護にはどうにも、それが非常に座りが悪い。
 別に、嫌味付きの挨拶をされる方が落ち着くとか、そういう訳ではない。けれど啓吾や水色よりも普通に「おはよう」と通り過ぎられるのも、何かウラがありそうで、そういう意味で落ち着かない。
 雨竜が突っかかってこないという事は、その態度は他のクラスメイトに対するものと大差なくなった、という事でもある。
 距離。
 近くなった筈なのに、却って遠ざけられたような。
 …理不尽だ。
 

  Liar!

 
 放課後、啓吾達としばらくたむろして、一護は帰途についた。雨竜はとっくに帰ってしまっていて、しかし一護はその事については別段どうとも思わない。一護が気になるのは行動ではなく、態度だ。
(…あ。石田)
 まっすぐ帰らずに、学校近くの書店に入ろうとして、レジに雨竜の姿を認める。雨竜の方は当然一護には気付いていて、目が合うのと同時に小さく笑いかけて来た。
「…よう」
 自動ドアを通って歩み寄ると、会計を済ませた雨竜の方も自然な様子でそれを待った。
「参考書か何かか?」
「いや、オレンジページ」
 何だ?
 首を傾げると、雨竜は困ったように笑った。
「妹さんの方が知ってるんじゃないかな」
「…そういう本か」
「君は?」
「いや…別に」
 本当は少し雑誌の立ち読みでもして、帰り際に音楽雑誌だけ買うつもりでここへ寄った。なのに、帰ろうとする雨竜と一緒に、一護も書店を出てしまう。それについて、雨竜は特に何も言わなかった。
「…もうすぐ期末だなー」
「君、試験勉強とか、するの」
「何だ、お前しねえのかよ」
「うーん…特に。ノート見返したりはするけど」
 一護は大袈裟に顔をしかめた。
 全然しない、と言われるよりも微妙に腹立たしい気がする。
「んな事言って、結構ガリガリやってんじゃねーのかあ?」
「何、『ガリガリ』って…」
 雨竜がそんな事で嘘をつくとも思えないけれど、やっかみ半分でそう言えば、呆れたような目が一護を見る。
「家庭教師して欲しいなら、そう言えば」
「…は?」
 予期しない科白に、一護はきょとんとなった。
 雨竜は笑った。
 何なのだ。
「そういう話じゃないの?」
「え? いや…」
「僕は、してもしなくても、いいけど。まあ、するなら復習になるし、損ではないからね」
「…」
 雨竜は楽しそうだった。
 一護は二度まばたきをして、急に降って涌いたありがたいお話を頭の中で反芻した。
 雨竜は笑っているのだけれど、どうやら冗談で言っている訳ではないようだ。だが、いくら本人の復習になるとは言え、これはあまりにも一護の方にばかり都合が良すぎる話ではないのか。
「…まじで?」
「まじで」
 恐る恐る尋ねると、疑問形の語尾を肯定に直した同じ言葉を返される。
(…機嫌、良すぎんじゃねえのか、こいつ)
 からかわれているような雰囲気で、しかし話の内容からして嘘や冗談では、恐らくない。
 だが、こんな風に厚意を示される理由が一護には分からない。心当たりなど全くない。故に、何だか気味が悪い。ここ最近、態度が違ってきた事にモヤモヤとしていたものが吹き飛ぶぐらい、薄気味悪い。
 何しろ、明らかに、あからさまに、これは厚意だ。
 好意と言っても差し支えない程の。
「黒崎?」
 頭の中でぐるぐると考えを巡らせている一護を、雨竜は怪訝そうに覗き込んだ。
「…そんなに迷うような事かい?」
「や、そうじゃなくて、な…」
「何だよ。別にお金取るとか言ってる訳でもないのに」
「…」
 いっそ「月謝は幾ら頂くよ」とか言ってくれれば、その方がウラオモテがない気がするのに。
「あ、でもひとつ条件があるな…」
「え?」
 雨竜は急に思い付いたように言った。
「やるなら、君の家じゃなくて、僕のアパートの方がいいな」
「え? 何で?」
 家庭教師と言ったら、普通は通いではないのか?
「…人の家って、落ち着かないから…」
「ああ…俺ン家、うるせーしな…」
 何度か黒崎家に来た事のある雨竜は、申し訳なさそうに笑う。
 しかし、と一護は眉間の皺を深くする。
 そうなると、雨竜のアパートで2人きり、という事になるのだ。
 この、雨竜と。
 少し前までなら、それも何とも思わなかった。ありがたく申し出を受けていた筈だ。いや、そもそも態度が変わる以前の雨竜なら、一護に対してそんな都合の良い提案などしなかっただろう。
「黒崎」
「えっ」
「僕、こっちだから」
 悶々と考え込む一護の耳に、雨竜の何の変哲もない声が飛び込んでくる。じゃあね、と軽く手を上げる雨竜は、何とそれまでの話などなかったかのようだった。一護は慌てた。
「あ、おいッ石田!」
 離れた二、三歩の距離を大股で詰めて、雨竜の左手首を掴む。驚いた顔が振り向いた。
「な、なに?」
「何って、オマエ、」
 家庭教師の話はどうした。
 そっちから振った話の癖に。
 しかしそう言ってしまっては、まるで自分が乗り気だったように聞こえそうで、一護は言葉に詰まる。
 雨竜は、そんな様子を少し眺めて、溜め息をついた。
「やっぱり、聞こえてなかったみたいだね」
「へ?」
「『教えて欲しくなったらそう言って』って、さっき言ったんだけど」
「…」
 呆れたようなまなざしを、一護はしげしげと見つめた。
 そんな科白を聞いた覚えはない。
 いつ言った?
 本当に聞こえていなかったのか。
「…黒崎」
「え?」
「君、僕の事好きなのか?」
「は?」
 見つめていた呆れ顔はいつの間にか困り顔になっていて、一護は言われた科白の意味を理解するのが一瞬遅れた。
「じゃなければ、離してくれる、手…」
「あ…」
 往来の真ん中で、手首を掴んだままだった。それに気付いて弾かれたように手を離す一護だ。まばらに道ゆく人々は、通りすがりに2人を見遣る程度だったけれど、確かに少々恥ずかしい。
 だが、雨竜のこんな風に困った顔は、以前の仏頂面にも通じるものがあって、ほっとするのも事実だ。眼鏡を押し上げて「じゃあね」と背を向けようとする雨竜に、一護は言った。
「好きだって言ったら?」
 何を言っているのか。
 自分でもそう思うけれど、半分怒ったような顔を想像して、何となく期待する。
 こんな、人がいるところで、とか。
 バカにしているのか、とか。
 ふざけるな、とか。
 だが、前髪に隠れた顔がはっきりと見えた時、一護はぎくりとした。
 何もない。
 表情が、何もなかった。
 眉がひそめられそうな気配も、口がヘの字になりそうな気配もなく、途端に焦燥感が沸き起こる。
 すると───。
 一護の焦燥を待っていたかのように、雨竜はにっこりと笑った。
「僕も好きだよ」
「な…ッ」
 一護は固まった。
 何だって?
「何なんだい、急に。まさか、手を離したくなかったって言いたいの?」
「や…」
 怒らせたかったとは言えない。
 だが、最近どうにも扱い辛くなった雨竜を前に、一護はモヤモヤばかりが溜まるのだ。それは次第にイライラに変わるので、一護としては、自分ばかりが不安定なのが腹立たしくもある。
「…冗談、だよ。何つーか…そう言ったらオマエ、どーすんのかと思って…」
 歯切れも悪く言い繕ってみるが、それは雨竜の中でも既に予想されていた言い訳だったのだろうか、微笑んだままの表情は変わらなかった。
「僕の態度は、お気に召さなかったかい?」
「…ビックリした」
「いい気味だ」
 雨竜は笑う。
 いい気味、科白としてはとてつもなく嫌味だし嘲笑的でもある。けれど一護は、反射的に出た科白とは言え「好きだ」などという言葉で雨竜を試したのだ。普通に考えて、それは、酷い。相手が女の子だったら、平手の一発も仕方ないところだ。勿論雨竜に対してだって、失礼な事を言ったという事実に変わりはないのだから、なじられても仕方ないのだ。
 いい気味だ、と言いながら、しかし雨竜はやけに清々しく笑うので、一護はほんの少し呵責が軽くなる。引っ掛けられているのが分かった上での「僕も好きだよ」だったのだろう。一護は脱力した。
 雨竜の方が、一枚上手だったのだ。
 だが、そうなると余計にモヤモヤしてくる。
「ありえねえよな」
「何が?」
「…お前が、俺を好きって」
「ありえない?」
 雨竜は変わらない微笑みのまま、一護の溜め息混じりの呟きに答えた。それは正しく爆弾発言だった。
「好きだよ。ありえないかな」
「…」
 何と言ったら良いのか。
 一護は恐ろしいものでも見るように、雨竜を見た。
 雨竜は、ただ笑っていた。
 そうか、分かったぞ、これは嫌がらせだ。無神経な引っ掛けをした一護へのお返しだ。
 そうでなくては困る。
 何しろ、さらりと告白をした雨竜はニコニコと、一護の出方を窺っているのだ。それはやはり、真剣な告白をして相手の返事を待つ顔とは言い難い。
 それに、何と言うか───。
 意味が薄い気がする。
 友達として好き、というものよりも更に大味な気がする。
 全然重くない。
 一護は、面白くなくなってきた。
「…ありがたみのねェ告白だな」
「そう?」
 僕は君を憎むだの死神は嫌いだのと言っていた頃、雨竜の中で一護はかなりのウェイトを占めていた筈なのだ。でなければあんな形相で突っかかってきたりしなかっただろう。
 だが、どうだ。
 今となっては、まるで他のクラスメイト達と同列にまで落ちているかのようだ。
「君の告白は冗談だったんだろ。そっちの方が、ありがたみも何もないと思うけど」
「…」
 痛いところを突かれて一護は言葉に詰まる。
 今や圧倒的優位に立っているのは雨竜の方だった。いや、もしかすると、始めから。
 面白くない。
 一護はやっと言い返した。
「じ…冗談、だったけど、別に…嘘じゃねェ」
「えぇ?」
 雨竜の眉間が、怪訝そうに寄せられる。
「…嘘だろ」
「嘘じゃねェ」
 正直に言えば、好きとか嫌いとかで雨竜を区分した事などない。手を掴まれた雨竜が「好きなのか?」という問いかけで一護を振り払おうとしたからこその攻撃手段だった。
 だが、不可解ですという顔をする雨竜を見て、一護はようやく気分が上向く。
「つまり、両想いって事なんじゃねーの」
「…嘘」
 半歩後ずさって、雨竜は目眩を押さえるように額に指先を宛てた。たたみかけるように、一護は言った。
「今日から付き合うか? 俺達」
「つ、付き合う…?」
「…恋人ってやつ」
「…」
 雨竜の眉間が、一護よりもすごい事になってきた。睨み付けられて、一護はやっと見たいものを見て、ご機嫌だった。
 呻くように、雨竜は言った。
「分かった。僕は君が嫌いだ。これでいいかい?」
 勝った!
 何にとは言わないが、一護はやり遂げた満足感でいっぱいだ。調子が出てきた。
「何だよ、嘘だったのか?」
「当たり前だろ!」
 大袈裟に傷付いたように言えば、昔懐かしい怒り顔がわめき立てる。
 ああこれこれ、この感じ! と一護は和むが、周囲の視線はさすがに痛い。
「俺は嘘じゃねえのになー」
「はあ!?」
 言いながら、尚もわめき足りない雨竜の腕を引っ張って、人通りのない小さな脇道に入る。
「ひでーな、オマエ。からかったのかよ」
「からかってるのは君の方だろう!」
 掴まれた腕を振り払って、雨竜はいきり立った。片手に掴んだ書店の紙袋は、殆ど破れそうになっている。
「一体何が気に入らなかったんだ! 僕が君に家庭教師するって言った事か!? 必要ないならそう言えばいいだけじゃないか!」
「違うって」
 久し振りに怒鳴られて、奇妙な事に、一護はますます落ち着いた。だが、あんまり怒らせておくのも気の毒な気がして、なだめにかかる。
「別に、気に入らねー事なんかねえよ。からかった訳でもねーし、カテキョは話が上手すぎてどうしようって思っただけだ」
 嘘は言っていない、と一護は思う。
 最近の雨竜の態度にはモヤモヤとかイライラとかはしていたが、気に入らないと思う程ではなかった。好きだというのも、からかったりふざけたりと言うよりは、売り言葉に買い言葉だ。ただ、神経質な怒り顔を見たかったという本音は、本音らしく胸にしまっておく。
「…じゃあ尋くけど」
 苛立った雨竜は、しかしそんな一護の落ち着いた科白に油を注がれたようだった。
「もし僕が『付き合う』って言ったら、どうするつもりだったの」
「どうって…」
 付き合う。
 一護は自分より幾分背の低い雨竜をまじまじと見つめた。
「付き合うっていうのは、キスしたりとか、そ、それ以上とか、するって事だろ。君、僕にそんな事したい訳?」
 一護は固まった。
 そうだ、付き合うとは、そういう事だ。
「…違うだろう、君。引っ込みがつかなくなったってところかい? 変な意地を張るからだよ」
 それもそうだ。
 好きとか嫌いとか、考えた事もない相手だ。キスだの何だのと考える以前の問題だ。だが意地を張っただけの甲斐はあった。雨竜が全く変わってしまったのではないと、確認出来たのだから。
「…お前さあ…」
 しげしげと見つめて、一護は言った。
「お前、嘘だろ。俺の事嫌いって」
「…はい?」
「違うか?」
 半分口を開きかけて、雨竜は胡乱に一護を見た。
「…何で、そうなるんだ…?」
 低い声は、怒りを押し隠したというよりは、溜め息のようで脱力系だ。まずい、怒りを通り越して呆れられているのか。
 だが、もう今更だ。
「俺は、好きだぜ、お前の事」
 今まで考えた事はなかったが、こうして改めて考えてみて、嫌いという事はなさそうだと一護は思う。嫌いではないし、どうでもいいとは思わない。という事は、好きなのだ。
 さすがにキスだのそれ以上だのは想像出来ないが、つまりそれは、友人かそれに近い好意という事だ。
 さらりと流れて出た科白に、雨竜は遠い目で、諦めたように笑った。
「ああ、そう。うん。僕も好きだよ。今度こそ、これでいいのかい」
「…おう」
 仕方なさそうな言い草は、諦めか照れ隠しか判断がつかなかったが、一護は取り敢えず落ち着いた。
 が───。
「言っておくけど」
 やり返さずにはいられないのは、雨竜も同様だった。
「僕は井上さんが好きだ」
「な…ッ!?」
 衝撃と言える、科白だった。
「朽木さんの事が好きだし、茶渡くんが好きだ」
「な、なに言っ…」
 うろたえる一護に、雨竜はこれでもかという笑顔を作り上げる。
「黒崎も好きだよ」
「ッ…!!!」
 何にどうショックを受けたのか、一護には分からない。
 雨竜は男で、当然女の子に目が行くのだという事か? 死神を目の敵にする雨竜が、ルキアを好きだと言った事か? 一緒に尸魂界へ行った際に、茶渡と懇意になったのだろうか? 意図的に、黒崎「も」と言われた事か?
 勿論、全部だ!
 じゃあまた明日、と笑顔で立ち去る雨竜に、一護はかける言葉もない。
 何だ。
 何がどうなっている。
 何故それらがそんなにもショックなのだ。
 辿り着いてはいけない答えに辿り着きそうになった時、遠くで雨竜が振り返った。
「黒崎」
 遠い声が微かに耳に届く。
「嘘だよ」
 嘘?
 何が!!?
 どの科白が嘘!?
 雨竜は、遠目にも機嫌が良さそうな事が見て取れる。
 手を振って再び遠ざかる雨竜の後ろ姿を、一護はパニックに片足を突っ込みつつ、なす術なく、眺めるしか出来なかった。