ねこを飼う。

 昔、犬を飼っていた。
 だから犬の扱いには慣れている。
 猫は、通いの何匹かに餌をやっていた。首輪を付けていた訳ではないから、飼っていたとは言い難い。そもそも餌をやっていたのも猫アレルギーの僕ではなくて、使用人の誰かや、よく遊びに来ていたエリザベスだ。世話らしい世話を必要としない猫は、故に尚更「飼っていた」という認識から遠ざかる。けれど、今でもエリザベスによれば「猫ちゃん飼ってたわよねっ」となるので、やはりあれらはファントムハイヴ家の猫だったのだろう。
 好きな時にやって来ては餌をねだり、思い思いの場所で勝手に寛いで、飽きれば別の場所へ───或いは本来の飼い主の元へ。
 僕はため息を禁じ得ない。
 移り気で不忠義、自分勝手で何の役にも立たない、猫という生き物。
 全くため息を禁じ得ない。
 目の前で繰り広げられる光景も、それとさして変わりないからに他ならなかった。
 

  ねこを飼う。

 
「またいらしたのですか? 随分と暇な方ですね」
「何よ! ちゃんと今日のお仕事は終わらせてから来てるのにッ! 近くまで来てアナタの顔も見ないで帰るなんてありえないワ!」
「…見ましたのなら、どうぞ速やかにお帰りを」
「やだッ! 見・た・り・な・いーッ!!! チューもしてないし!」
 凍り付くようなセバスチャンの視線をものともしない死神は、本当の意味で鈍感だ、とシエルは思う。
 シエルにしても、マダム・レッドの一件は忘れていない。忘れようもない。マダムと似ているその赤毛だけでも勘に障る。
 だが───。
 ちら、と伯爵は執事に目を向けた。
(…イヤそうだ)
 首に抱きつこうとするグレルをすらりと躱し、アフタヌーンティーのワゴンを押してやってくる、ファントムハイヴ家の執事。踵の高い靴を履いているグレルだが、それでも長身のセバスチャンより確実に頭半分は低い。首に腕を伸ばすという行為には不利なのだ。
 玄関で待っていれば真っ先にセバスチャンに会えるのだが、それはまさしく一瞬で、もれなく扉は閉ざされる。数度の学習を経て、グレルは断りなく上がり込みシエルの元へ来るようになっていた。シエルと一緒にいれば、間違いなくセバスチャンに会えるのだ。
(一体どこまで本気で絡んでいるのやら…)
 だが、仕事を終わらせて来るのは感心だ、とも思う。仕事帰りにここへ寄るのがこの死神の日課として定着しているのだろう。
 まるで猫だ。
 そう───猫だ、シエルは微かに口の端を上げた。
「…セバスチャン」
「はい」
 構って貰えずにゴネているグレルを全く無視して、紅茶の給仕をする執事に訊ねる。
「お前、猫は好きだったな?」
「は?」
 唐突な話題に一瞬手を止めるが、セバスチャンは大した不審も抱かずに作業を再開する。
「ええ」
「裏庭に通い猫が来ていて、お前が餌をやっている。そうだな?」
「…はい」
 ティーカップを差し出しつつ、話の先が見えずにセバスチャンは僅かに首を傾げた。その顔は、常になく心配の色が出ている。通いの猫に餌をやっている事を、もしかして咎められるのではないか? という心配だろう。シエルはそれに気付かないフリで言い放った。
「僕も猫を飼おうと思う。お前はどう思う?」
「それは…良いですね」
 セバスチャンの顔が、あからさまに綻んだ。
 なによう、猫なんてーというグレルをものの見事に無視して、シエルは満面の笑みを執事に返した。
「そうか! お前ならそう言ってくれると思った」
 普段のセバスチャンであれば、そのシエルの大袈裟な歓喜に不審を感じたかも知れない。だがセバスチャンは、そう、猫に関してはガードが甘いのだ。
「実はもうここに来ているんだ」
 猫アレルギーの僕でも、アレルギー反応が出ない猫で。
 にこにこと、シエルは続けた。
「名前はレディ・グレル」
 ほんわかした執事は、急速冷凍で固まった。
 

*     *     *

 
「ちょっと、悪趣味じゃなあいー? ヒトの名前を猫に付けるって、あっでも『レディ・グレル』って響きはステキね…!」
 全く何も察していないグレルは、ぷりぷりと怒ったかと思うとうっとりと両手を頬に当てる。そんな様子には頓着せずに、シエルは笑みを残したままグレルに呼びかけた。
「来い、グレル」
「は?」
 指先でちょいちょいと呼ばれ、グレルは眉をひそめる。きょろきょろと周囲を見回すが、当然「グレル」は自分しかいない。
「何よ、アンタみたいなガキにそんな呼ばれ方する覚えは」
「来い」
「ムカつくガキね!」
「餌がないと来ないか。ほら、グレル。これは欲しくないか?」
「どういう…」
 意味よ、と続く言葉が立ち消えてゆき、グレルはようやくシエルの言う「猫」が自分である事に気付いた。
「ふざけてんの!?」
「セバスチャン特製のガトーだぞ。ほら来い」
「………」
 よりによってシエルにペット扱いされる事は本意ではないのだろう。グレルは憤慨するが、フォークの先に乗ったガトーがセバスチャン特製と聞くや、途端に自尊心らしきものは煙と消えた。
 シエルとガトーをちらちらと見比べながら、期待を隠せないグレルは吸い寄せられるように近付いてゆく。
「やはり猫は餌がないと寄って来てくれないな」
「…坊ちゃん」
 解凍中にシエルの意図を正確に理解したセバスチャンは、目の前の悪夢を遠い目で眺めた。
「さあ、欲しければいい子で座れ」
「座れって、椅子は…痛ッ!!!」
 当然の質問をしたグレルに、シエルはガスッと足蹴で答える。向こう脛を蹴られたグレルは「痛いじゃないの何すんのよう!!!」とシエルの足元にうずくまる。そう、それが正解だ。
「グレル。猫は何て鳴くんだ?」
「は!?」
 涙目で見上げると、ふかふかの椅子にふんぞり返るシエルが薄く笑っていた。エナメルのつま先で顎を上げられ、しかしグレルは理不尽さを忘れた。セバスチャンのガトーが視界に入ったせいだ。
「え…っと…、に、にゃー…?」
 ご褒美と言わんばかりにシエルは満足げに笑った。足を引き、代わりに顔を近付ける。
「ようし、いい子だ」
 手を伸ばし、耳から顎の辺りを撫でてやる。バカにされている状況だというのは勿論分かっているグレルだが、どうしてもガトーから目が離せない。
「に、にゃあ! にゃあー!」
「よしよし」
 こんな事でセバスチャンの作ったガトーを食べられるなら安いものだ、という結論に達してしまったグレルに迷いはなかった。シエルの膝に縋って、鼻先に突き出されたガトーをぱくり。
「…ッんんーやだ美味しー!!! チョコレートとオレンジのケーキね! あっごめんなさいニャーだったわよねニャー!!!」
「もっと欲しいか?」
「ニャーン!!!」
 二口目を口に入れて貰って、もはやご満悦のグレルだ。状況は猫だったが反応は犬に近い。
「セバスチャン?」
 傍目にもはっきりと分かる程、セバスチャンはびくりと肩を震わせた。
「次からは、おやつをこの猫の分も用意してくれ」
「…御意」
 その顔は引き攣り、冷や汗だか脂汗だかが滲んでいる。次にシエルが何を言うのか、予測がついたせいだろう。その期待は裏切る訳にはいかない、とシエルはグレルの頭を撫でながら優しく言った。
「さあ、レディ・グレル。セバスチャンに遊んで貰っておいで」
「にゃっ!?」
「セバスチャンは猫が大好きだからな」
「に…にゃあぁっ!!!」
 弾かれたようにぴんと立ち上がる。理由までは察する事が出来ないまでも、自分をセバスチャンに嗾けているのだという事はグレルも理解したのだ。
 セバスチャンはというと、遠くを見つめて心頭滅却している。
 直立不動の彼の首に今度こそしがみついて、グレルはにゃんにゃん鳴きながら頬をすり寄せた。どうにも我慢ならずにそれを引き剥がしにかかったセバスチャンに、シエルはとどめを刺す。
「それは僕の猫だからな、乱暴に扱うなよ?」
「…心得てございます」
 赤い髪をむんずと掴んだ手から無理矢理力を抜いて離し、セバスチャンは型通りに笑ってみせた。それは完璧な笑顔ではあったが、勿論色はなかったし硬直気味で、シエルは宜しいと頷いた。ちょっとした思いつきにしては、良いアミューズメントだ。
(せいぜい困れ)
 あの執事が困ったり顔色を変えたりというのは、日頃完璧をぶっている姿より余程楽しいものだ。
 当分『レディ・グレル』で面白いものが見られる。
 セバスチャンが万能ぶりを発揮してグレルをおとなしく躾ける事が出来るのならば、それも面倒が減って良い。もしくは、万が一「もうアレをどうにかして下さい」などと言ってくる事があったなら、それこそ溜飲が下る。
 首にグレルをぶら下げたまま退室するセバスチャンを、シエルは心から爽やかに見送った。