フォールダウン

 

  フォールダウン

 
 人生とは分からない───。
 エリザベス・ミッドフォードはその時26歳、独身だった。
 元貴族である家系に生まれたエリザベスには、そもそも婚約者がいた。6歳も年下の、同じく元貴族のシエル・ファントムハイヴだ。それはシエルが生まれた時に決められた婚約だった。
 6歳差、それは思春期には広く深い河の如く決定的な隔たりだった。エリザベスが中学生になった時、シエルが小学校に入学する。エリザベスが高校を卒業する時、シエルはようやく中学生になるのだ。婚約者というよりは離れて暮らす弟のようで、いずれ結婚するなどとは想像もつかなかった。中学で素敵な男の子に恋に落ちる度に、6歳年下の婚約者の存在を疎ましく思ったものだ。もちろん、シエルを嫌いなわけではない。ただ、恋愛に敏感な年頃に自由がきかないこととは別の話なのだ。
 それが、シエルが小学4年生の時に事態が一変した。
 シエルの両親が、事故で亡くなったのだ。
 呆然とするシエルの代わりに、エリザベスはわんわん泣いた。優しかった叔父夫婦が、エリザベスは大好きだった。当然のように、エリザベスの母・フランシスはシエルを引き取ろうとした。他にファントムハイヴの親戚がいない訳ではなかったが、いずれは娘婿となるシエルを引き取ることはごく自然な流れだった。
 だが、シエル自身がそれを断った。
 ファントムハイヴを継ぐ、それがシエルの決断だった。家督を継ぐということは、父親の仕事をも引き継ぐという意思表示だ。フランシスはしかし、娘との婚約を破棄させた。それは、周囲から見れば幼いシエルから後ろ盾を奪う行為に他ならない。だがシエルはそれに感謝した。もしシエルが失敗すれば、ファントムハイヴはその時こそ没落するのだ。そうなってからの婚約破棄よりは、その時点での方がエリザベスにとって傷は少ない。
 フランシスが何をどう考えて婚約破棄させたのか、エリザベスには分からなかった。ただ、シエルにはどうやら年上・年下に拘わらず婚約者という存在は足枷になるのだろう、と母が呟くのを聞いて、理由の何割かは彼の為なのだと理解した。
 そもそも、シエルに対して恋愛感情などありようもない歳だった。エリザベスは少しごねたあと、了承した。
 それから、2年と経たないうちにシエル率いるファントムグループはかつて以上のコングロマリットとなっていた。恐るべき手腕である。勿論、シエル一人で成し得た訳ではない。周囲には優秀な人材が揃っていたし、先代が特に目をかけていたというセバスチャンは学校に通いながらもシエルの手足となり、そのサポートは大人たちも一目置いた。
 ところでエリザベスは、そのセバスチャンが嫌いだった。同い年で高校では同じクラスになったこともある、この男。
(一言で言えば、変態だわ)
 セバスチャンは、見た目は大層な美丈夫だ。いつでも薄く笑みを掃いて、誰に対しても丁寧で、それはいずれファントムハイヴ家の執事となるに相応しい。
 だが、そんな彼に告白しては酷い言葉で断られる女子が大勢いることは、エリザベスの耳にだって入ってくる。好きです、付き合って下さい、に対する彼の返事はまず「下着は何色ですか」という質問だと言うのだ───。
 まず半数以上がそこで挫ける。
 美形の口からそんな質問が出ることに、それでも興味を失わない気丈な女子が、例えば「ピンク」と答えたとする。そしてそこで殆どの女子が断られるのだった。彼は白い下着がお好みなのだ。
 唖然とした。
 エリザベスは面と向かってセバスチャンを非難したものだ。
 付き合う相手を、下着で選ぶのか。
 セバスチャンは真面目くさって反論した。そんなことはない、まずは顔である、と───。
 開いた口が塞がらなかった。
 セバスチャンの言うには、まずは顔が好みの範疇であること、次いで下着の趣味が合うこと。更に言えば、自分のこの趣味を理解し軽蔑しないこと。
 ありえない。
 色々ありえない。
 エリザベスは何度シエルに彼をクビにしろと忠告したことだろう。だがシエルは、そんなセバスチャンを嫌っている癖に、先代も認めた彼の能力は買っているのだ。彼の性癖は確実に雇用主であるシエルの印象すらも悪くするだろう、それなのに『性癖』を『趣味』と言い換えて、許容している。
 あんな男が執事となるファントムハイヴ家に嫁がなくて済むのは、エリザベスにとっては幸運だ。母に感謝すると共に己の強運にも驚くほどだ。シエルには申し訳なく思うものの、である。
 その、忌むべき男、セバスチャンに───。
 奇跡が訪れたのは高校三年生になった春のことだった。
 あの変態男に彼女ができたのだ。
 何という物好きな、しかしセバスチャンの性癖を理解するということは、その彼女も変態なのだろうか? エリザベスは興味津々で、その彼女を覗き見た。
 何ということだ。
 普通だった。
 長い赤毛の、元気な可愛らしい一年生。何の手違いで変態の彼女になったのか。そうやって並んでいれば、傍目にはごく普通の、いや美男美女のカップルだ。
 エリザベスは、しかし自分の欲求には忠実だった。二人の間に割り込んで、彼女に色々と尋ねることに躊躇はない。
 彼女の名前はグレル。
 セバスチャンに一目惚れして告白をして、いきなりスカートを捲られるわ手紙は受け取って貰えないわ、それでもその時彼の好みを聞き出して翌日もう一度アタックしたのだそうだ。
 顔と下着、それは人を好きになる理由としては、あまりに人格からかけ離れてやいないだろうか。幻滅しなかったのだろうか? 人間の価値は人格とか性格とかが重要ではないのか? だがグレルは「んー」と首を捻って、でも顔も趣味も大事ヨと言い切った。グレルもまた下着を趣味と言い換えていた。
 エリザベスは一人で憤慨したが、その後も二人は順調だった。セバスチャンが大学を卒業して正式にファントムハイヴ家の執事となり、落ち着いた頃に見事グレルと結婚した。
 人生とは分からないものだ。
 二人は実に幸せそうで、あなたたちは間違ってるわと指を指すことは、もはやエリザベスにはできなかった。グレルの妊娠が分かったのはその翌年のことで、その時エリザベスは26歳で、いまだ独身のままだった。
 一体何を間違えたのだろう?
 20歳になったシエルは子供の頃の面影を残しつつも、きりりと引き締まり自信に溢れる大人の男となっていた。婚約を破棄していなければ、数年の内には結婚していたはずの相手だ。弟としか思えなかったシエルは、身長も伸びた今となってはせいぜい『年下の男』と形容するのが相応しい。
 婚約破棄以降、枷がなくなったエリザベスはそれこそ色々なタイプの男の子と恋をした。けれど、気付けば相手は去っているか、エリザベスをお人形か何かと思っているか、もしくは家名(と、もしかしたらお金)目当てと判明した。結局、大学と同時に恋愛も卒業してしまったエリザベスは、現在に至るまでフリーという訳だった。
 自分が間違っているとは思わない。
 顔や身長や年収より、その人の性格や思想が重要だろう。趣味もまあ多少は大事かも知れないが、長くお付き合いするには、共感し尊敬できる相手でなくては。
 高望みをしているつもりは、勿論ない。
 けれど、同年代の男の子はどうしても子供っぽく見えてしまうのも事実で、年下のはずのシエルが奇妙に大人びて見えることにも当惑する。
 最近、シエルを見ると、どきっとする。
 小さい頃から知っているせいだとは、もうごまかせない。会社の経営に関しては冷酷とすら噂されていることはエリザベスも知っている。だが、エリザベスに向けられる笑顔は昔とちっとも変わらない。大人の笑みだ、だがその本質までは変わっていないと感じるのだ。
 シエルは、豪雨のように舞い込む縁談を片っ端から断り続けている。今はまだ女性に興味を持てないのか、あるいは会社の運営で手一杯なのか。
 もう一度、シエルと婚約することは不可能ではないだろう。もしかしたらそのために、シエルは縁談を断り続けているのかも知れないのだ。そんなことを考えて、エリザベスはほのかに胸が温まるのを感じた。
 だが───。
 人生とは分からないものだ。
 エリザベスは、シエルとは全く関係ないところで、全く関係ない男に恋に落ちたのだ───。
 

*     *     *

 
 その総合病院は、駅からは少々離れているものの、大きな規模の有名なものだった。エリザベス自身はそこに足を踏み入れたことはなかった。病気や怪我などがあれば、かかりつけの医者が屋敷へすっ飛んでくるからだ。
「だ、大丈夫? しっかりして、グレル!」
「うー、ん~…ッ、い…イタイ…ッ」
 グレルがセバスチャンと付き合い始めた時に問い質してから、エリザベスはグレルと親交が始まった。奔放でハッキリとものを言うグレルが、エリザベスは嫌いではない。今まで周りにいなかったタイプの友達で、コスメや服を自分で店に買いに行くことの楽しさを教えてくれたのもグレルだ。モードとは違う、『女の子』の最先端を彼女はよく知っている。
 そのグレルが妊娠してからというもの、エリザベスは暇を見ては彼女を訪ねてマンションへお邪魔していた。
 屋敷にいれば世話を焼かれるばかりの自分も、ここではグレルの世話を焼くことができる。グレルは遠慮もなければ社交辞令もないので、「何かやって欲しいことはある?」と聞けばあれこれ用事を言ってくる。人のために何かをするのが自分には意外に向いているのだ、と気付くのに時間はかからなかった。
 その、とある日───。
 丸々と膨らんだお腹をさすりながら、グレルが急に顔を歪めた。聞けば陣痛だと言う。どうしよう、と慌てると、最近多くなってきたのだとグレルは深呼吸した。陣痛の間隔が狭まってきたら、いよいよなのだ。
 すると、ものの30分と経たない内に再びグレルは呻き始めた。やり過ごし、またその20分後に陣痛が襲ったとき、グレルは「お願いリジー、ここ電話して…っ」と携帯を差し出した。
 言われるままにグレルの出したナンバーで病院へかけると、すぐに来るようにとの指示を受ける。陣痛の一旦治まったグレルを支えながら、エリザベスは待たせていた自分の車(※運転手付き)でその総合病院へ駆け込んだのだった。
「うぅ~…ッ、ま・また始まっ…た」
「だ、大丈夫? しっかりして、グレル!」
「うー、ん~…ッ、い…イタイ…ッ」
 かかりつけの産婦人科医は女性で、問診と診察の後「もう少し陣痛の間隔が狭くなるから」と二人を分娩室の前のソファに待機させていた。
 予定日にはまだ日があるはずなのに。
 前の陣痛から10分間隔になっている。
 破水はしていない。
 だが確実に、その時は近いのだ。こんな時、男なんて何の役にも立たないわ。そう思ってようやく、エリザベスはセバスチャンを思い出した。
「ね・ねえグレル…セバスチャンにも連絡した方がいいのかしら?」
「せ、セ…セバスちゃん…ッ?」
 痛みから気を逸らせるように聞くと、ぎゅっと目を閉じて耐えるグレルが顔を上げる。
「そ、そう、ね…仕事中だから、来ないか、も、だけどッいちお…」
 その時、様子を見に来た看護士がグレルを分娩室へ促した。お願いねと言い残すグレルを見送って、病院にかけた時から握り締めたままだった彼女の携帯を持って、エリザベスはロビーへ向かった。男なんて役に立たないと思ったけれど、私も全然だわとちょっぴり胸が痛んだ。

 ロビーに設置された公衆電話から、グレルの携帯のアドレス帳で探し当てたセバスチャンの番号へかける。病院内では携帯電話は禁止されていることぐらいなら、エリザベスだって知っている。
 仕事中なら携帯には出ないかも知れない、と思った通り、2回のコールですぐに留守番サービスセンターに繋がった。慌てて切る。こういう場合には職場、即ちファントムハイヴ家にかけるのが手っとり早いだろう。
 案の定、電話に出たのは執事セバスチャンだった。
「セバスチャン? 私、エリザベスです」
『おや、これはエリザベス様…』
「用件を言うわね」
 ファントムハイヴ家の執事となったセバスチャンは、同級生だったエリザベスを当時のように『さん』付けではなく『様』付けで呼ぶ。それはエリザベスがファントムハイヴと親戚関係にあるからだが、慇懃無礼な使い分けを聞きたくなくて、その声を遮った。
「グレルが産気づいて、かかりつけの総合病院に来ています。お仕事中のあなたが来る来ないは自由ですけど、一応お知らせよ」
 グレルさんが!? と珍しく動揺したような声に内心ほんの少し驚きながらも、エリザベスは無視して「じゃあね」と受話器を置いた。
 その直前、言い争うような声も聞こえた気がするのは、本当に気のせいだろうか? けれど受話器は既に沈黙している。気のせいということにしておこう。
 さて、自分の仕事は終わってしまった。
 あとは分娩室の前で、無事の出産を祈るばかりだ。
 だが、携帯を閉じようとして、はたと思いつく。グレルの家族にも連絡すべきだろうか。少し迷って、再びアドレス帳を出す。実家、というページとグレルの兄・ウィリアムのページを見て、エリザベスはまず実家へ連絡した。母親が出て、用件はすぐに済む。
 ウィリアムは、同じく高校時代の同級生だ。何の因果か、犬猿の仲のセバスチャンに「お義兄さん」と呼ばれては怒りに戦慄いている。そしてシエルの家庭教師を経て、現在はファントムグループの顧問弁護士の一人となっていた。
 つまり、ウィリアムも仕事中ということだ。だが妹を溺愛する彼に教えないのも気が引ける。セバスチャンに比べたら、多少気難しいシスコンでもウィリアムなど真人間と言っていい。携帯の留守録にメッセージを残すぐらいはしてあげなければ、可哀想というものだ。だが、予想に反してウィリアムは電話に出た。
『もう向かっています!』
 その科白の向こうから、セバスチャンの忙しない声が聞こえてくる。
 先ほどファントムハイヴ邸にかけた電話から聞こえてきた争うような声は、ウィリアムだったのだと納得した。シエルはウィリアムを気に入っていて、よく連れ歩いている。屋敷にいてもおかしくない。
 もう向かっていると答えたウィリアムの側にいるということは、セバスチャンも一緒にここへ来るのだろう。取り乱したセバスチャンなど滅多に見られるものではない、エリザベスはほんの少し気が紛れてほっと息をついた。
 さて、それでは。
 分娩室の前へ戻ろう、エリザベスは公衆電話からくるりと廊下へ向き直った。
 そこで───。
 エリザベスの意識は一旦途切れるのだった。


「う…ん…?」
 病院独特の匂いの中で、エリザベスは意識を取り戻した。どうやら固いベッドに横たわっている。けれど何が起こったのか、理解できない。
 気を失ったらしいことは分かる。けれど何故自分は気を失ったりなんかしたのだろう?
 そうだ、何かを見たのだ。
 公衆電話から離れて、グレルの入った分娩室に向かおうとして───。
 見たのだ。

 ───亡霊を。

 ぞくりと体が震える。
 ああ、私、怪談は苦手なのよ!
「おや…お目覚めかい?」
「あ…ええ…」
 ふう、とため息をついてエリザベスはようよう体を起こした。声をかけたのはここの医師だろうか?
「急に倒れるからビックリしたよォ?」
「済みま…」
 せん、とエリザベスの声は続かなかった。
 オペの格好をした医者が、エリザベスのすぐ横でニタリと笑っていた。
 体が硬直する。
 血まみれだ。
 その顔は医者にあるまじき長い前髪で半分以上隠されていて、そこから派手な傷跡が覗いていて、片耳にマスクが引っかかっている。メスは持っていないけど、知ってるわ、これ。病院を舞台にしたお化け屋敷で見たことあるもの! 私はイヤだって言ったのに、面白がった男の子に引っ張られて───二人で絶叫して半ベソで逃げ出した。ちなみにその男の子とはその場で別れたけれど。
 そう、先ほど見たのもこれなのだ。
 おやおや、と苦笑する声が遠ざかる。ぱたり、とエリザベスは再び倒れた。そこがベッドの上で、手間がかからなくて何ていいことかしらと、逃れる意識がエリザベスに言い残した。
 

*     *     *

 
「ありえない!」
「そう言われてもねえぇ」
 それから10分後にようやく意識を取り戻したエリザベスは、同じ人物相手に二度も(しかも連続して)失神したことに憤慨する元気も取り戻していた。
 医者はニタニタとエリザベスを見返すが、彼女はもうそれだけでは失神したりしない。相手がホラーの登場人物でもなければ、現実の猟奇殺人の犯人でもなく、本当の医者だということを噛みしめれば怖くなどない。
「そんな長髪で、前髪で、不衛生だわ!」
「あらら、言われちゃった」
 くふふと口の中だけで笑って、医者はぽりぽりと頬を掻く。その爪は、タスマニアデビルの如く長く飛び出ていて、しかも黒く塗られていて、エリザベスは口をぱくぱくさせてそれを指さした。
「あ…あ…ありえないんだから!!」
「えぇ~?」
 ベッドに腰掛けたままなのは、別にまた失神した時のためではない。椅子に座る医者に目線を(目は隠れて見えないけれど)合わせるためだ。
 あ、爪ね~と今更気付く鈍い医者に、エリザベスはふつふつと何かが湧き出るのを感じていた。エリザベスとて、間違いなくあのフランシスの血を引いている。
「爪はね~、細かい作業に便利なんだよねえ」
「明らかに手袋できないじゃない!」
「あはは、そうだよねえぇ」
 女の子がネイルアートのために伸ばすのは、分かる。けれどいい年をした男が、しかも医者が、非常識にもほどがあるというものだ。
「でもねえ、これ、院長から許可されてるんだよォ?」
「何で!?」
「長髪もねー」
「だから何で!!?」
 ヒッヒと笑ってその医者はずいとエリザベスに顔を寄せた。
「お客さんを怖がらせるためさぁ」
「…」
 お客さん。
 病院では普通、そこは患者さんと言うべきではないだろうか。もしかしてここは病院を模したホラーハウスだったのだろうか? 不意にグレルが心配になる。
 そこへ、看護士の年嵩の女性が開かれたドアをコンコンと叩き、顔を覗かせた。
「葬儀屋さん」
 葬儀屋さん!?
 唖然として医者を振り返る。
「さっき入った妊婦さん、もう一押しなんですけど…お願いできますか?」
 エリザベスはハッとした。その妊婦さんとは、もしやグレルではないだろうか!
 今行きまァす、と緊張感のカケラもない医者は看護士に手を振った。普通に出番待ちのホラーな役者にしか見えない。
「じゃ、キミももう大丈夫なら、一人で…」
「待って!」
 エリザベスはとっさに引き止めた。
「そ、そ、葬儀屋って何…?」
「ああ! 小生、実家が葬儀屋なのさァ。それであだ名が『葬儀屋先生』ってねえぇ」
 産婦人科医なのにねえヒヒヒ、と面白そうに笑みを漏らす医者は、どうやらそのあだ名がお気に入りらしい。
 この人、産婦人科医なの? これで?
 てゆうか今、自分のこと『小生』って言った?
「…今時『小生』っておかしくない…?」
「そうかい? じゃあ…『私』?」
「キモい!」
 しまった、学生時代の悪い言葉が出てしまった。だが葬儀屋は気にした風もなくヒッヒと口元を弛める。
「じゃあ『俺』とか?」
「…い、イメージじゃないわ…」
「それなら『僕』かな」
「き、気持ち悪いわ!」
「文句ばっかりだねえ。別に小生はオラでもオイラでも構わないけどねえぇ」
「…それしか合わないのね、あなた」
 とうとう、この医者には『小生』が一番しっくりくるのだと認める。何故だか酷く楽しそうな葬儀屋に負けた気分で、エリザベスは口を尖らせた。
「でっでも医者の長髪は頂けないわ! せめてこの前髪だけでも切りなさいよ!」
 それとも顔の傷跡はそんなに酷い訳!? エリザベスはむんずとその前髪を掴んで、カーテンでも開くように隠された顔を蛍光灯に曝した。
 エリザベスは、びくりとして、再び固まった。
「…」
 傷跡は、確かに顔を大きく横切っていて、普通だったらホラーのエッセンスだ。だが、切れ長で薄い緑色の瞳に見つめられてエリザベスは手が震える。

 何なのだ、この、美貌は。

 一言で言えば、美形である。
 それも、尋常ではない美形だ。傷跡すらその美を損なえない。柳眉は予め計算されたかのようで、銀色の長いまつげは宝石のように煌めく瞳に影を作っている。すらりと高い鼻は女性も羨むほどだし、鼻腔も控えめで整っている。肌も、まるで卵か陶磁器のようにすべすべでシミひとつない。そして何より、全体のバランスが素晴らしい。半分顔が隠されているとニタニタと笑う口元ばかりが気になったのに、全体で見ればそれは見る者を魅了する笑顔に他ならない。
 忌憚なく言えば、エリザベスが今まで出会った誰よりも、美しい。
 そういえば身長も高いし、医者だし、もしかして葬儀屋にノックアウトされる女性患者は多いのではないだろうか! いや、患者だけでなく付き添いの女性とか、お見舞いに訪れる女性とか、女医さんとか女性看護士とか。いやいや、もしかしたら、男性だって惑わされるかも知れない。
 そこで気付く。
 それでは仕事にならないだろう。
 院長の許可は、つまりそういうことではないだろうか。男の価値は顔ではないと思っているエリザベスですら、胸が高鳴り手が震える。きっと顔だって、赤くなっているだろう。何しろやたらと顔やら手やら、いやもう全身が火照ってしまっている。
「こ、これは…」
 隠さないとダメね、エリザベスはそろそろと前髪を戻して震える手を引っ込めた。
「面白い子だねえ」
 ヒヒヒとホラーな笑い声を聞いても、エリザベスにはもはや恐怖はなかった。ゾクゾクするのもドキドキするのも、恐怖に起因するせいではない。
 ああ、もう、仕方ない。
 認めるしかない。
 顔も大事だ!
 私は面食いだったんだわ! 今まで私の中の美形基準に達する男性を見かけなかっただけの話だったんだ!
「じゃあ、小生仕事だから。気をつけてお帰り」
「は、はい…!」
 震える声で小さく返事をすると、葬儀屋はひゃひゃひゃと笑いながら去っていった。廊下を通りかかった子供の患者がビクリとして松葉杖を倒した。おやおや大丈夫かァい? と葬儀屋がゆらゆら振り返ると、その子は「ママー!!」と叫んでダッシュで逃げた。たかし君すごいわもう歩けるっていうか走れるじゃない、という母親らしき声を遠くに聞きながら、エリザベスは胸の高鳴りを鎮めることができなかった。
(きっと名医なのね…!)


 さて、産婦人科が専門の葬儀屋だが、こちらでも名医と呼ばれていることをエリザベスは後に知った。しかも、いざ出産というときにその名医ぶりは発揮されている。あと一押し、力んで! という時にあの格好の葬儀屋が妊婦を覗き込むと、腹の底から「キャー!!!!」と叫んでスポンと産まれる算段だ。
 らしい、ではなく言い切れるのは、そうして無事に女児を出産したグレルの話を聞いたからだ。
「初産でも結構すんなり産ませてくれるって評判聞いたから、あの病院にしたんだけど…ああいうカラクリとは思わなかったワ~」
 喉元過ぎれば、グレルにしてもいい思い出というか笑い話だ。エリザベスは曖昧に苦笑した。
 あれ以来、寝ても覚めても葬儀屋の顔が目の前から消えない。
 これは恋だ。
 これこそが恋なのだ。
 今まで恋だと思っていたものは、生ぬるいとしか感じられなくなった。
 そして、葬儀屋に恋をしていることは、今までのように友達に打ち明けたりもしていない。いや、できない。できなかった。葬儀屋さん、と呟くだけでドキドキして、間近で見つめられた記憶が再現される。声も体も震えてしまって、変に思われること請け合いだ。
 しかも、恋の理由は、顔なのだ。
 エリザベスが「男は顔じゃない」と他の女子を非難していたことは、周り中誰でも知っている。寧ろエリザベスとセットになっていると言って過言ではない。なのに、顔だけで惚れた。葬儀屋の性格も人格も趣味も、何も知らずにただ顔だけで惚れたのだ。言える訳がなかった。今まで散々講釈を垂れてきた自分を、過去に戻れるものなら殴りたい。
 言えない理由は、もうひとつ。
 葬儀屋が美形だということを、知られたくない。皆びくびくと遠巻きにしていることからも分かるように、誰も彼が美形だと知らないのだ。もし知れれば、ライバルが増える。それは恐らく、一人二人という規模ではない。友達に話して、友達がライバルになるなんて、困る。
 彼が美形だと知らせないまま相談すれば、えーあのホラーな人を!? と珍獣でも見るような目で見られるだろう。ああ、だが、もし誰かに相談するならそれしかない。けれど、一体どこを好きになったのか聞かれたら、答えようがない。

 ああ───人生とは分からない。
 その時エリザベスは26歳、恋愛に希望を持てなくなって4年目のことだった。
 物思いに耽り、悩ましいため息の多くなったエリザベスの恋に最初に気付くのは母親のフランシスなのだが、そのお話は、別の機会に。