エアケントニスの怪物:2


 
 
「へーえ」
 暢気な声はカカシだ。
「ま、大まかには分かったけど。お前、ものすっごい不愉快そうね?」
「…」
 六代目火影・ダンゾウを失った今、カカシが代理として里をまとめている現状が続いている。里は、殆ど壊滅と言っても過言ではない状態だったのだ。今はまだ、次の火影がどうのという段階ではない。動ける者が動き、動けないカカシは仕方なしに火影代理を務めていた。
 半年前、里を巻き込んだ大きな戦があった。
「何が気に入らないの」
 その戦の中心に、ナルトとサスケもいた。
 サスケは、しかも、敵として。
「…あんたは、見たか?」
「ナルトを?」
「目を覚ましたあとの」
「見たよ」
 ナルトもサスケも、何もかもを使い果たして戦は終わった。敵であるサスケがその場で息の根を止められなかったのは、結局サスケがナルトを助けたからだ。尾の八本までを解放し、封印に仕込まれた最後の枷も突き破ろうとした九尾を、サスケは全力以上の写輪眼で押し戻した。結果、内臓は殆ど潰れ四肢はちぎれかかり、一時は視力も失い、それでも今サスケが生きているのはサクラたち医療忍者の手腕である。
 形式的には虜囚であるところのサスケだが、かつてチームを組んでいた仲間は彼を形ばかりの拘束しかしない。どうせ彼は、逃げ出せるほどには回復していないのだ。
「ぴりぴりしてたね。あと、おどおど? 記憶がないんじゃ、そんなもんかなーと思うけどさ」
「…」
 包帯から覗く柳眉が苛立たしげに顰められる。
 サスケは普段、半分は視力温存のために、そして半分は自由な行動を抑制するために、包帯で目を隠している。もちろんただの包帯なので、外そうと思えば自らの手で外せる。だがサスケがそうしないのは、彼自身の意志だ。
「写輪眼に怯えるなんて、お前、色々こっ酷くやりすぎたせいじゃないの?」
「それは否定できねえが」
 比較的早期(と言ってもつい先々月だ)に意識を取り戻したサスケと違い、ナルトは半年近くも意識不明の状態だった。ようやく覚醒したと思えば、記憶喪失とは。
「あ、もしかして、お前にも敬語だった?」
「…」
 おぞけ立つのを歯を食いしばることでやり過ごし、サスケはため息を隠さない。
「あと、アレ? ナルトの全てを支配できる、とかってやつ」
「…勘弁してくれ」
 車椅子の肘置きに縋って目眩に耐える。
「いくら写輪眼だからって、そりゃねえだろ」
「んーまあ、興味深い話ではあるけどね。つまりナルトは、何もかも忘れてるけど、写輪眼のことは朧気ながらも覚えてたってことだね。ほんとすごいね」
「…」
「忘れられちゃったのが気に入らないってことはさ、お前が写輪眼でナルトの記憶をどうこうした訳じゃないってことだよなあ」
「…そこまで器用じゃねえ」
「あらら、謙遜? お前も大人になったねえ」
 カカシにからかわれるのは慣れている。だが、不愉快なことに変わりはない。サスケは盛大に眉を顰めて目の前のカカシの机を蹴った。
「ふざけてんじゃねえよ。俺が言いたいのは…」
「はいはい。チャクラの変質でしょ」
「…っ!」
 見たって言ったでしょ、感情の汲めない声がサスケを制した。同じ写輪眼同士、辿り着いた見解は同じだった。
 ナルトが何か術にかかっている様子はない。だいたいあの決戦の場で、ナルトに何かの術をかけることが可能だったのはサスケぐらいなものなのだ。つまりナルトの記憶喪失は忍術が原因ではない、と見るのがおおかた正しいだろう。
 その上で、目に付いたのが───。
「サクラが言うにはね、ありうるらしいよ。解離性同一性障害って分かる?」
「…多重人格障害のことか?」
「ま、一括りにはできないけどね。人格ごとにチャクラが変わるのは、症例として確認されてるんだって。だから、記憶喪失で自分が何者か分からない奴のチャクラも、変質して感じられても…ありえなくはない」
「…」
 サスケは幾分ほっとした息をついた。
 変容したナルトのチャクラ、僅かに九尾のものも混じるのは以前から見られた現象だ。それが不安定なのは、記憶を失っている弊害か。
 だが、どうにも据わりが悪いのも事実だった。写輪眼で観察したナルトは、奇妙としか言いようがなかったのだ。
 泥だ、と瞬間的にサスケは思った。
 コールタールのように重く黒い泥の塊を内包し、尚かつその海に身を浸している、と感じた。記憶を失った人間を写輪眼で視たことはなかったので、こういうものなのかと戸惑った。失ったと言うからには、がらんどうの空洞のようなものを想像していたのだ。あまりに怯えるのでほんの数秒で閉じてしまったが、あれは、孤独というものに似ているとサスケは思う。
 孤独、それは記憶を失ったことに起因するのか、それとも。
 サスケは唇を噛んだ。
 写輪眼を閉じたら閉じたで、痩せこけて見る影もないナルトの姿が目に映った。点滴だけではあれが限界だったのだろう。
「…カカシ。頼みがある」
「はい?」
「ナルトに監視を…付けてくれ」
 ふーん、とカカシは首を傾げた。
「護衛じゃなくて、監視なんだ?」
「理屈は分かった。だが、何か引っかかる。それが何かは分からねえ。護衛っつう名目でも何でもいいから、監視は付けた方がいい」
「へー。じゃ、お前がやりなさいよ」
 思わずサスケは顔を上げた。
「あのね、木ノ葉は人手不足な訳。ナルトは入院中なんだから、サクラたちに任せておけばいいと俺は思うのね。でもお前はそれじゃ足りないと思ってる訳でしょ。だったら自分で監視してくれない?」
「…俺は」
 抜け忍で、敵で、捕虜じゃないのか。
 そう続く言葉はカカシの笑いを含んだ声に遮られる。
「ま、意識が戻ったんだから、ナルトの体力なんかすーぐに回復するよね。そしたらアレだね、お前がナルトを監視ってよりナルトがお前の護衛みたいになるよね」
 あ、護衛じゃなくて監視か。
 まだ自由の利かない包帯だらけの自分を揶揄され、サスケは憤るよりも呆れた。
「捕虜を頼るなんて、木ノ葉もとんだザマだな」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺かよ」
「そ。お前を含む『暁』ね。まあ、やっぱお前に監視を頼むってよりは、ナルトにお前の監視を頼んだって方が対外的にはマトモかな?」
「…それでいい」
 何でもいい。
 とにかくナルトを一人にしてはいけない、そう思う。ナルトは、今のナルトはサスケに怯えるだろう。それでも、監視されていると思うよりは監視していると思う方がいくらか気分も違うはずだ。
「じゃ、まずは病室を二人部屋にするところから始めようか。ナルトの体力が回復したら、監視任務の話するから」
 サスケは頷いた。
 だが、サクラからは反対されたのだった。
 

*     *     *

 
「確かに、記憶を刺激するにはある程度の接触はあった方がいいけど」
 サクラは真剣な面持ちでカカシを見下ろした。
「一人になる時間は絶対に必要よ。四六時中人目があったんじゃ、神経が休まらない。それは普通の人間だってそうでしょ」
 ましてやナルトは記憶喪失なのだ、整理を付ける時間は必要不可欠で、それは一人きりという状態が望ましい。
 サクラの言っていることは分かる。
 どうやらサスケを恐れているらしい現状では、尚更ナルトに緊張を強いることになりもする。
「じゃあ、交代制でサスケの監視をするってことにする? どうせナルトはすぐ退院できるでしょ」
「ええ、まあ…あと十日もあれば」
 渋々といった顔でサクラは答えた。
 元々身体の回復力には定評のあるナルトだ。意識が戻り、経口で栄養を摂取することが可能であれば、問題はない。実際、目覚めて二日で点滴は外された。食欲は旺盛とは言えないまでも、半年使っていなかった胃も何事もなく機能している。
「…サクラ、お前は何を心配しているの」
「えっ」
 顔の殆どを隠しているカカシだが、この上忍は雰囲気を伝えるのが上手い。からかうような口振りで、サクラの懸念はだいたい理解している様子だ。
「しっ心配は心配よ! 何しろ記憶喪失だもの! もしかしたら一生思い出さないままかも知れないのよ…!」
「うんうん、そーだねえ。もう二度と『サクラちゃん大好き』て言ってくれないかも知れないしねえ」
「せっ先生!!」
 顔を真っ赤にしたサクラが、目の前の机をバンと叩く。
 サクラが心配しているのは全く別のことだ。ナルトの異常なまでの、サスケへの執着心。まさしく殺し合いと言うべき決戦で、ナルトはサスケを取り戻そうとしていたのだ。そして記憶をなくして尚、サスケにだけは反応を見せた。
 その執着の名を二人が知ってしまうことを、サクラは恐れている。記憶を失っても、その執着は再びナルトに芽生えるのではないのか。里に連れ戻されて以来一切の抵抗を忘れたサスケに対しても不安が残る。
 その、二人を。
 監視とは言え、常に寄り添わせるなどと。
(ええ、ええ! 分かってるわよ、余計な心配だってことは!)
 カカシは恐らく、そこまで理解した上でサクラをからかっている。その科白は、サスケがそこにいなくとも同じだったことだろう。
 だが、サスケには額面通りに受け取るしか術がない。
 自分が長く里を空けていた間に、ナルトとサクラはそういうことになっていたのだ、とサスケは素直に思った。そう、思い返せば、自分をダシに二人は昔から仲が良かった。あの頃は、それでも『仲間』だと思えたのだ。
 それが、どうだ。
 ナルトとサクラの間に、自分は不要だ。
「…サクラ」
「なっ、何!?」
 焦ったような返事に、サスケは自嘲気味に笑った。
「ナルトの記憶を戻すには、お前が適任なのかも知れないが」
「えっ」
 だが、優秀な医療忍者であるサクラをナルトの監視には回せない。監視だけなら、やはり何も仕事のない自分が担当するのが妥当だろう。
「…悪いが、俺に任せてくれ。監視が優先だ」
「え、ええ…。記憶なんて、どうやったら戻るのかなんて…ケースバイケースで、これといった治療法はないもの…」
 自信の見えない声を聞いて、サスケは僅かに顔を逸らした。
 医療忍者に手だてがないものを、自分がどうにか出来るとは思えない。ナルトの記憶は俺が取り戻してやる、そう言えたらどんなに良かっただろう。今サスケには、ナルトの失われた記憶より不穏な何かの方が気がかりなのだ。
 そして、自分のことを考えなくて済むのは、それ以上に重要だった。
「じゃ、同室はなし? で、ナルトは退院したら捕虜の監視を任命、てところで了解してくれる、サスケ?」
「…分かった」
「入院中は、なるべく私が側にいて、監視するわ。おかしな点があれば、どんなに些細なことでも報告する。それでいい?」
「…頼む」
 火影代理とナルト担当医療忍者が、捕虜の了解を取っている。第三者が見たら、ずいぶんとおかしな光景だろう。だが、それはつまり、違和感を感じているのがサスケ一人ということなのだ。そしてカカシとサクラは、サスケの勘をないがしろに出来ない。今は虜囚とはいえ、忍としてのサスケには一目も二目も置いているのだ。
 サスケは心ばかり、頭を下げた。

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