エアケントニスの怪物:1

 汚泥の海をもがいていた気がする。

 酷く重い泥の中だ。呼吸すらままならず、ただ闇雲に泥をかき分け、浮上するのか沈殿するのか分からない先を目指していたのだ。
 暗く、冷たく、重く、苦しく、不快。
 目は開いているというのに、そこには何も見えはしない。その中を進んだとて、先に何があるだろうか。それでも己の体はもがくことを止められずにいる。
 ああ。
 苦しい。
 呼吸のために開く口の中にも、得体の知れない泥のような不快なものが侵入している。
 ああ。
 痛い。
 思うように動かせない体は、緩やかに流れる重い泥に捕らわれて軋みを上げている。
 ああ。
 何なのだ。
 ここは何だ。
 不意に指先に硬いものが当たった。
 ああ、何でもいい。確かなものなど何もない汚泥の中で、ようやく触れたそれを握る。
 棒?
 泥以上に冷たい感触に、ざわりと背が騒ぐ。だが揺るがないそれに縋るより他に、何の手だてがあるだろう? 棒を頼りに泥の流れに抵抗する。滑りそうになるのを必死で掴まり直す。いつまでこうしていれば良いのだろう、そもそも何故こんなところに己の身が置かれているのかも分からない。喘ぐ呼吸に意識が遠のき始める。泥は泥であり、泥のようなものは真実は泥ではない別のもの。身を浸し、押し流そうとする不快なもの。
 どれだけの時間をそうやって耐えていたのか分からない。己の意識など殆ど自覚も失ったその頃のことだった。
 頭上がにわかに明るくなった。
 その光は強くはない。
 じわじわと迫る太陽に空が白み始めるのに似て、意識からは外れた己の目が開かれた。
 何かがある。
 そこに何かがあるのだ。
『   !』
 ああ。
 誰かが呼んでいる。
 呼ばれている。
『   !』
 呼ばれている。
 己が呼ばれているのだ。
 殆ど爪の先が引っかかっていただけになっていた、冷たくおぞましい棒を慌てて探りしっかりと握る。渾身の力で、棒を足がかりに、声のする方へ腕を伸ばす。
 ああ。
 あと少し。
 泥の拘留が緩やかになるのに元気付けられ、そうだここから抜け出すには目を覚ませば良いのだと気付く。
 気付いてしまえば、あとはもう簡単だ。
 急激に強くなる光を目指し、棒を蹴り泥を掻く。確かにこの身は浮上した。
 ああ!
 自分が何と言ったのかは分からない。たぶん言葉ではなく、ただの感嘆詞。現実の瞼を上げれば、強烈な光が目を刺した。ああ! 夢の続きのように、まだ体は動かない。
「ナルト!」
 すぐ横で呼んでいた声は、淡い朱鷺色の髪の少女のものだった。ああ、呼んでくれて、ありがとう。お陰であの汚泥の中から抜け出すことが出来た。
 だが意味が分からなかった。
 ナルト?
 それは何だ。
 それは名前か。
 それは己(おれ)の名前なのか。
 安堵も束の間、己は重大な事実に、ただ息を吐くばかりだった。
 

  エアケントニスの怪物

 
 己の名前は、どうやら『ナルト』らしい。
 己が目覚めたのは病院の一室で、朱鷺色の少女は名をサクラと言い、己を担当する医療忍者だ。
 病院だとか、忍だとか、そういう類のことは耳にすれば理解が出来る。理解が出来るということは、己の中にその素地が記憶として存在するということだろうか。
「私のことも、何も覚えてない?」
 なのに、サクラという名前の少女に関しては、何も理解が及ばない。この里で己とは最も縁が深いのだと聞いても、記憶はおろか何の感慨も浮かばないのだ。
 最も縁が深い、というのは男女の仲だったということだろうか。だが、それにしてはサクラの目の奥には熱が見えない。
「…すみません」
 己を呼んでくれた少女に対して、申し訳ない気持ちが固い声となって口から出る。
「いいのよ、謝ることじゃないもの。じゃ、質問を変えるわね。覚えていることは、ある?」
 覚えていること?
 そんなもの、泥しかない。
 だがそれは夢の中のことでしかない。彼女の期待する答えでないことは明確だ。容易に動かない体をベッドに横たえたまま、己は緩く首を振った。そう、とサクラは己の額を撫でた。
 不意に悪寒が走った。
 どうしたの? 患者の変化に聡いサクラが己を覗き込む。首を振るのに精一杯だ。何なんだ。虫酸が走る。額に触れられたくない、そうなのか? 己は他人に額を、頭を、触れられたくない? 体が自由に動かせる状態だったとしたら、彼女の手を跳ね退けていたかも知れない? 恩人である彼女の手を?
 そんなばかな。
 己は元々そういう人間だったのだろうか。
 だが更なる悪寒は、それとは別の方向からはっきりと齋された。
「…サスケ君」
 唐突に開いた病室の扉、現れた男を見て、己は震えた。





「大丈夫?」
「ああ」
 サクラに「サスケ君」と呼ばれた黒髪の男は、己(おれ)と同様に満身創痍で、車椅子に座っていた。虜囚だろうか? 重そうな手枷を嵌めていて自分では動かせないのだろう、車椅子は大柄な男が押している。その背後には、恐らく彼を監視する二人の男。サスケは目に包帯を巻き、己からは見えはしないが、その下には赫い瞳があるのだと己は知っていた。
 ああ、己は、この男を知っている!
 己にも記憶はあるのだ!
 ああ、だが、何に震えたのかは分からない。
 ただ、先ほどの悪寒はサクラにではなく、近付くこの男に反応したものかも知れないと思って、それだけは奇妙にもほっとした。
「それで?」
「記憶喪失っていうか、記憶障害ね。脳の損傷は見つからないんだけど」
 二人が己の病状について話すのを聞いて、緊張する。
 己はどうなるのか。
 彼女と同じく忍だという己は、このままでは忍として機能しないのではないのか。そうなったら、忍の里であるここに、己の居場所はなくなるのではないのか。
「目覚めた時から、どうも他人行儀だと思ってたんだけど…私たちを警戒して言えなかったみたい、覚えてないってこと」
「ふん…」
 面白くなさそうに、サスケは顔を己に向けた。
 己が目覚めて三日が経っている。己は丸々二日間、記憶をなくしたことをひた隠していたのだ。
 背筋が汗に湿る。包帯に閉ざされた目が、本当は見えているのではないかと錯覚するほど正確に、真正面に己を捉えている。この男に否と言われれば、己はここから立ち去らなければならない、そんな気分にさせられる。
 何だ、この。
 絶対的な支配力は。
「無理はしないでね」
「分かってる」
 サクラはサスケの目を隠す包帯を解き始めた。それを見て、己は愕然とした。
 おしまいだ、
 己はもう、
 ここにいられない。
 がたがたと体が震え始める。包帯で固定されている体を、それでも起こす。肘を付き、逃げ場のないベッドの上をじりじりと後ずさる。
 怖い。
 恐い。
 ───畏い。
 包帯の除かれた白い顔、ゆっくりと上げられる瞼の奥。
 ああ。
 赫い。
 ふたつの赫が己を見た。
 ああ!
 ここにいてはいけない。
「ナルト!?」
 ベッドから転げ落ちた己を、サクラが抱き起こした、だが。
 逃げ場などない。
 どこにも。
 赫い瞳の男が、大儀そうに車椅子から立ち上がる。一歩、また一歩、己に近付いてくるのを己は待ち受けるしか出来ない。
 怖れ。
 恐れ。
 畏れ。
 己は何を畏れている? それすらも分からないまま、どうしても、その赫い瞳から目を逸らせない。
「サクラ、いいからどいてろ」
「え、…うん」
 己から視線を外さずにサクラを下がらせて、サスケはまばたきをひとつ。
「…おい」
 声をかけられ、びくりと肩が震える。
「怖ぇのかよ、俺が」
 怖い。
 それを感じ取ったのか、サスケははっと短くため息をついた。赫い瞳が、黒曜の如く色を変えた。己は、一瞬、見とれた。たぶん以前も、これを見たのだ。
「立て」
「サスケ君、ナルトはまだ…」
「立て」
 サクラを遮って、サスケは己にまっすぐ向かって言っていた。この男が「立て」と言うなら、たとえ両足が折れていようとも立たなければならないのだ。己は傍らのベッドに掴まってようやく立つ。じれったいほどの時間がかかったが、サスケはただそれを見ていた。
 向かい合ったサスケは己と同じほどの背丈で、目線の位置もさほど変わらない。年の頃も同じ。
 一体この男の何が、己は恐いのか。
「お前、俺のことも覚えてねえな?」
「…はい」
 己の返事に眉を僅かに寄せ、サスケは続けた。
「なら何が怖い」
 分からない。
 分からないから尚恐い。
 舌打ちが聞こえた。
「…話にならねえな」
 ああ、駄目だ、このままでは。
 ここにいられなくなる、それも恐い。
「あ、あなたの、ことは」
 掠れた声を無理矢理に絞り出す。自分の声の覚えすらないことも恐怖だ。
「覚えていない、けど…! 分かることは、ある…」
 あの赫い瞳。
 今は黒曜の瞳を瞬かせて、サスケは審判でも下すように己を見つめていた。
「何だ」
「あなた、が、己を」
 そうだ、それだ、分かっているのはそれだけだ。
「己の全てを、支配できること」
 絶望的な科白を口にして、己はそのまま意識を失った。

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