月光

 
 逃げをうつ白い腕───。
 目障りで、それを掴むとカズマは柔らかい草の茂る大地に押さえ付けた。
「…ッ…」
 カズマの組み敷く体は劉鳳、服などは脱がせたか破いたか、明後日の方向に散らばっている。カズマの方は、中途半端に脱ぎかけた服をどうする暇も与えられず、そのまま劉鳳に覆い被さる格好だった。
 日はとうに暮れ、少ない雲に邪魔をされる事もなく満月が白い光で彼らを照らしていた。
 体の奥を深く穿ってようやく黙らせる事が出来た、それなのに。
 その体は抵抗をやめない。
 強い意志を持って、その手はカズマの肩を押し退け、顔を押し退け、首を掴む。穿った体を乱暴に揺すれば、的を外れた腕は若草を泳いだ。
 白い腕───。
 月に照らされ、発光しているようにさえ見えるその腕は、だが傷だらけだ。その傷の殆どは、他でもないカズマによるものだ。傷跡を確認するかのように、身を屈めて舌を這わせる。ぴくり、体の些細な震えもカズマには確かに伝わっている。
「…なあ」
 話しかけても、返事などない。
 掴む力を緩めれば即座に手刀のひとつも飛んでくる、凶暴な獣だ。だが、これが自分の獲物かと言うと、そうでもない。
「…劉鳳」
 寧ろ狙われたのは自分の方ではないかとも思える。何しろ、行為自体は許されているのだ。
 はっきりそうと示された訳ではない。
 それでも体は正直で、感じる所に触れてやれば劉鳳も達する。それを劉鳳がどう思っているのか、カズマには全く分からない。
 ゆるゆると腰を動かしながら、その顔を覗き込む。
 半ば潤んだ赫い目は、こんな情況でも不思議に鋭さを失わない。逸らされる事なく、視線はカズマに注がれている。歯をくいしばる口は時折深く突き上げられて開くが、声を発する事はない。驚いた事に、行為の最中劉鳳は嬌声を上げた事がない。声を噛み殺す時のくぐもった呻き声ですら、カズマは聞いた事がなかった。
 声を聞いてみたくて執拗にその体を苛んだ事もある。
 だが、今そうしているように劉鳳の口はただ激しい呼吸の為に開かれるのみだ。
「イイか悪いかぐらい、言えよ…」
 劉鳳の感じるらしいポイントをわざと外して抽挿を繰り返しながら囁く。返事など期待しない。どうせ、行為の最中には一言も口をきくつもりがないのだ。
 月光が、今夜は酷く明るい。
 暴れて全身で呼吸をしようとする劉鳳の体が、何か別の生き物のようだった。
「…」
 ふと思い当たって、カズマは動きを止めた。
 若草の上で苦し気に身を捩り、空気を求めて開く口。
 ───魚、か。
 そして人魚に行き着く。
 かなみ、絵本、人魚姫。
 人間の足を手に入れた代わりに、声を失った。
 急にカズマは不機嫌になって、舌打ちすると再び劉鳳の体を揺すり始めた。カズマは人魚姫という童話が嫌いだった。
 とても───不愉快になるのだ。
 声を失い、歩く度に激痛を伴う足になって、それでも逢いたかった男をどうして諦められるのか。そこまで出来て、何故最後に諦めてしまえるのか。極端な選択肢しか提示されない童話の制約はそのままインナーの理不尽に通じる気がして、尚更カズマを苛つかせる。
「劉鳳」
 空気を求めて開く口。
 苦し気にかぶりを振る。
 緑なす黒髪。
 赫い───。
 瞳。
 組み敷いているのは自分の方だというのに、見下ろされている気がする。それは全てこの瞳のせいだと思う。そこで少し、カズマは安心する。
 こいつは諦めたりはしないだろう。
 最後の最後で諦めたりは、しないだろう。
「…髪、のびたなァ」
 若草に絡む髪に手を伸ばす。柄でもなく梳いてやると、劉鳳は不審を隠そうともしない。眉間に皺を寄せ、二度まばたきをする。
 その様子は意外にも子供っぽくて、カズマは笑った。
 劉鳳は何故笑われたのか分からない。ますます深く眉間に皺を刻んで、荒い呼吸のままカズマを睨み付ける。
 それを───嬉しいと思う事は、どうなのだろう?
 カズマは不意に、引き寄せられたように身を屈め、劉鳳に口付けた。軽くはむだけですぐに離す。
「あれ…びっくりした?」
 そういえば、キスなどした事はなかったか。
 目を見開き眉をしかめ、呼吸さえ止めて劉鳳はカズマを見つめていた。
「…そんな嫌そうな顔する訳」
 脚を抱え直して更に体を密着させると、劉鳳は止めていた息を吐き出した。
 もう一度してみたくて顔を寄せるが、劉鳳の腕に阻まれる。肩を押されて制されたのに素直に従ってしまったのは───劉鳳が笑っていたせいだ。
 笑っていたのだ。
 困ったような顔で、だが口の端は僅かに上げられている。それなのに瞳の煌きだけはやけに鋭くて、ぞくりと背を何かが駆け抜ける。
 何だ、こいつ…。
 月光に浮かび上がる、白い獣。
 俺は獣と交わっている。
 そう思った瞬間だった。
「───ッ!?」
 上体が横倒しになるかと思うような衝撃に、辛うじて持ちこたえた。頭部への衝撃だった。
 何が起こったのかすぐには理解出来ない。
 だが、右耳の辺りが急激に熱を帯びるのを感じて、それから数瞬で理解する。
 笑う劉鳳、燃え立つ獣の瞳、白い腕。
「てめえ…ッ」
 その白い腕が、何の前兆もなくカズマの右耳の辺りを払ったのだ。その動作は美しく、だがたおやかさとは裏腹に強靱なバネの力を秘めていた。瞬間、意識が飛びそうな程の。
 自分がどんな人間を組み敷いていたかを忘れていたなんて、どうかしている。かっとなって拳を振り上げるが、それより早く劉鳳の腕に捕まった。
「!?」
 白い二本の腕が、ためらいなくカズマの頭を捕らえるのだ。
 どういうつもりだという疑問すら湧かない。
 酷くアンバランスに笑う劉鳳に気を取られたとしか言いようがない。優雅さからは想像もつかない程乱暴に髪を掴まれ、強い力で引き寄せられる。
「劉…」
 唇に噛み付かれ、ようやくカズマは殴られた怒りを忘れた。片手で劉鳳の体を支え、片手でその頭を抱く。噛み付き返して、滲む血を互いに嘗め取る。鉄臭い血の味に奇妙な興奮を覚えたのはカズマだけではないだろう。
 体を抱き起こし、更に深く捩じ込む体勢を取らせると、口の中で痺れたように劉鳳の舌が震える。髪を掴む手に力が込められるが、引き剥がそうとするものではない。寧ろより強く求められている気がして、唇を合わせたまま劉鳳の腰を揺する。すると物凄い力で締め上げられ、カズマは堪らずかき抱く劉鳳の背に爪を立てた。それだけで───達してしまいそうだった。
 間をおいて2度3度と揺すってやると、震える程の強い力でカズマの肩を、頭を掴んでくる。汗で滑るのを何度も掴まり直し、奪い合うように何度でも唇に噛み付く。ほんの少し離れる隙に深く息継ぎをするのだが、それでも劉鳳は声を上げない。間近で見つめる瞳は鋭く、だが潤んでいる。
 カズマの動きに合わせて劉鳳も自ら腰を動かし始める。繋がった部分に集中しはじめると、劉鳳はカズマの肩を抱き、その肩口に頭を寄せた。荒い呼吸が耳元にかかって、カズマは噛み付かれた唇を舐める。
 …声なんか、聞かなくても…。
 肩に背に爪を立てられ、絡み付くような内壁に締め上げられ、熱い吐息が耳をくすぐる。
 スゲエ、イイ…。
 目の前にちらつく劉鳳の耳に、不意にいたずら心が湧き起こる。耳たぶから外耳をそっと舐め上げると、劉鳳の体はびくりと跳ね上がった。
「…何? 耳、弱点?」
 体を離そうとするのを押さえ付け、その耳に囁く。
 髪を掴んでの抗議に気付かないふりをして再び舌を這わせると、予想以上にわななく体は中に納まるカズマを小刻みに刺激する。
 怒ったのか、劉鳳は同じように彼の目の前にあるカズマの耳に、ぎりぎりと歯を立てた。
「い、イテテ…こら、劉鳳ッ」
 噛み千切らんばかりの力に、カズマは素直に謝るしかない。
「わ、悪かったって…」
 劉鳳は───やはり怒っているようだ。
 勢い良くカズマの肩を突き飛ばして腕を振り上げる。カズマは、今度はそれを予測出来た。殴られる前にその手首を掴む。間髪入れずに襲うもう片方の腕も、辛うじて。
「……」
 互いの呼吸は荒くて、喧嘩をしている時の熱に似ている。
 だが、違う。それはやはり、似ているだけだ。
 セックスをしているのだという自覚はある。それは劉鳳も同じだろう。いわゆる騎乗位の格好で両の手首を捕らえられたまま、灼け付くような瞳がカズマを見ていた。
 ちらりと覗く舌が、唇に滲む血を嘗め取る。
 劉鳳の唇の傷は、カズマの付けた噛み跡。
 ぞくり、背を駆け上がる感覚は独特。
 獣、か。
 どちらもどちらだ。
 はあ、と深く息を吐いて劉鳳が腰を僅かに前後に動かし始める。劉鳳の腕を伝う汗が、月光を弾いてカズマの上に落ちる。
 手首を掴むカズマを頼ってバランスを取る様は酷く煽情的で、それはやはり、喧嘩では得られないもののひとつだと思う。喧嘩の時、しなやかなくせに直線的に伸びてくるこの手足を美しいと思う事さえある。だが、交わっている時のこの体は、同じものの筈なのに別格だ。変調をきたしていると言ってもいい。
 瞳が揺れ始める。
 荒い呼吸を一時中断して唇を噛む事を繰り返す。下から突き上げれば、掴む手首が過剰に反応する。その指先は所在なげに、何かを掴もうとするように震えていた。見れば、劉鳳の張り詰めたものはもう限界が近い。
 不意に───。
 傷付いた劉鳳の唇に目がいった。
 濡れて光る唇が、ある規律に従って動いているように見えたのだ。カズマの胴体を絞めるように脚をわななかせ、少し伸びた髪が顔に張り付くのを払うように頭を振りながら───その唇は法則を持って動いていた。
 ほんの僅かな動き、繰り返されているのでなければ気付く事もなかっただろう。
 ───カズマ。
 カズマ、と。
 紡いでいる言葉は何の呪文か、己の名だった。
 気のせいか?
 だが、もう遅い。気のせいだったとしても、一度そう思ってしまったのだ。そう意識してしまったのだ。劉鳳が声を発しない以上、また何を話しかけても返事が期待出来ない以上は確認の取りようがない。
「…劉鳳」
 そして口から出たのは、やけに掠れた囁き声。
 可笑しくて笑って、再び劉鳳の背を大地に押し付ける体勢を取る。
「アンタ、自分が誰とヤッてるか…一応自覚あったんだな…?」
 訝しげに眉根を寄せる劉鳳は、その自覚がなかったのだろうか? だが一言も声を発する事なく、凶悪なまでに暴れるその様子を見ていれば、彼の正気を疑うのも至極当然だ。まるで獣と交わっているような錯覚、それが。
 名を呼んでいるのだ。
 そして、そう気付いた時体の中を駆け抜けたものは、痺れる程の高揚感。
「…悪くねェよ、アンタ」
 悪くない、どころではない。
 月光を返す瞳は焦れたようにカズマを射る。
 何を思うのか劉鳳は、カズマの首を引き寄せてわざわざ無理な姿勢で受け入れる。互いの呼吸が互いの口元にかかる程の至近距離で睨み合う。奪い尽くしたくて、何度も劉鳳の内部を抉る動作を繰り返す。
 劉鳳の呼吸が、引き攣るように早くなり始めた。
 爪を立てる指が震えている。
 カズマは笑うと、片手を劉鳳の熱の中心に伸ばした。苦しげに脈打つそれは、柔らかく握り込んでやるだけで熱を吐露した。
 劉鳳の熱が引くのは早い。
 それはカズマも同じで、劉鳳に一呼吸遅れて達すると、息が整うのを待たずに抜け出る。カズマが離れると、劉鳳はそれこそ冗談のようにすらりと立ち上がり、自分の服を拾いながら姿を消すのだ。
 言葉を交わす事もない。
 終わればすぐにカズマを無視して立ち去ってしまう。一度追い掛けてみたが、川で体を清める劉鳳はちらと視線を寄越しただけだった。
 まるで何事もなかったような振る舞い。
 呼吸の荒さだけがカズマの存在を立証する。
 だが、腹立たしかったのも最初の頃だけだった。
 どうせそのうち、どこかで会うのだ。互いに熱を持て余しているのなら、またこうして奪い合う事になる。
 若草を寝床に、カズマは仰向けに寝転ぶ。
 満月は、変わらず白い光を冷ややかに夜の大地へ投げかけている。
 さや、と風が鳴った。
 風の撫で付ける若草の擦り合う音。
 りり、と虫が鳴いていた。
 劉鳳と交わっている時には全く気付かないもの。
 ただ互いの呼吸ばかりが───耳に入るのだ。
 目を閉じれば劉鳳の赫い瞳がやけにはっきりと蘇る。
 今頃はどこかの川で沐浴しているのだろう。
 唇の傷がじわりと痛んだ気がして、カズマは目を閉じたまま、少し笑った。
 

月光