なつの日記

 夏休みは嫌いだった。
 学校も好きではなかったが、何もする事のない長い休みは半屋にとって苦痛でしかない。しなければならない事なら、勿論ある。空手道場の練習は週に二回、山のように出される各教科ごとの宿題、そして『夏休みの日記』。
 半屋は、日記というものが殊更苦手だった。
 だって、何もない。
 単調な毎日、暑かったとか雨が降ったとか、道場へ行ったとかいう『出来事』を箇条書きにするので精一杯だ。それについての感想など何もなく、小学生の時分には随分担任に嘆かれたものだった。
 いくら嘆かれても、半屋にはどうしようもない。
 それについてどう思ったか、何を考えたかを書いてみろと言われて、素直に「殺してやりたいと思った」と綴ったら、それで説教をされた。以来、決して『出来事』以外の自分の言葉は書いた試しがない。
 それに、何だって中学生になってまで。
 大体、本来の意味を考えるなら日記などというものは人に見せる類いではないのだ。夏休みの間だけ人に言われて書かされ、しかもその内容を担任が見る。まるで監視ではないのか。
 人に見せる事を前提として書かれるそれは、だから日記とは言わないものだ、と半屋は思う。そういう理屈を付けて、一年の時も二年の時も『日記』は提出しなかった。
 宿題も、殆ど手を付ける事はなかった。見てもさっぱり分からない。ほんの少しめくってみるだけで、眉をしかめて放り出した。
 だから、何もする事がない。
 だから、夏休みは嫌いだった。

  なつの日記

「たくみ、あんたは行かないの?」
「…何?」
 浴衣を着て家を出た姉を見送って、母親が声をかけてきた。
「お祭りよ。お神輿も山車ももう出てるわよ」
「…」
 ああ、どうりで外が騒がしいと思った。
 半屋は祭りも嫌いだった。
 あの人間の多さには辟易する。去年は、当時付き合っていた女にせがまれて出掛けたが、余りの蒸し暑さと人込みと騒々しさに半屋の不快度は最高潮に達し、ケンカ騒ぎを起こして補導された。
 正確に言えば半屋自身が引き起こした訳ではない。足を踏んだの踏まないのと言い掛かりを付けられたのを、半屋は丁寧に買っただけだ。半屋は見た目が白くて細いので、甘く見られる事が多かったのである。
「たくみ?」
「…行かねェ」
 声変わりが始まったばかりの幼い声で、しつこく話し掛ける母親に背を向けた。
 暑いのは苦手だ。
 煩いのも苦手、人込みも苦手。冷房を効かせた部屋から出る気は毛頭なかった。だが、祭り囃子は容赦なく半屋邸に近付いている。
「…」
 煩い。
 半屋の家は比較的広い通りに面している。近隣の自治体が送り出す神輿や山車が幾つも、先にある大通りを目指してそこを通ってゆく。
 …煩い。
 耳栓でもしていたい気分だ。別の音で紛らわせようと、CDウォークマンを取りに立ち上がった。自室の窓際にある机を探って、イヤホンと共に手にする。
 窓から通りを見下ろすと、途端に半屋は不機嫌になった。
 今まさに通り過ぎる山車に掲げられる提灯には、梧桐の住む地域の自治体の名が墨で黒々と書かれていた。
 梧桐。
 別の中学に入ってから、殆ど姿を見かけなくなっていた。顔を合わせる事がなくなったと言う事について、半屋は複雑だ。
 見れば腹立たしいのだから、中学に入ってからというもの、梧桐に出会った小学生当時ほど腹を立てる機会は減っている。
 だが、半屋は梧桐に勝った事がない。勝ち続けたまま梧桐は目の前からいなくなってしまった。
 思い出せば腹が立つ。
 だがその遣り場がなくて、半屋は仏頂面でCDをウォークマンにセットして溜め息を付いた。ちらと見遣れば、山車が通り過ぎて今度は神輿が近付いている。
 半屋は思わずウォークマンを落とした。
 近付いて来る神輿の上に、大団扇を担いだ梧桐が立っていた。
「梧…っ!?」
 法被を着て豆絞りを捩じり鉢巻きにし、大団扇で音頭を取っている。大揺れに揺れる神輿の上で、器用にバランスを保って笑っている。
 ウォークマンを落とした格好のまま、半屋はそんな梧桐と、目が合った。梧桐は一瞬きょとんとして、次ににやりと笑う。
 それは久し振りに見た、梧桐の挑発だった。
「おい、止まれ! ! 」
 担ぎ手に怒鳴る梧桐の声、それは聞き覚えのない低い音。
 半屋邸の真ん前で神輿は止まった。
「半屋! ! 」
 呼ばれてようやく金縛りが解ける。
 窓を勢い良く開け放ち、ほぼ同じ高さにいる梧桐と睨み合う。
「ヒマそうだな、半屋! お山でおとなしく宿題でもしていたか?」
「…てめぇ…」
「祭りの日ぐらいお外に出たらどうだ? それとも夏は苦手か!?」
 良く通る低い声は、もうすっかり変声期を終えて安定していた。逆に半屋の方は、まだ本人も出しにくい掠れた声が出るばかりで迫力に欠ける。
「ああ、そうかそうか。行きたくても、一緒に行ってくれるお友達がいなかったな」
「……」
 久し振りに神経が切れる感覚を味わった。ここまで綺麗に半屋を切れさせる事が出来るのは、本当に梧桐ぐらいのものである。
 半屋は後先考えずに窓から飛び出すと、瓦を蹴って神輿の上の梧桐に掴み掛かっていった。受け止める梧桐は、楽しそうだった。
「よし、出せ! ! 」
 大団扇を放り出して、担ぎ手に再び前進を促す。
 急に動き出した神輿に、半屋は梧桐の襟首を掴んだままバランスを崩しそうになった。だが、梧桐はびくともしない。梧桐に掴まった形で、半屋は顔を真っ赤にした。
「何だ、この法被が欲しいのか?」
「は!? 何言ってんだ、てめえ!」
 法被を掴んで離せなくなってしまった半屋は、ようやくここの祭りの神輿のスタイルを思い出して慌てた。
 ケンカ神輿である。
 神輿同士が激しくぶつかり合い優劣を決する、故に荒波に乗った状態になるのだ。ケンカ神輿の上でのケンカ。シャレにもならない、バカバカしいと思いながら半屋は左手を離して拳を作った。
 途端に、ぐらりと大きく横に揺れて、その拍子に右手も梧桐から離れてしまう。
 梧桐は足が神輿に固定されているのではないかと思う程、平気な顔をして立っている。対抗心が湧いて、半屋は意地で踏みとどまった。
 意識を梧桐から逸らせば、神輿の起こす波のリズムが分かってくる。
「さすがにサルは器用だな」
 何だと、と梧桐に目を向けると、不意に何かが視界を塞いだ。
「!?」
 法被だった。
「何しやが…!?」
 だが、バランスに気を取られた一瞬でその法被に腕を通される。洋服と違って大振りな法被は、容易に半屋に着せられていた。
「…」
 何をしているのか。
 見れば、梧桐から法被が消えている。地下足袋、黒いスパッツ、腹に巻かれたサラシ、捩じり鉢巻き。それだけの格好で、梧桐は笑っていた。
「何だ、似合うぞ。サル回しのサルのようだ!」
「…ンだとオ…!?」
 頭に血が昇る。
 大きく揺れる神輿に合わせて一歩踏み出すと、半屋は拳を梧桐の顔めがけて繰り出した。だが、梧桐はいとも簡単にその拳をいなす。
 蹴りを出す。
 躱される。
 拳を出す。
 弾かれる。
「どうした? 半屋。曲芸か?」
「るせえッ! ! 」
 だが、何度攻撃しても梧桐にダメージを与える事が出来ない。
 神輿のリズムのせいだと気付くのにはしばらく時間を要した。バランスを取りながらの攻撃、梧桐にそれを読まれている。
 腹立たしいのは、何故か梧桐が攻撃して来ない事だった。笑いながら、半屋の攻撃をいなしている。
 ああ、これではまるで、本当に猿回しのようだ。
 自分でそう思い当たってしまい、半屋は無性に腹が立った。
「ん?」
 不意に梧桐の目が半屋から離れる。
「よそ見してんじゃねェッ! ! 」
 その隙を見逃さず、半屋は顔面に拳をねじ込む。
 だが。
 神輿のリズムを無視した結果、威力を削がれた拳は梧桐に何のダメージも与える事は出来なかった。平然と拳を頬骨に受け止め、その手首を掴む。
「半屋、着いたぞ!」
「え?」
 悪魔のような笑顔で見返したかと思うと、梧桐はいきなり半屋を放り投げた。
「担げー!!! 」
「わあああ!!?」
 法被を羽織ったままの姿で地上に投げ出された半屋が慌てて立ち上がったそこは、神輿の担ぎ手達のど真ん中だった。
「な…!?」
 丁度立ち上がった肩に、神輿の梁が当たる。
「運が悪かったな、坊主」
「…え…!?」
 周囲の担ぎ手達が苦笑いしながら、折り畳んだタオルを半屋の肩にあてがう。
「ちょっ…待…」
 慌てて梧桐を振り返ろうとするが、目前に迫ったものに言葉を失った。
 行き会った別の神輿が猛然と突進してくる、まさにその瞬間だった。
 地鳴りのような怒声が大通りに谺する。半屋の担がされた神輿も、目の前の『敵』めがけて走り始めた。
 何なんだ。
 何がどうなっている?
 訳が分からない。
 がつん、と物凄い衝撃が走る。もみくちゃにされて、靴下だけの足を踏まれ、前に進んでいた神輿は大きく揺らいで後退した。
 梧桐は。
 仰ぎ見ると、いつの間にか大団扇を引き上げた梧桐がそれを振りかざし、前方を指差していた。
「ひるむな!!! 」
 大勢の人間の雄叫びを梧桐の声が切り裂く。その怒号は相手の神輿の鬨をも割った。
 何という声量だ、くらくらする頭で半屋は畜生、と揺れる梁を担ぎ直した。
 再び前進を始める。
 次第にスピードに乗り、相手の神輿とぶつかる頃には殆ど全力疾走だった。勢いは止まらない。耐え切れずに、相手の神輿は横転した。
 頭の上から、梧桐の勝鬨が雷のように降ってくる。敵の担ぎ手達をなぎ倒し、殆ど踏み付けるようにして遣り過ごし、大通りの先へゆく。
 何だ。
 勝ったのか?
 自分の意志ではどうにもならない中へ放り込まれて、半屋は抜け出す事も叶わずにただ周囲の勢いに従う他なかった。
 次の神輿が見えてくる。
 何なんだ。
 どうなっているんだ。
 梧桐に向けられていた筈の闘争心が、目前に迫る神輿に移っている。
 こんな祭りをしていたのか。端から見ていただけでは分からない、夜店をちらっと巡った事しかない半屋が初めて見る地元の『祭り』だった。
 囃子の音が大地を伝って心臓に届く。
 ケンカ神輿、先程踏み越えてきた『敵』、今目前に迫る新たな『敵』。
 死人とか出ないのか、こんな祭り。
 激しい激突に、半屋は知らず笑っていた。
 暑いのは嫌いだ。
 人込みも嫌いだ。
 煩いのはもっと嫌いだ。
 嫌いなものばかりの中へ放り込まれ、頭上から梧桐の怒号が響き渡っているにも関わらず、半屋は叫んでいた。
 何と言っているかは自分でも分からない。
 ただ雄叫びを上げる。
 腹の底から絞り出す声は、聞き辛い掠れた声では、なかった。


「たーのーもー!」
 どこかで梧桐の声が聞こえる。
 うう、と呻いて身じろぐが、体は何故だか動かない。
「あら、梧桐くん! 久し振りねえ」
 母親の声も聞こえる。
「えっ、たくみ!? あんたいつの間に家出たの…」
「祭りに行きたいと言って二階の窓から飛び出して来たのだ!」
 …何言ってやがる。
 だが、体は動かない。
「ちょっと神輿を担いだら伸びてしまったので、俺が持って帰って来た」
「まあまあ、大変だったでしょう? 梧桐くん、ありがとうねえ!」
 おいおい、何がだ。
「礼には及ばん! では失礼する」
 時代がかった喋り方で、梧桐の気配が消える。
「やだ、たくみ。そこで寝ないのよ!」
 母親の声が笑っている。
 だが返事も出来ずに、半屋は玄関に上半身を乗り上げたまま、眠りに落ちていた。
 

*     *     *

 
「いっ…てぇ……」
 まだあちこち体が痛む。
 祭りから戻った時の半屋の姿は見るも無惨だった。靴下は真っ黒で穴だらけ、ジーンズの膝は擦り切れ体中汗にまみれ、そこかしこに痣が出来ていた。
 だがケンカによる怪我が絶えない彼に慣れている家族は微笑ましく笑うばかりだった。
「あんた、そんなに祭りが好きだったっけ?」
 姉にはしばらくからかわれる羽目となったが、動く事が出来なくなる程疲れたのは久し振りで、その晩は正体なく眠った。
「…あのヤロー…」
 一段低くなった声に慣れた喉で悪態をつく。
 思い出すにつけ腹が立つ、梧桐の顔。
 梧桐の腕。
 梧桐の声。
 しばらく見ない内に一回り大きくなっていた、体。
「…っち」
 ムカつく。
 ふと、机の上に放り出したままになっている『夏休みの日記』が目に入る。
「…」
 半屋は立ったままそのページをめくると、乱暴にボールペンを走らせた。
 提出される事のない日記、白いページの続くそれにただ一度だけ書き付けた言葉。
 7月29日、祭り。
 梧桐、いつか殺す。
 半屋が次に梧桐とまみえるのは、明稜という高校に入学して後の話である。