エアケントニスの怪物:11

11
 
 
 お前、そうか、お前は。
 そう呟いてナルトを見つめ、ぴたりと静止してしまったサスケを、訳も分からずサクラは見上げた。強い力で腕を掴まれ、支える格好のまま身動きが取れない。助けを求めるようにカカシを見るが、「そのまま」とでも言うように掌を示されて、サクラは支える手に力を込めた。火国から来た専門医も、カカシに制され立ち上がり、無言のまま後退する。
 サクラはナルトに目を向けた。
 ナルトもまたサスケを見つめたまま身じろぎもしない。恐らくはサスケを支えるサクラのことなど、目にも意識にも入っていないのだろう。
 カカシがヤマトを見る。
 ヤマトは小さく首を振った。
 見守るしかないのだ、とサクラは理解した。
 

*     *     *

 
 暗く密やかな通路だった。幾つもの部屋の扉、通気孔と配水管。現実に存在しうると思わせられる、廃墟のようなビルの屋内。血と肉の泥を捌きながら歩く。
 以前も訪った場所は、今はその泥で満たされていた。
 冷たく、重く、おぞましい泥。
 辿り着いた巨大な檻はひしゃげ、天井高く貼られている封印が剥がれかけていた。その奥に、泥に沈みかけながらたゆたう金髪を見つける。
「…ナルト」
 呼びかけは、はたして通じる。
 背後に気配が現れて、サスケは緩慢に振り向いた。だがそれは、檻の奥でたゆらに浮かぶ人物ではなかった。
「サスケ…」
 ナルトは、いや、ナルトの姿をしたものは、途方に暮れた顔で周囲を見回した。ああ、と遣る瀬ない仕草で泥を掻く。
「ここは…」
 覚えていないのだ。
 覚えていれば、ナルトの姿など取らないだろう。サスケは檻を見上げた。
 こんな檻でなければ封じ込めておけないもの。だが、人の形であれば、その大きさゆえに素通りできる。
「お前がいた場所だ」
 サスケは簡潔に答えた。
 不可解そうに首を傾げ、不安そうにサスケを見返す。
「…こんなところに、己は…」
 泥を掬い、顔を歪める。
「お前、どうやってここから出た」
 封印は剥がれかけているとはいえ、檻自体はそのまま存在していた。ナルトの姿でなければ通りようがなかっただろう。封印は、記憶をなくした九尾を九尾と認識できなかったということか。
「…声が、聞こえて…」
「声?」
「もがいていたんです。…たぶん、この泥の中で」
 そうしたら、誰かを呼ぶ声が聞こえた、と言う。
「…あの人の、声だった」
「どの人だ」
「担当医の…」
「サクラか」
 はあ、と気のない返事をする。
 そういえば以前、彼はサクラを指して「朱鷺色の」と表した。ナルトが知っていたとは思えない言葉だった。そう、サスケの目を案じた時も「この目(まみ)が」と。
「…誰かを、呼んでいる声なのだと、気が付いて…。もしかして己が呼ばれているのか、と…思って」
 言いながら檻に近付き、その一本を握る。何度か確かめるように力を込め、がりりと爪を立てると、彼はため息をついた。
「ああ…たぶん、己は、ここにいた」
 それを聞いたサスケは短く嘆息する。
 呼ばれ、応え、ナルトの代わりに目覚めたお陰で彼はナルトの形を得たのだ。
「あれは」
 ふと、檻の奥に漂うものに気付いた彼が、うっそりと呟いた。サスケは答えた。
「ナルトだ」
「…ナルト」
 あれが、と。
 絶望的な目が、泥の波間に見え隠れする金髪を見つめた。呼ばれていたのは己ではなかった、と彼は悟った。
「…おい」
 四週間、ナルトだと思っていたものはナルトではなかった。サスケにはもはや彼を『ナルト』と呼ぶことは出来ない。そして彼もまた、違和感を抱き続けてきたその名に振り向くことはしないだろう。
「お前、まだ俺に従う気はあるか」
 憔悴したまなざしに、あえて突き放すように問う。どう答えたら良いのか分からない、という顔が向けられるのを見て、サスケはナルトを指さした。
「あれを俺によこせ」
 示す先を茫洋と見つめ、彼は黙って檻をすり抜け、中へと入った。泥は重く彼を阻む。だが彼は、サスケに従いナルトを目指した。
 息を切らせて辿り着いた先のナルトは、ただ眠っているだけなのだろうか。このおぞましい泥の中で、脳天気とも取れる寝顔を晒している。自分と同じ姿かたちを持つナルトを見下ろして、彼は気持ちが暗く沈んだ。
 自分と同じ、なのではない。
 自分が同じ形を取ったのだろう。
 サスケが求めるのは自分ではなくナルトなのだ。自分はこの眠るナルトに敗北したのだ。一体何がどうして、己はこんなことになったのか。それはたぶん、サスケが知っている。彼はナルトの襟首を掴むと、泥の中を引き返した。

 酷く時間がかかっているように思える。
 だがサスケは、記憶を失っている彼をある程度、信用している。ただ静かに待っていると、やがて彼の姿が鮮明になってきた。その右手にナルトを引きずっている。
 檻の隙間を何の問題もなくすり抜け、泥の中引きずってきたナルトをサスケに引き渡す。サスケは黙って受け取り、それを肩に担いだ。不安なまなざしが泥に落とされた。
「…あなたは、己が誰なのか、知っている…のですか」
「ああ」
「己はナルトではない、そうなのですか」
「そうだ」
 俯く彼は、そうしていれば気落ちしたナルトそのものだ。不思議と通じるところもある。だが彼は、もちろんナルトではありえない。
「己は…誰なのですか」
「名前は知らねえ」
 サスケは、隠すことはしなかった。
「だがお前は『九尾』と呼ばれている。妖狐だ」
 分からない、という顔が上げられた。
 その仕草はまるで子狐だ。サスケは、だが笑わない。妖狐といえども、初めから成体だった訳でもないだろう。彼は記憶をなくして、子供に返っているのだ。
「…お前は、ここにいろ」
「…それは、己が、九尾だからですか…?」
「そうだ」
「九尾だと、ここに…いなければならない、のですか」
「そうだ」
 不安の顔で、眉間がきゅっと寄せられた。記憶のない彼には理不尽なことだろう。
「…お前は、出ようと思えばいつでも出られる」
 こんな状態では。
 実際、ナルトの代わりに出てきていた。彼がその意志を持つのであれば、彼は自由なのだ。だが彼は、ふと気付いたように檻を振り返り、そしてサスケを見た。
「あなたと、同じように?」
 意味のない拘束。
「…そうだ」
 出ようと思えば出られる檻、そう言ったのはまさしく彼だった。
「…あなたは、火影代理に…命じられて、そうして囚われているのでは、ない…?」
「違う。俺の意志だ。俺は自由だ」
「…」
 じっとサスケを見つめ、彼はその頬に手を伸ばした。そっと触れ、いつかもしたように親指で目の下を撫でる。写輪眼の赫を、九尾の赤が見つめていた。こうなってすら尚、彼の触れ方は慎重で優しい。これが九尾の本質なのだろうかと錯覚しそうだ、とサスケは思う。
 いや、ただ、彼にとってサスケの写輪眼が特別だというだけなのだ。今の彼にとって、サスケ以外の人間に価値はない、それだけなのだ。
「…あなたに、従う」
 彼は言った。
「己は自由だ。誰に従うかも、誰にも従わないかも、己の自由だ。だから…己は、あなたに従うことにする」
「そうか」
「サスケ、己は以前にも…ここであなたと会ったことがあるのだろうか」
 会った。
 サスケがじっと見返すと、彼は得心がいったように苦笑した。
「その時も…己はあなたに『ここにいろ』と、言われたのだろうか」
「…ああ。言ったな」
 あの時のことだ。ナルト共々意識不明となる、あの戦いの時のことだ。表に出てきた九尾に「帰れ」と言い、頭を押さえつけ、写輪眼で力任せに従わせた。この檻へ押し戻し「お前はそこにいろ」と命じた。
 その時に九尾が屈したのかは、全てを使い果たしたサスケには分からない。だが今の九尾は、自らの意志でサスケに従うのだ。記憶が戻っても従うのか、果たして。
「…俺の他にも、写輪眼は存在する」
 頬に触れる指を払うこともせず、サスケは切り出した。
「写輪眼はお前を従わせる。俺とは違うことを命じる奴もいるだろう。それでも俺に従うのか?」
 うちはマダラが脳裏を掠める。
 かつてここで初めて九尾と対峙した時、その名を聞いた。彼が畏れるのはサスケではなくマダラではないのだろうか? 彼が従うのは、本来サスケではなくマダラではなかったのだろうか?
「己が従うのは…あなただ、うちはサスケ」
 何かを察した彼は、触れる指先に力を込めた。
 記憶が戻った時にもそう言えるのだろうか? だがサスケは口を噤んだ。問えば彼は逡巡なく誓うだろう。が、今それを誓わせるのは無意味だ。
 彼の手がサスケの頬を離れる。
 従う、と言ったはずの彼の目が、全て諦めたように再び泥に落とされた。そのままサスケに背を向ける。
 檻に向かう。
 彼は黙ってその中へ身を進めた。振り向いても、やはり視線は落とされたままだった。サスケは彼をひたと見つめ、そして泥を見た。
 腐敗した血と肉。
 これが現実のものではなく、九尾の記憶の具象であるのなら、別の形を与えてやればいい、と気付く。彼が今、ナルトの姿を取っているように。
 たとえば、巻物。
 空いた左手で泥を掬うと、一巻の巻物が掌に乗った。紐解いた中は、びっしりと文字で埋め尽くされている。小さな人間の地に逃げ惑うさま、それを踏み、摺り潰した感触。確かにこれは九尾の記憶のようだ。サスケは巻物を彼に向けて放った。
「…これは…?」
 唐突に出現した巻物に、怪訝な顔をする。
「お前の記憶だ」
 彼ははっとしたようにサスケを見、そして巻物を広げた。だが、すぐに落胆し肩を落とす。
「…読めない」
「読めたら記憶喪失じゃねえってことだろ」
 これは彼から流れ出た、九尾の記憶なのだから。
 サスケは泥に指先を浸した。
 触れた先から、泥が巻物へと姿を変える。その現象は波紋のように広がってゆく。ざらざら、と巻物が鈍い音を立てて、泥に代わって足元を埋め尽くす。彼はぽかんとその様子を見つめた。
「泥よりはマシだな」
 フン、と面白くもなさそうに、サスケは巻物の海から足を引き抜き、その上に立つ。それを見た彼も、慌てて同様に巻物の上に這い出た。
「サスケ」
 もう去ってしまうのだ、と彼は悟った。ナルトを得たサスケが、もはや自分のためにここへ来ることはないのだ、と。
 冷たい柵を握り、しかしそこから出ることはしない。
 その様子はいかにも心許ない。
 今の彼には、寄る辺はサスケのみなのだ。
 だが、彼が檻の柵を越えてサスケに近付くことはなかった。それは真実、サスケに従うと誓ったゆえのことなのだろうか? ここにいろと言うサスケに従ってのことなのだろうか? 彼はただ、そこからサスケを見つめた。
「…」
 サスケは右肩にナルトを担いだまま、彼の視線を受けていた。その顔が、ふと和らぐ。サスケの足が檻へ向いた。
 柵を挟んで向かい合う。
 彼は何かを言いかけたように薄く口を開き、しかしやがて閉じた。彼が望むものは一体何だったのだろうか、サスケは今更のように考える。妖狐『九尾』となる以前、彼は何を望んでいたのだろうか。あどけないと言っても言い過ぎではない、目の前の子狐。ナルトの姿で檻の中に立ち尽くす、その子狐。今の彼が望んだのは、サスケという写輪眼を持つ人間だった。だがそれは、自分を支配する者を欲したということとは繋がらない気がする。彼はサスケに何を望んだのだろうか。
 本当に、支配を?
 違うな、サスケは笑った。
 寂しかったのか。
 子狐は、ずっと一人で。
 彼は不思議そうに、微笑むサスケをじっと見つめた。だがサスケには、彼にかける言葉など既に持ち得ない。彼にはここにいて貰う。ナルトは返して貰う。サスケは空いた左手を、彼の頭へ伸ばした。びくり、と小さく緊張するが、彼は引かない。頭に触れる瞬間、ぎゅっと目を閉じ、サスケの手を受け入れる。
 くしゃくしゃと撫で、そのまま指先を頬へ伝わせると、彼はそろそろと目を開けた。サスケは彼がしたように、親指の腹で目の下をなぞる。


 行為を真似てみて初めて、それが親愛を示していることに、サスケは気付いた。

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