猫じゃないなら。

「僕の印を付けていれば、今日一日この屋敷のどこをうろついても、家の者は何も言わない」
「…印?」
 そういうしきたりだ、シエルは実につまらないという様子でため息をついた。ウィリアムは僅かに眉間を寄せるのだが、にゃーにゃー言わされるよりはどれほどマシだろうと、その時は確かに思ったのだ。
 

  猫じゃないなら。

 
 グレル・サトクリフが帰ってこない。
 予定の日を過ぎても、一向に。それは即ちウィリアムの仕事に影響を及すものであるし、始末書という名の余計な書類ももれなく増える。他の派遣員に尋ねてもグレルの所在は不明で、ウィリアムの唯一の心当たりを報告すると、ウィリアム自身が捜索に出されてしまった。
 心当たりとは、当然ファントムハイヴ邸である。
 この邸第でグレルは通い猫と認識されていて、出入りは殆どフリーという現状だ。一度騙されて連れてこられたウィリアムは、しかしグレルのようにふるまう気は毛頭なかった。
 カーブを描く石の階段を淀みなく進み、コツコツとドアノッカーを鳴らす。
 あの嫌味な執事と顔を合わせたくはなかったが、これも仕事と割り切って待つ。グレルは取り次ぎを待たずに入ってしまうが、それは猫だから許される勝手なのだ。
 だが、「はーい」と現れたのは、金髪の朗らかな少年だった。
「…私ウィリアム・T・スピアーズと申します。ご当主にお取り次ぎを願いたい」
「当主? 坊ちゃんに?」
 身なりから察するに、庭師もしくは見習いだろうか。多少驚くが、ウィリアムはおくびにも出さずに取り次ぎを依頼した。何にせよ、悪魔に頭を下げるより余程マシなのだ。
「こちらへどーぞっ」
 本来であればそこで用向きを尋ね、それを当主に伝えて会う会わないの伺いをたてるところを、何もかもすっ飛ばして少年はウィリアムを案内した。
「坊ちゃん、お客様です!」
 通されたのは書斎だった。
 書類からちらりと顔を上げたシエルは、ほんの一瞬目を見張る。だがそれは本当に一瞬の事で、すう、と上げられる口端にウィリアムは何やら不愉快な気分となった。
「これはこれは…どういう風の吹き回しだ? ウィリアム」
「仕事で仕方なく、です。シエル・ファントムハイヴ伯爵」
 かちゃりと眼鏡のブリッジを押し上げ、ウィリアムは不機嫌を隠す。
「グレル・サトクリフを捜しています。こちらにお邪魔していないものかと思いまして」
「グレル?」
 端的に用件を切り出すと、シエルは意外そうな顔をした。
「ここ2~3日は見かけないな」
「2~3日前には見かけたという事ですね」
「ああ。ここへ来た」
「…そのままここにいる、という事はないのでしょうか?」
「可能性は…ないとは言えないな。何しろここにはセバスチャンがいる」
 ふ、と小さく笑って、シエルは目だけでウィリアムを見上げた。そう、グレルの目当てはあの悪魔なのだ。
「好きに捜して構わないぞ。本当にいるかは分からんがな」
「…」
「ああ、ただし…使用人に会ったら『にゃあ』と言っておけ」
 ぴしり、とウィリアムの額に青筋が立った。
 使用人という単語にアクセントを置く、楽しげなシエルの意図に気付いたせいだ。
「何、気にする事はない。うちの使用人たちはグレルで慣れているからな。猫は自由にさせておけと言ってあるから、どこでも好きに捜すといい」
 当然『使用人』には、あの執事も含まれているのだ。あの執事に「にゃあ」と言うぐらいなら、このファントムハイヴ邸の広大な庭にある木で首を括る方が理に適っている。
「お邪魔致しました、伯爵。グレル・サトクリフはいなかったと報告しますのでお気遣いなく」
 いたずらなシエルを思い切り見下ろして、ウィリアムの決断は早かった。そんな屈辱を受けるぐらいなら、グレルなど見つからなくても構わない。そもそも帰らないグレル本人に責任があるのだ、ウィリアムには全く関係ない。報告書も始末書も、グレルが見つからなければ保留となる。
 するとシエルは呆れたため息をついた。
「全く…お前は柔軟性に欠けるな」
「堅い仕事ですので」
「分かった分かった。からかい過ぎたのは悪かった」
 仕方なさそうに、シエルは帰りかけるウィリアムを手招いた。
「セバスチャンを毛嫌いするお前がこんなところにまで来るんだ、余程の事なんだろう? 僕としてもそれをただ追い返す訳には行かない…」
 頬杖をついて、シエルは手にしていた書類を机の上にはらりと落とす。
「そうだな…印をやろう。僕の印を付けていれば、今日一日この屋敷のどこをうろついても、家の者は何も言わない」
「…印?」
「ファントムハイヴにはそういうしきたりがあるんだ」
 つまらない顔で口を尖らせ小さく嘆息するシエルは、どうにかウィリアムに「にゃあ」と言わせたかったらしい。そうは行くか、ウィリアムは眉間に縦皺を寄せたまま、掌を差し出した。
「ではその印を頂けますか」
「…いいだろう」
 大儀そうに、シエルは机越しに差し出された手を握った。
 てっきり何かを渡されるものだとばかり思っていたウィリアムは戸惑った。シエルはその手を支えに、マホガニーのデスクの上に乗ってしまう。
「何を…」
「じっとしていろ」
 机の上に膝で立つシエルの視線が、ウィリアムより僅かに高い。
 一体何をしているのか───。
 近付く青い瞳を追っていると、不意に左の首筋に温い吐息を感じた。思わず一歩引く。
「どうした?」
「…失礼ですが、何をなさるおつもりでしょうか」
 怪訝そうなシエルからは、色めいた空気は感じられない。だが、首筋に吐息がかかるような行為は、そう多くはないのも事実なのだ。
「印を付けてやると言っているだろう」
「…」
 印。
 それはいわゆる───。
「動くなよ、うまく付かない」
 スタンドカラーを除けられ、ひと回り小さな手で後頭部を支えられ、ウィリアムは硬直した。
 先程よりも温度の高い吐息がかかり、そこを生温い舌が舐めたかと思うと、ちりりと擽ったいような小さな痛みが襲う。湿った唇の感触も、僅かに当たる歯の硬質な感触も、思考停止してしまったウィリアムには酷く遠い。ただ、頬に当たる柔らかな髪の質感だけがやけにリアルだ。
 相手は子供だ、突き飛ばせば簡単に離れるだろう。
 だが首というのは急所のひとつで、噛み付かれでもしたらただでは済まない。しかも相手は、子供といえども伯爵で、こちらはその屋敷内の探索をお願いしている立場で───。なのにウィリアムは、そんな事を危惧して身動きが取れない訳ではないのだ。
 そう、どうしていいのか分からない。
 いつ離れたのか、深く青い瞳がウィリアムを覗き込んでいた。
 その瞬きを合図に、ウィリアムの呪縛が解ける。
(呪縛?)
 ウィリアムはよろめくように数歩下がって、かぶりを振った。
 そんな大層なものではない。単なる混乱、それも数秒或いは十数秒という短い時間。息を吐いて、そこで初めて自分が呼吸も止めてしまっていた事に気付く。シエルの唾液に濡れた首筋に空気がひやりと通り過ぎて、思わず掌で押さえる。
「使用人に何か言われたら、僕の印を見せてやれ」
 机の上で、シエルは艶然としていた。
 薄い舌がちろりと唇を舐めるのを見て、ウィリアムはようやく気付く。シエルは、どちらでも良かったのだ。猫のマネをさせるのでも、首に所有印を付けるのでも。
 頭に血が昇る。
 が、子供の簡単な騙しに引っかかった自分が寧ろバカバカしい。
「…お手間を取らせまして済みません、伯爵」
「気にするな。知らない仲ではないしな」
 何でもない事のようにふるまうのが一番だ。ウィリアムは眉間を寄せるにとどめて、さっさときびすを返した。実はまだそこにいた金髪の少年が、顔を覆う手の指のスキマからキラキラした目で一部始終を目撃していた事には、今更気付いてもどうする事も出来ないのだった。
 

*      *      *

 
 屋敷をくまなく捜した、という事実が必要なのであって、グレルが本当にここにいるかどうかは重要ではない。ウィリアムは事務的に、次から次へと扉を開けては室内を検分した。
 途中、あのいまいましい執事と鉢合わせたものの、シエルの印を見ると驚いたように「失礼致しました、ウィリアム様」(『様』付けだ)と深々と頭を下げられて、いっそ不気味な程の効果だ。
 地上階を全て見て、ウィリアムは地下へ降りた。
 大体において、こうした屋敷の地下は食料や備品の貯蔵と使用人の私室に割り当てられるものである。場合によっては地下牢がある事も珍しくはない。
「…」
 見渡すが、牢に当たるものはなさそうだ。
 だが、廊下の突き当たりに不自然な壁を見つけた。石を組んだ壁に、そこだけ煉瓦の敷き詰められた『壁』。ご丁寧に漆喰で固められている。そこにあった何かを隠しているのは明らかだ。
 その前に立って、ウィリアムは幽かに、イヤな何かを聞いた。
 掠れた、か細い、男の声が───にゃあにゃあと。
 ウィリアムは帰りたくなった。
 確認の為、手にしたデスサイズでコンコンと煉瓦を叩く。するとやはり、気のせいなどではなくその『壁』の向こうから開けてェ出してェ誰かいるのと急に活気づいた声がわめき出すのだ。
 発見してしまった以上、やはり連れ帰るしかないだろう。
 ウィリアムはため息を飲み込んで、仕方なしに煉瓦を打ち壊す。予想通り現れた扉を、ウィリアムは力任せに開けた。
「ウィル!!」
「…こんなところで何を」
「ああんウィリアム助けに来てくれたのね愛してるわあぁアナタだけがホントの友達よおォ!!!」
 飛び出してきたグレルは多少やつれてはいるものの、問題なく元気な様子で、抱きつかれたウィリアムは少々後悔する。
「酷いのよセバスちゃんたら! アタシがちょっとにゃんにゃん言い忘れたぐらいでお仕置きだって閉じ込めて、そのまま三日も放置ってありえないワ!! てゆか何コレ、扉塗り固めてあった訳!? アタシをミイラにするつもりだった訳ー!!? って、あ、ダメお腹すきすぎて目眩がするワ…」
 ぎゃあぎゃあわめいて、引き剥がそうとするウィリアムなどものともしないクセに目眩がすると言う。一体どこらへんがダメなのか。
「帰りますよ、グレル・サトクリフ」
「嫌よお腹すいたもの、何か食べさせてくれなきゃ歩けない! それともウィルがだっこしてくれるって言」
 突き放されまいと頑張るグレルが、不意に言葉を切った。
 何を凝視されているかは、当然ウィリアムには良く分かる。
「帰りますよ」
「何これ」
「何でもありません」
「何でもない訳ないじゃない」
 振り払うのを諦めて、ウィリアムは掴まるグレルを引きずりながら歩き出した。一方のグレルは、いつになく真剣だ。
「ちょっと、ウィリアム。はぐらかさないで。誰と寝たの。誰に付けられたの。あたしの知ってるヒト? アタシが閉じ込められてる間に誰とお楽しみだったのヨ!?」
 ずるずると引きずられるグレルは、掴まる力は大したものだがさすがに足元はおぼつかないようだ。
「…誰と寝た訳でもありませんし、お楽しみだった訳でもありませんが」
「何よそれ、楽しくもない相手にキスマーク付けさせたとでも言うの」
「キ…」
 キスマーク、とハッキリ言われて、認めたくないウィリアムは殊更何でもない事のようにため息をついてみせた。
「違います。これはシエル・ファントムハイヴの印です」
「シエル!!?」

 グレルの裏返った声が、素っ頓狂に地下に響いた。

「ちょ…っアンタ散々アタシを振って振って振りまくったクセに坊ちゃんならOKって何よそれ子供専門だったって事ー!!? 信じらんないウィルの馬鹿ァこの変態!!!」
 ぶち、と───。
 さすがに切れたウィリアムだ。考えるより早く、踵がグレルの腹にめり込む。
 変態に変態呼ばわりされるとは、何たる不名誉。そもそもこんな印を付けるハメになったのもグレルが原因だと言うのに。
 床にのたうつグレルの髪を掴むと、もと来た道を引き返して瓦礫の向こうの部屋へ放り投げる。
「ち、ちょっと…ウィル…っ」
 げほごほと咳き込みながら頭を上げるグレルを一瞥して、ウィリアムは逡巡なく扉を閉めた。
「ウィ…ウィル? ウィリアム?」
「シエル・ファントムハイヴは私が柔軟性に欠けると言いましたが…」
 床に散乱する煉瓦をその扉の前に積み上げつつ、ウィリアムはほぼ独り言のように呟く。
「私もこの程度の柔軟性なら持ち合わせているのだと今気付きましたよ、グレル・サトクリフ」
「ちょっと、ウィル!? 開けてよォ!!」
「貴方がおとなしくなった頃にまた来ますので」
「な、なにそれ…アタシが永久におとなしくなったらって事じゃないわよね…!? ね・ねえウィルごめんなさい、お願い開けて! 嫌よ迎えに来てくれたんじゃなかったの!?」
 形の残っている煉瓦が数少ないのが残念だ。ウィリアムはそれでも、半分程積み上がったその様子に満足して地下を出た。
 

*      *      *

 
「何なの、あの『印』って」
 その後わりとすぐに、フィニアンによって発見されたグレルは厨房でスープをすすりつつ、キスマークの真相をタナカに聞いていた。
「先々代が非常におモテになる方でして、こう申し上げては何ですが…来る者拒まずの好色ぶりでございました。特に夜会からそのまま複数の女性を連れ帰ってきてしまう事もままありまして。その翌朝が、ちょっとした戦争でございました」
 ほっほっ、と思い出に苦笑してタナカは笑う。
「そのような事を繰り返されるうち、一夜を共にされた女性の首筋に『印』があるのを認めると、他の女性方が悔しいながらも一歩引くようになりました。そして次第に、その『印』のある女性がその一日を奥方のようにふるまうのが習わしとなっていったのです。先々代がまた、それを咎めなかった事もございまして、使用人たちもそのように心得た次第なのです。先代もご結婚前にはこの習わしを時折利用されておりましたなあ」
「…ふうん」
 女の敵ね。疲労困憊のグレルは呆れたような相槌を打った。
(つまり、ウィルは今日一日ここの奥様なのね…)
 勿論ウィリアムにそんな仔細が分かっているとは思えない。だが───。
(ウィルがあたしに興味なかったのって、子供が趣味とかじゃなくて、受同士だったからなんだわ…)
 見当違いの納得をして、グレルは深く深くため息をついた。

 尚、協会に戻ったウィリアムは、本人の預かり知らぬところでその『印』によって阿鼻叫喚の物議を巻き起こしていた。そのお陰で、後に戻ったグレルに大したお咎めがなかったのは、グレルにとっては不幸中の幸いだったのかも知れない。