明るい家庭教師計画

『おい、セバスチャン。あれは───名前は何という?』
「は…、昨日の兄妹ですか?」
『確かお前、妹の方はグレルとか呼んでいたな。兄の方は』
「ウィリアムさんです」
『ふん…ウィリアムか』
 携帯電話の向こう側だったが、セバスチャンには、シエルの癖のある笑みが見えるようだった。だが、シエルの興味がグレルではなくウィリアムであるなら、関係ない。
「お連れしますか?」
『いや、まだ必要ない』
 まだ?
 何か企んでいるな、セバスチャンは電話を切った後しばらく、自分の顔がにこやかであることを止められなかった。
 

  明るい家庭教師計画

 
 シエルから命令が下ったのは、その三日後だった。
 顔を合わせれば険悪になるクラスメイトは、しかしグレルの兄でもある。いずれグレルと結婚すれば自分の義兄ともなるウィリアムに、セバスチャンは特に遠慮はない。妹を溺愛しているウィリアムは、どんな男がグレルに近付いても不満なのだ。いちいち相手にしていたらキリがない。
「ファントムハイヴ家に…?」
「はい」
 ちょっと宜しいですかと話しかけただけで眉間に激しい縦皺を寄せるウィリアムに、セバスチャンはシエルからの伝言を伝えた。
「一体なんの用件で?」
「さあ、私はそこまで聞いておりません。ただ『話がある』としか」
 本当は、計画は全て聞いている。
 だがセバスチャンは、素知らぬ顔でウィリアムを覗き込んだ。
「今日の放課後が都合が悪いようでしたら、明日以降でウィリアムさんの宜しい日をご指定下さいとのことですが」
「…いえ、残念なことに今日に限って空いています」
 その顔は明らかに、面倒なことは引き延ばさずにさっさと片付けてしまうに限る、と物語っている。それでも、一介の学生に過ぎない自分を有名企業のトップがお屋敷へご招待という事態に、まるきり興味がない訳でもないのだろう。
 既に執事の顔でセバスチャンはにこやかに「ではそのようにお伝えします」と携帯電話を開いた。
 

*     *     *

 
 その日の放課後、ウィリアムが校門へ向かうと、黒塗りのリムジンが脇に止まっているのが否応なしに目に飛び込んだ。その車の前には、総白髪の背広姿の老人が立っている。
 まさか、と思わず眉間を寄せれば、背後からセバスチャンの声が聞こえる。
「あちら、ファントムハイヴ家の執事で田中と申します」
 振り返ると、教室で置き去りにしたはずの忌々しい男が嘘くさい笑顔でウィリアムを促していた。数メートルの距離を嫌々連れ立って歩くと、それを待ち構えていた田中さんが深々とお辞儀をした。
「ウィリアム様でいらっしゃいますね。お迎えに上がりました」
 厳しい顔をしているウィリアムを、孫でも見るかのような柔和な笑顔が迎える。肩の力が少し抜けるのを感じて、ウィリアムは自分が多少なりとも緊張していたことに驚いた。
「田中さん、お疲れ様です。坊ちゃんはまだ…」
「はい、社用からお戻りになるのは一時間後の予定ですから、それほどお待たせせずに済みますな」
「そうですか。では、宜しくお願いします」
 ぽかんと突っ立って見ている前で、田中さんが恭しく車のドアを開けてくれる。思わずセバスチャンを振り返ると「どうぞ」と促されてしまった。セバスチャンは行かないのか。
 心の声が聞こえたかのようなタイミングで、セバスチャンがにいと笑った。
「私は呼ばれておりませんので」
「…」
 本当にウィリアム一人だけを乗せると、田中さんは静かにドアを閉めてしまった。いずれファントムハイヴ家の執事となる男は、客人を乗せ発進する車に向かって、90゜頭を下げて見送った。下校する生徒たちの視線を一身に浴びて、ウィリアムは高校を後にした。

 大きなリムジンの乗り心地は悪くない。
 ウィリアムは広々とした後部座席に、律儀にシートベルトを締め、しかし遠慮なく深々と座って背を凭せかけていた。
「迎えは結構とお伝えしたはずですが…」
 ファントムハイヴ家に連絡を入れるセバスチャンに、ウィリアムは確かにそう言った。以前、妹づてに屋敷の所在地を聞いたことがある。ここからは少々離れているが、最寄り駅からタクシーに乗れば迷うこともないだろうと踏んだのだ。
「はい、そのようにお伺いしております。ですが、お屋敷のセキュリティが少々厄介でして…私がお連れするのが一番ご迷惑が少ないかと。差し出がましいことで申し訳ありません」
「…いえ」
 物腰の柔らかいこの執事は、その実ウィリアムの来訪が当主のご帰宅に間に合わないことを危惧したのだろう、とウィリアムは推察する。
 だが言い返したりはしなかった。田中さんは執事としての仕事を全うしているだけなのだ。しかも、ウィリアムに対して角の立たない言い方をしてくれている。同じことをセバスチャンがしていたら単なる嫌みにしか見えないだろう、そう思うと寧ろ感心するほどだ。
 流れる景色を三十分ほど眺めていると、不意に様子が変わった。
 林だ。
 いや、森だろうか?
 電柱や電線、信号機といった人工物が視界から消え、そういえばビルや民家なども見えない。木々の隙間から覗くのは、また木々でり空である。だがタイヤから伝わるのはアスファルトを噛む静けさだけで、この道が舗装されていることが知れた。
「もう敷地内に入っておりますよ」
 察した田中さんが、自慢でも何でもなくただ状況を事実として伝える。森、いや敷地内に入って五分は車を走らせている。町がひとつ、まるまるファントムハイヴ家なのだとは聞いていた。だが実際にそこへ入ると、実感は空恐ろしい。
 更に五分以上をかけて、リムジンはようやく屋敷の正面に辿り着いた。
「お疲れ様でございました」
 シートベルトを外しているうちに、またしても田中さんにドアを開けられてしまう。自分で開けます、という言葉を飲み込んで(それは田中さんの仕事なのだろうから)ウィリアムは高級車から降り立った。お屋敷を、見上げて気が遠くなった。
 これは、確かに、お屋敷だ。
 アーチを描いて左右から玄関へ延びる階段。五階建てに相当する高さは、しかし天井を高く取っているのだろう、窓で数えれば三階だ。完全なるシンメトリー、石造りの古めかしい壁、木と鉄の気配が明確な手摺り、窓枠、そして扉。その前にはメイドらしき女性が二人並んで、ウィリアムに頭を下げていた。
 殆ど城だ。
 深呼吸のように森の空気を吸い込んで、ウィリアムはため息をついた。
 鞄を預かろうとするメイドを辛うじて断り、どうぞこちらへと促されるまま屋敷へ足を踏み入れる。毛足の長い、しかししっかりとした踏み心地の絨毯。ホールの天井はぶち抜きで、見上げれば消失点にはシャンデリア。正面にはここの初代であろうか、大きな肖像画がウィリアムを見下ろしていた。
 右の廊下を田中さんについて歩くと、応接室らしき部屋へ通される。
 広い。
「お茶をお持ちします。どうぞおかけ下さい」
「…どうも」
 住む世界が違いすぎる。ウィリアムは、気を抜くとどこまでも沈み込むソファに用心深く腰掛けて、鞄をその脇に置いた。
 腕時計を見ると、学校を出てから50分が経っていた。一時間足らずで見知らぬ世界だ。この、世界に名だたるファントムハイヴ家の当主が、ただの高校生であるウィリアムに一体何の話があると言うのか。
 程なくして、田中さんではなくメイドがワゴンを押して入ってきた。紅茶らしきティーポットに一人分のカップ&ソーサー、それに気の利いたお茶菓子はクッキーのようだ。淀みのない慣れた手つきで給仕をするメイドが、ふと何かに気付いたように顔を上げるとウィリアムに向かってニコリと微笑んだ。
「坊ちゃんがお戻りになられました」
 何を以て当主の帰りを知ったのかときょとんとするウィリアムの耳に、微かな音が聞こえ始める。次第に近付くその音は、どうやらヘリコプターのようだ。随分近い、と思うと不意にその独特な羽の音が止む。
「すぐに参りますのでお待ち下さい」
 給仕を終えたメイドは、客に失礼にならない程度の速度でワゴンを押して退室した。
 当主はヘリコプターで帰宅したのだろう。飛行音を聞き慣れていたメイドは、ウィリアムよりも早くその音を察知したのだ。紅茶を口に運びながら、ウィリアムはため息をついた。
 当主が「坊ちゃん」と呼ばれることからも察しはつくが、まだ若いのだろう。なのに幾つもの会社を統轄する管理能力に秀でているのは凄いことだ、とウィリアムも思う。勿論「坊ちゃん」お一人で全てを管理している訳ではないことは分かる。大の大人だってサポートする人間が多数必要な規模なのだ、それを鑑みても、やはり素直に凄いと思う。
 その、「坊ちゃん」が。
 自分に一体何の用があるというのか。
 期待を裏切らない美味のクッキーを勢い二つ食べ、紅茶を半分ほど飲んで一息ついたところへ、話し声が近付くのに気付く。
(…)
 ウィリアムは眉を寄せた。
 話し声のひとつは確かに、子供だったからだ。声変わりもしていない子供が、まさか。
 控えめなノックは儀礼的なもので、ほぼ間髪入れずにドアは開く。田中さんがニコリと一礼して、その陰から───一回りも二回りも小さな男の子がすたすたと入ってくる。反射的に、ウィリアムは立ち上がった。これが当主なのだ。
 それは殆ど直感だった。
 少年は、まだあどけなさの残る風貌だ。だが奇妙な威圧感がある。それは整いすぎるほどに整った顔立ちのせい、だけではない。
「シエル・ファントムハイヴだ。初めまして、ウィリアム」
「…初めまして。お招きに預かり光栄です」
「かけてくれ」
 すんなりと伸びる小さな手と軽く握手を交わし、勧められて再びソファに座る。シエルはローテーブルの向かい側のソファに深く腰掛けると、真正面からウィリアムを捉えて小さく笑った。
 居心地の悪さを押し隠して、ウィリアムはその目を見返す。
「急に呼び出して悪かったな。僕もこれでいてなかなか忙しい」
「お構いなく」
 ウィリアムは社交辞令を無意識に返しながら少年を観察した。
 ふかふかのソファに、ふんぞり返るように沈み込んでリラックスしている。それが嫌みや高圧的に見えないのは、ひとえにシエルが子供というお陰だろう。無遠慮に目を見つめてくるのも子供特有の社会性のなさに由来する。
「早速で済まないが、単刀直入に言わせて貰う」
「…勿論構いません。どうぞ」
 こちらもまだ子供といって差し支えのない年齢だ、ウィリアムもシエルの青い瞳をひたすら見つめながら促した。
「実は、家庭教師を探している」
「…はあ」
 突拍子のない話題に、ウィリアムは間の抜けた相槌を打った。
「お前を雇いたい」
「…」
 シエルは、本当に単刀直入に、用件を述べた。つっこみどころは満載だ。ウィリアムは、疑問の総括を口にした。
「なぜ私を?」
 シエルはつまらない質問に肩をすくめる。
「セバスチャンが、お前は優秀だと」
「…それだけで?」
 ウィリアムは不機嫌を隠せない。
 よりにもよってセバスチャンだ。いや、だがセバスチャンはシエルの用件を知らない、と言った。シエルは、子供にしては一癖も二癖もある笑みでウィリアムを観察している。
「あと、相当嫌われている、と言っていた」
「…」
 余計に分からない。
 セバスチャンがウィリアムを優秀だと言うのも虫酸が走るが、何故犬猿の仲ということまで将来の雇い主に暴露するのか。
 それとも犬猿の仲、と思っているのはウィリアムの方だけなのだろうか? そんなはずはない。確かに色々あって、目の敵にしているのはウィリアムだけかも知れないが、セバスチャンの方だって、あれは恋人の兄に対する態度ではない。
「意味が分かりかねますが。大体、私でなくてもセバスチャンだって優秀でしょう。家庭教師なら彼にお命じになればよろしいのでは?」
 科白の途中で、ウィリアムは柄にもなくひるんだ。にやり、とシエルが笑うのだ。
「そう、そこが問題なんだ」
「問題?」
 ウィリアムとしては、セバスチャンの関係者と積極的に関わりなど持ちたくはない。だが、ファントムハイヴ家の当主には全く預かり知らないことでもあった。
「お前、セバスチャンを嫌いなんだな?」
「…失礼を承知で申し上げれば、大嫌いです。クラスメイト以上には関わりたくもない」
「結構!」
 満面の笑みで、シエルは体を乗り出した。
「僕もあいつが大嫌いなんだ」
 ウィリアムは、半ば口を開きかけたまま瞬いた。
「お前の言いたいことは、大体想像がつく。家庭教師を雇うというだけの話なら、有名塾の有名教師を引き抜けばいい。だろう?」
「…ええ、まあ」
「高校生よりは大学生、大学生よりは本職の教師だ。僕もまあ、そうは思っている」
 でも、とシエルは再びソファにふんぞり返る。子供の体重では、ウィリアムが慌てたほどには沈まない。
「こう言っては何だが、僕は別に成績が悪い訳じゃない。便宜上小学校には在籍しているが、中学までのカリキュラムは既に終えてもいる」
「…では」
 家庭教師など不要ではないか、と続けようとするのをシエルは片手を軽く挙げて遮った。そんな仕草ばかりが大人のようだ。
「息を抜く間がない」
「…はあ」
「学校に行っている時間だけが、僕の安息の時間なんだ。いくら僕が優秀で、学校に通うのが無駄だと言われようとも、学校は辞めなかった。なのに…四年生になった頃に両親に死なれて、以降は週に一度通えれば良い方、という現状だ」
 習い事を全て辞めても、仕事は膨大な量が山積していた。
 それでもシエルは、学校は辞めなかったのだ。
「後見人は勿論いる。まあ、だが、どうせそう遠くない将来に引き継がなければならないのなら、今のうちから慣れておいた方がいいだろう? それにな、こちらが子供だと思うと周りは色々と油断してくれる。状況判断には良いこともあるんだ」
 得意げでもなく、また悲観的でもないシエルは、大人かどうかというよりは「経営者」の顔だ。ウィリアムは言葉を挟まず、先を促した。
「先日、経営陣から提案をされた。どうせなら大学で経営や経済を専門的に勉強されてはいかがでしょうか、とな。それまではどうぞお任せ下さい、と来た」
 敵は身内にもいるのだ、シエルは鼻で笑った。
「冗談じゃない。だが…専門知識があっても邪魔ではない。そして、僕なら学校と仕事を両立させることが出来ていいはずだ。僕は二つのプランを考えた」
 ウィリアムは多少気押されつつも、黙って聞く。
 シエルの考えたプランとは、こうだ。
 ひとつは、言われたように経営をきっぱり預けて勉強に専念する───ただし、通常の手順は踏まずに、中学・高校を飛び越して即大学入学そして学位の取得を目指す。自分次第で短い間会社を離れるだけで済む。
 もうひとつは、中学・高校・大学と通常通りに進学し、会社経営からは離れない。ただし、これは大学進学までの六年間は現状と大差がなく、経営陣から専門的な判断を取り上げられる可能性も高い。
「前者だと、最短四年で完璧な状態で経営に復帰できる。だが───これだと、本当に休む間がない。ゲームを楽しむ余裕もないなんて、さすがにちょっと厳しい」
 ゲーム会社もあるファントムグループのトップが、ゲームをする暇もないなんておかしいだろう? 拗ねたように口を尖らせるシエルは、それだけ見れば年相応だ。
「後者だと、僕としては多少の余裕を残して経営に携わることが出来る。ただ───これだと、肝心なところで僕の決定を覆される場合も出てくるかも知れない。今も、結構歯がゆいことが多いんだ」
 シエルはクッキーをつまむとため息をついた。その顔が、不意にむっと歪められる。
「…後者で宜しいのでは、と───セバスチャンは言う」
 その名を聞いて、ウィリアムまでむっとした。
「来年、セバスチャンは大学へ進学するだろう。僕より一足先に専門分野を学んでくるからゆっくりしていろと言うんだ。まあ、学生時代の人脈は侮れないとも言うし、僕としても後者の方がより良いとは思う。だが…だがな、あいつにでかい顔されるのが気に入らない」
「…ですね」
 二人は心の底から、という顔で同時にため息をついた。
「…それでも前者を選べないのは、完全に経営から離れてしまうのが怖いということもある」
「戻れなくなるという可能性が?」
「なきにしもあらず、だ。信用のおける大人ばかりではないからな」
 ウィリアムは、何でもない調子で乗っ取られる可能性を否定しないシエルに殆ど感心していた。
 シエルは、間違いなく経営に向いている。二年前に亡くなったという両親の背中を見て育ったのか、或いはそういう教育を施されていたのか。どちらにしろ素養があることに違いはない。
 それで、とシエルはウィリアムをひたと見つめた。
「経済学と会社経営については、既に教師を雇った。お前には、高校のカリキュラムをこなす手助けをしてほしい」
「高校」
「ああ。中学にはせめて週に三日は通うつもりだが、ただ息抜きのためだけに時間を浪費するつもりもない。表向きはのんびり学生生活を送っているように見せて、早急に専門分野を学ぶ。セバスチャンにでかい顔させるのも最小限にとどめたい。お前を雇いたいと思うのも半分はアイツへの嫌がらせだがな」
 ファントムハイヴ家のご当主は、なかなかに遊び心も兼ね備えているらしい。ウィリアムは悪い気はしなかった。
 だが、ウィリアムは高校三年生、大学受験のために日々を勉強に費やしている身でもある。それを口にしようとすると、絶妙なタイミングでシエルは指の一本を小さく振って、ウィリアムを遮った。
「分かっている。お前も今は受験勉強中だろう」
 遮られたばかりか内容まで言い当てられて、何やら据わりが悪い。
「…ええ、まあ」
「だから、お前が大学へ入ったあとからで構わない」
「…それは」
「家庭教師の予約だな。他のガキの家庭教師なんかするなよ。高給で雇ってやる」
 つまりはシエルの専属か。
 だが、その上から目線の言い草に、ウィリアムは少なからず気分を害した。いくら様々な会社の頂点に君臨する人物であろうとも、ウィリアムには関係ないのだ。
「気に入りませんね。教えを請う相手に対する態度は、どなたにも教わらなかったのですか?」
 それまでシエルの言に好意的だったウィリアムの不機嫌に、小さな当主は軽く驚いたあとにむっとしてみせる。
「金で雇うんだぞ。お前の方こそ、雇い主に口答えか?」
「あなた、誰に対してもそのような態度でいらっしゃるご様子ですが…話す相手に敬意を払えないようであれば、まとまる商談もご破算になりかねませんよ」
 すると、過去にそんなことが本当にあったのだろうか? シエルの顔が一瞬歪められた。
「僕にへりくだれと言うのか」
「へりくだるのと敬意を払うのとは別物です」
「下手に出れば向こうは調子に乗ってのさばるものだ。ましてや僕はまだ子供なんだぞ。なめられてたまるか」
「子供であることを充分活用しておられるようにお見受けしますが」
 メガネのブリッジを押し上げながら言えば、シエルは面白くなさそうな顔をぷいと背ける。
「…シエルさん。どんな会社でも、経営しているのは人間です。人間である以上、個性も感情もあるものです。見下されていい気はしません」
「…お前もそうだと言いたいのか」
「お分かり頂けましたか?」
 ウィリアムには、シエルが子供であろうと大人であろうと関係ない。子供に大きな態度をされるのが気に入らない訳ではないのだ。
「敬意を払うに値するかどうか、分からない相手にも?」
「分からない時点では尚更です。こちらの敬意に対して敬意で返してくれる相手は、信頼に値するとも思いますが?」
「…一理ある」
 顔はむっとしたまま、シエルはウィリアムをちらと見遣る。子供じみた態度は、会社の中と違ってウィリアムの年齢が近いことに気が緩むせいだろうか? だとするならば可愛いものだ、ウィリアムはほんの少し、ほっとした。
 もぞもぞとソファに座り直し、困ったような顔で、シエルは言った。
「…お願い、します…」
 ウィリアムは目を見張り、次いで、知らず顔を綻ばせた。
「こちらこそ、宜しくお願いします」
 それを聞いたシエルは、ぱっと目を輝かせ、しかし照れたように「面倒くさい奴だな」と再び明後日の方角を向く。素直でないようでいて素直なのか、または逆なのか。
「…お前に、部屋をひとつやる。案内しよう」
「は?」
 照れたようなままのシエルがぼそぼそと告げる内容は、しかし今までの話の内容とは脈絡がなかった。ぴょんと立ち上がるシエルに促され、鞄はそこに置いたまま、慌てて追いかける。
 ご当主は何と言ったのか。
 部屋?
 豪奢な階段を上がって右を進み、幾つもあるドアのひとつを示される。
「ゲストルームのひとつだが、ここをお前にやる。いつでもこの屋敷へ来ていいし、この部屋は好きに使って構わない。お茶や食事が欲しければ、そこのブザーを押せばメイドが来る。何か調べたければ、この廊下の突き当たりに書庫がある。置いてあるパソコンも使って構わないぞ」
 中へ入ると、そこは20畳ほどもある広いゲストルームだった。
 彫刻の美しいマホガニーのデスクに肘掛け付きの大きな椅子、応接室にあったのと同じシリーズのローテーブルと長ソファが2脚。壁際には身支度を整えられる鏡と洗面台。反対側に目を向ければ、衝立の向こうに天蓋付きのベッドが覗く。その横にはご丁寧にクローゼットまで備え付けられている。
 ぽかんと眺めて、危うく気が遠くなりかける。
「シエルさん…」
「何だ」
「部屋は、必要ないように思うのですが」
「何故だ」
 シエルはきょとんとしてウィリアムを見上げた。
「僕が時間通りに帰ってこられることは少ないぞ。ただ応接室で待つよりは、自分の部屋の方が寛げるだろう? 何なら引っ越してきてもいいぐらいだ」
「…」
「ああ、勿論今から使っていいんだぞ。勉強するにはいい環境だろう。お前が無事に大学合格してくれないことには、家庭教師どころじゃないからな」
 ウィリアムは思わずこめかみに指先を押し当てた。
 スケールが違うのだ。
「給料は…家庭教師の場合は月謝と言うのか? それは実際に授業を始める際に要相談だな。それでいいか?」
「…この部屋をお借りするのでしたら、月謝は不要です」
「何故だ」
 この部屋の賃貸料の方が、下手すると高そうだ。
 そもそも人に教えるということが、自分が向いているとも思えない。妹に頼まれて勉強を見ることは時々あるけれど、常にグレルの癇癪で強制終了なのだ。
「普通、交通費なんかは別支給じゃないのか?」
「そうですね。交通費は別ですが」
「送迎はうちの車でいいだろう? こちらの都合で時間が遅くなる場合もある。泊まってしまった方がいいこともある。同じことだ」
「…なるほど」
 としか言いようがない。
 色々と言いたいことはあるのだが、家庭教師の仕事に自信のない表れのような気がしてウィリアムは黙った。
 すると、不意にシエルが含み笑いを浮かべるのだ。何を笑われたのか───怪訝に思って見下ろすと、シエルは笑みを隠さずに言った。
「使用人はな、私室は地下室と相場が決まっている。うちでは半地下だが」
「…つまり?」
「お前は使用人じゃない。僕の教師であり友人だ。だがセバスチャンはうちの執事になる。使用人だ」
 シエルの笑った意味を理解して、ウィリアムは納得した。何が何でもセバスチャンと差別化を図りたいのだ。
 悪い気はしない、だが。
「シエルさん。上に立つ者がそうあからさまでは困ります」
「はい、先生」
 もっともらしいことを言えば、シエルもわざと神妙に答えてみせるのだった。
 そうして、ウィリアムはシエルの家庭教師となる約束を交わす。大学進学までは、友人として親睦を深めるということになった。シエルは半分はセバスチャンへの嫌がらせで、ウィリアムは割のいいバイト先を確保して。
 

*     *     *

 
『決まったぞ』
 開口一番、得意げなシエルの声にセバスチャンはにたりと笑った。
「おめでとうございます」
『お前の言う通り、なかなか面白い奴だ。余計に気に入った』
「左様でございますか」
 携帯電話の向こうで、しかしその仕草すら想像に易い。
『二年で落としてみせるぞ』
「おや」
 セバスチャンは料理の手を止め、菜箸をグレルに預けた。今は自宅マンションで、グレルと夕食の支度をしているのだ。
「坊ちゃんにしては長期計画ですね」
『急いては事を仕損じると言うだろう』
「慣れないことをなさいますのも、失敗の元かと思いますが」
『ふん、僕だっていつまでも我慢の利かない子供じゃない』
 ウィリアムを送り出したシエルは、直後にセバスチャンに連絡を入れていた。そう、セバスチャンはシエルの手足となるべく存在するのだ。菜箸を託されたグレルは、ボイルした野菜を皿に形良く盛り付けるのに真剣だ。セバスチャンはそっとそこを離れる。
「それにしても…坊ちゃんはあの方の何をお気に召されたのでしょうか?」
『無駄口だな、セバスチャン』
「これは申し訳ございません…出すぎた口をききました」
『…まあいいさ。お前はまだ執事じゃあない』
 セバスチャンは、将来ファントムハイヴ家の執事となることを条件に、大学卒業までの援助を受けている。その契約は先代と交わしたものだったが、全てを引き継いだシエルもその契約を無効とはしなかった。お互い反りが合わないことは自覚があったが、能力に関しては認めているのだ。
『そうだ、セバスチャン。お前、大学に行ったらついでに法学も齧って、弁護士の資格も取ってみろ』
「弁護士? ああ…確かあの方は法学部志望でしたね」
『お前がもののついでに国家試験を受けると知れば、ウィリアムのいい発奮材料になるだろう』
「分かりました」
 簡単に言ってくれる。セバスチャンは口元を引き攣らせながらも滑らかに返事をする。当然、面倒ではあっても自信がない訳ではない。
『ところで…グレルはそこにいるのか』
「はい」
『ウィリアムも苦労するな』
「はい?」
 兄が今夜は遅くなると知ったグレルは、喜々として「先輩とご飯食べるから!」と家に連絡を入れていた。元々奔放だとは思っていたが、口うるさい兄の存在が多少のストッパーになっていることは良い意味で奇跡的だ。
『あまり遅くならないうちに帰せよ』
「承知しております」
 言いたいことを言ってさっさと通話を終了するシエルは、恐らく夕食後も会議が入っているのだろう。セバスチャンは小さくため息をついて携帯を放り出した。
「坊ちゃん、何か緊急の用事だったの?」
「いえ。今ウィリアムさんをお帰ししたという連絡でした」
「ふうん…ウィルに何の用だったのかしら」
「さあ、そこまでは。ウィリアムさんに直接聞いてみては?」
「そうね。セバスちゃんには言わないだろうし…あたし聞いてみる! 明日教えてあげるわねっ」
「はい」
 にこりと笑って、セバスチャンは奇妙に盛り付けられた皿をテーブルに運ぶ。どちらかというと不器用なグレルだが、セバスチャンのためにという意気込みが微笑ましい。
 ああ、本当に坊ちゃんの興味がグレルさんではなくて良かった。
 ウィリアムのどこがいいのかはさておき、セバスチャンはその一点においてのみ、シエルの悪趣味に拍手喝采を送るのだった。