ゲシュタルトロス・フクス:1

 

  ゲシュタルトロス・フクス

 
 何だろう、気持ちいい。
 ぼんやりとする意識に侵入してくる荒い呼吸は自分のものだ。
 気持ちいい。
 これは夢なのだろう、とナルトは思う。いわゆる淫夢だ。何故なら、ナルトにはこんなことをさせてくれる相手はいない。思うさま悦楽を追って腰を揺する。そこは信じられないほどに熱く、打ち付ける度に誘うように絡みつく。白い肌。傷の痕跡。思わず舌を伸ばし、それを辿る。微かな塩の味と体温、懐かしい匂い。
「…サスケ、」
 呟いて、自分の声に驚いた。
 サスケ?
 傷跡のある胸は女ではない。
 サスケ…?
 ざわりと背筋を何かが走り抜け、ナルトは何の自制もなく達する。ああ気持ちがいい。射精と共に意識がはっきりし始める。呼吸も落ち着き始める。それに重なっていたもうひとつの呼吸が、リズムを崩したために明らかになった。ナルトは重い頭を上げた。愕然とした。
「…な…んで、俺…」
 甘くあえかな吐息、解けた白い包帯。
 その隙間から、黒い瞳が欲を孕んでナルトを見ていた。
「サスケ…」
 何て夢だ。
 サスケに俺は、何てことを。
 こんなことを望んでいたのか?
 ナルト、と吐息の隙から掠れた声が漏れる。ああ、それは、酷く扇情的にナルトの耳を犯すのだ───。
 
 

 
 
 半年前、正確には七ヶ月前。
 ナルトは死にかけた。
 激しい戦いがあったのだ。追い詰められ、途中から意識を飛ばしていたようだ。それが、身の内にある九尾を表に呼び覚ます原因だったのだろう。
 敵として現れたサスケに、もはや何を訴えても通じなかった。何よりもそれがナルトを打ちのめし続けた。
 周り中が「サスケは敵だ」と言おうとも関係ない。
 本人に「諦めろ」と言われても諦められない。
 頭では、もちろん理解していた。サスケはイタチの真実を知り、木ノ葉を見限ったのだ。そこに、自分も含まれているのだ。サスケは木ノ葉に復讐をして、もしそれが叶った時、どうするのだろう。どうなるのだろう。サスケはあまりにも生きる術を知らない。だから復讐を手放す術も知らない。
 全て終われば、サスケは死んでしまうのではないだろうか。
 終わらなくても、自分の体のことなど省みないサスケは、途中で死んでしまうのではないだろうか。
 嫌だ、叫び出したい衝動に駆られた。
 どうするのが正しいとか、そうするのは間違いだとか、そんなことではなかった。ただ、嫌なのだ。サスケが死んでしまうのが嫌だ。側にいてくれないのが嫌だ。笑っていてくれないのが嫌だ。サスケがいないところで火影になったからって、そんなことに何の価値があるだろう。お前のいない木ノ葉で火影になっても意味がねえ。お前なんだ、お前が俺にそう言わせるんだ。
 せめて、里を抜けてもどこかで笑って暮らしてくれるのであれば良かったのに。
 復讐以外に生きる方法が分からないなら、俺のために生きてくれ。

 けれど何の言葉も届かなかった。

 それでも、ナルトは心を置き去りにしてただ戦うことなど、出来なかった。殺すつもりのサスケと、連れ帰るつもりのナルト。そもそも圧倒的に不利だった。そうして不覚にも意識は途切れた。死の予感など、感じる隙もなかった。


 意識は消え失せたはずなのに、ナルトはずっと夢の中にいた気がする。長いような、短いような、幸福のような、悪夢のような。それは死の間際の一瞬に見る夢なのか、眠りの中で次々に見る夢なのか。
 目覚めた時、サクラが拳を振りかぶっているのを見て、むしろサスケが里を出たなんてことすら夢ではないかと思ったものだ。
 だが。
 自分が半年もの間意識が戻らなかったこと、そしてそれから一ヶ月を記憶喪失の状態で過ごしていたことを聞き、驚いたのと同時に「ああやっぱり」と納得した。
(俺は眠っていたんだ)
 サスケを諦めたつもりはなかった。それでも杭を打たれた心はそう簡単には癒えない。延々繰り返される夢、ふわふわと漂う幸福な記憶。
 自分の過去に『幸福』などという思い出はないのだと思っていた。それが、イルカを始め繋がりの出来てゆく仲間との時間が、『幸福』の何たるかをナルトに知らせた。幸福は、七班の中に数多く存在した。それをナルトはサクラに拠るものだと、ずっと信じていた。違った。違ったのだ。サクラとサスケだった。そして自分たちを見守ったカカシだった。自分を含め、全部で七班だった。サスケが抜けた穴は、心に穿たれた杭を抜いた痕そのものだった。幸福は杭に似ている。喪った時にこそ、その存在を主張するのだ。確かにそこにあったと主張するのだ。幸福とはこんなにも心に痛みを残すものなのだ。
 漂う幸福の記憶を夢の中で追いながら、幸福を受け入れることは傷を受け入れることなのだと、ナルトは思った。サスケという杭を、それでも受け入れたいと思った。諦めてなるものか、と。
(サスケ)
 意識不明から、いや記憶喪失から回復して、ナルトはサクラとカカシから実際を聞いた。
 サスケが戻っている。
 九尾を押し戻しナルトを助け、ぼろぼろになり、ほとんど死体となって木ノ葉に戻ってきた。奇跡的に一命を取り留め、三ヶ月ほどの意識不明から醒め、今は日常生活に支障のない程度にまで回復していた。ナルトは記憶喪失の間、サスケの監視任務を兼ねてリハビリの手伝いをしていたのだった。
(サスケ)
 帰ってきたのか。
 どうして。
 嬉しいはずなのに不安が掠める。
 サクラははっきりとは言わなかったが、記憶喪失すら、解決したのはどうやらサスケのお陰らしい。九尾を抑え込み、失われたナルトの記憶すら取り戻す。敵となっていたはずのサスケが、何故。思い出せないだけで、何かがあったのだろうか。
 大きな杭を失い、その深淵を覗き込み、他へ目を向けることを頑なに拒んだサスケが。里に戻されたことを受け入れ、火影代理となったカカシの指示に従うというのは、どんな気分なのか。
(…サスケ)
 もちろん、帰ってきてくれたからと言って、里抜け以前と同じようにいなかいことはナルトにも分かる。
 だが、それにしたって。
 自分が記憶を失っている間は比較的自由だったサスケを、記憶を取り戻した途端に牢に繋ぐというのはどういう了見だろう。まるで、ナルトの記憶が戻れば用はないと言わんばかりではないか。
 そんなバカな話はない。
 乗り込んでいった先で、しかしナルトは打ちのめされた。
 サスケは笑っていた。
 檻の中で、手錠に繋がれ、目隠しをされて笑っていた。チャクラを封じられている訳ではないなら、その手錠を壊せばいい。檻を壊して出ればいい。そんな包帯は外せばいい。帰ってきたと言うのなら、それらは必要ないものだ。
 だがサスケは、笑ってそれらを受け入れていた。
『お前のためにここにいるのに』
『お前の望むようにしてやる』
 それは───おかしい。
 そんなことをサスケに要求したのではない。笑っていてくれたらいい。確かにそう思ったけれど、牢に閉じ込められてそんなふうに笑うのは、何かがおかしい。
 声に棘はない。
 その笑みは穏やかだ。

 それは意図を持った杭だ。

 ナルトは胃の奥底からこみ上げる慟哭を飲み込んだ。両手両足を切り落とし、両目を抉って構わないとサスケは言う。そんなものは覚悟とは言わない。呪詛だ。サスケは何も許していないのだ、とナルトは思った。
 

*     *     *

 
 記憶を取り戻した日以来、ナルトはサスケの牢へ近付くことを止められていた。
「お前ね、それでサスケに何を話すって言うの」
 はっきりと禁止された訳ではない。ただ、難色を示される。
 カカシはナルト同様、サスケの言動を憂慮していた。だが、それは七班を預かるカカシ個人としての域を出ない。
 表面的、いや全面的にサスケは里の方針には逆らっていないし、こちらから要請しなければその目すら開かない。チャクラを練ることもなければその腕力を振るうこともなく、枷のない足で逃げることもない。いわゆる模範囚だ。
 昏睡から目覚めて四ヶ月、サスケはその姿勢を崩さない。始めは緩い拘束を糾弾する声が多かったが、今ではほとんど聞かれない。瀕死のサスケの神妙な態度が浸透するに従って、ナルトを助けたという事実が彼の減刑を許容する空気が里に漂い始めていた。更に、ナルトの記憶喪失までも、その写輪眼で解決したのだ。都合で牢に入ったことも、模範囚の従順さだと人の目には映った。
「…話したいことなんか、たくさんあるってばよ」
 サクラは、すぐに気を取り直していた。
 サスケの主治医でもある彼女は、今も毎日牢へ通っている。サクラの前では、それまでと変わらないのだと言う。それまで、というのは、昏睡から醒めて以降のことだ。木ノ葉で虜囚として、しかし態度は横柄な昔のまま。戒めるものがなければ、里抜け前とほぼ違いはないと言う。だが、誰に何を言われても、逆らわないのだ。サクラはそれを試すようなことはせず、またその片鱗が見えてもあえて無視していた。
 ナルトは記憶を取り戻してすぐ、通常任務に復帰した。下忍とはいえ、暢気なランクの仕事ではない。それなりに手間のかかる任務で、上忍や中忍で構成される班に組み込まれることがほとんどだ。2~3日戻れないことも多い。それでも、九尾の封印が外れかかっていることで、長期の任務には出されていない。
 封印について指摘したのもサスケだ。
 オリジナルの封印は下手にいじれない。だがサスケは、しばらくは放っておいても問題ないと言い切った。いざという時、手に負えなくなる前であれば、ヤマトが何とか出来る。ヤマトで駄目ならサスケがいる。
「まあ…どうしてもって言うなら止めないけどね。くれぐれも、勝手に牢から出したりしないように」
 ナルトは返事をしなかった。
 鍵を開けても、サスケは出ない。容易に想像がついた。


 普通、囚人の殊勝な態度は減刑を期待するゆえだ。または、監視を油断させ逃走を図るため、というのもあるだろう。
 だがサスケは今のところどちらの兆候も見られない。極刑で構わないと言うし、逃走の意志も見られない。二度と木ノ葉から抜けないと宣誓し、体力の回復してきた今になっても、漫然と牢の中でベッドに横たわるのみだ。まさか里抜けを悔いているとも思えないのに。
「…サスケ」
 廊下の端の扉を開ける音にも、近付く足音にも気付いていないはずはない。なのにサスケは、そうして呼びかけられるまで横になったままだ。
「ナルトか。どうした?」
 包帯に隠された目は、それでも顔を向けることで、見えているかのように錯覚する。
 体を起こしてベッドに腰掛ける格好で落ち着くのを待って、ナルトは檻に歩み寄った。細いが頑丈な鉄の檻。だが、ただそれだけの檻。
「…どうした。何か用があるんじゃないのか?」
 それで何を話すって言うの、カカシの声が蘇る。全くだ、ナルトは自嘲した。かける言葉など何も思いつかずに立ち尽くすナルトに、サスケの方が問いかけた。
 ない、と小さく返した。
「ない?」
「別に、用なんか…ねえってばよ。ただ、会いたいから…来ただけだ」
「何だ、確認か」
 確認?
 サスケは笑っている。何を確認すると言うのだろうか。サスケの何を確認しに来たと思っているのだろう。
「お前、もう任務には復帰したんだろ。サクラが言ってた」
「…ああ」
 サスケはサクラとは、毎日話をしているのだ。何の話をしているのだろう。ナルトは顔を俯けた。
「忙しいんじゃないのか? こんなところに来る時間があるなら、ちゃんと休めよ」
「休んでるってば。俺が来たら迷惑かよ?」
「別に迷惑とは思わない」
 保護者のようなことを言うサスケに、ナルトは神経がざわついて仕方ない。こんな奴だっただろうか。人の心配はしても、こんなにはっきりと口に出して言うタイプではなかったはずなのに。作意を感じる。
 話したいことなら山ほどある。
 サスケがいなくなってから、色々なことがあった。だがその大部分が、サスケの不在ゆえの出来事なのだ。それを話すのであれば、まるでサスケを責めているように聞こえはしないだろうか。何を話すって言うの、カカシはそのことを指摘していたのだ。
「そんなに心配しなくても、俺はここにいる」
「…心配…?」
 何を言っているのか。
 肺がざわめく。呼吸がしづらいのは何故だろう。ナルトはサスケをここから出してやりたいのだ。なのにサスケは、ここにいるから心配するなと言う。
 何故だ。
 何だ、確認か。
 何の確認だ。
 サスケがそこにいるという確認?
「ナルト、お前、体はもういいのか」
 サスケの口が滑らかに動く。
 体?
「…完璧だってばよ」
「フン…昔から回復が早いのだけが取り柄だったな」
 サスケが笑う。
「お前はどうなんだってば、サスケ」
「日常生活に支障はない程度だ」
 日常生活というのは、牢に繋がれている今の範囲ということだろうか。
「…お前の方が、重傷だったんだろ」
「らしいな」
「…ごめん」
「何が」
「俺を助けたせいで…そうなったって聞いた」
 重傷、というレベルではなかったのだと、サクラから聞いた。ほとんど死体だったのだと。臓器を繕い埋め戻し、ちぎれかかった四肢を縫い合わせたのだと。意識が戻ってからしばらくは、目も利かなかったと。
 なのに、サスケは笑うのだ。
「それを言うなら『ありがとう』だろ」
「…」
 ありがとう、だって?
 ナルトは檻を握り締めた。歯を食いしばるせいで言葉が出てこない。
「何が、ありがとう、なんだってばよ…!」
 ようやく絞り出した声は、みっともなく裏返った。情けない自分の声に、ナルトは余計に惨めになる。拳が震えるほど握った鉄柵をぎしぎしと揺さぶり、本当はお前の肩を揺さぶって質したいんだと思う。
「おま、お前、今そうやって、生きてるからいいけどなあ! サクラちゃんたちが優秀だから、生きてるけどなあ! 普通なら…ッ、死んでるんだぞ、お前ッ!!」
「ああ、そうだな。俺は運が良かった」
 サスケは笑っている。
「そんなんで…! そんなんで『ありがとう』なんて言えると思ってんのかよ! お前を犠牲にして『ありがとう』って、何だよ、それッ!!」
「もし死んでいたとしても…感謝しとけよ。俺はお前が九尾化して里を滅ぼすのを、阻止したってことになるんだからな」
 木ノ葉がなくなったら火影もない。暗にそう示唆されるが、感謝すべきは里の連中の方だ、とナルトは思う。
「…そうじゃねえよ」
 俺が嫌なんだ、ナルトは涙で滲む先のサスケを見た。
「お前が死ぬのが嫌なんだ」
 サスケは笑っている。
 サスケは笑っていた。
 穏やかにも笑っていたのだ。
「大丈夫だ、ナルト」
 何かを、間違えたのだろうか。

「死体でも何でも、俺が木ノ葉にいればいいんだろう?」

 あんなにも望んだサスケの笑顔が、酷く遠かった。

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