誰にも言えない:前編

 

  誰にも言えない

 
 10月、衣替えの猶予期間が終わって、文化祭の準備に心奪われる生徒たちは気もそぞろ。本番は一週間後だ。一護のクラスは、喫茶店だった。この喫茶店というのは各学年かなりの人気で、とうとうくじ引きで決定する事態とまでなっていた。1年3組は浅野啓吾気合いの一発、見事当たりくじを引いたのだった。
 どうしてもどうしてもどうしても、メイド喫茶にするのだと言い張って駄々をこねる啓吾に、もはや誰も異議を唱えたりはしなかった。18人いる女子は全員メイド、啓吾と小島水色は入り口での客引き、残りの男子は裏方だ。裏方の男子は九月中にお茶数種類の煎れ方を叩き込まれ、一護までもが家でも凝り始める始末だった。
 あと一週間と迫る文化祭に、ハッキリ言って生徒たちは授業どころではない。月曜日の今日、一護も普段より多少早めに登校したにも拘らず、クラスの殆どの生徒が既にそこにいた。
 だが、しかし、申し訳ないけれどこの話は文化祭には殆ど関係がない。教室のドアを開けて、一護は立ち尽くしていた。
 
 
 別に、足の踏み場もないとか、そういう事はない。
 メニュー作りに勤しむ女子だとか、内装に手を加えるべく下準備をしている男子だとか、殆どが机の上で出来る事だ。通路は勿論、通れる程度に空けられている。
 にも拘らず、一護はある一点を凝視して、立ち尽くしていた。
 その視線の先には、石田雨竜。
 彼とはこの夏の間に随分打ち解けたと思うし、それなりに親密にもなっていて、友達と呼べる枠に入っている。だが、夏休みが終わってみれば、雨竜はクラスの中にも馴染んで見えた。ただ単に人見知りが激しかっただけなのか、それとも雨竜に心境の変化でもあったのか? とにかく、文化祭の為の作業をしている彼は一学期の頃のぴりぴりした空気はどこぞへ追い遣ってしまっていた。
 雨竜の仕事は、当然と言えば当然、衣装作りだ。
 女子全員分、18着のメイド服作り。採寸も彼がして、文化祭まで体型を変えるなと宣言した、オーダーメイドである。織姫やルキアなどははしゃぎ回っていたが、それ以上に啓吾がはしゃいでいたのは余談だ。
 朝には仮縫いや小物作り、放課後には家庭科室でミシンを走らせる。その雨竜の手際は、誰の手出しも許さない見事なものだった。メイド服としてはあまり見ない、茶系の布を使っている。しっかりした布地とふんだんなレースは明らかに予算オーバーで、しかし絶対譲れないと言う雨竜に、足りない分は女子が出した。勿論、文化祭後はその服は自分のものになるのだ、反対は出なかったらしい。しかも一人一人に合わせてデザインを微妙に変えている。けれど、全体的な印象は統一されていた。一風変わったセンスを持つ雨竜だったが、何だ普通の感覚もあるんじゃないかと驚いた。曰く「売れるものや好まれる傾向ぐらいは知っている」との事だ。
 いや、話が逸れた。
 一護が凝視しているのは、機械のような正確さで針を運ぶ雨竜の手元、ではなく。
 
 耳、だった。
 
 一護はぽかんと口を開けて、その耳を見つめた。
 それは耳だ。
 間違いなく、どこをどう見ても、耳でしかない。
 ただし───ネコの。
 初めて目にして、ぎょっとした。次いで、一心不乱に作業を続ける雨竜に誰かがイタズラで付けたのか、と思った。以前遊子がWACHIFIELDでネコ耳を(夏梨に)買った事があるのを思い出したのだ。
 しかし、雨竜のそれは動くのだ───。
 彼の目は手元から動かされない。だが誰かが大きな声を出したりすると、ぴこんとその耳だけは動かされる。
「どおしたの? 黒崎くん」
 あまりの凝視に、さすがに周囲に気付かれた。きょとんと見上げる織姫に、そういえば他の人間はあの雨竜に全く関心を引かれていない、と思う。
「や…」
「…石田くんがどうかした?」
「…」
 一護の視線を追って織姫も雨竜を見る。
 だが、無反応だ。
「や…石田、さ…。耳が…」
「は? 耳?」
 人間としての耳は、勿論見えている。前髪が長いので見えにくいが、ハッキリと見えている。その上方に、ネコ(だと思う)の耳が付いているのだ。いや、本物なら生えていると言うべきか。
「……何でもねえ…」
「えぇ?」
 誰にも見えていないのだろうか? 一護は説明を諦めて、ようやく自分の席へ向かった。
 雨竜の前をさり気なく通る。
「…よォ」
「あ、おはよう」
 声をかければ、ちらと目を上げて応える雨竜だ。ほぼ同時か目より少々早く、ネコ耳が一護の方を向いた。
(…)
 彼の様子からすると、彼自身もそのネコ耳に気付いていないようでもある。おはようと言ってすぐにまた手元に視線を戻したのを良い事に、一護は立ったまま上からネコ耳をまじまじと見つめた。
 毛色は髪と同じく黒。つやつやとして、光を弾いている。内側は淡く産毛が生えていて、桜貝みたいな色をしていて、細い血管も見える。耳の付け根はどうやら本当に雨竜の頭から派生していて、境界などない。耳の先は細く短い黒い毛がちょこんと輪郭を覆っていて、まるで面相筆のようだ。
(さ…触…、触りてェ…ッ!)
 つまりその耳は本当に黒猫のもので、雨竜のものに見えたのだ。
「…そんなに珍しいかい?」
「えっ」
 前に立って見下ろす一護が気になったのか、ぴこぴこと落ち着かないようにネコ耳が動いて、雨竜は再び目を上げた。
「め…珍しい、つーか…。うん…珍しいな…」
「まあ、君なんかには縁のないものだしね」
 つんとすました雨竜は、そもそも自分の頭の状態を知った上で登校しているものか。縁のないものと言われても、普通は誰もが縁はない。
「…なあ、それ…どうなってんだ?」
「え? どうって…説明は難しいなあ…」
 困ったように雨竜は首を傾げた。上の耳は、片方は一護に向けたまま、もう片方が器用に後ろへぺたりと寝る。
「…触っても…いいか?」
「いいけど、まち針気を付けろよ」
「…」
 まち針?
 手を伸ばしかけて、一護は固まった。やはり、雨竜自身ネコ耳には気付いていないのだ。作業の手を止めて布地を差し出した雨竜は、硬直する一護に再び小首を傾げた。
「や…やっぱ、いい…」
「あ、そう」
 本人に伝えるべきなのだろうか。
 ネコ耳の事を。
 だが、周囲を見回しても雨竜の風体を気にする人間などいない。
(…俺だけか? 見えるのは…)
 とすると、自分の目を疑うべきなのか。一護は首を捻って、しかし雨竜の横を回り込み、自分の席へ向かおうとした。
 した、のだが。
「───ッ!!?」
 がたん、と大袈裟な音を立てて一護は後ずさった。背後、雨竜の隣の机を押し退けるように手を付いて体を支える。その音に驚いた雨竜は、ネコ耳もろとも一護を見上げた。
「な…何やってんの、君…。大丈夫?」
「あ…お…おぅ…!?」
 座る雨竜の椅子から、長い尻尾が揺れていた。
 
 
 雨竜の斜め後ろという自分の席を、これ程恨めしく思った事はなかった。
 気になる。
 猛烈に気になる。
 授業どころではない。
 真面目な姿勢で授業を受ける雨竜の後ろ姿、しかしその耳は意外にちらちらと動かされている。黒く長い尻尾は退屈そうに、ひたりひたりと左右に揺れている。
「…どうしたのだ、一護?」
 こそりと囁かれるルキアの声に、一護は思い切って、指差した。
「…石田、おかしくねエか…?」
「石田?」
 怪訝そうなルキアがひとしきり雨竜の後ろ姿を眺める間にも、そのネコ耳は敏感に片方がこちらを向く。
(き…聞いてやがる…?)
 揺れていた筈の尻尾までもがぴたりと動きを止めている。それは明らかに、何かを窺うネコの様子そのものだった。
「…おかしいのは貴様だろう、一護」
「な…ッ!?」
「石田の何がおかしいと言うのだ。いつも通りにしか見えぬぞ…それに比べて貴様は、朝からあやつしか見ておらんではないか。よって、おかしいのは貴様の方だ」
「…」
 あああ、しまった。
 一護は言い訳しようとして、言葉を飲み込む。
 そうだ、他の誰にもアレが見えないのだとしたら、おかしいのは見えてしまう自分だけだ。ルキアからの視点で『一護が朝から雨竜しか見ていない』ように見えるのなら(いや実際そうなのだが)他の人間にも一護だけが変に見えるだろう。
 そんなのは───困る。
 それなのに───目が、離せない。
 聞き耳を立てていた雨竜のネコ耳は怪訝そうにひくひくとして、やがて前へ向き直る。静止していた尻尾も、再びゆっくりとしなり始めた。
(…)
 果たして、自分はネコ好きだっただろうか?
 多分、好きだったのだろう。でなければ説明が付かないのだ、この衝動に。
(…触りてェ…)
 全くもって、落ち着かない。
 あの薄い耳をつまんでみたい。つやつやの毛並みを撫でてみたい。しなやかな尻尾を掴んでみたい。
 ウズウズして仕方がない。今ここでふたりきりだったら、間違いなく触り倒している予感で一杯だ。教師の声など遠くぼんやりとしか聞こえない。一護は雨竜の耳と尻尾に釘付けだった。ルキアがさも訝しげに自分を見ている事など、全く気付かない一護だった。
 
 
 昼休み、どうにも我慢の限界だった一護は立ち上がる雨竜を掴まえた。
「い…一緒に、昼メシ…食ってくれ!」
「…」
 鬼気迫ると言っても過言ではない一護の様子に、雨竜はとてつもなく嫌そうに目を眇める。
「…それはふたりで、という事か?」
 警戒する声音は当然だ。だって、昼食なんて大抵一緒に食べるようになっている。ふたりの他に啓吾と水色、日によっては茶渡や女子が混じる事もある。それをわざわざ「一緒に食べよう」と言うのは不審以外の何ものでもない。
「で…出来ればふたり、がいいけど…、や、別に…いつもみたく、他の奴らもいた方がいいなら…ッ」
 掴んだ手をぱっと離して、一護はしどろもどろだ。これでは本当に、おかしいのはこちらという事になってしまう。しかし、この時点でクラス中の注目を集めてしまっていた事など、一護には気付く余裕がなかった。
 雨竜は、ただならぬ気配に腰が引けている。
 実際、その耳は神経質にあちこちに向けられるし、尻尾はびたびたと自分の机を叩いているのだ。
(あぁあ~…!)
 俺はそれに触りたいんだあー!!! という葛藤を心の内に封じて、一護は奥の手の科白を口にした。
「何ならおごる!」
「…」
 雨竜の嫌そうな表情は変化がない。
 だが、心引かれている事は一護には良く分かってしまった。何しろ、落ち着かなかった耳は両方ともが一護にまっすぐ向けられて、せわしなかった尻尾はもじもじと体を擦り始めるのだ。
 仕方ないね、と雨竜は言った。
「僕に話があるって事か」
「そッそう、そうなんだッ!」
 カチャリと眼鏡を押し上げながら、雨竜はくるりときびすを返す。一護は慌てて自分の弁当を掴むと、雨竜の後を追って学食へ行った。
 学食は混んではいたものの、購買コーナーだけに用のある生徒は回転が早い。そう時間もかからずに目的を果たして抜け出ると、幾分機嫌の良さそうな雨竜はすたすたと迷う事なく廊下をゆく。
 一護はその少し後ろを、大人しく付いて歩いた。
 後ろから見ていると、その姿は本当に、しなやかなネコのようだった。ネコの姿の夜一を思い起こさせる後ろ姿だ。時折こちらの足音を確認する片耳、歩く度に緩やかに揺れる長い尻尾。
「ここでいいかい?」
「えっ、あ…あぁ」
 急に振り向いた雨竜に、一護は答えが遅れた。仕方がない、一護は耳と尻尾しか見ていなかったのだ。
 ああ、と返事をしてから、そこが家庭科室だと気付いた。鍵を開ける音に、そういえば職員室に立ち寄っていたかなと思い出す。実際に立ち寄っていた時には全く、そこが職員室だなどとは気付きもしなかった。一護は自分に呆れた。
 雨竜に続いて家庭科室に入る。カバーを掛けられた机がずらりと並んでいて、一護は目を瞬いた。ここに入るのは初めてだったのだ。カバーをちらりと捲ると、ミシンが見えた。
 奥に続く扉へ向かう雨竜を慌てて追う。
 そこは小さな部屋で、大きなテーブルと戸棚があって、その前には段ボールが幾つか置いてある。きょろきょろと見回している間に、雨竜はカーテンを開けて光を入れた。
「…で? 話って、何?」
 慣れた場所のように椅子を引いて座り、雨竜は焼きそばパンのパッケージを破りながら問いかけてきた。
 一護は一瞬、どう言っていいものか迷った。
 雨竜の両耳はパンに集中していて、一護に注意を払わない。かぷりとパンに齧り付くと、ぴこぴこと耳がはしゃぐ。
「さ…触りたい…んだけど…」
「何に?」
 片耳が一護に向けられるので、人間の部分が無視しているように見えても嫌な感じはしない。
「耳…」
「…はい?」
 もぐもぐと動かしていた口を止めて、雨竜は目を上げた。あからさまに   不審げだ。雨竜は止めていた口を再び動かし、ごくりと飲み下しても一護から視線を外さなかった。
「…耳?」
「そ、そう…耳、触りてえ」
「…」
 一護の見ている前で、両耳がピリピリと後ろへ伏せられた。警戒している様まで一護を誘う。
「や、あの…あのさ、落ち着いて聞けよ?」
「…君が落ち着けよ」
「あ…まあ、そうなんだけどよ…」
 一護は慌てていた。
 ネコ耳の説明をしなければ、ただ『耳を触りたい』なんて言っても、ハッキリ言って変人だ。下手をすると『変態』とも言われかねない。
「あのな、オマエ…お前な、耳、付いてんだよ…その、ネコの…。し、尻尾も…なんだけど…」
「…」
 軽くひそめられていた雨竜の眉間は、酷く険しくなった。
 雨竜は無言で立ち上がりパンを机に置くと、部屋の隅に置かれた姿見の布を取り、その前に立つ。じっと見て、体を捻って背後を確認する。真面目な顔でそうする様子は、はっきり言って、微笑ましかった。ひくひくと動かされる耳、神経質な尻尾。
 だが雨竜は腕を差し組んで、冷ややかに一護を見るのだ。
「…からかうにしても、もう少し捻った事言えないのか、君は?」
「かっ…からかってる訳じゃねえって! ただ…それ、俺にしか…見えねーらしくて…」
「君にしか? そういうのを、からかってるって言うんじゃないのかい?」
「違うって!」
 必死な一護に、冷たかったまなざしが少々緩む。耳は伏せ気味のままだったが、苛立たしげだった尻尾は動きを落ち着けた。
「…幻覚?」
 雨竜は少々首を傾げてそう呟く。
 一護ははっとした。
 そうだ、自分にしか見えないのなら、幻覚と言うのが正しいのかも知れない。普通ユーレイなどはそう見える人間もいないが、一護にしか見えないものでもない。この雨竜やルキア、織姫だって霊は見えるのだ。
 けれど、このネコ耳と尻尾は───どうやら今のところ、一護にしか見えてはいない。本人すら無自覚だ。ちら、ともう一度鏡を覗き込んで、怪訝そうに顔をしかめてから戻ってくる。
「幻覚…かよ、これが…?」
 目の前に戻ってきたネコ耳に近寄って、まじまじと見つめる。たじろいだように雨竜は椅子ごと少し逃げた。
 それを追いながら、間近で観察する。
 薄い耳はひくひくと落ち着きない。内側の皮膚に透ける細い血管、奥は複雑な凹凸で頭部に続く。
「ちょ…ちょっと…」
 逃げようとする頭を無意識にホールドする一護に、雨竜が声を上げた。
「なあ…さ・触ってみていいか?」
「もう触ってるじゃないか!」
「や、耳に」
「嫌だよ!」
 ネコ耳に手を伸ばそうとするのに、雨竜にその手首を掴まれて結局頭を固定する状態のままだ。
 しかし、次第にその耳が細かく震え始めた。
 耳の先の丸い輪郭、それを覆う黒い体毛、内側のふわふわの産毛、それが───震えている。ぴこぴことせわしなく動きながらもその震えは止まらないようで、一護にはたまらない。
「お…お前(の耳)…かわいーなー」
「はあ!?」
 ぎょっとしてこちらを向く両耳、手の塞がっていた一護は、その産毛をなびかせるように息を吹きかけた。
「!!?」
 とたんに、雨竜は硬直した。
 小さな突風を受けた耳は、くすぐったそうにぺたりと後ろに寝てしまう。見ていると、しばらくして恐る恐る立ち上がって、こちらを向く。
 もう一度、そっと息を吹きかける。
 手首を握る雨竜の手がびくりと痙攣して、ネコ耳はぺたりとなった。ぺたりとしたまま、細かく震えている。もう片方の耳も殆ど寝てしまっていて、しかしおどおどとこちらを向きかけてはよそへ向く、という動作を繰り返していた。
「な…な…何をして、いるんだ…ッ!?」
「た…頼むッ触らせてくれ! 触りてェ!」
「嫌だ、お断りだぁッ!!」
「明日も昼メシおごってやるから!!!」
 一護は雨竜の頭を掴み、雨竜は一護の手首を掴んだ状態で、ふたりは固まった。傍から見たら、ちょっと滑稽な図だ。
「…」
「…石田?」
「こ…今週ずっとなら…考えてやらなくもない…」
「…」
 雨竜のプライドは、そういうところにはないらしい。そんなところもネコっぽい。しかし、決して自分からそういう事を言わないのも確かだった筈なのに、珍しい。
 だが、そんな事より一護は、目の前のネコ耳に心を奪われていたので───。
「今週一週間の昼メシだな? よし。分かった。OKだ。手、離せ」
「…」
 渋々と言った風に、雨竜は腕を下ろした。一護もようやく雨竜の頭から手を離す。耳の辺り(※人間の方の)を押さえられていた為に派手にズレていた眼鏡を直すと、雨竜はしかめ面のまま俯いた。
 ぴんと背が伸ばされて、手は握り拳で膝の上。椅子の下に伸びる尻尾は落ち着きがなく、耳はふるふると一護を窺う。緊張している様子がありありと伝わって、一護の方までドキドキしてくる始末だ。
「…いいか?」
「…どうぞ」
 ふて腐れた返事に、一護は上から手を伸ばした。
 触れてもいないのに、耳はぺたりと一護を避ける。
「…恐がんなよ」
「なッ…!? 別に恐くないよ!」
「でも…寝てるぞ、耳…」
「…そ、そうなの…?」
 ネコの部分の自覚は、やはり雨竜にはないようだ。状態を知らされて、耳はきょろきょろと様子を窺うように、起き上がった。
 一護はごくりと喉を鳴らして、指先で、ちょんと産毛に触れた。
「ッ…」
 雨竜はぴくりと肩を震わせる。ネコ耳は、一護の指を避けるように後ろを向いた。
「く…黒崎…?」
「柔らけー…」
 綿毛よりも不確かな感触に、一護は殆ど感動していた。
 次いで、そっと外側の毛並みを撫でる。付け根の方から、耳の先に向かって。
「うわー…つやつや…」
「…」
 逃げる耳の厚さを確かめるように、そっとつまむ。
 ネコ耳だけでなく、雨竜本体(?)までもが震えた。
「すげー、これ、気持ちいいぞお前!」
「……」
 親指と人さし指の間で、逃れようと弱い力が働くのが伝わってくる。
 頭皮に近い方はぬるく体温があり、先へゆくに従って、ひんやり冷えている。触れる事に慣れてきた一護は、興奮気味にその毛並みを撫で続けた。
「く、黒崎っもういいんじゃないか…ッ?」
「えッもう? や、もーちょっと…」
 ぴん、ぴんと指を避けるように動く耳は、一護には誘惑でしかない。けれど、何故か上ずった声で訴える雨竜の顔を見て一護は言葉を途切れさせた。
 ほんのり上気した頬、困ったように寄せられた眉。眼鏡の奥の瞳は潤んでいるようにも見える。
「…お前、見えねーんだよな? 触られてる感覚はあんのか?」
「…あるような、ないような…良く分からないんだけど、でも…何か、ぞくぞくする…」
「へ~」
 長い尻尾の先だけが、ぴこぴこと上下左右でたらめに揺れる。
「き、君は…感覚あるのかい? その…猫の耳を触っているという、感触が」
「ああ、ある。スゲー気持ちいい。これが幻覚なんて、ちょっと思えねえな…」
 答えながら、一護の興味がその尻尾に移る。
 少々屈んで、その中程をそっと握った。
「う…!?」
 雨竜の背がしなる。
 弱く握り込んだ手の中を、しゅるしゅると毛並みが逃げてゆく。
「お…ぉお!」
 感動的な手触りだった。もう一度握る。スルスルスル、逃れてゆく。
 握る。
 逃れる。
 握る。
「黒崎ッ!」
「あ?」
 尻尾に夢中の一護は、雨竜の状態に気付くのが遅れた。はっとしてその顔を覗き込んで、しまったと思う。恐ろしい形相をした雨竜が、じっとりと一護を睨んでいた。
「…何か良く分からないけどね、黒崎。今、僕は、ものすごく苛々してる。何でかな?」
「え…? さ・さあ…」
 眼鏡を押し上げる仕草に表情の大半を隠し、雨竜は立ち上がった。
「やっぱり、お昼いいよ。だからもうやめてくれる?」
「わ…ちょっと待てって…」
 少々やりすぎたのだという事に、今更気付く。
 普通、ネコは耳や尻尾などに触られる事はあまり好まない。特に腰の辺りから尻尾の付け根までは、嫌がるネコが多いのだ。
 雨竜は人間であってネコではないという認識が強くて、触りすぎたのだ。別に腰なんかには触ったりしていないが。
「悪かったって! もう触んねーから、座れよ!」
「…」
 出てゆこうとする前へ回り込んで、肩を掴む。肩は、人間だからいいだろう。雨竜は不満そうな顔で溜め息をつくが、それでも昼食には多少の未練があるようだ。一護の手を払うと、大人しく椅子に戻った。
 無言で、齧りかけの焼きそばパンを食べ始める。それを見て一護も、ようやく自分の弁当を広げた。
 弁当は、遊子の手作りだ。作れない日もあるけれど、頑張って毎日作ろうとしてくれる、ありがたい弁当だ。しかし、今日一護はその感謝をスッカリ忘れて事務的に箸を動かすばかりだった。
 ちらちらと、目の前の雨竜を窺いながら口を動かす。尻尾は大人しく椅子の下にぶら下がっている。耳は、食事に集中し切れない風に時折一護に向けられる。
(…幻覚、じゃねえよ…あの質感は)
 しなやかな薄い耳、手の中を通り抜ける尻尾の毛並み。
「…お前、何で耳と尻尾、付いたんだろうなー」
 あまりにも「触りたい」という欲求が膨らんでしまった為に忘れ去っていた、当初の疑問を口にする。
 雨竜はさもバカにしたように溜め息をついた。
「君にしか見えないなら、理由は君の方にあるんじゃないか?」
「…そうか?」
「何かヘンなものでも食べたとか、ヘンなものに取り憑かれたとか」
「いや、ねえよ、そーゆーのは」
 一護の方に、そういった心当たりは全くない。昨日も一昨日も、普段と変わった事もなければネコに関わる事も何もない。
 ただ唐突に───今日、雨竜はネコだったのだ。
 今朝は鞄を落としそうになる程の衝撃だったが(※ショルダーだったので大丈夫でした)、午前中ずっと見ている内に、その姿に慣れてしまった。
「お前さ、似合うよなあ、それ」
「はあ!?」
 普通、男子高校生がネコ耳と尻尾なんか付けて歩いていたら確実に───変人だ。
 ヘンはヘン、なのに、見慣れてしまうと雨竜のその姿はとても、何と言うか自然だった。
「な…何を言っているんだ!? バカにしているのか!?」
「そーじゃねえって…。耳と尻尾があった方が、うーん…分かり易いってゆーか」
「…何が、どう、分かり易いんだ…」
 雨竜の耳は警戒し、尻尾は何だか逆立ち気味で、太くなっている。それを見て、一護はやはり分かり易いな、と納得する。
「お前、教室にいる時殆ど顔変わんねーけど…意外に授業に集中してねえ時って、結構あるだろ」
「…そりゃあ、そういう時もあるけど。それが何だよ」
「俺がルキアと喋ってんの、聞いてたりさ」
「なッ! き、聞こえてくるだけだ、そんなの!」
 ムキになって否定してくる。
 そういうところは、耳や尻尾とは無関係に分かり易い。だが、顔が見えない時やポーカーフェイスの時のネコの部分は、本人に自覚がない分、非常に正直だ。
「ずっと付いたままなのか? それ」
「…そんな事、僕が知る訳ないだろ」
「だよなあ…。ま、俺だけにしか見えねーなら、いいのか」
「…」
 あんまり良くなさそうな顔で、雨竜は一護を睨む。耳は落ち着きなくぴこぴことあちこちに向けられるが、基本的には一護の様子を窺っていた。
 そんな様子が、いとおしい。
「…君のそういう顔、見た事ある人って、いるのかな…」
「え?」
「すっごい無防備。締まりがないって言うか、だらしないって言うか…気持ち悪いよ」
「…」
 そんなに猫が好きだったのかい、と複雑そうな溜め息を吐く雨竜だ。
 これは───呆れられている。
 しかし、そう言われてみて初めて、一護はとある可能性に辿り着いた。
「お前…俺の事好きなのか?」
「───はい?」
 何を言われているのか分からない、という顔が一護を見た。
 理解して欲しい、という事ではないだろうかと、一護は思ったのだ。大勢の前では殆ど感情を表さない雨竜が、そんな時何をどう思っているのかを、知って欲しいという事ではないのか? 心情は、耳と尻尾が如実に表している。それを見せたい人間、つまり一護に、自分を知って欲しいという事ではないのか?
「…今の話の流れで、何でそういう結論になる訳…」
「や、別に変な意味じゃなくて…」
 ものすごくイヤそうな顔が、一護を一瞥して逸らされる。尻尾をぴたりと体に寄せ、その先が太腿の上で落ち着く。そして耳は、耳だけは───。
 一護に向けられていた。
「否定はしないけどね」
「え?」
「…君の事は、別にもう、嫌いじゃないから」
「へえ~…」
 顔は嫌そうだけれども、耳も尻尾も落ち着いている。その科白は嘘ではないのだろう。嫌そうな顔は、それを認めたくないけれど、という意味か。
「でも、苦手な事に変わりはないな…」
「苦手?」
「君が死神になってなかったら、言葉を交わす事もなかっただろうしね」
「…だよなあ…」
 雨竜は淡々としていた。ふたつ目のパンを手にとって、パッケージを破る。何をしていてもすましているようにしか見えない雨竜だが、別に気取っている訳ではない事は、一護はもう知っている。それに大抵の場合、ネコはすましているように見えるものだ。
「俺も、お前みたいなタイプとは縁なかったな。それってやっぱ苦手だからか。もう慣れたけど」
「慣れたかい?」
「あー、お前限定な」
 こんなタイプはひとりいれば充分だ。
 何気なく言ってから雨竜を見て、一護は箸が止まった。雨竜が笑っていた。
 それは苦笑というものだったのだが、雨竜の笑顔などは滅多に見られるものではないのだ。いや、そもそも一護は、そんなものを見た事があっただろうか? ぽかんと口を開けて、一護はその横顔を見た。
「…そんなに気になる訳?」
「へッ!?」
 長く見すぎた。
 ちらと振り向く雨竜と目が合う。
「朽木さんとか、井上さんだったら良かったのにね」
「は!?」
「そしたら、触る口実になるだろ。…いや、却って変態扱いされるかな、やっぱり」
「…」
 耳と尻尾の事らしい。
 苦笑といえども、笑顔は笑顔。笑顔に気を取られていた一護は耳と尻尾の事は忘れていたのだが、それは何だか言えなかった。
 
 
 結局───。
 一護は午後の授業の間も雨竜の後ろ姿に釘付けだった(※クラスメイトにはそれは、睨んでいるようにしか見えませんでしたが)。
 やはり耳と尻尾はあるままで、その姿は酷く一護の関心を煽る。しかも、その耳は明らかに、午前中よりも頻繁に一護の様子を窺ってこちらを向くのだ。
(成績下がったら石田のせいだ…)
 放課後は一護は教室で内装の準備、雨竜は家庭科室でメイド服作成なので、顔を合わせる事はない。雨竜(のあの姿)が見えなければ、一護はいつも通りだったし、文化祭の準備だってはかどる。だが授業中はどうしてもあの姿が、強制的に視界に入るのだ。
 この先どうしよう、と途方に暮れつつも、雨竜のネコ姿はそのままでいて欲しいとも思う。
 一護は複雑だった。
 けれど、翌日更に複雑な事になるとは、この日一護は想像すら付かなかったのだった。

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