風は強いが、静かだった。
辺りに人の気配はない。重く垂れ込めた雲と、湿って冷たい空気。天井も抜けてしまった廃墟は、元の形を想像するには何もかも足りなさすぎる。
そう、辺りに、人の気配はなかった。
辛うじて原形をとどめるソファに横たえられているのは、かつて人だったもの。魂を抜き取られ、既に人間としての活動は終えている。冷たい風に晒されて、忙しくデスサイズを振り回した興奮は嫌でも冷めた。意気顕揚として捜したはずの相手を見つけたというのに、いつもの声音を思い出すには時間を要した。
「終わっちゃったの?」
風になびく髪をうっとおしいと思うのは初めてだ。だがかき上げるのもわざとらしくて、時折方向を変える風に任せたまま、足元の瓦礫に気を取られている振りをする。
「アラ…左手、なくしちゃったの?」
ソファに横たわる人間を、何の感慨もない様子で見下ろす、人ならざるもの。
「…セバスちゃん」
近付く気配には気付いていたくせに、全く意に介さなかった悪魔がそこでようやく、ゆるゆると首を振り向けた。
ぞくり、と首筋に悪寒が走る。
いつもと変わらない薄い笑み。ただその赤い瞳だけは、もはや何ものに対する遠慮もないことを物語っている。
だが、グレルは嬉しくて笑った。
間に合ったのだ。
セバスチャンとまみえるのは、恐らくはこれが最後の機会なのだから。
* * *
「アナタ、これでもう帰っちゃうんでショ?」
今はまだセバスチャンという名の悪魔は、そこに横たわるシエルとの契約によってこの世界に召喚されている。その契約は、どうやら果たされた。つまり、セバスチャンは既にこの世界に存在できる条件を失っている。
「寂しいワ…アナタと会えなくなるなんて」
にたり、とグレルは笑った。
会えなくなるのは寂しいけれど、最後に会えたことは嬉しいのだ。
だが、セバスチャンはまばたきをひとつ返しただけだった。
「ねえ、どうだったの? ずっとずっと我慢して、やっと食べたんでショ?」
魂を。
「あの坊やは美味しかった訳?」
グレルは言いながら、一歩、また一歩と慎重にセバスチャンへと歩み寄る。
「ああ、別に怒ってる訳じゃないのヨ。まあ、ホントは怒らなきゃいけないのかも知れないケド」
死神としては。
だが、ただ魂を喰い荒らすだけの輩よりはましだ。契約によって縛られている間は、他の魂には見向きもしないのだから。
じゃり、と足元の礫がくぐもった音を立てる。それに目を向けたグレルの視界を、己の赤い髪がなびいて邪魔をした。
ああ、もう、何なのよ。
喋っているのは、自分だけ。セバスチャンはつまらないものを見るように、静かなまなざしで死神を見下ろしている。
「…アタシ、結構本気だったのヨ?」
ふ、とセバスチャンが笑った。
「嘘ですね」
「何でよ」
グレルは口を尖らせる。
やっと口きいてくれたと思えば、何よ、それ。
「あなたにとって、恋愛は娯楽のひとつでしょう?」
「アラ、違うの?」
「飽きたら終わり、飽きる前でも優先事項が他にあればやはり終わり」
「…そういうものじゃない?」
「娯楽に、本気?」
ああ、そういうこと。
「愛を知らない悪魔に言われたくないワ」
「ええ、ですから、私もです」
恋愛が娯楽でしかないグレルに、本気などとは言われたくない、そういうことだ。
「…でも、アナタを好きなのは、ほんとなのヨ」
口を尖らせたまま、グレルは訴える。
だが、機嫌は上向きだった。内容はともかく、セバスチャンが会話に付き合っているのだ。
顔が好み。
声も痺れる。
背が高いのがステキ。
体格も悪くない。
何より、執事として完璧。
初めてセバスチャンを見た時は、何故に悪魔が執事? と首を傾げただけだった。自分を棚に上げていたことは勿論忘れていたのだが。
だが、これだけ条件が揃っていて、恋に落ちるなと言う方が無理なのだ。悪魔だと分かっていても、止められない。自分にふさわしい男はセバスチャンをおいて他にいない。セバスチャンを手に入れられたら、どんなに楽しく幸せな時間を送れただろうか。
うん、でも、分かるわ、アナタの言ってるコト。
アタシはアタシのことばっかり。
それは愛じゃあないのよネ。
でもアタシは幸せが欲しかったのよ。
「…ねえ、キスしていい?」
「嫌です」
「即答ね、相変わらずだワ」
決まりきった答えを聞いて、グレルは小さく笑った。契約を失って、セバスチャンである必要はなくなったというのに、まだセバスチャンでいてくれるのが嬉しかった。
「いいじゃない、もう会えないのヨ?」
「嫌なものは嫌です」
グレルは向かい合ったセバスチャンに腕を伸ばした。首にその腕を巻き付けても、セバスチャンは薄く笑ったままだ。
体を密着させて、改めてセバスチャンの状態に気付く。
服はぼろぼろ、あちこち傷だらけで汚れが酷い。暴走した天使との戦いは、魂の回収に追われていた死神の比ではなく過酷だったのだろう。
「お願い」
「お願いされても、しませんよ」
「思い出が欲しいのヨ!」
「キスできなかった思い出を差し上げます」
「酷い!」
目と鼻の先で、セバスチャンが笑みを深めた。
ああ、こんな時でも見とれちゃう。
「悪魔は───」
不意に、セバスチャンが低く囁いた。
「悪魔は見返りなしには、何もしません」
「…」
グレルはまばたいた。
対価を支払えばキスをしてもいい、と言っているように聞こえる。
「…何が欲しいの?」
「あなたから欲しいものなど、何もありませんが」
「結局ダメなんじゃない!」
グレルの持つもの以外に何か要求されようとも、すぐにでもこの世界から去ってしまいそうなセバスチャンから離れることはできない。必然的に、今この場にあるもので賄うしかないとなれば、この取引は成立しないということだった。
何よ、最後まで。
悔しくて、なのに諦めからか、グレルは掴まる腕から力が抜けるのを情けなく感じる。
好きなのは、本当なのに。
「あ…ねえ、じゃあ、魂は?」
「はい?」
体を離しかけたその時、グレルはふと思い付いたことを口にしていた。
「死神の魂って、食べたことある?」
「…いいえ」
軽く驚いたような顔を見て、グレルは嬉しくなる。
「キスしてくれたら、アタシの魂あげてもいいワ」
次第に怪訝そうに眉を寄せるセバスチャンは、グレルの真意を測りかねているようだ。
「…食あたりを起こしそうですね…」
「いーじゃない、ものは試しヨ! うふふ、あたしセバスちゃんの初めてになるのネ…!」
「おかしな言い方をしないで頂けませんか…」
心底嫌そうな顔でため息をついたセバスチャンだったが、グレルは楽しくて仕方がない。離しかけていたセバスチャンの胸に飛び込む。肩口に頬を擦り寄せると、頭上でくすりと小さな笑いが起こった。
顔を上げると、仕方なさそうにセバスチャンが笑っていた。
「口付けの代償が、魂ですか」
呆れているのか、あざ笑うのか。
「いけない?」
「高い代償ですね」
「…まあ、そうね」
セバスチャンが本気にしようと、冗談で終わらせてしまおうと、グレルはどちらでも良かった。
「でも、アタシには価値のあることなの」
望むものを手にできるなら、決して高い買い物ではない。とてもいいことを思い付いた、とグレルは自画自賛だ。魂を食べられる、それは即ち死を意味しているというのに。
「…恋人のキスをして」
抱きついたまま、うっとりと目を閉じる。
考えてみたら、究極の愛じゃない?
好きな人にアタシを食べて貰うのよ。
アタシは好きな人の一部になるのよ。
「…グレルさん」
名前を呼ばれて、グレルははっと目を開いた。するり、と背中に右腕が回される。
「宜しいのですね? 待ったはなしですよ…?」
「ずっと待たされてるのはアタシの方だわ!」
こつりと額を合わせられる。
セバスチャンが笑っていた。
優しい笑みだった。
もう、恋人なのだろう。
背を抱く右腕に力が込められて、グレルは甘く息を吐きながら目を閉じた。
互いの吐息が熱い。
そっと触れ合わされた唇は、柔らかくグレルを啄んで離れ、しかし再び押しつけられる。角度を付けて、一度目よりも深く。
血の臭いがする。
仕方ない、セバスチャンは傷だらけなのだ。
舌を入れても怒らないかしら。
恋人のキスなんだから、大丈夫よネ?
そんなことを思っていると、食むような口付けの間から、ちろりと唇を舐められた。ああ、と湿った吐息が漏れる。口を開いて、そろそろと舌を差し出す。舌先が触れ合って、グレルは震えた。
誘われるままにセバスチャンの口内へ舌を伸ばす。ちゅ、と軽く吸われただけで、膝から力が抜けそうになる。察したセバスチャンの右腕がグレルを支えた。グレルの方も、必死にその肩に掴まる。
ああ、なんてこと。
手に入れてしまった。
歯列を内側からなぞれば、その舌の裏側をなぞられる。セバスチャンの舌を追えば、押し戻すように絡められる。
やがて逆転して、セバスチャンの舌が進入してきた。
「ん、…ふ…っ」
息継ぎもままならない。
頭がじんと痺れて、思考が途切れる。ただ夢中でセバスチャンの舌を追いかけた。唾液に滑る唇を、己の歯が傷付けていることにも気付けない。
やがて、貪るような口付けが緩やかになった。
擽るように、唇が唇を滑る。
確かめるように合わせられたかと思うと、そっと離れた。
ああ終わりなのだと思う余裕は、グレルにはなかった。既に力の入らない足は、セバスチャンの右腕に頼り切っている。浅い呼吸を繰り返しながら、グレルはぼんやりとセバスチャンを見上げた。
「…素敵だわ、セバスちゃん…」
掠れてしまった声で、ようやく呟く。
セバスチャンは笑っていた。
恋人の笑顔だろうと、悪魔の嘲笑だろうと構わない。グレルは気分が良かった。震える指先でセバスチャンの頬を撫で、笑みを返す。セバスチャンの瞳が赤く揺らめいた。
ああ、食べるのね。
アタシを食べるのね。
死への恐怖も、今なら麻痺している。
口付けを待つように、グレルはうっそりと目を閉じた。
胸から首の辺りにセバスチャンの温度を感じる。べり、と音がしそうな、生皮を剥がれるような、しかしどこか他人事のような感覚がグレルを襲う。
ああ、終わりなのね。
さよなら、セバスちゃん。
さようなら。
一瞬何かが脳裏を過った気がした。
「───マダム…」
…あらアタシ、何か言ったかしら。
セバスちゃんがちょっと驚いた顔してる。
それもそうだワ、恋人を前にしてマダムはないんじゃないの。
今際の言葉が「マダム」だなんて、アタシにしたって想定外。
でも、マダムを好きだったのも本当。
友達としてだけど。
でも、殺しちゃった。
仕方がないワ、そういう約束だったんだもの。
殺せなくなったら殺してねっていう。
約束は果たさなくっちゃネ。
それが友情ってものだし、死神も悪魔ほどじゃないけど約束にはうるさい方なの。
ゴメンなさいネ、セバスちゃん。
最後の最後にアナタの名前を呼びたいけど、もう声は出ないみたい───。
* * *
どさり、と力をなくした体を突き飛ばすように石畳へ落とす。中途半端に引き剥がしかけた魂は、ずるりと元へ還っていった。
マダム?
セバスチャンは珍しいものでも見るように、石畳に広がる赤い髪を眺める。
それは、マダム・レッドに対する悔悟なのか。
それとも、死にたかっただけなのか。
完全なる死の為に、悪魔を利用したのだろうか。
にい、とセバスチャンは笑った。
「あいにく、今は坊ちゃんで空腹は満たされております」
無論、意識を失っているグレルには届きようもない。
「ですので…次にお会いする時までお預かり下さい」
すっと屈むと、グレルの顔にかかる髪を払い、いまだ濡れている唇をそっと拭う。
恋人のように、と言うには幾分の冷気を孕んだ動作だ。だがセバスチャンは気付きもせずに、恋人然として、その唇に口付けを落とすのだ。
「…あなたが再び死を恐れるようになる頃に…きっとお会いしましょう」
それまで、どうかお元気で。
聞こえていない耳元で囁いて、セバスチャンは立ち上がった。満足げに、しかしどこかちりちりとした苛立ちを含ませて、赤い死神を見下ろす。
音もなく踵を返すと、セバスチャンが振り向くことはついになかった。そうして、セバスチャンがそこにいた痕跡は、跡形も残らない。瓦礫は冷え切り、ただ風が通りすぎる。鈍色の空は、やがてこの廃墟にも落ちてくるだろう。
風は強いが、静かだった。
辺りに、人の気配はとうとう、ないままだった。
宴の終わり