ゲシュタルトロス・フクス:24

24
 
 
「サスケ!」
 弾かれたように、サスケは檻の外を見た。
 ナルトが立っている。
 麻酔から完全に覚めたようだ。何か信じられないものを見るように、その目がサスケを捉えている。
 いや、サスケとたゆらを捉えている。
 ナルトは口を真一文字に引き結ぶと、拳を握り足元の巻物を蹴散らしながら二人に歩み寄った。何の躊躇もなく封印の檻へ足を踏み入れる。実質的には九尾を封印するための檻で、サスケやナルトには何の効力もない。だが普通であれば、ためらわないのがおかしいほどの気の淀みだ。それでもナルトが平気で入ってくるのは、以前もここでたゆらの巻物を見ているからか。いや、それ以前には半年もの間、ナルトはここで眠り続けていた。
 だが、まっすぐに見つめられて、そんなこととは関係ないのだと思った。三歩の距離を残してナルトは止まる。サスケは目を逸らした。
「…サスケ、分かってるよな。九尾の監視は、何もここじゃなくていいって。体を仮死状態にしてほったらかすことねえって」
 先ほどここから消えてから、表で事情を知ったナルトが抗議するように言う。サスケは黙って聞いていた。
「お前、全部捨ててこいつを選ぶっていうのかよ。俺やサクラちゃんやカカシ先生や、仲間やなんかを全部捨てんのかよ! そんなのただの現実逃避だろ!」
 不愉快だ。
 サスケには既に仲間と呼べるものはない。自分で裏切った。全て裏切った。絆と呼べるものは全て、サスケ自ら断ち切ったのだ。心を残していなかったとは言えない、それを振り払うためにも断ち切った。サスケは俯く。
 断ち切ったつもりでいたくせに、ナルトを庇った。身代わりに等しくナルトが足を切られると知って、残した心が唐突に暴れ出した。現実逃避? そんなことは言われなくても分かっている。不愉快なのは図星を指されたせいだ。
「サスケ…!」
 焦れた声がサスケの耳に突き刺さる。反射的にたゆらの手を握り返した。たゆらがサスケを見る。ナルトもサスケを見ている。
 どうしろって言うんだ。歯を食いしばる。
 ふと、たゆらが手を離して割り込んだ。
「…サスケは、ここにいたいと言う」
「だから何だ! また『サスケがそれを望むなら』か!? お前、自分がどうしたいかっていうのはねえのかよ!」
 自分を背に庇うたゆらを後ろから見つめ、サスケは不意に奇妙な感覚に襲われた。
「己は、サスケに従う。己は…サスケの側にいたい」
「ここに閉じ込めてでもか」
「…分からない」
 ナルトだ、と気付いた。
 たゆらに影響を与え続けているのはナルトだ。たゆらは考えている。感じるままではなく、言葉によって自分の意志を考えている。自分がどう思うのか、何故そう思うのか、どうしたいのか、どうすべきなのか。それはあたかも獣から人間へ進化するようですらあった。
「…サスケは、帰る」
「え?」
 ナルトが怪訝に首を傾げた。
 あなたはここにいるべきではない、サスケは先ほどの声を思い出す。ここにいると言うサスケ、サスケに従うたゆら、サスケの側にいたいと言うたゆら。以前であれば確実に、たゆらはそれを受け入れたはずなのに。何を言い出すのか、サスケはたゆらの後ろ姿を見つめた。
「サスケは、お前が大事だ」
「たゆら!」
 サスケはとっさにたゆらの肘を掴んだ。
 制されているのが分かっているだろうに、たゆらは振り向かなかった。ナルトは怪訝な顔のまま、たゆらと見合っていた。
「己も…お前と同じ、サスケが大事だ」
 はっとしたように、ナルトはきゅっと唇を閉じる。
「サスケは疲れている。そっとしておいてほしい。お前は外で待て」
「…なあ、お前…タユラって言ったよな」
 ナルトは僅かに眉間を寄せ、たゆらを窺った。無機質な青い目がそれを見返す。
「何でだよ。お前はサスケと一緒にいたいんだろ? ずいぶん簡単に返してくれんのな。いいのかよ」
 一体誰の味方なのだと疑う質問がナルトから上がる。
 こうして見ていれば、ナルトとたゆらは鏡合わせのようであっても、やはりまるで違った。感情を全てその顔に晒け出し、自然つられ動く体。視線は揺らがず感情の起伏も表れず、じっと静かに佇む体。
「…己は、ここにいる」
「ここって、この、檻の中だよな」
 そうだ、とたゆらは言った。
「お前がサスケの側にいれば、己も、サスケの側にいる」
 この檻の中は、即ちナルトの腹の中ということだ。たゆらがそんなことを考えているとは、サスケは思っていなかった。思いつきもしなかった。
 ナルトは苛立ったようにたゆらを強く見た。
「お前、それでいいのかよ」
「…分からない」
 微かに瞳が翳る。それでもたゆらに揺らいだ様子はない。
「己は…お前になれない」
「え?」
「だから、たぶん、これでいい」
 たゆらが振り向いた。つられてナルトもサスケを見る。
 掴んでいた肘から手を離すと、手枷の重さにだらりと下がる。サスケは自分の意志を無視された格好だ。ナルトとたゆらの協議によって、しばらくののちに帰されることにされてしまった。それは全くサスケの本意ではない。だが、ナルトを追い返すには良いタイミングなのだろう。
「お前も…それでいいのか?」
 問うナルトにサスケは答えず、俯いた。
「サスケ」
 ナルトの声が近付いてぎくりとする。病院服のナルトが正面に立っていた。
「俺…結局、何も出来なかった。判決が変わったの、良かったって思うけどさ、本当は俺がどうにかしたかったんだ。だけど、俺ってば本当に何も役に立たなかった。カッコ悪ィよな」
 サスケは顔を上げられなかった。
 そんなことはサスケも同じだった。墨を引かれた足からも目を逸らす。
「でも、それでも、俺はお前と一緒がいい。一緒に生きていきてえんだ。何の役にも立たねえかも知んねえけど、カッコ悪ィばっかだけど、それでも」
 ナルトが更に距離を詰めてきた。
「お前が一人になりてえ時には一人にしてやるし、一人でいたくねえって時には側にいる。そんでもって、どこにも置いていかねえし、置いていかせねえ」
 サスケは緩やかに驚いた。
 いつかどこかで聞いたような科白だった。
 いつ?
 どこで?
「お前を信じてる」
 サスケは、知らず顔を上げていた。相変わらずの強い瞳がサスケを見ていた。笑っては、いなかった。
「待ってるからな」
 まるで、これから戦場に赴くかのような顔だった。ナルト、と呟いたはずの声が消えてゆくナルトに届いたのかどうか、サスケには分からなかった。


「…サスケ」
 たゆらに呼ばれても、しばらく気付けない。たった今見たナルトの顔が目の前から消えてくれなかった。ぞくりと体を貫いたのは悪寒ではない。それは高揚に似ていた。戦場へ向かう目、そう思うのは気のせいか。
 ああ、真剣だったのだ、とサスケは気付いた。
 ナルトは真剣だったのだ。
 サスケが本気でここに残ると言ったのなら、ナルトは恐らく認めただろう。それが分かって、サスケは力が抜けた。ゆるりとたゆらを見る。
 たゆらは九尾だ。
 だが、今は人と言っても良かった。自分の意志と呼べるものを、自分の言葉で表したのだ。サスケに従う、ただそれだけではなくなったのだ。す、と差し出されたものを、サスケは反射的に受け取った。数本の赤い巻物だった。
「己の記憶です」
「…」
「あなたが、己を、ナルトだと思っていた時の」
 それならば、サスケと共通の記憶でもある。既に知る過去を、何故手渡されたのか分からずに、サスケはたゆらを見返した。
「己が眠ったら…見て下さい」
 眠る?
「頼みが…あります」
 常と変わらないたゆらが、ただまっすぐにサスケを見つめていた。
「頼み?」
「己が眠るまで、側にいてほしい」
 眠るまで?
 暗に、たゆらが眠り、巻物を見たら檻を出ろと言っているのだろう。だが、判断はサスケに委ねられている。
「…己は、いつでも、あなたが必要とする時に目覚める」
 何だって?
 サスケははっとした。たゆらの言う『眠り』は通常のものではない。
「その『時』には、呼んで下さい、サスケ」
「たゆら、お前、」
 おずおずと伸ばされた腕がサスケの背に回る。意図的な長い眠り、それは一種封印とも言えないだろうか。いや、自らの意志によるそれは結界と言うべきか。
「己はたぶん、この姿の分までしか、回復していないと思う」
「え?」
 緩やかに取り込まれた腕の中で、サスケはたゆらを窺った。確かに、たゆらのチャクラは膨大ではあっても、かつての九尾とは比ぶべくもない。
 じわり、背にぴたりと触れる掌が温かい。
「…いつか己がナルトの形を取れなくなっていても、あなたは、己を…呼んでくれるだろうか」
 己の名を。
 たゆらの声がか細く耳元に聞こえた。ああ、吐息のように答えると、抱く腕に力が籠もった。頭をすり寄せられ、すり寄せ返す。手錠で不自由な両手で、せめてその服を掴む。ばらばらと、巻物が落ちた。二人とも構わなかった。
 やがて、二人はその場に座り込む。
 押し遣った古い巻物にもたれ掛かり、言葉もなく、ただ寄り添う。寝そべり、時折手に触れ、また手錠に触れ、髪を梳いた。どれほどの時間をそうしていたのか、檻の中では判然としない。言葉は少なく、次第に言葉はなく、薄闇のまどろみの中で雨が上がるのを待っているかのようだとサスケは思う。
 ふと、サスケはたゆらの額に触れた。前髪をかき分け、熱でも計るように触れ、そのまま頭を撫でる。だが、たゆらにはもはや緊張はなかった。掌の下で、たゆらの目がサスケを見た。たゆらが笑っていた。
 サスケはぼんやりとそれを見つめた。
 ほんの微かな、くすぐったそうな笑みだった。
 ああ、たゆらも、笑うのだ。
「たゆら…?」
 どうした、と思ってかけた声は、小さすぎたのだろうか。柔らかく目を閉じてしまったたゆらから、返事はなかった。
 

*     *     *

 
 部屋は薄明るい。
 明け方なのか、夕暮れなのか、それとも花曇りの昼間なのか。薄く目を開けると、白い天井が見えた。ゆっくり大きく息を吸い込み、長いため息のように吐き出す。仄かに花の香りが届く。サイドテーブルに、サクラが欠かさず生けている花。体の両側に投げ出された腕に、既に手枷はない。点滴のチューブが視界に入る。
 そして左手を誰かが握っていた。サスケにはもちろん、それがナルトであることは分かっていた。チャクラを探らなくても、分かっていた。
 ぎゅう、と力強く握られる。
 視線だけを動かせば、ベッド際の椅子に座るナルトと目が合った。仄明るい中、目の下に隈を作った寝不足の顔が見て取れた。あの檻の中では時間の定義が曖昧で、実際にどれだけ待たせたのかサスケには分からない。握られた手が、ただ熱かった。
「…おかえり」
 掠れた声で、ナルトは笑った。
 それは普段の彼からすれば想像もつかないような、ほんの微かな笑みだった。お前でもそんなふうに笑うことがあるのか。見ていられなくて目を逸らした。
「…ただいま」
 サスケの方も、掠れてしまっている。
 仕方がないので、握られた手に、そっと力を込めた。

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