実験中はお静かに!

実験中はお静かに!  



 その後ろ姿だけを見た者は、常と変わらないメフィストに不審を覚えることもなく通り過ぎただろう。彼を前から見た者、かつ表情の見える程度に近かった者が、一瞬見咎めるのだ。ただ、しばしば突拍子もない言動を取るメフィストのことなので、見咎めたとしても皆一様にやり過ごしてしまう。
 十月のとある昼下がり、メフィストは、なぜか目を閉じて歩いていた。
 すらりと伸びた長身で絡繰りの糸に吊られたように歩くさまは、恐ろしいことに全く普段と変わりがない。上司の奇行は出会う部下たちを一時ぎょっとさせるが、触らぬ悪魔に祟りなしとばかり、凝視することも振り返ることもせずにスルーしてゆく。ましてや、目を閉じてはいるが見えているのかも知れない、と思わせられるほどに、その足取りはきっぱりと危なげないのである。問題などありようもないし、正十字騎士團日本支部の祓魔師たちとしては、見て見ぬ振りをするのが礼儀というものだったのだ。
「──……お前、何やってんの?」
 ただ一人、藤本獅郎を除いては。
 かっつかっつと小気味良い靴音を響かせて事務室に入ってきたメフィストを見上げ、藤本は特別不審さを感じたようでもなく純粋に疑問をぶつけた。
「おや、その声と敬いの感じられない言い方は……藤本上一級ですね?」
「あっスミマセン~。何で目ェ閉じたまま歩いてンですか? フェレス卿」
「全く改まっていない!」
 嘆かわしい、とばかりに額に手をやり天を仰いだメフィストは、次いで椅子に座る藤本に顔を向ける。ピタリと正確に。
「あなた、またここで報告書を書いているんですか」
「えっダメ? てか見えてんの?」
 まさに空いた事務机に向かってボールペンを握っていた藤本は、血色の悪い顔をぽかんと見上げた。ただでさえ背の高い上司である、座った状態では聳え立つ山を見上げるように首が痛い。メフィストが見えていない、いや見ていないのを良いことに、堂々と頬杖をついた。
 まあ、もちろん見えていたとしても藤本の方にそのあたりの遠慮もマナーもない。咎められようと大目に見てもらえようと、意識に引っかかりもしないのが藤本だ。
「ダメという訳ではありませんし、見えてませんけど、ここにあなたがいるという時点で想像は付きます」
「あー」
「……それ、まさか先週の任務の報告書じゃないでしょうね」
「あっ」
 メフィストの眉間が微かに歪んだ。
「いや、だってさあ、あのあと立て続けに緊急出動かかったし、そんなヒマ……」
「あなたが一人で請け負った仕事の報告書は、あなたが書くしかないと思うんです、私。間違ってます?」
「間違ってないデス……つうか、何はぐらかしてんだよ」
 小言を連ねる間もずっと瞼が下ろされたままのメフィストに、藤本は口を尖らせた。居合わせた事務員たちも、いつもよりは多少無遠慮にその様子を眺めている。
「はぐらかすつもりなのはアナタでしょう。私はただ目を閉じているだけなんですから」
「だから何で目閉じてんだよ! 理由を訊いてんの!」
「単なる実験です、お気になさらず」
 メフィストは軽く肩を竦めると、小さく口元だけで笑った。
「実験って、目を閉じて過ごす実験?」
「ええまあ……そんなところです」
 ふーん、と全く納得していない相槌が藤本から上がる。それを受け流したメフィストは朗々と『理由』を補強し始めた。
「たとえば、私の目が見えなくなった時! どの程度不自由を感じるのか、あるいは不自由なく過ごせるのか。まあ実際ここも長いですからね、支部内をあちこち動き回ることに問題はありませんでした。となれば次は人間関係でしょう。この日本支部で、祓魔師たちは目の利かない私にどう接するのか!」
「へ、へえ……?」
「もしかして、ここぞとばかりに嫌がらせを受けるのではないかと心配もしましたが……皆さん見事にスルーでしたので、逆に不安になってしまったのです。この状態の私を気にかけてくださったのはアナタが初めてですよ、藤本上一級!」
 げ、と藤本の口が歪むが、見ていないメフィストは上機嫌といった体だ。
 藤本としては、単純な疑問を単純に口にしただけである。もし本当の失明だというのならそれなりに心配もしただろうが、それとて普通の人間の失明とは別の心配だ。
「……で、それ、いつまでやってんだ」
「今日一日のつもりです」
「目は、本当に見えるんだな? 自分の意志で閉じてるだけなんだな?」
「ああ藤本、あなたが心配してくださるなんて!」
「何があっても今日一日は目を開けない気なんだな?」
「そうですけど……何ですか?」
「いや、皆困るだろ? 書類のチェックもできねえってことは、報告書上げても今日はムダってことだし」
 藤本の目が、ほとんどイタズラっ子のように煌めいた。
「ちょっと……私の書類仕事が一日遅れるだけの話でしょう。そんな遅れは簡単に取り戻せます。サボって損をするのはあなた方ですよ」
「あー、はいはい。んじゃおとなしく仕事しますんで、フェレス卿は別のとこ行ってくださいよ」
 言いながら、足を組み替える仕草で椅子を鳴らす。
 メフィストは邪魔をするなと言われた格好だ。不満げに口をへの字に曲げるが、藤本に仕事をしてほしいのも事実である。そーですねと軽い調子で呟くと、メフィストは藤本の背後を通りすぎようとした。
 ──そこに、組み替えた素振りで投げ出された藤本の足があることにも気付かずに。
 もちろん、藤本の悪意とまではいかないイタズラだ。だが、メフィストは綺麗に引っかかった。
「!」
 とっさに目を開けることもせず、バタンと床に倒れる。
「フェレス卿!」
「藤本さん、やりすぎですよ!」
 さすがに事務員たちがメフィストに駆け寄った。腕で防御したとはいえ、メフィストは床に座り込んだまま鼻を押さえている。痛い、と低く呻く声には恨みがましさに満ちていた。にやにやと様子を見守っていた藤本も、とたんに血の気が引く。
 そう、支部の人間が目を閉じて歩くメフィストに何のちょっかいも出さずにスルーしたのは、どんな報復が待ち受けているか分からないからだ。そんなことは、普通の人間であれば何はさておき大前提なのだ。今、たとえば大きなクッションをとっさに出現させるとか、ミラクルマジックで体を宙に浮かせるとか、できたはずなのにしなかったのは故意としか言いようがない。つまりメフィストは、こういう事態を期待していたということだ。藤本は仕方なく立ち上がった。
「何だよ……実験に協力してやったんじゃねえか」
「はあ!?」
「支部内は不自由なく歩けても、足元に何かあったら躓くってことだろ。悪意ある何者かがいたなら尚更だ。つうか、一応危なくないように気は使ったんだぜ?」
 ぺしぺし、と床を叩く音を立てる。怪我を負わせる可能性のあるものはない、という意味だ。藤本の座っていた椅子の背後は通路で、他の机や椅子、ゴミ箱といった障害物はなかった。一応。
「……でも、ひどい! 心配してくれたと思ったのに!」
「心配したから試したんだろうが」
「でも痛いです! 鼻! 鼻血出てませんか!?」
「出てねえよ。お前丈夫だし、すぐ治る癖に……」
「ひどい!」
 それでもまだ目は閉じられたまま。どこまで本当なのか、涙がうっすらと滲んでいる。藤本はため息を禁じ得ない。
「……おい。本当に、何かの手違いで目が見えない訳じゃねえんだろうな」
「は?」
「今みてーな咄嗟の時に、目ぇ開けなかっただろ。倒れ込む先に何があるのか分かんねーのに」
「ですから、今日は一日、目を閉じたままでいようと決めたので……」
 メフィストは怪訝に小首を傾げてみせた。
 たしかに、彼の城とも言えるこの支部内でなら、怪我などあっても程度は知れている。人間なら即死レベルの怪我ですら、蚊に刺された痒みが消えるよりも遥かに早く完治してしまうのである。
 つまり藤本は、本当にメフィストを心配しているのだ、という主張をしてみせている。翻訳するなら「ご機嫌取り」で正解だろう。
「口開けろ」
「は?」
 唐突に、藤本は言った。目ではなく口を開けろという要求に訝るが、唇にピタリと押しつけられた固形物に、メフィストは素直に従う。打ち付けた鼻は既に治り、ほのかな甘い香りに気付けたからだ。
 その独特の香りは、チョコレート。
「……」
「これで機嫌治せ。な?」
 何の変哲もない小粒のチョコレートだ。飴やチョコレートは、たいていの祓魔師が非常時のためにポケットに入れている。舌の上でとろりと溶け始めると、濃密な香りが立った。
 ふむ、とメフィストは頷いた。
「なるほど」
「え、何?」
「よく分かりました。私が不自由だと藤本が優しい」
「……」
 ニタリ、とメフィストの口が三日月形に笑んで、藤本はサアッと青ざめる。
「あなた、好きな子は苛めてしまうタイプでしょう!」
「え、いや、」
「おや? ということは、私は意外に……いえいえやめておきましょう。武士の情けというものです!」
「おい待て」
「報告書、出来たら直接私のところへ持ってきても構いませんよ? 二人きりで会ってあげないこともありません」
「すみませんちょっと待って」
 足を引っかけた挙げ句、ご機嫌取りまでした藤本には良い薬である。ささやかすぎるほどだろうか。すっくと立ち上がったメフィストに、藤本の声が追い縋る。
「おい! 苛めるっつうなら、お前の方こそ散々嫌がらせしてくるじゃねーか!」
「アハハ、私はただのイジメっ子かも知れませんよ~☆」
 飛んできたボールペンがメフィストの後頭部にヒットする。けれど、振り返ったメフィストのしたり顔を見れば、藤本は黙るしかないのだ──。