ねこと遊ぶ。

「あらステキ! 今日はビスキュイなのね」
「ケーキよりこっちの方が食べさせ易いからな」
 ウィリアム・T・スピアーズは途方に暮れていた。
 ファントムハイヴ邸に連れてこられるとは、全く思っていなかったのだ。敷地に入って「まさか」と思い、しかし取り次ぎも呼ばずに屋敷に入るグレルに質せば「そうよ」と返ってきて、ウィリアムは一瞬頭に血が昇る。だが文句を言いかけると、口を尖らせたグレルに「気に入らないなら帰れば?」と素っ気なく突き放され───。
 渋々ついて行った先が、この部屋だった。
 そこにはこのファントムハイヴ邸の主がいて、テーブルには上品に盛られたクッキーの皿があった。
 前をゆくグレルは足取りも軽く、シエルの傍らへ歩み寄る。子供とは思えない艶を含んだ瞳で、シエルはグレルに微笑みかけた。
 

  ねこと遊ぶ。

 
「ごきげんよう、レディ・グレル」
 ウィリアムは耳を疑った。
 レディ・グレル?
 レディ・グレル!?
「にゃん!」
 今「にゃん」と!!?
 小首を傾げて愛らしく返事をしたグレルは、そのまますとんとシエルの足元に座ってしまった。勿論そこは床だ。
 何が起こっているのか把握出来ない。
 口を開きかけたまま硬直する背後で、無情にも扉の閉まる音がした。横を通るワゴンを押しているのがあの執事だという事は認識出来たが、それについてどうするべきかまでは考えが及ばない。衝撃が大きすぎる。
 おとなしく頭を撫でられているグレルとこの館の主を凝視するしか出来ないでいると、横からくすりと小さな笑いが聞こえた。執事だ。
「…今日はお友達もご一緒ですか? レディ・グレル」
「にゃー!」
 友達ではなく単なる同僚。
 執事までもがこのどうしようもない死神を「レディ」と呼ぶ。てゆうか返事が「にゃー」。
 どこから訂正すればいいのか分からない。
 どうすればいいのかも分からない。
 気が遠くなりつつあるウィリアムは、それでもテーブルの上のクッキーを見つめる事で、辛うじて立っているのだった。
 

*     *     *

 
「はいウィル、お土産! 書類遅くなっちゃったお詫び~」
「…何です?」
 事の発端は、グレルの持ち帰った「お土産」だった。
 渡された包みを開くと、軽食が入っていた。サンドイッチだ。二種類あって、胚芽の粒の見えるパンには、シンプルにハムとチーズとレタス。白いパンの方は、厚いサーモンとスプラウトに香草が覘く。
 丁寧に作られたそれは、明らかに家庭料理のレベルではない事が伺えた。
「夜食用にわざわざ作ってもらったのヨ」
「…こんなものより、期限内に報告書を間に合わせる努力をして下さい」
「分かってるケド~」
「それと、間に合わせるだけではなくミスももう少し減らして頂けませんか。全く無くせとは言いません、貴方の頭では不可能ですから。ただ現状では私が新たに報告書を作っていると言って過言ではないもので」
「んもー、はいはい。努力はしてみるワ~」
 軽薄にひらひらと手を振って逃げるグレルを、いつものようにウィリアムは睨み付けた。だが、いつものように追加の苦言を投げかける事は、しなかった。
 懐柔されるつもりは毛頭ないが、サンドイッチに罪はない。定時を大幅に過ぎた胃は空腹を訴えている。もうしばらくは帰れそうもない、ウィリアムは諦めてお茶を淹れた。
 サンドイッチは、大変美味だった。
 包みを見ても店名などのプリントはなく、夜食用に作って貰ったという事は、持ち帰りは本来扱っていない店なのだろうか。派遣員であるグレルは、仕事先の環境上、こういう店を見つけてくるのが非常に上手い。今までもご機嫌取りに差し入れを持ってくる事はあったが、今回はまた格別だ。
 翌日、見かけたグレルを呼び止めると、ウィリアムは大した躊躇もなく店の名を尋ねた。
「お店? ああ…違うのよ、あれ作ったのはそういうお店の人じゃないの。貴族のお抱えシェフなのよ」
 お抱えシェフ? ウィリアムは少なからず落胆した。
 レストランなどであるならば、折を見て行ってみたいと、珍しく思ったというのに。
「アタシは個人的なお付き合いがあって、良く会うんだけど…なあに、ウィリアム。気に入ったならまた頼んであげてもいーわヨ? あっちなみにスイーツが絶品なのよねー!」
「…スイーツが専門のシェフですか?」
「んー、そういう訳じゃないんだけど。ご主人様がお菓子大好きで、必然的に上達しちゃったんだと思うワ~」
「…」
 あのサンドイッチを作ったシェフの、別の料理を食べてみたい。グレルが目を輝かせて「絶品」と言うスイーツも気になる。食に関して欲が薄いという自覚のあるウィリアムにしては、これは本当に珍しい事だ。
 だが、グレルに頼めば持ち帰り可能なメニューに限定されてしまう。また、それを口実にしてグレルが増長しかねないという懸念もある。
「そのシェフ…紹介して頂けませんか」
「えっ」
 目をぱちくりさせて、グレルは困った顔をした。
 確かに、貴族のお抱えシェフを紹介させて、グレルとウィリアムがかわるがわる訪問しては迷惑になるだろう。シェフには本来の仕事もあるのだし、友人はグレルだけでもない筈なのだ。
 だが、勿論迷惑になるほど通ったりはしない。ウィリアムは節度ある常識人なのだ。
「…いーけどォ…。失礼な事はしないでよ?」
「何ですか、失礼とは。存在自体が失礼な貴方が大丈夫なら私は間違いなく大丈夫です」
「ちょ…ッそれって失礼って言わないの!?」
「シェフには失礼などしません」
 そうして───。
 ウィリアムはグレルの案内で、ここへやってきた。
 

*     *     *

 
 多分、普通にここへやってきて普通に伯爵と執事に会っていたら、ウィリアムはシェフの事など忘れてきっぱり回れ右しただろう。
 だが、ティーンエイジに届くか届かないかという子供の膝にすりよる同僚、という図はウィリアムの思考を一時停止させるのに充分すぎる威力があった。
「お座りになられないのですか? ウィリアムさん」
「…」
 ぎぎぎと首を向けると、いつの間にやらウィリアムの分のティーカップを用意したセバスチャンが、まるで何事もないように微笑んでいる。
 口を開きかけるが、帰りますの一言が喉に貼り付いたまま出てこない。
「ちょっと、ウィル! 失礼はナシよ!?」
「…」
 油の足りない機械のように動きの悪い首を、先を制する声の方角へ向ける。目に入ったのは、伯爵の手からクッキーを食べるグレルという光景だった。
「これはココア、こっちはアーモンド、ドレンチェリーの乗ったのもあるぞ。レディ・グレルはどれが好きかな?」
「にゃー、んじゃ、ドレンチェリー!」
 全く、この同僚は赤が好きだ。真っ赤なチェリーの乗ったクッキーがグレルのギザギザの歯に噛み砕かれるのを見て、脳裏で思う。
 いや、そうではなくて。
「…帰りますよ、グレル・サトクリフ」
 自分の口から、意外に冷静な声が出た。
「あっそ! 帰るなら一人で帰れば? 何よ、自分からついてきたクセに…って、い、痛たた引っ張んないでよッ!!!」
 つかつかと近寄って、グレルの長い髪を掴んで引き上げる。
「貴方にはプライドというものはないのですか」
「うるさいわね! ちょっとおとなしくしてにゃんにゃん言ってればセバスちゃんの作ったもの食べられるんだからいーじゃないッ!」
 ウィリアムは再び固まった。
 セバスちゃんの作ったもの?
 澄まし顔のシエルが(それでも笑いを堪えている事は良く分かる)、ポピーシードをまぶしたシンプルなクッキーをつまんで、ウィリアムに向けた。
「お前は…ウィリアムと言ったな。食べるか?」
 シエルがウィリアムに対して、グレルと同じように食べさせてやる姿勢である事は明白だった。馬鹿にされたようで頭に血が昇った気がするが、謂れのない猫扱いに青ざめている気もする。プラマイゼロで、ウィリアムの顔色は通常通りに営業している。
「美味いぞ? 大丈夫、変なものは入っていない」
「…結構です。そういう問題ではありませんので」
 甘い香りは大変な誘惑だ。
 だがそれを悪魔が作ったという驚愕の事実が、ウィリアムをショックに陥れていた。何故なら、それはつまり、あのサンドイッチを作ったのもこの悪魔だという事だ。執事がシェフを兼ねるなどとは聞いた事がないが、グレルの科白を伯爵も執事も否定しない。
「人の手からは食べない猫かな? 仕方ない、残念だが…セバスチャン、お土産に少し包んでやってくれ」
 セバスチャンを見ると、いつの間にかすり寄って行ったグレルの口に、殆ど正拳突きの動作でガスガスとクッキーを突っ込んでいる真っ最中だった。げほごほと咳き込むグレルをよそに、御意と伝える声は涼やかだ。
「ウィリアム。警戒心が強いのはいい事だが、ビスキュイに罪はない」
 つまんでいたクッキーを自らの口に運ぶシエルは、まさしく猫を諭すように優しい口振りだ。だがその上目遣いは、当然の如く笑みを含んでいる。
 ───帰ろう。
 頭の中で何かが飽和状態になってしまったウィリアムは、にゃーにゃーうるさい同僚をそこへ残して部屋を出た。全く猫というやつは自由気侭だな、というシエルの呟きは耳に届いたが、振り向いて訂正を求める元気はもはやなかった。

「ウィリアムさん」
 のろのろと玄関ホールまで来ると、あの部屋にいた筈の執事が嘘臭い笑顔で待ち構えていた。その手には、紙袋。
 どうぞ、とそれを差し出され、ウィリアムは呆然と見下ろす。シエルの言っていたお土産だ。
 そんなもの、はたき落としてさっさと帰るべきだ。
 心のどこかで、いつもの自分の思考が聞こえる。
 だが。
「坊ちゃんのおっしゃる通り、これに罪などございませんよ、ウィリアムさん」
 そう、全くその通りだ。そうでなくては困る。何しろウィリアムはもう既に、あのサンドイッチを食べてしまっているのだから。そして叩き落としたのなら、そのクッキーは食べ物ではなくゴミになってしまうのだ。
 気を失うかと思うほど見つめた後、ウィリアムは茫然自失の状態で受け取った。ウィリアムの中で、それは叩き落とすか受け取るかの二択で、受け取らずに無視して帰るという選択肢がなかった事には、とうとう気付かないままだった。
 そして、幸いな事に───。
 勝ち誇ったような満面の笑みを湛えた悪魔が恭しく送り出してくれる事にも、ウィリアムは気付かずに済んだのだった。