ゲシュタルトロス・フクス:25

25
 
 
 空気は柔らかく、水は温む。
 ずっと以前から季節は春だった。ただ、それに気付く余裕がナルトになかっただけだ。休みを合わせてくれたサクラと並んで歩く。それは病院へ続く道だ。サクラは自分が休みであろうとも、そこにサスケがいるのなら面会と称して病院へゆく。大抵はそのまま呼ばれて、なし崩しに彼女の休みは消えるのだ。それを知っているナルトは、途中遊歩道に置かれたベンチにサクラを促した。
「カカシ先生は入院しねえの?」
「いくら言ってもダメ。聞いてくれないの」
 明るい陽光を受ける木々、葉影に覆われるベンチは格好の休憩場所だ。
 サスケが封印の檻から戻ったのち、カカシは過労で一度倒れている。熟睡というよりは意識不明のレベルだったのだが、点滴で回復すると執務に戻ってしまった。
「信じられる? 先生、ここ数ヶ月まともにご飯食べてないの。ほとんど兵糧丸で済ませちゃってるのよ」
「ええ? そんな、戦闘中でもねえのに兵糧丸って…」
「食事の時間を削って仕事、睡眠も削って仕事じゃあ倒れるのも当たり前じゃない? それで五キロ痩せちゃったーなんて羨ま…じゃない、その程度で済んでるのはさすがだけど」
「…」
 ナルトは地面に揺れる梢の影を、見るともなしに眺めた。
「…綱手様、復帰するそうよ」
「ばあちゃんが!?」
「まだ意識を取り戻したばっかりで、もう少し先になるって話だけど…」
「…じゃあ」
 一瞬顔を跳ね上げたナルトだが、同じく地面にゆらめく模様を眺めるサクラに口を噤んだ。
「ええ。カカシ先生は火影に就任しない」
 サクラの言いたいことはナルトにも伝わった。木ノ葉が『うちは』に正式に謝罪する、という最大の機会を失ったのだ。
「先生、一番大変な時に『火影代理』しちゃったわね」
「…たぶん恩赦もねえよな」
「そうね」
 今のサスケはただの『サスケ』だった。うちは姓は剥奪されている。
 サスケの判決は、結局のところ『うちは姓の剥奪』と『写輪眼研究への協力』、そして『強制労働』となっていた。写輪眼研究を続ける上で、また強制労働のスムースな遂行にあたり、マダラから回収してあったイタチの目を移植している。
 あの日───。
 ナルトがサスケ誘拐未遂で捕まり、足の切断という刑が執行されるとした日、最終的な試験が行われたのだ。自分の不在時に刑が執行されると思い込んだナルトが、病院からサスケを攫う。『木ノ葉の英雄』とまで言われたナルトがその判決に反対し、理性的とは思えない行動に出た。それに際し、サスケは抵抗の意志を見せる。誘拐犯であるナルトの説得を不可能と悟り、チャクラの使用を禁じられていたにも拘わらず火遁を使い、これを退けた。サスケに里を抜ける意志がないことは、はっきりとここで確認された。
 カカシはそこで、上層部の議会を招集していた。サスケの処遇の審議中から届いていた減刑嘆願、判決を下してからの減刑嘆願署名・書状と面会記録を積み上げた執務室で、カカシは彼らを待ち受けた。精神的に追い詰められたナルトによる誘拐未遂事件は、もちろん伝えた上の招集だ。
『記憶喪失だった間のナルトは九尾であった可能性が考えられます』
 非公式の会議で、カカシは開口一番そう告げた。単にサスケの判決について審議し直す、という議題だろうと思っていた彼らは虚を突かれた。
 サスケに足止めされたナルトに追いついた時の状況を、カカシは隠さなかった。
『サスケは多重人格障害だと言いましたが、あれが記憶喪失の九尾と考えるとつじつまも合います。サスケがそれを誰にも話さなかった訳も分かる。危険が大きすぎますからね』
『九尾はどうやらサスケには絶対服従のようですから、今のところは問題ないでしょう』
『問題なのは…ナルトの方でしょうね』
 もはやこの時点で問題視されるべきはナルトの方だった。
 里を抜ける意志まではなかったらしいものの、追われて逃げるのであれば抜け忍と同様だ。自分が任務で二週間里を空ける、その間にサスケの刑が執行されると思い込み、病室からサスケを連れ去った。目隠しと手枷により自由の利かないサスケではあったが、彼が自力でナルトの───誘拐犯の手から逃れたことは特筆されて然るべき事実だ。そしてそれは、サスケに里を抜ける意志がない表れである以上に、英雄たるナルトに重大な罪を犯させない意味があったのだとカカシは判断していた。
 ナルトにとってサスケの存在が重要であることは間違いない。そしてナルトを助け、里を九尾から守ったサスケもまた、ナルトの存在こそが重要なのではないのか。
『…ここで改めて、うちはサスケの減刑について審議を求めたいと思います』
 擁護派は元より、断罪派もほとんどが他国への体面さえ何とかなるのであれば、減刑を許容する流れが出来つつあった。連日悩まされる減刑嘆願の面会申請であり、届く書状であり、火影の執務室に積み上げられる署名。それらはもちろん、ほとんど里の人間によるものだ。だが他国からの、しかも政治的に重要な人物からの嘆願も少なくなかった。判決を支持する、または維持すべしという書状もない訳ではない。ただ、それを覆い尽くすほどの減刑希望が押し寄せている。
 そこで、カカシは上層部に『試験』の提案をしたのだった。
 ナルトへの罰則として、身代わりに足首を切断することをサスケに示し、その反応を審査する。これは思いがけずナルトから提案があったことで、真実味が増す結果となった。
 果たして、サスケはナルトを庇った。
 不自由な手で意識のないナルトを守り、禁じられていたチャクラも写輪眼もその使用に躊躇はなかった。里を抜ける意志がないことも、それまで従順に指示に従っていたことも、全てはナルトのためだった。記憶を失った九尾を抱え不安定なナルト、たとえ虜囚としてでも里に居続けるのは、それを助けるためだった。カカシと上層部はそう結論づけた。
 ナルトの方は、サスケが無事であれば安定するのだと判断された。記憶のない九尾も同様である。
 諸外国へ伝えられた判決の変更は、概ね好意的に受け入れられた。反発が全くなかった訳ではないが、形式的な抗議がほとんどだった。それまでのサスケの様子と最後の『試験』の一部始終は、木ノ葉に潜んでいた間諜によって事前に伝わっていたのだ。サスケは木ノ葉の暗部による監視以外にも、あらゆる観察を受けていた。それはカカシによって意図的に設けられた隙でもある。
 ただ、タユラが九尾であることは隠されている。誘拐の現場を張られていたとしても、ナルトの別人格であると認識するだろう。
「…それで? 話って何?」
「ああ。…タユラのことは、知ってるんだよな?」
「ええ」
 サクラとサイ、そしてヤマトは、記憶喪失とされていたナルトが九尾であることをカカシから聞かされていた。
 それは強制的な秘密の共有だ。七班はサスケとタユラに関して、連帯責任を負うのだ。だが、彼らの誰も異存はなかった。
「俺…サクラちゃんに謝らなきゃなんねえことがある」
「…何よ」
 ナルトは組んだ指先を所在なげに動かしながら苦笑した。
「ずっと、呼んでくれてたのに…気付かなくてゴメン」
「え?」
 きょとんとするサクラをちらりと見て、再び地面に視線を落とす。
「俺が、半年意識不明だった時、さ」
「ああ…あの時のこと」
 意識の戻らない患者にはその名を呼びかけ続けるのは基本だった。サクラはナルトの言う意味を理解した。
「サスケに言われた。俺がサクラちゃんの呼びかけに気付かねえで、眠ったままだったから…アイツが代わりに目覚めたんだって」
「…みたいね」
「俺が…サクラちゃんの声に気付いてれば、こんなややこしいことにはならなかったのにな」
「全くだわ」
 サクラは笑う。
 サクラやサイから聞けば、いかにタユラがサスケにしか関心がなかったかが窺える。そして周囲がそれを『ナルトゆえ』のこととして受け入れてしまっていた、その事実にもナルトは苦笑せざるを得ない。七班と木ノ葉上層部以外は、タユラという名もそれが記憶喪失の九尾であることも知らない。緩やかに彼らを監視していた暗部も他里の忍も、ナルトが多重人格障害である可能性について知るだけだ。
 ナルトが苦笑いを隠せないのはもうひとつ、自分が目覚めた経緯だ。
 サクラに呼ばれても起きなかった。
 なのに、サスケに呼ばれて起きたのだ。
 ナルトは言わなければならないことのために口を開いた。
「サクラちゃん。俺、サスケが好きだ」
「…前にも聞いたわよ」
「うん、ゴメン」
 サクラへの告白に、重圧や後ろめたさなどを感じないのもおかしいだろうか。サクラを好きなのは本当だった。彼女は仲間であると同時に、ナルトの幸福の象徴でもあった。彼女を好きだと思いながら、いつしか彼女の幸福を祈っていた。その対象が自分になることがないと知っていた。サクラはサスケを愛している。サクラもまた、サスケを得られないことを思いながら、彼の幸福を祈っているのだ。サクラの献身を受けながら、サスケは何を思うのだろう。
「…サスケ、さ。なんか、勘違いしてるみたいでさ」
「何を?」
「俺とサクラちゃんがいい感じだって」
「…何ですって」
 一段低くなる声に、ナルトは慌てて手と首を振った。
「や、ホラ、あの治験の時! タユラを気に入ってたんなら、俺を起こさないで放っとけば良かっただろって言ったら! それじゃサクラちゃんが可哀想だって!」
「…サスケ君が? 言ったの?」
 険を潜めたサクラが「まさか」と怪訝に呟く。
「それで、俺…俺が好きなのは、サスケなんだって」
「…あの時ね。あんたが病院に泊まってた時」
 ナルトは頷いた。先ほどと全く同じ科白を、ナースコールで呼び出したサクラに告げた。
「俺…言うつもりはなかったんだ。あいつを好きだなんて、あいつには言わねえつもりだった。言えねえと思ってた。でもさ、あいつの中で、俺とサクラちゃんがいい仲だってことになってんのは…違うと思って」
「まあ、そうね」
「あいつは…サスケはさ、きっとものすげえサクラちゃんのことが大事なんだ」
 ゴメンな、サクラちゃん。ナルトは思い切ったように顔を上げ、サクラを見た。
「俺、昔からサクラちゃんの邪魔ばっかしてる。俺さえいなけりゃ、サクラちゃんとサスケは上手くいってたかも知んねえのに」
「あんた何言ってんの」
「ゴメン。全部言わせてくれ」
 木漏れ日の揺らめくサクラの顔が歪んで見えた。
 それでも、ナルトは止めなかった。
「サクラちゃん。俺、ずっとサクラちゃんのこと好きだった。サクラちゃんと幸せになりたいって思ってた。今も好きだ。でも、相手が俺じゃなくても、幸せになってくれればいいって思うようになってた。たぶんその相手はサスケなんじゃないかって」
 サクラは開きかけていた口を閉じた。
「それでいいって思ってた、はずだったんだ」
 何を言いたいのかは、サクラにはもう分かっているのだろう。憂鬱そうな瞳で、それでもナルトを見返していた。
「…ゴメン、サクラちゃん。ホントに俺、サクラちゃんの邪魔しかしてねえな。でも俺、…サスケが欲しい。誰にも…渡したくねえんだ」
 誰にも───サクラにも、タユラにも。
 不意に、サクラの大きな瞳が潤んで揺れた。ぱしん、と乾いた音がして、ナルトは叩かれた頬を押さえる。
「バカじゃないの」
 彼女の渾身の力からすれば、その平手打ちは些細な接触に過ぎなかった。だが、押さえた掌の下でじわりと痺れる感覚は、まるで毒のようですらあった。じわじわと骨にまで痺れが伝わる。
「それで遠慮してるつもり? それで謝ってるつもり? もっとちゃんとサスケ君を見なさいよ。サスケ君はあんたのことしか見てないわよ!」
 彼女の瞳を潤ませた涙は、怒りが所以のものだった。ぽかんと見返すと、眉を吊り上げたサクラが反対側の頬をも叩く。
「サスケ君がストレートに感情表現するの苦手だって、知ってるでしょ!? あんたを起こしたのは私のためじゃない! サスケ君があんたに会いたかったからよ!」
 ふん、と立ち上がったサクラは、泣いてはいなかった。目が潤んだのも気の迷いだと言わんばかりに、腕を差し組みため息を吐く。木漏れ日の下で、桜色の髪がきらきらと光を乗せて風に流れた。彼女は綺麗だった。ナルトはそのサクラより、サスケを選んでいるのだ。
「話ってそれだけ?」
「あ…うん」
「聞いて損したわ」
「…すみません…」
 行くわよと促され、ナルトはようやく立ち上がることが出来た。サクラと共に病院へ───サスケの元へゆくことを許されたのだ。
 ベンチを離れ、再び遊歩道をゆく。
 病院に近付くにつれ、入院患者が散歩をする姿が目立ち始める。
「…私たちは、運命共同体よ」
 しばらく無言で歩いていたサクラが、ふと囁いた。
 サスケかナルト、或いはその両名が里を裏切るようなことがあれば、残りの七班は彼らと共に刑罰を受ける。そしてそれは恐らく、今回回避された足首の切断だろうとサクラは推察していた。
「ちゃんと、捕まえておいてね」
 毅然と前を向いたまま言うサクラに、ああ、とナルトは確かに答えた。
 

*     *     *

 
 病室には風が流れ込んでいた。寄せられたカーテンの端が微かにはためく。警備自体は厳重になったが、手枷を外されたサスケを監視するものは既にない。陽射しに暖まった風は、病室を閉鎖的な雰囲気から遠ざけていた。
「サスケ君」
 こんこん、と形ばかりノックして、サクラは病室のドアを開ける。目が合ったサクラはいたずらっぽく笑った。
「今日は差し入れがあるのよ」
 サスケは黙って見返した。警備上の問題で、サスケには差し入れなどは許可されていない。どういう意味なのかと見守れば、ぐいと腕を掴まれたナルトが室内へ引きずられてきた。
 なるほど、これが差し入れか。
 封印の檻から帰ってきた時に会って以来だった。目覚めたサスケと入れ替わりに、ナルトは眠ってしまったのだ。それからすぐに移植手術が行われ、ナルトとは会わないまま時間が過ぎていた。そのナルトは、重犯罪者略取未遂の代償として一週間の謹慎と半年間の減給を言い渡されている。謹慎は既に明け、任務に復帰しているはずだ。
 突き出されたナルトは「ひでえってばよ」と口を尖らせた。
「サスケ君、本当に退院しちゃうの?」
「えっ」
 何も聞かされていなかったらしいナルトがぎょっとしたようにサクラを振り返る。
「ああ。あとはリハビリだけだからな」
 術後の経過は良好だった。移植手術前からの体の状態も、日常生活に支障はなかった。住居を木ノ葉病院の病室とするという補足条項も、判決内容が変更になって抹消されている。いつまでもこの病室にしがみついている道理はなかった。
「え、お前、退院してどこ行くんだってば」
 ほとんど片付いた病室を見回してナルトが訊く。サスケはサクラを見るが、ニコリと笑みを返されただけだった。代わりに答えてはくれないようだ。
「…リハビリセンターの向かいのアパートだ」
「へえ。そんなとこにアパートあったんだ」
 リハビリセンターもそのアパートも、この病院からさほど離れてはいない。サスケはかつて二週間ほどの期間、この病院から通っていた。ナルトは、だがそこへ行ったことはない。サスケに付き添ったのはたゆらだ。
「最近新しく出来たのよ。リハビリ患者向けのアパートだから、完治したら出ないといけないんだけどね」
「ふーん…」
 かつてのうちは邸は半壊している上に没収となっている。何も持たずに帰ってきたサスケは、小気味良いほどに何も持たないままだった。私物と呼べるのは、前回のリハビリの際に里から支給された古着ぐらいのものだ。家具など一式揃えられているあのアパートは、今度は支給ではない。借金だ。サスケはいずれ、賃貸料を里に支払わなければならない。里から離れられない些細な理由を、カカシはあちこちに用意している。
 煩わしいばかりのそれらを、しかしサスケは黙って受け入れた。
「リハビリセンターからは報告が来るようになってるけど、何かあったらすぐ来てね」
「…ああ」
 退院の日にサクラが休暇だというのを不思議に思っていたが、アパートまで付き添うためだったのだとサスケは納得した。だがサクラは、サスケのまとめた小さな荷物をナルトに押し付けると、じゃあねと笑うのだ。
「え…サクラちゃん一緒に行かねえの?」
「やあねえ、すぐそこじゃない。大丈夫でしょ? 私はこのまま仕事に入るわ。今日寝坊できただけでも充分休まったもの」
 そう告げるサクラに他意は感じられない。だが、彼女が他意など感じさせないように振る舞っていることは、想像できた。サスケは僅かに眉間を寄せた。
「ナルト、護衛のつもりで頼むわよ」
「あ…、ああ」
「それから…ゆっくり話をすればいいわ」
 ふわり、とサクラが笑んだ。
 サスケとナルトは一瞬言葉が見つからなかった。
「あなたたち、結局色々ありすぎて、ろくに話も出来てなかったんでしょ。これからはたくさん話せばいいのよ。大事なことも、下らないことも」
「…サクラ」
 彼女が何を考えて自分をナルトと二人にしようとしているのか、体の内側に靄が広がった気がして、サスケはサクラを見つめた。だが、何をどう言葉にして良いのか分からない。ただ見つめていると、サクラが右手を差し出してきた。
 握手?
 知らず拳を握っていた手を開き、おずおずとその白い手を握る。握り返すサクラが、また笑った。
「退院おめでとう、サスケ君」
「…ありがとう、サクラ」
 そんな言葉ひとつで済む恩ではないことは分かっている。だが、彼女は今それ以外の言葉を欲していないのだと気付いた。サスケは病室を出るしかなかった。病室に残ったサクラがほんの少し泣いたことを、二人は知る由もなかった。
 
 
 リハビリが終了し、サクラに『完治』のお墨付きを貰うまでは、サスケには警護が付く。付かず離れずの距離だが、監視の時とは違い、警護担当も気配を殺すようなことはしない。サスケは守られていると、周囲に知らせる目的でもある。常に人の気配を感じる状態ではあったが、密やかに見張られていた時と比べれば却って気は楽だった。
 柔らかな陽射しの中、遊歩道を横切ってゆく。眩しすぎるように感じるのは、移植のせいではないだろう。イタチの目のせいではない。サスケはあまりに長く光と接していなかった。
 二人に会話はなかった。黙って歩くナルトが落ち着かない。だが、サスケは敢えてそれを無視したままアパートへ向かった。
 二人連れ立って歩く姿に、里の人間もそれがサスケとナルトであると気付いてゆく。誰かがナルトに話しかけ彼を足止めしてくれることをぼんやりと願ったが、それが叶うことはなかった。とうとう無言のまま、アパートへ辿り着いた。
 部屋番号だけの表札を見て、ナルトが何かを言いかける。サスケは気付かないふりで錠を開けた。
「…入るのか?」
「えっ」
「上がっていくのかと訊いている」
「…」
 幾許かの躊躇を見せるナルトを置き去りにして、サスケはアパートへ入った。ややあって、決心がついたのだろう、ナルトが続いた。
 ほとんど目を塞いだ状態で過ごしたアパートだが、入ってしまえば馴染みがあった。目というより、足や指先が覚えている。着替えさえ幾つか持参するだけですぐに生活を始められるよう整えられたアパートは、そもそもリハビリ患者やその家族のために誂えられている。サスケのような事情でここに入居する人間はもちろん稀だが、お誂え向きとしか言いようがなかった。
「結構広いな」
 感心したような声に振り向くと、ナルトがきょろきょろと部屋を見回していた。彼はここに来るのは初めてなのだ。あちこちを覗くナルトを放って、サスケは台所で茶葉を探した。
 馴染みがあるとはいえ、家事のほとんどはたゆらが済ませていた。ここで自分がお茶を入れることも、本当はこれが初めてなのだと思うと居心地が悪い。戸棚を端から開けながら、ついでにどこに何が収納されているのかを確認する。やかんを火にかけ、急須にお茶の準備をしていると、ナルトがダイニングに戻ってきた。
「なんか、人ん家に勝手に上がり込んでる気分じゃねえ?」
「仮住まいだからな。当たらずとも遠からずだ」
 移植したイタチの目は、兄弟ゆえか不思議なほどしっくりと収まっている。断りもなく椅子に座りテーブルに肘を置くナルトを、サスケは無為に見下ろした。あの兄が、この顛末を知ったらどう思うだろう。
 いや、『もしも』はない。
 イタチは死んだ。この手で殺した。今のサスケをイタチが知ることはない。移植された目も、イタチの一部だったもので、イタチそのものではない。イタチを構成していた一部が、サスケのものとなっただけなのだ。感傷など侮辱以外の何ものでもない。罪は罪だ。兄殺しの汚名は一生背負うべきものだ。誰からも許されたくはない、そう思うことも、しかし感傷と言えるのかも知れなかった。
(…今更だな)
 時は戻らない。サスケはそっとナルトから目を逸らした。
 椅子に置かれていた着替えの包みを拾い上げ、寝室へ向かう。カーテンの引かれた部屋は薄暗かったが、明かりを灯さないまま、サスケは僅かなそれを箪笥へしまった。
「…サスケ」
 声に振り返ると、寝室のドア口に立つナルトが所在なげに床を見つめていた。
 そうしていれば、その姿はたゆらのようだ。そこから中へ入ろうともせず、ベッドの上のサスケをじっと見ていたものだった。それをサスケは知っている。たゆらの見る『サスケ』を、サスケも見た。
 ナルトは薄闇に佇むサスケへと視線を上げるが、何かを言い淀み、また俯く。
「今更何を遠慮してんだ。言いたいことがあるなら言え」
「あ…えっと…」
 逆光のナルトの顔は、表情がよく見えない。だがサスケは構わなかった。今までずっと、そんなものは目隠しで見えなかったのだ。
 いや、何も見ようとしていなかった、だけだった。
 自ら目を閉じていただけだった。たとえ目を塞がれていなかったとしても、サスケは復讐以外の何も見る気がなかったのだ。ふとそれに気付いてしまったサスケは、苦々しく唇を歪めた。ナルトを押し退けるようにダイニングへ戻る。
「…サスケ、」
 やかんの前に立ち、次第に沸き始める水の音を聞く。
 あの時、何も見たくなくて、様子のおかしいナルトに意識を向けていただけなのだろうか。
「…」
 それだけでは、ないのだろう。
 たゆらの眠った檻の中で、ひとり赤い巻物を見た。たゆらがそれを見ろと言った意味が分かった気がした。
 巻物の中の自分は、ナルトを見ていた。
 もちろん、ほとんどの場面でサスケは目を包帯で隠されている。そのかわり、耳で、皮膚で───全身でナルトを気にかけていた。神経を澄ませ、ナルトの僅かな異変も掴み取ろうとしていた。それらを見て感じたままを、たゆらはナルトに言ったのだ。サスケはお前が大事だ、と。
 記憶をなくしたナルトに安堵しながら、忘れられたことが気に入らなかった。サクラの名を覚えないナルトに執着を受け、昏い歓喜が湧くのを気付かないふりをした。
 しゅんしゅんとやかんが音を立てる。
 大事?
 違う、大事だとか大切だとか、そんな綺麗なものではないのだ。復讐を果たすために、ほんの一時見つめる対象でしかなかったはずなのだ。だが、端から見れば大差ない。
『残されるのが嫌なら、俺は絶対死なねえし』
『残していくのが嫌なら』
『お前が死ぬ時、俺も一緒に死んでやる』
 あの時の言葉も含めて、全ての記憶をなくしたというナルトに落胆した。考えていた復讐もままならない。なのに、確かにどこかでほっとしていた。実際その『ナルト』はたゆらだったのだが、記憶のないナルトに復讐したところで気分が晴れる訳もないのだ。
 だからと言って、目覚めさせたナルトに復讐しようとしても、一旦できた綻びは滑稽なまでにサスケを破綻させた。
『どこにも置いていかねえし、置いていかせねえ』
 目覚めたナルトが、あの時の言葉を覚えているとは思えなかった。だが、ナルトはナルトなのだ。封印の檻で強く見据えて言われた言葉は、あの時と同じ意味でサスケに届いた。同じなのだ、何度忘れようとも同じ答えに辿り着く、ナルトはナルトなのだ。
 復讐を諦めたつもりなどない。
 ただ、あの日───手術室でナルトを庇ってしまったあの時、掌から復讐が滑り落ちたことを、サスケは知った。浅はかだった。いいようにカカシに乗せられた。甘かった。油断していた。里を許すことなど出来ない。なのにサスケは『ナルトが大事』なのだ。茶番もいいところだ。
 沸騰する湯がやかんの蓋をかたかたと持ち上げる。背後から手が伸びて、コンロのスイッチを切った。サスケはただじっと湯気を見つめていた。
 不意に、背後から抱き竦められた。
 ぴったりと隙間なく合わせられた背に、幾分早い心音が伝わる。サスケ、と吐息のような呼びかけが耳元で聞こえた。やかんと急須。茶葉の入った筒、ごつごつした小さな湯飲み。目を上げれば、ガス台にシンク、窓、換気扇。窓は閉じられているが、外の様子はそれとなく知れる。熱い腕。強い力。
 陳腐にもこれだけ現実感溢れる中にいると言うのに、サスケにはその感が乏しい。檻の中の方がまだ現実だと信じることが出来た。
 ふわふわと心許ない。
「…話」
 ぼそりと呟くと、すり寄る金髪がぴくりと反応する。
「するんだろ。下らねえ話を」
「…」
 そう言って抱き締める腕に触れれば、ナルトは拘束を緩める。だが尚も振り向かずにいると、肩を掴まれくるりと反転させられた。サスケはその力に逆らわなかった。
 額を付き合わせる距離で見合う。
 ナルトは背が伸びた。ずっと小さなイメージしかなかったのに、同じほどどころか、もしかすると追い抜かれている。青く澄んだ瞳を見ていると、唐突に唇が触れ合っていた。遠慮など何もない、力任せの口付けだった。食らいつくように合わせられ、がくりと開いた口の隙からがちりと歯がぶつかる。はっとしたように一瞬離れ、角度を変えて再び吸い付く。
 ただ唇を合わせるだけの行為に何の意味があるだろう。
 こんなことで気が済むのなら安いものだ。
 そう思うのに、ナルトにつられるように鼓動が早くなってゆく。次第に苦しくなるのは呼吸ではない、胸の内側だ。こちらの様子をそっと窺ったたゆらとはあまりにも違った。病室でたゆらが始めた行為、途中からナルトに入れ替わったあの行為。いつ入れ替わったのか定かではなかった、だが、たぶん。噛みつくような口付けを送って寄越した時には、ナルトだったのだ。
『…差し上げる』
 たゆらは知っていたのだろうか? ナルトがサスケにこんなことを出来ると、知っていたのだろうか?
『己も、ナルトも…あなたのものだ』
 幾分早くなった呼吸に浅ましさすら感じる。体の欲など生理的な反応に過ぎない。相手が誰であろうと同じだ。同じはずなのだ。なのに何故、口付けひとつがこんなにも苦しい。
「…サクラを、どうすんだよ」
 関係ない。サクラなど関係ない。ナルトがサクラを好きだろうと、サクラと良い仲であろうと、サスケには関係ない。ゆるゆると逃れるように唇を振り解き、ナルトの腕の中で俯く。
(下らねえな…)
 サクラのことを持ち出して、どうしたいのか分からない。自分から離れてほしいのか? 彼女より自分を選ばせたいのか?
「それ、お前、誤解だってば…」
「…ああ?」
 焦れたナルトは両手でサスケの顔を包む。
「サクラちゃんと俺は付き合ってねえし、付き合ってたこともねえし、ついでに言えばサクラちゃんが好きなのはずっとお前だけだってばよ」
 サスケはそんなに怪訝な顔をしただろうか? ナルトは尚も言い含めるように続けた。
「そんで俺は、サクラちゃんのこと好きだけど、違うんだ。キスしたいとか、結婚したいとか、そうゆうんじゃねえんだ。仲間で友達で、永遠のマドンナってゆうか、特別は特別なんだけど、とにかく違ったんだ」
 ナルトの指先が武骨にサスケの髪を梳く。
「…サクラちゃんには、もう、言ったんだ。ちゃんと言った。全部…言った」
 全部?
 今の話の全部を?
「何考えてんだ、お前」
「うん…えっと…、サスケのこと?」
「茶化すな」
「本気だってばよ」
 髪を離れた手が、今度はサスケの手を握る。
 熱く湿っている。が、嫌な感じは受けなかった。振り払わない代わりに、握り返すこともしない。ナルトは構わず強く握った。
「…俺、サスケが欲しい」
 身じろぎもせず、サスケはそれを聞いた。だが、握られた手の温度が上がった、気がした。殺し合いまでした相手に、一体何を求めているのだろう。
 ああ、だが、負けたのだ。
 最後の最後で気を取られた、あの時から既に負けているのだ。復讐は手をすり抜けて落ちた。だが忘却の罪は犯さない。毎朝鏡の中にイタチの目を見て、己の怒りと慟哭は蘇る。
 ああ、なのに、負けたのだ。
「…くれてやってもいい」
「サスケ」
「だが条件がある」
 サスケは悪あがきのように口を開いた。
「俺の名を返せ」
「名前…って、『うちは』姓?」
「そうだ」
 とまどった様子を隠せないナルトの手を払い、サスケはその襟首を掴んで引く。
「…今すぐとは言わねえよ。何十年かかっても、必ず返すと俺に誓え」
 ナルトの目が見開かれたのは、その唇をサスケが啄んだせいではなかった。
 火影になる時───。
 いつかナルトが火影になる時に、恩赦を出せと言われていることに気付いたせいだ。
「誓う。お前に誓う。俺がお前に名前を返す」
 言い切る瞳に翳りはない。強く抱き寄せられ、サスケは靉靆にため息を漏らした。里はともかく、これでナルトを許したことになる。そしてナルトが本当に火影になったとしたら、ナルトが守る里ごと許したことになるのだろうか。だが、今は何も考えたくなかった。
 手枷を失った手を、そっとナルトの背に沿わせる。満ち足りた笑みを湛えたナルトが、今度はゆっくりと、サスケの唇を塞いだ。こんなことで幸福を感じるのはおかしい。
(これだって…現実逃避って言うんじゃねえのかよ)
 ああ、でも、負けたのだ。
 覗き込むナルトが不思議そうにまばたく。
 自分の顔を歪める笑みが自嘲ゆえなのか、幸福ゆえなのか、サスケは判断を放棄した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「てゆうかさ…、『何十年』は言い過ぎじゃねえ?」
 

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