ミッドナイト・ハロウィーン

 朝───。
 目覚ましの電子アラームに叩き起こされ(意地でも寝てると執事が起こしに来てしまう)、紅茶を一杯飲んでからシャワーを浴びる。用意された朝食を無理矢理食べて、メールのチェックをする。
 9時になると、出勤の為に車に乗る。自宅がちょっと郊外にあるものだから、10時までに会社に着く為には1時間前には出ないといけないのだ。お昼までは大体が社内会議だが、それがない時には書類仕事をする。
 昼───。
 大体が取引先との会食で、その予定がない時はケータリングサービスを利用する。
 昼食後は社外が多い。取引先との会議であったり、企業として避けて通れぬ環境対策の会議であったり、また自社の生産ライン(戦闘機とかモビルスーツとか)を見学しに行ったり。
 夕方4時か5時ぐらいには会社に戻る。1日分たまった書類を片付けて退社する。
 夜───。
 退社したくても、会食の予定が入っている事が殆どなので、そのままお出かけ。夕食の会食はお酒が付き物なので、帰宅は遅くなる場合が多い。そういう日は、帰ったらシャワーも浴びずにベッドに倒れ込むのがやっとだったりする。
 その繰り返し。
 そんな事ばかりを繰り返す毎日、だった。
 クロトが現れるまでは。
 

  ミッドナイト・ハロウィーン

 
 クロトはアズラエルの会社のテスト・パイロットだった。戦闘機やモビルスーツの試作機が出来る度に、実際に搭乗して操作性やら機能やらをチェックしている。
 クロトは、しかし子供だった。
 16歳という事だが、外見はもう少し子供に見える。そして言葉を交わせば、その印象はもっともっと幼くなる。まるで小動物だ。
 だがテスト・パイロットとして充分有能である事も事実だった。細く小さい手足を精一杯動かして、様子だけ見ると微笑ましいばかりなのに、どんな機体にもすぐに馴染んで開発班を唖然とさせた。
「あっアズラエルさあ~ん!」
 ぱあっと顔を輝かせて手を振りながら駆け寄ってくるクロトに、アズラエルは思わず苦笑する。
「トリック オア トリート! !」
「えぇ?」
 パイロットスーツのまま、クロトは両手を差し出した。
「ブー。仮装してないからNGです」
「えぇ───ッ」
 反射的に答えながらも、今日がハロウィンだったなんて全く忘れていたアズラエルだ。飴玉のひとつでも持っていれば惜しみなく渡しただろうが、そんなイベント自体を忘れていたものだから仕方ない。
 設計班に呼ばれるクロトを見送りながら、アズラエルは小さく笑った。


 生活のサイクルは前述の通り、今も殆ど変化はない。けれど、たったひとつでも異なる因子が加わる事によって、代わり映えのしない日々の繰り返しが楽しく過ごせたりもするのだ。
 アズラエルにとって、それはクロトという子供の出現だった。自分が自覚する以上の効果を齎しているという事までは気付いていないにしても、明らかな気分の違いだけはハッキリ認識していた。
 何しろ───クロトは、アズラエルを好きなのだ!
 この時アズラエルは26歳、2人の年齢差は実に10歳である。にも拘わらず、クロトは堂々告白してきた。
『ぼ───僕、あ、あなたの事っす…す…』
『す?』
『好きですッ!!!』
 頭ひとつ分も小さいクロトを、しげしげと見下ろしたものである。
『ひ、ひとめ惚れでしたッ』
『はあ…』
『それで…ッあなたの事ばかり気になって…ッ、ずっと見てて、調べたりとかして…ッ』
『…(調べたり?)』
『そしたら、余計好きになっちゃって…』
 少々引っ掛かるところもない訳ではなかったが(よく考えると行動はストーカーじみているのだから)、瞳を潤ませ頬を紅潮させ、必死に訴える様は、アズラエルをいたく刺激した。まるで子犬か子リスのようだったのだ。アズラエルは───かわいいものが大好きだった。
 正直に言えば顔はそんなに気に入る程好みという訳ではなかった。顔だけで言えば、クロトと同じくテスト・パイロットをしているオルガやシャニの方が好みだ。けれど、小さいクロトがちょこまかと動く様子はとてもアズラエルの心を和ませていた。
 そのクロトが、アズラエルを好きだと言うのだ。
 ただ慕っているだけではない事は明白だった。恋愛感情を持って見上げるまなざしは熱を帯びて、大人と子供の境界にいるクロトが、まるきり子供ではない事を知らせていた。
 悪い気は、しなかった。
 多少戸惑いはしたものの、クロトに好かれているというこの事態は、アズラエルをほんのり喜ばせた。
『ぼ、僕と…、付き合って下さい…!』
 調べたと言うだけあって、アズラエルが未婚である事や特定の女性がいない事は知っていたようだ。
『僕は男だし、年下だし…経済力もまだないけどッ、これから頑張るし…ッ、誰よりもあなたを大事にするから…ッ!』
 もじもじしていたかと思うとパッと決意に満ちた目で見上げ、そしてまた目が合うとしおしおと恥ずかしそうに俯く事を繰り返すクロトに、アズラエルは、
『考えておきます』
 とだけ言って笑っておいた。
 それが3ヶ月ぐらい前の事だ。
 夏で、陽射しが強くて、考えておくと言った時もしかしたら赤らんでいるように見えてしまったかも知れないな、と思った。勘違いされていたらちょっと恥ずかしい、しかしその後の様子を見る限り、クロトは都合のよい勘違いはしていないように思える。自分の感情を持て余して、いっぱいいっぱいだったのかも知れない。
 けれど───。
 それ以来、クロトの方から返事を迫られた事は一度もない。何しろ3ヶ月だ、痺れを切らしてもおかしくない月日が経っているのに、クロトはアズラエルを見つけると毎度先程のように駆け寄って尻尾を振るだけだ。
 当然そのまなざしは「好き!」と言う感情を盛大に表しているし、期待に満ちている事も確かだ。
 告白した事を後悔して、なかった事にしたいのだろうか? それともお断りの返事を恐れて、それならいっそこのままでいる方がマシとでも思っているのだろうか?
(そろそろ返事してあげても、いいかな?)
 実は───。
 考えておきますと言った時点で、付き合うぐらいOKですよと言う気持ちは70%ぐらいはあったのだ。三ヶ月も放っておいてしまったのには、特に理由がある訳ではない。返答を迫られないし、期待と不安の入り混じるクロトが自分の元へ駆け寄る姿を見る事はとても楽しかったからだ。
 でも、付き合う事にしたら、クロトはもっと懐いてくるかも知れない。あの可愛らしい小動物はボクのものなんですヨ~と周囲に見せびらかすのも楽しいかも知れない。ひょっとして、恋人という立場に収まったら、恋人ヅラしてアズラエルの行動に口を挟んできたりするだろうか? しかし、そんな事を子リスのようなクロトがするのだったら、独占されてやるのも楽しそうな気がする。
 まあつまりアズラエルは、70%ぐらいあったOKの気持ちが、ここ3ヶ月でじわじわと99%ぐらいに上昇してしまっていたのだ。
(…どんな顔、するかな?)
 そこへ、今日という日が来た。
 ハロウィンだ。
 クロトは多分もう一度、今度は仮装してアズラエルを訪ねてくるだろう。その時に、ちょっとぐらいなら付き合ってもいいですヨと言ってみよう。アズラエルはそう決めると、飴とチョコレートを買いに社内のコンビニに向かった。

*     *     *


「トリック オア トリート~!!!」
 思った通り、クロトは夕方、社長室のドアを威勢良く開けて飛び込んできた。そう、多分クロト…声はクロトだ。白いシーツに3つの穴を開けたものをすっぽり被っている。その後ろを、しぶしぶといった雰囲気でオルガとシャニもついて来ていた。オルガはマントに見立てた黒い布を羽織り、シャニは一体何の扮装だか、オレンジの小さなリボンを頭に付けている。事前に準備をしていた訳ではなく、今日社内で適当に見繕ったのだろう事が窺えた。3人の向こうで、アズラエルの秘書の一人が笑っているのが見えた。
「はいはい」
 アズラエルは堪え切れない笑いを滲ませながら、トレイに開けて用意していたお菓子をクロトの頭の上に乗せた。
「えっ? えっ?」
 白いシーツを被ったクロトは慌てたように、頭上のトレイのバランスを取る。
「オルガは…吸血鬼? それともコウモリですかねぇ?」
「…」
 苦々しい顔で、オルガは答えの代わりに小さい溜め息。
「シャニは…えーと…。…何です?」
「…魔女」
「へえ~! 魔女ですかあ~」
 シャニは手にカゴを持っていて、中には既にお菓子がいくつも入っている。ここに来る道中でも集めて回ったのだろう。オルガの苦労が忍ばれた。
「クロトはお化けですネ~?」
「そっそう! お化けだよ、ゆーれいだよ!」
 シャニがクロトの頭上から、自分とオルガの分としていくつかチョコレートの包みを掴んでカゴに入れる。クロトは、シーツの裾を袋状に掴んでいるところを見ると、自分の分はしっかり自分で持っているのだろう。アズラエルは再びトレイを手に取ると、クロトのイヤ白い布の開いた穴に向けて差し出した。
オルガとシャニは、もう用は済んだと言わんばかりに帰りかけている。クロトは慌てて飴に手を伸ばした。
 アズラエルは、反射的にトレイを避けた。
「…」
 そう、今日はクロトに用がある。クロトだけに用があるのだ。だがクロトは「あれ?」と穴の中で目をぱちくりさせる。
「…あの~?」
 イジワルされたと思っただろうか? 戸惑ったような声がシーツの中から漏れ出す。先行くぞ~というオルガの声にウンと頷きながらも、逃げたトレイに再び手を伸ばした。でも、アズラエルは更にそれを避ける。
「あの…アズラエルさん~?」
「キミ、お菓子でいいんですかあ?」
「え?」
 アズラエルはきょとんとしているクロトを覗き込み、意味を込めて微笑みかけた。シーツの中でクロトが瞬間沸騰するのが見えた。
「お菓子、あげるのはいいですけど~。そしたらイタズラは出来ないって事ですヨ?」
「イ…あ、え…ッ?」
 シーツを被っているというのに、盛大にうろたえている様子は手に取るようだ。『イタズラ』の微妙なニュアンスは、的確に伝わったのだ。
(…かわいい♪)
 アズラエルは知らず、笑みを深めていた。
「お菓子が欲しい? それとも、イタズラしたい…?」
「う…、あ…え…っと…」
 きっとクロトは今、茹だってしまって思考は正常ではない事だろう。シーツの裾にまとめていたお菓子が、不意にバラバラと床に落ちた。
「い…イタズラする…ッ!」
 そうでしょうとも! アズラエルは内心で大笑いしながら、クロトを社長室の中へ招き入れた。余りの衝撃に足元のおぼつかないクロトは、傍からは立派にお化けらしく見えたのだが、それを見る事が出来たのはアズラエルだけだった。


「さあて、キミは一体どんなイタズラをするんでしょうねぇ?」
「えっと…、えっとね…っ」
「あ、ストップ。仮装やめるならナシですよ?」
 そそくさとシーツから脱出しようとするクロトを見て、アズラエルは釘を刺す。
「い、いーじゃん…」
「ダメです~何といってもハロウィンだから許される事なんですからネ!」
「う~…」
 椅子に腰掛けてキッパリ言えば、もじもじとシーツの穴を定位置に戻すクロトだ。
「それにホラ、あれ見て下さいヨ」
 不服そうなクロトに苦笑しながらも、アズラエルは天井の隅を指差した。
 そこには監視カメラが付いていた。万が一の事態に備えて、その実アズラエルがサボっていないか監視する、防犯カメラ。クロトはぎょっとした。
「ねえ? 仮装なしでイタズラなんかしたら、警備員が飛んで来ちゃいますよォ?」
「…ッ!!!」
 実際にはこのカメラの映像は、このフロアにある社長秘書のデスクに繋がっているだけなので、お化けのままでもクロト本人の姿でも、警備員を呼ばれる事はない。何しろ秘書なら先程、お化けのクロト達を見て知っている。
「じ…じゃあ、あのう…」
 クロトはにじり寄って、アズラエルの膝に手を添えた。穴から覗くクロトの顔はとっても切なそうだけれど、全体的にはお化けなのでムードに欠ける。
 でも、アズラエルだって苛めるつもりで招き入れた訳ではない。焦らし過ぎるのも可哀想なので、アズラエルはシーツの裾をつまむと自分もお化けの中に入った。
「あ…」
 布の中では、距離はとてつもなく近い。明かりをほんのり通すシーツの下で、椅子に座るアズラエルをクロトはぎこちなく見下ろしていた。
「ねえ、クロト。キミ、まだ僕の事好きなんですか?」
「すッ…好きだよ! まだってどういうイミ…」
「だって、全然返事尋かれないから」
「…っ」
 それはと口ごもるクロトの目は潤んでいる。これもイジメみたいですネと思って、アズラエルはクロトの手を引いた。
「ねえ、クロト」
 逆らわないクロトは促されるまま近寄って、向い合せのままアズラエルの膝の上に乗る。
「アズ…」
「イタズラして…?」
 ほんの少し首を傾げてそう囁くと、クロトは何かが弾けてしまったように、唇を寄せてきた。

*     *     *


「はあ~…」
 定時を随分過ぎて、しかしアズラエルはまだ社長室にいた。クロトはとっくに帰っていたが、残りの仕事にどうしても手が付かないでいる。
 理由と言ったら、色々だ。
 思いの外、クロトはキスが上手だった、とか。
 好きと囁かれて、ウッカリ体がその気になりそうだった、とか。
 シャツの上から、だけど背広の中をまさぐられて声が上ずってしまった、とか。
 けれど一番、何よりアズラエルをうろたえさせたのは、クロトが、クロトが、乗っかりたがっているという事だった!
 予想外というか、想定外。
 だって、普通、ありえない。
 自分より10も年上の男を抱きたいと思うなんて! 最近の子供って、子供って、子供らしからぬ思考回路が流行っているのではないだろうか? アズラエルは五秒ぐらい自分の16歳の頃を思い出そうとしたが、イヤ無駄だと諦める。16歳の頃に限定せずとも、自分が年上の男に恋心を抱いた記憶などない。年上の女性になら心当たりもあるのだが。
 今、年下のクロトをみて「可愛い」と思うのは、それはもう殆ど弟とか犬とかリスとか、そんなイメージだからだ。慕われて嬉しいし、可愛いし、自分の事をそんなに好きなら付き合ってもいい(=飼ってもいい)と思うのは人情だろう。抱き締めてキスをするぐらいやぶさかではないし。
 だが───。
 だがクロトが乗っかりたい方だとすると、そんな事だけでは済まされない。
(あんなに可愛いのに…)
 抱き締めてキスをした代償が、抱き締められてキスされて押し倒されるのでは男として沽券に関わるというものだ。
(あんなに小さいのに…)
 自分より頭ひとつ分低い身長もそうだが、全体的にクロトは小作り。背が低くて、胴体も腕も足も細っこい、見るからに子供。
 だがしかし、リスといえどもオスはオス。まず乗っかりたいと思うのが普通…なのだろう。
 普通だ。
 女性を前にして、年上だろうが乗っかりたいと思うのは普通だ、別におかしくない。
 普通じゃないのは、目の前にするのが成人男性であるアズラエル、という点だ。アズラエルは全く予期していなかった。今となっては、逆のイミで「迫られたらどうしよう?」などとほんのり考えていた事もアホらしい。間が抜けているにも程がある。
「はあ…」
 目の前の書類にやっとひとつサインして、脇へ除ける。一応目を通そうと努力はしているものの、頭の中をぐるぐると駆け巡るのは、今後一体どうやってクロトを説得しようかという算段だった。
 何しろ、好かれている事自体は嬉しいのだ。
 これが厄介なのだ。
 押し倒されるのなんてまっぴらだけれど、嫌われたくもない。ヤられる前にヤれ、と自分が先手を打って押し倒そうにも、果たして子リス相手に勃つのか甚だ疑問だ。大体そんなの、児童虐待みたいだ。
「どうしよう~…」
 何度目、或いは何十度目の溜め息を吐き出して、アズラエルは書類に問いかける。
 だって、クロトは待っているのだ。
 アズラエル邸にて!
 今夜! !
 先程は監視カメラ効果もあって、本当に『イタズラ』程度で引き下がってくれたクロトだ。だが、どうしてもどうしてもえっちな事をしたいといって譲らないクロトは、とんでもない事を言い出したのだ。
『今夜、したい』
 アズラエルさん家に一緒に行く! そして正真正銘『恋人同士の一夜』を過ごして、パジャマのままでモーニングコーヒーを飲むのだと───。
 朝は紅茶派という事はさておき、心の準備もありますし~またの機会にしましょうよと言ってみたが、聞き入れてはくれなかった。仕事が終わるまでそこで待つと言うのを、気が散るからと言ってムリヤリ追い出した。
『僕…邪魔…?』
『じ、邪魔というか、ね、ホラ…。君の事が気になって、早く終わるものも終わらなくなっちゃうでしょう?』
 これもまずかった。
 穏便に出て行って欲しくて、つい期待を増大させるような言い方をしてしまったのだ。これを聞いたクロトはぱあっと顔を明るくして、
『じゃあ僕先にアズラエルさん家行ってるね!』
 と言うなり飛び出してしまったのだ。
 実はその科白の後に続けて、おとなしく自室に戻るよう説得するつもりだったのだが、ひと足もふた足も遅かった。
 穴の開いたシーツだけを抱えて行ってしまったので、クロトが落としたお菓子は散乱したままで、アズラエルは呆然とするあまり、そのお菓子を拾い集めてみたりした。
 帰るのか、帰らないのか。
 帰るなら、どうにか逃れる計画を立てなければならない。しかも、その計画はクロトには通用しないかも知れない危険性がある。
 帰らないなら、我が身はひとまず無事だろうが、クロトを怒らせるだろう。しかも、泣かれたり、挙げ句嫌われてしまうかも知れない。
「…」
 どちらを取るのか。
 とりあえず、仕事が終わらない事には話が進まないので書類を睨む。しかし当然、集中なんか出来はしない。泣きたいような気持ちで、アズラエルは目の前の飴をひとつ、口に放り込んだ。
 甘いのに、どこか苦い。
 どんなに抵抗を考えても、あの潤んだ瞳を前にすれば流されてしまうんじゃなかろうかという予感に、頭を抱える。
 10月31日は、あと5時間。
 ハロウィンの夜は、まだまだ終わりが見えない。