エアケントニスの怪物:12

12
 
 
 じっと息すら潜めていたサスケが、不意にまばたいて大きく深呼吸した。静止していた体が徐々に弛緩し、ずるずると椅子に座り込む。
「…サスケ君…?」
 体を支えていたサクラが小さく声をかける。写輪眼は閉じられ、黒い硝子のような目が上がった。
 何をしていたのか。
 時間にして十数秒、微動だにせずサスケは写輪眼でナルトを注視していた。傍目には幻術戦のようにも見えたが、そうではないのだろう、としかカカシにも分からない。
 サクラに縋っていた手が離れ、その指がナルトを指した。
「…起こせ」
「え?」
 サクラは戸惑って、大丈夫なのかと専門医を見た。専門医はカカシに促されると、リクライニングシートに横たわるナルトに近付き、上から覗き込んだ。
「…眠ってますね」
「はあ?」
 サクラは素っ頓狂に声を上げた。
 いつの間に。
 催眠療法は、その特性ゆえに対象者が眠気を催すことがある。だが対話を通しての療法だ、本当に眠らせてしまっては意味がない。実際、専門医の質問にナルトは答えていた。途中で目を開き、サスケを見もした。サスケと見合っていたのだ。
 サスケの静止が解け、それに気を取られた隙に?
「…大丈夫だ。叩き起こせ」
 サスケはどうやらサクラに言っていたようだ。腕を押されて、サクラはナルトへ歩み寄る。
 本当に眠っている。
 サクラは顔をしかめた。忍が、これだけの人数に囲まれた中で、健やかに眠っているのだ。だがそこで気付いた。昏睡から目覚めて、ナルトは恐ろしいまでに神経質だった。入院中も、サクラが病室に入るよりずいぶん早く気配に気付き、必ず警戒するようにこちらに目を向けていたのだ。
 サスケを振り返る。
 何も返事はなく、もう一度促されることもない。だが、つまりサスケによって、ナルトは記憶を取り戻したのではないのか? サクラはコツコツと、金髪の頭をノックした。
「…ナルト?」
 そっと窺うように呼びかける。
 反応はない。
「ナルト」
 顔を近付け、強めに呼びかける。
 ううん、とナルトはむずがるように唸った。サクラは目を見開いた。
「ナルト!」
 肩を揺する。その背後でカカシが笑った。
「サクラ、生ぬるいんじゃない?」
「そうですね」
 サクラは何やら嬉しくて、ナルトの胸倉を掴み上げると、右の拳を振りかぶった。
「起きろっつってんのよ、ナルト!!!」
「ッ、俺はカマボコじゃねーってばよー!!!」

 インパクトの寸前、目覚めたナルトの第一声だった。
 

*     *     *

 
「ナルトとカマボコは別モノであって…って、あれ? サクラちゃん…?」
「…あんた一体どんな夢を見てたのよ…」
 寸止めした拳から力が抜けて、サクラは呆れた声で言った。ガードする腕の隙間からサクラを認め、ナルトはきょとんと見上げる。
「あれ? 伊達巻きは?」
「だから何の夢だっつうの」
 サクラの口から盛大なため息が漏れるが、そのほとんどは安堵からのものだった。
「記憶…戻ったのね」
「え、記憶?」
 全く要領を得ない様子に、サクラは驚く。
 今度は記憶を失っていたことを覚えていないというのか。おかしな夢の内容はともかく、精密検査が先だろう。
 先生、と振り向いた先に、しかしサスケがいないことにぎくりとする。カカシは人差し指を口元に当てていた。サクラは何も言えなくなる。見れば、カカシ以外の上忍の姿もない。
「いやあ、良かったね、ナルト」
「カカシ先生」
 まるで普段と変わらず、むしろ『里の英雄』と呼ばれる以前のような様子に苦笑する。自分が半年もの間意識不明だったことなど、想像もしていない顔だ。
「お前ね、記憶喪失だったんだよ」
「はあ?」
「何と四週間も」
「はあぁ!?」
 狐につままれたような、とはこのことだろう。口を開けてカカシを凝視し、次いで助けを求めるようにサクラを見る。
 サクラは「本当よ」と首是した。
「火国の専門のお医者様がわざわざ来てくれたんだ。お礼を言いなさいね」
 話を振られた専門医が、気まずそうに会釈する。ナルトは訳の分からないまま「ありがとうございます」と首を傾げた。サクラの表情は硬い。カカシが故意にサスケの名を出さないのは理由があるはずで、それは恐らくサスケ自身の希望であることが簡単に窺えたせいだった。

「会わなくても良かったのかい?」
 サスケの後を追って、立ち会いの上忍もするりと病室を抜け出した。記憶が戻ったのなら、ナルトはカカシとサクラに任せておけばいい。そもそもは写輪眼の監視要員だ。
 記憶の戻ったナルトと、つまりは七ヶ月ぶりに再会しなくても良かったのかと、ヤマトは憂鬱そうな横顔を覗いた。
「必要ない」
 見返すこともせず、サスケは短く答える。
 直後、不意に足を止めると顔をしかめ、目を閉じた。苦痛をやり過ごすように額を指で押さえ、歯を食いしばっている。彼の目は相当疲弊しているのだ、とヤマトは様子を見守った。
「…歩けるかい?」
「ああ…」
 弱く息を吐き出す。波が去ったのを見て取ったヤマトが促すと、サスケは意外にも支えを受け入れ、ゆっくりと歩き出した。その目は閉じられていた。
 物のように下がる腕を見る。
 手錠は、手首に当たる部分に綿をあて、柔らかい皮で覆っている。動きを制限する短い鎖は、しかし冷たく重い。歩く度に微かに音を立てている。サスケは態度こそ尊大だが、反抗或いは抵抗といった素振りはまるでない。それが、反対にヤマトには奇妙に映る。
 ここへ来る前にカカシに言われた通り、病院から離れ、サスケを収容施設の地下牢へ誘導する。ナルトの記憶が戻った時点で、サスケを一旦牢に繋ぐと伝えられていた。カカシが自分に全てを話していないことを、ヤマトは察している。だが、それを火影代理に問い質すことはしていなかった。
 サスケは自分が牢に繋がれることを、予め知っていたようだった。
 檻の開閉の耳障りな音が聞こえても、中へ誘導され壁からぶら下がる長い鎖に手錠を繋がれても、サスケは一言も発しない。
「包帯を巻くよ」
 目を閉じたままのサスケをベッドに座らせ、ヤマトは事務的にその目を覆い隠した。彼は自らの処遇が決まるまで、ここに繋がれるのだ。
 逃げ出す隙はいくらでもあった。
 昏睡から目覚めてある程度回復し、彼にしてみれば監視とも言えない病室での監視、ましてや記憶を失ったナルトの監視など───写輪眼を持つ者であれば脱走はたやすいはずだった。それを、ただ漫然と指示されるままに従い、写輪眼の使用すらカカシに委ね、自らのためには開こうとしない。恐ろしいまでに従順だ。
 本当に思い直してそこにいるのか。
 何もかも諦めているのか。
 本復した際に本性を現すのか。
 何か別の布石なのか。
 ヤマトに判断は付かなかった。
 

*     *     *

 
「何でだってば!」
 扉の向こうが騒がしい。
 檻の内と外で、サスケとカカシは声の方向を向いた。廊下の突き当たりの扉だ。
 思ったより早かったな、とカカシは頭を掻いた。もう少し細かく聞いておきたかった。だがナルトの方も、記憶が戻ったのであればどうしたって、サスケのことを気にするのだ。それは恐らく、この里で誰よりも強く。
 ふと、笑う気配にカカシは牢の中を見る。
 サスケが笑っていた。
 たぶん苦笑だ、だがカカシは眉をひそめた。
 ナルトの精密検査をサクラに任せたのち、カカシはここを訪れた。ナルトの記憶が戻ったら牢に繋げ、と言ったのは誰あろうサスケ本人だ。ナルトに引き続き監視任務をさせるというのも一つの手だと思ったが、記憶が戻ったのなら通常任務に戻したいのも本音だった。木ノ葉は人手不足だ。そして、サスケの体が回復しているのなら、病院での『監視』は不自然に映る。
 どんな監視も体裁でしかない、とサスケは理解している。牢に繋げ、というのもその上でのことだと、カカシは了解したのだ。
 何をどうしてナルトの記憶を蘇らせたのか? だがサスケは「九尾の封印が外れかかっている」とだけ言った。
「…それが記憶喪失の原因?」
「ああ」
「泥は何だったの」
「単なるイメージだ」
 腑に落ちない。だがサスケは、それ以上のことは分からないと言い切った。
 ヤマトは、彼が何を思うのか分からないと言った。諾々と従う理由が分からないのだ、と。カカシは、それをナルトに拠るものだと思っていた。結局は土壇場でナルトを助けた、それがサスケの答えなのだと。
 なのに、今の苦笑には素直に同意できないのは何故だろう。
 今までを考えれば、あまりにも打ち解けすぎている印象なのだ。
「サスケ!!」
 扉の向こうの声。
 その存在を求める声だ。言い争う声と物音、カカシが許可を出すより早く、その扉は乱暴に開かれた。
「カカシ先生! 何でこんなとこにサスケを」
「まあ落ち着きなさいよ」
 ナルトの背後にはサクラまでいる。サクラは、伝えてあった事情をナルトに話していないのだろうか? いや、事情を知ったとしても同じなのだろう。
「サスケ…!」
 ナルトは追い続けた人物を牢の中に認め、しかしおずおずと近寄った。檻を掴み、簡素なベッドに腰掛けるサスケを見つめる。
「よう、ナルト」
「サスケ」
 手錠もさることながら、その目を覆い隠す包帯に、ナルトの手に力が籠もる。
 手が震えている。唇が戦慄く。
 この四週間の記憶が消えたのは幸いなのかも知れない、とカカシは思う。ナルトはもちろん、サスケも四週間前はやつれた怪我人だったのだ。だが、今ナルトにしてみれば、あの戦いから目覚めた次がこの状況だ。
「先生、サスケをここから出してくれってばよ」
 サスケから目を離さずにナルトが言う。
「俺ってば、二週間ずっとサスケの監視任務してたんだろ? 俺の記憶が戻った途端にコレはねえってば」
「そうは言ってもね」
「俺が監視してる時は外にも出られたんだろ!? 任務続行するってばよ!」
 予想と全く違わないナルトの主張に、カカシは曖昧に笑った。
 彼らの引率をしたカカシとしては、ナルトの主張は優先してやりたい気持ちが大きい。だが火影代理を務める身としては、回復を遂げたナルトを遊ばせておく訳にはいかないのだ。
「聞き分けろよ、ドベ」
 さも可笑しそうに、サスケが口を挟んだ。
「俺は元々牢に入れられる予定だったんだ。監視任務ってのはな、お前のリハビリだったんだぜ」
「サスケ」
「俺に逃げる気はない。お前のリハビリに付き合ってやっただけだ」
「逃げる気がねーなら、こんなとこに入らなくても同じじゃねえか!」
「形式ってのは大事だろ。仮にも捕虜だぜ」
 サスケの言に淀みはない。恐らくは、用意していた科白なのだろう。サクラはそれを黙って横から見つめている。今ナルトを諫められるのは、サスケ本人なのだから。
「お前、まさか分かってなかった訳じゃないよな。抜け忍を連れ戻せばどうなるのか」
「…ッ、それは…」
 サスケは挑発するでもなく、穏やかとも取れる声音でナルトを諭す。ナルトはもどかしげに眉を寄せた。
「安心しろ。俺はもう木ノ葉を抜けたりしない。捕虜のままだろうと一生牢の中だろうと、赦されて出られようと関係ないんだ」
「サスケ…」
 ナルトとサクラの顔が不安に翳った。
 もう里を抜けない、それは彼らの望む言葉だったはずだ。サスケは笑っていた。
「お前…何で…」
「どうした。何か気に入らないのか? 信用できないなら、両足を切り落としたっていいんだぜ」
「サスケ!」
 目を隠されているせいで、その笑みの真意が見えない。
「印を結ぶのが怖いなら、両手を切り落とせばいい。写輪眼が怖いなら取り出していい」
「やめろよ、サスケ!」
 ナルトは叫んだ。
 サクラは青ざめている。サスケ一人が、ただ穏やかに口角を上げていた。カカシは腕を差し組んで、様子を見守る。サスケには、今吐き出させた方がいいのかも知れない。
「どうしたんだよ、ナルト。俺は帰ってきたんだぜ。それくらいの覚悟は出来てる」
「だからって、そんな自暴自棄なこと言うな!」
 本来、サスケは自分の意志で帰ってきたつもりはないだろう。殆ど死にかけた状態で、意識もなく連れ帰られたのだ。目覚めてそこがどこだか悟った時、予感はしていたという顔ではあったが。
「…お前は注文が多いな」
 だがサスケは微笑を崩さない。
 お前のためにここにいるのに、と囁くのを、ナルトは信じられない思いで聞いた。
「…え?」
「お前が言ったんじゃないか、あの時」
 あの戦いの時?
「俺のいない木ノ葉で火影になっても意味がないって」
 ナルトの唇が震えた。
「だ…だから帰ってきたとでも言うのかよ…!」
「ああ。俺の負けだったからな、仕方ない」
 何をもって『負け』と認めたのか、カカシには分からない。二人ともが意識不明の重傷だったのだ。程度で言えば、確かにサスケの方が深刻ではあった。だが、命を永らえたのであれば、サスケにはいくらでも反撃のやりようがあるのだ。死など厭わない復讐者、もはや木ノ葉に迎合することなどありえないと思わせられた。目覚めたサスケを見るまでは。
「ナルト」
 おとなしく治療を受け、以前と変わらないように接するのは、憑き物が落ちたせいだと思ったのは早計だったか。
「お前の望むようにしてやる」
「サスケ」
「俺はお前のためにここにいる」
 ナルトのため?
(…ナルトのせい、って聞こえるね)
 カカシは暗澹とサスケを見つめた。
「早く火影になれよ、ウスラトンカチ」
 サスケは子供を宥めるかのように穏やかに、甘やかに、言葉を紡ぐ。ナルトは愕然と目を見開いて、自分が取り戻したはずのものを凝視していた。
 ナルトの問題が片付いたと思えばこれか。
 カカシは二人を促すと、地下牢をあとにした。
 

*     *     *

 
 慟哭が聞こえる。
 広げた巻物から目を上げ、神経を凝らすと、その先に檻が見えた。自分の入っている、この檻ではない。ナルトの見ている景色だ、と気付く。
 その中にサスケがいた。
 こちらを向いて、笑っていた。
 ああ、檻の中だ。
 己と同じ。
 慟哭はナルトだろうか。
 彼はサスケに微笑み返した。

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