痴話喧嘩

 

  痴話喧嘩

 
「や…っ」
 こんなところで。
 グレルは必死に抵抗を試みていた。だが、ろくな力は入らない。少し長めの口付けは、少女から力を奪うのには充分すぎた。
 雰囲気に流されるのは、悪くない。
 セバスチャンとの行為はグレルにとって、長く望んできたことだ。覚えたての行為は簡単にグレルの体を熱くする。
 でも、こんなところで。
 図書館の帰り、裏手にある大きな自然公園。日の沈みかけた夕刻の木々に紛れて、確かに人目にはつきにくいはず。それでも、セバスチャンの暮らすマンションはすぐそこなのに。
「セバス、ちゃ…ッ」
 これが、どこか、旅先だったら。もしかしたら解放感も手伝ったかも知れない。
 だがここは、二人の通う高校の通学圏で、同じ制服を着た生徒が多く住む町でもあるのだ。
 もし誰かに見られたら。
 もし誰かに見つかってしまったら。
「や、おねが…っ」
 立ったままブナの幹に背を押しつけられて、短いスカートに手を差し入れるセバスチャンから逃れられない。
「やめて、お願い、…っあ!」
 下着の上からグレルを責め苛んでいた指先が、するりと横から侵入する。
 濡れている。
 かあっと顔が火照るのが分かって、グレルは慌てた。セバスチャンに触れられるのは、決して嫌いではない。ぬめりを指先が浚い、陰核を掠める。びくりと体が震えるのを、グレルには止める術がない。
「いや、セバスちゃん…っ」
 ここじゃ、イヤ。
 何度もそう言っているのに、セバスチャンは聞き入れてくれない。本気で嫌がっているとは思っていないのだ。
 イヤじゃない、セバスチャンに触れられるのは。
 イヤなのは、場所。
 誰にも見られたくない、誰にも聞かれたくない。絶対に人は来ないと言われても、屋外なんて嫌だ。どうしても気が逸れ、どうしてもセバスチャン以外を気にするのが嫌だ。いつものように、セバスチャンのマンションで、セバスチャンのベッドで。
 二人きりがいい。
「…んんっ、あ、や…ッ!」
 そろそろと撫でるかと思えば強く捏ねられ、膝が震えだした。
 イヤ、イッちゃう、こんなところで。
 押し退けるはずのセバスチャンの肩にしがみつく。セバスチャンは小さく笑って、グレルの耳に舌先を這わせた。
「やあ…ッ!! …ぁ…ッ」
 びくびく、と体が内側から痙攣するのを感じ、自分があっけなく達してしまったことをグレルは悟った。
 セバスチャンの手が離れ、膝の抜けてしまったグレルの体を支える。荒い呼吸を繰り返すグレルの髪を梳きながら、そうしてまた耳元に口付けを落とす。それだけですぐに熱が戻りそうになって、グレルはぐっと唇を噛んだ。
「…ぅして?」
 泣いているみたいな声だ、と自分で思って余計に追い詰められてしまう。
「やだ、って…言ったのにっ」
 セバスチャンはきょとんとしてグレルを覗き込んだ。
「良くなかったですか?」
「良かったわよっ! でもイヤだったの! 二人っきりじゃないとイヤなのッ」
 いまだ震えの治まらない声は、弱気に聞こえているのだろうか。
「…あなたの「イヤ」は、イイ時にも聞かれるので…判別がつきにくいですね」
「それくらい状況で分かってよ!! 恋人でしょ!? アタシはこんなとこでして欲しくなんかないのッ!」
「…ですが」
「ですがじゃないわ!」
 言葉を遮ってヒステリックに怒鳴ると、さすがにセバスチャンの眉間が険しくなった。
 言いたいことは分かっている。
 人の少なくなってきた公園で、腕を組んで歩いた。近道をしようと、舗装された道からブナの林の中へ分け入った。誰も見ていないからと、キスをねだったのはグレルの方だ。軽く啄むだけのキスでは物足りなくて、もっとと押しつけて舌を誘った。濡れたキスの途中から、セバスチャンの手が背や尻をまさぐり始めたのも知っていた。
 でも、まさか、こんなところで。
 もし人が来たら。
 キスを見られるのとは訳が違う。それが分からないセバスチャンではないはずなのに。なのに、セバスチャンは、困った顔でグレルから体を離すのだ。膝に力は入らないけれど、背後のブナがグレルを支える。
「私は恋人失格ですか?」
「なに言ってんの…」
「別れますか?」
「え?」

 まばたきをひとつ、グレルはセバスチャンを見上げた。

 そこには普段と変わることのない恋人の顔があるだけで、たった今聞こえた科白とどうしても繋がらない。
 別れる?
 あたしが?
 セバスちゃんと?
 頭を何か固いもので殴られたような、衝撃と頭痛。
「どうして…なに言ってんの…」
「いえ…どうも私に不満があるのかと。幸いまだそれほど長くお付き合いをしている訳ではないですし、次をお探しになるのでしたら早めの方が」
「なにそれ…っ」
 わがままとも取れるグレルを窘めてやろうとか、ちょっと脅かしてやろうとか、そんなふうには全く見えなかった。グレルは愕然とした。ばかじゃないの、グレルは震える唇で言った。
「何よそれ、ちょっと謝ってもうしませんって言ってくれればそれで終わりの話じゃない! 何で別れますかになる訳!? 不満って何よ!」
 ばかみたい。
 唇も声も肩も、もう全てが震えてしまっている。視界が曇って歪んで、涙が決壊した。ああ、と暢気な声。ようやく得心がいったセバスチャンがすみませんと言った。
「すみません、グレルさん。もう人目につくような場所では───」
「もういいわ」
 ばかはセバスちゃんだけど、ばかみたいなのはアタシだわ。
 何がショックなのか分かった。
 何が悲しいのか分かった。
「あたし、セバスちゃんが好き。アタシが、セバスちゃんを好きなの。セバスちゃんにあたしを見てほしくて、好きになってほしくて、だから下着の趣味も合わせたの。赤とかピンクとか可愛い下着も、セバスちゃんに好きになって貰えるなら我慢できるわ」
 セバスチャンが不思議そうに見つめているのが分かって、グレルは袖で涙を拭う。
「でも…っ、ダメだったのね…」
「はい?」
「付き合っては貰えたけど、好きになってはくれなかったのよ」
 自分で言って、再びぶわっと涙が溢れ出す。
 待って下さい、セバスチャンは困った様子でグレルの肩へ手を伸ばした。
「そんなことは…」
「そんなことないって言える?」
 ああ、みっともない。
 図書館を出る前にきちんと直した化粧も台無しだ。袖口に付いたマスカラに、余計に悲しくなる。
「じゃあどうして簡単に別れますかなんて言えるの? セバスちゃんはあたしと別れても平気なのよ。あたしと別れたって、白い下着の女の子がコクってきたら、その子と付き合えばいいんだもの!」
 結局、あたしじゃなくてもいいんだわ。
 ずっと心配だったのは、多分これだ。
「…あたし、頑張ったのよ」
「グレルさん」
 肩を掴む指に、ほんの少し力が込められる。だが、それはグレルの期待する情熱にはほど遠かった。
「…さようなら、センパイ。今まで、ありがとう…ござい、まし…」
 最後まで、ちゃんと言葉になっていたかはよく分からない。いたたまれなくて、セバスチャンの顔も見ることができないまま、グレルはよろめく足で背を向けた。呼び止められもしなかった。
 

*     *     *

 
 涙が止まらない。
 鼻をすすり、しゃくりあげ、こんな状態で電車やバスに乗りたくはなくて、少し遠い道のりをグレルは一人歩いて帰った。

 遅くなった帰宅に、ウィリアムが待ち構えていることは想像がついていた。帰り着く頃になってようやく泣きやんだとはいえ、散々泣いて擦った目は腫れている。何を言われるか分かったものではない。だが、兄に対する言い訳すら何も思いつかなくて、グレルはただ玄関の扉を開けた。
 案の定、居間にいたらしいウィリアムが苛立たしい顔で出てくる。
「…」
 だが、泣き腫らしたグレルを見て絶句した。
 ただいま、ぼそりと呟いてグレルは靴を脱ぐ。そのまま自室へ引きこもろうと、ウィリアムを通り過ぎようとした時、手首を掴まれた。
「あいつか」
 あいつ。
 鬼のような形相で兄に問われ、治まっていたはずの涙が再び溢れる。もちろん兄が怖いわけではない。あいつ、という言葉に視界いっぱいにセバスチャンを思い描いたせいだった。
 ああ、ダメ。
 あたしは、好きなんだもの。
「いい加減に目を覚ましなさい。あんな男と付き合っても、ろくなことにならない…」
「別れたの」
 二言目には「別れなさい」と言っていたウィリアムが、狐につままれたように言葉を失った。どんなに忠告を繰り返しても聞き入れなかった妹の言葉は、なかなか浸透しないようだ。
「…別れたの」
 結局、片思いのままだった気がする。
 自分に言い聞かせるようにもう一度言って、グレルは階段へ向かった。ウィリアムの手は力をなくしたようで、グレルの手首をするりと外れた。
 

*     *     *

 
 きゃああ、という小さな悲鳴とざわめきが教室に広がった。ウィリアムが、登校するなりセバスチャンを殴りつけたのだ。
「…何故殴られたか、理由は分かっているでしょうね」
 はい、セバスチャンは小さく答える。
 二人ともが寝不足の顔で、ウィリアムは右の拳を、セバスチャンは左の頬を押さえながら席に着く。それ以上の暴力はなかったが、教室の空気は神妙になった。元々仲が良いとは言えなかった二人だが、暴力を伴う喧嘩などは初めてだったのだ。

 セバスチャンは、あの公園で一人取り残されて以降、まるで思考がまとまらなかった。
 好きになってくれなかったとグレルは言った。
 そんなことはない、もちろん反論した。だがグレルの言う通り、それなら何故簡単に別れられると思ったのか。グレルが自分から離れることなどないと思ったのか。グレルの言うように、好みを合わせて白い下着をつけてくれる女性なら、グレルと別れた直後でもすぐに付き合うことができるのだろうか。そんなことは、実際にそうなってみなければ分からない。
 女性とは、何と面倒な生き物だろう。
 結婚の約束までした、セバスチャンはグレルと別れない限り、グレル以外の女性に目を向けることなどありえない。結婚は契約であり、それに背くことは罪なのだ。
 ああ、何と、面倒な。
 ああ、でも、そうか。
 お互いに「ただ一人」であるための前提が、愛なのだ。それは片道ではありえず、しかしグレルは片道であると泣いたのだ。
 引き止めようとして伸ばしかけた手を、とめてしまったのは何故なのか。同じ比率の愛を返せないと思うからなのか。それならば、いっとき泣かせても別れた方が誠実だからか。
 グレルを嫌いだと思ったことはない。好きか嫌いかと問われれば、もちろん「好き」だ。
 だが、愛には、それだけでは不足なのだろう。
 やはり、仕方がない。
 別れた方がいいのだろう。
 ようやくそこまで辿り着いた頃には深夜を回っていた。眠ろうとして入ったベッドの中で、しかしセバスチャンは眠れなかった。いつものベッドなのに、酷く冷たい気がした。グレルの温もりが足りないのだろうか? だがグレルがここに泊まることまではないので、夜はいつも一人で眠る。関係ない。
 だが、眠れない。
 しんと静まり返った暗闇の中ふと起き上がって、ああ、そうかと納得した。
 ここに、グレルが来ることがもうないからだ。この部屋に来て、食事をして、ソファに寝そべって、シャワーを使って、このベッドで交わることが、もうないからだ。
 暗闇に、ただ一人。
 ああ、セバスチャンはため息をついた。
 この喪失感は何だ。
 不意に、古典の授業を思い出した。
 いとかなし。
 昔の人は「愛し」という言葉を「かなし」と読んだ。失うと悲しいから、だっただろうか。失うと悲しいものが、いとしいもの。
「…グレルさん」
 まずい、息苦しいのは、そのせいだ。
 呟いた呼びかけを拾ってくれるものは、そこにはなかった。最後の泣き顔がちらついて心が騒ぐ。泣かせたかった訳ではない。
「グレルさん…」
 グレルと付き合うようになるまで、ファントムハイヴ家との連絡にしか使っていなかった携帯を探る。着信はない。グレルの番号を出すが、発信ボタンを押すことができない。それは決して、深夜だからという理由ではなかった。

 放課後、ウィリアムに「お宅に伺いたい」と言うと、好きにしろと睨まれた。どんな罵詈雑言で拒否されるかと思ったが、どんな拒絶より迫力があった。
 ウィリアムは、セバスチャンを毛嫌いしている。それは彼の妹がセバスチャンと付き合う以前からのことで、付き合い始めてからは拍車がかかった。散々反対し続けていて、それは今も変わらない。ウィリアムからすれば、この状況は歓迎すべきもののはずだ。
 だが、それ以上に、傷付いた妹を心配しているのだろう。でなければ殴ってはこない。
 グレルは今日、登校していない。
 ウィリアムは何も言わないが、あの後もずっと泣き明かしていたのだろう。
「会うかどうかは分かりませんよ」
「はい」
 下校中一言も口をきかなかったウィリアムが、玄関の前で冷たくそう告げる。
 中へ通され、上の部屋だと階段を示される。ぱたぱたと鳴るスリッパの音を、どこか他人事のように聞きながら上がった。三つある部屋のひとつだけドアが閉まっていて、そこがグレルの部屋なのだと理解した。

「グレルさん」
 ノックする。
 中では人の動く気配があって、柄にもなくセバスチャンはほっとした。だが、しばらく待ってもグレルが出てくる様子はない。
「…グレルさん。セバスチャンです」
「…、先輩?」
 二度目の呼びかけで、中から細い声が応えた。その声は掠れて弱々しく、ついでに鼻声で、昨日の泣き顔がオーバーラップする。
「開けて頂けませんか…?」
 ドアに顔を近づけて囁く。
 少しの沈黙を、辛抱強く待つ。
 ダメ、と返事が聞こえた。
「あたし、すごいことになってるの。顔…」
「私は構いませんが」
「…アタシが、構うの」
 声は近い。ドア一枚を隔てた、すぐそこにいるのだろう。どうしたの、とグレルは言った。
「なにか、言い忘れたことでもあった? ケータイ、留守電に入れておいてくれても良かったのよ」
 わざわざウチまで来なくても。
 鼻声のたどたどしい声が、内容だけは冷静な言葉を紡ぐ。
「…直接、言いたかったんです」
 ドアに掌を当て、セバスチャンは密かに深呼吸した。
「昨日はすみませんでした」
 ゆうべから、ずっと後悔していた。ずっと息苦しいままだ。気付くのが遅すぎる。
「え…?」
「バカなことを言いました。許して下さい」
「…」
「今更ですが、あなたがイヤだと言ったことを止めなかったことも、謝ります。すみませんでした」
 ドア越しでは、グレルがどんな様子でいるのか分からない。呆れた顔をしているだろうか? 今更だと怒っているだろうか?
「昨日、一人になって、考えました。あなたにとって、どうするのが一番いいのか。…でも、違いました」
 違ったんです。
 セバスチャンは自嘲する。
「私が、耐えられない」
 こんなふうに思うことは、もちろんセバスチャンにとって初めてだったのだ。
「私が…あなたがいないことに、耐えられないんです」
 今まで、セバスチャンは告白されることはあっても告白することはなかった。ああこれが初めての告白だ、それに気付いて苦々しく思う。
 こんなにも勇気の要ることなのだ。
「…グレルさん、あなたが好きです」
 静かなそこに、かちゃりと小さな音が大袈裟に響いた。部屋の鍵が開けられたのだと、セバスチャンが気付いたときにはドアが開いていた。そっと開く中から、おずおずとグレルが顔を出す。なるほど酷い顔だ。
「…もう一回言って…」
「あなたが好きです」
 瞼と鼻を真っ赤に腫らして、その顔は少しむくんでいる。化粧を落として着飾らない部屋着、髪は整えられないままあちこち跳ねている。
 でも、それがいとしい。
「あなたに側にいてほしい。あなた以外の女性と結婚など、したくありません」
 むくんだ顔を両手で包んで、覗き込む。
「グレルさん、私と付き合って下さい」
 見つめた瞳がみるみる潤み、大粒の雫を作って落とした。ああ、また泣かせてしまった。抱き寄せると、ぎゅうぎゅうしがみついてくる。
「…ダメですか?」
 念のために聞けば、
「いいわよ、バカー!」
 と怒鳴られた。