誰にも言えない:後編

 耳が見える───と一護は言った。
 ネコの耳が見えるのだ、と。
 尻尾も。
 そして、触りたいと言った。
 雨竜には、何が何だか、サッパリだった。

*     *     *


 昨日、雨竜はいつも通りだった。いや、土日に家でも出来る小物類の作成をしていたので、いつもよりは多少疲れも出ていたかも知れない。手芸部として出品する作品ももう2~3点は作りたいから、スケジュールを詰めていた事は確かだ。手芸部では作品の販売もする。その売上は出品者に入るので、雨竜としては臨時収入を得るまたとないチャンスでもあるのだ。
 だが、いくら普段より疲れていたと言っても、耳と尻尾が生えてくる理由にはならない。
(黒崎がおかしい)
 昼休み、耳に触りたいと言われた時には、文字通り自分の耳を疑った。じりじりと間合いを詰めてくる一護に、殆ど逃げ出したい気分になった。いくら言い合いをするような仲になったとは言え、そんな鼻息荒く迫られたらドン引きだ。
(黒崎は変態だったのか!?)
 一護がどんな趣味を持っていようと、差別する気はない。だがその矛先が自分に向くとなると、実際問題として関わりたくない雨竜だ。
 しかも、ネコ耳だって?
(…何か変な薬やってるんじゃ…)
 そんな幻覚は聞いた事がない。実際、鏡に映した自分の頭は普段通りで、腰を見たって尻尾なんか生えてはいなかった。大体、本当に尻尾が生えていたとしてそれが見える状態だったとすれば、雨竜の制服には穴が開いていた事になってしまう。
(…馬鹿々々しい…)
 朝から一護の様子がおかしかった理由は分かったものの、雨竜としては彼の見る幻覚なんて、理解しようもなかった。だから、明日も昼食をおごるからという彼の科白にも、心が動かされてしまったのだ。
 耳と尻尾は、一護の幻覚でしかない。
 雨竜自身には知覚出来ないものに触られたとしても、実は実害なんかないのだ。両手の塞がっていた一護が何やら雨竜の頭上に息を吹きかけているらしい様子には、正直腰が引けていたのだが。
 昼食をおごる。
 ああ───なんて魅惑的な科白だろう!
 実は、先月と今月の家計はピンチの雨竜だった。文化祭で販売する為の作品を作るには、当然材料を買い揃えなければならない。先行投資と言うべきだろうか、とにかく材料がなければ何も出来ない。今までの残りものだけで作るには、文化祭という舞台は大きすぎるのだ。ちなみに、文化祭で売れ残ったら馴染みの手芸店で買い取って貰う約束を取り付けてある。金銭的にリスキーな事は出来ない家庭の事情がある。
 とにかくそんな理由で、真っ先に食費を切り詰めた。一人暮らしなので、誰に文句を言われる事もない。
 だが、当然腹は減る。
 米はお粥にして量を増やし、スーパーで29円で売っているモヤシと無料で分けて貰うパンの耳に頼る生活が続いていた。冷蔵庫に残る佃煮も底を尽き、つまりおかずはモヤシ炒めオンリーとなっていた。おかずらしいおかずは、家ではここ2週間程口にしていなかった。
 だから───。
『明日も昼メシおごってやるから!!!』
 一護の科白にときめいてしまうのも、仕方のない話だったのだ───。
 しかし、自分には見えないものに触りたがる一護は、やはりちょっと気持ち悪い。それで、試しに「今週ずっとおごってくれるなら」と言ってみたのだ。
 いくら学食が安いとは言え、1週間分ともなれば、バイトもしていない学生には少々負担だ。それに怯んで解放してくれればありがたいし、了承するならそれもありがたい。
そして、異様とも言える執着を見せる一護は、その要求を呑んだのだった。
 しかし───。
 奇妙な事に、心がざわめいた。
 触れられる感覚はない。
 そう、確かな感覚などないのだ。
 なのに、酷くざわざわと神経が逆立った。ある筈のない耳に触ってご満悦の一護が、正面から抱きつくように背後に手を伸ばす頃には、心のざわめきはピークに達していた。
 苛立ちに神経がささくれて、全てがどうでもよくなった。
 けれど、謝られてなだめられて、一口齧っただけの焼きそばパンに後ろ髪を引かれて、有耶無耶になった。一護に悪気がない事は分かっていたし、冷静になれば、耳と尻尾の存在なんて彼の幻覚に過ぎないという事も思い出せた。
 だが───。
 いつまでこの状態が続くのだろうか、それを考えると気の滅入る雨竜だった。一護が目を輝かせてウットリと見ているのは、彼にしか見えない耳と尻尾だ。しかし、傍からは多分、どう考えても───雨竜を見ているようにしか見えないだろう。
 別に、一護がホモだと思われたって痛くも痒くもない。だがその一護が見つめるのが自分では、自分までもがホモだと思われかねないではないか!
(そ…それは…、嫌だ…)
 歯を磨く、鏡の中の自分を見る。
 やはりネコ耳など見えない、いつも通りの見慣れた顔があるだけだ。
 今日も昨日のように、授業中はひたすら後ろから見つめられ続け、昼休みには正面切って間近に見つめられるのだろうか。それを思うと少々ナーバスになる雨竜だ。だが、学校に行かない訳にもゆかない。諦め気味に溜め息をつくと、朝食抜きの腹をさすりながら、アパートを出るのだった。


 気が乗らなかったせいで、昨日より少々遅れて学校に到着した。下駄箱で、ふと13番の区画が目に入り、雨竜はげんなりした。13番は一護の靴箱で、彼が既に登校している事が分かってしまったからだった。
(ああ…)
 クラスには、もう一護が来ている。扉を開けて目が合った時を想像すると、登校したばかりだけれど下校したくなってしまう。
(…そういう訳には、いかないけどね…)
 昨日よりは慣れていて、あんまり間の抜けた顔で見られないといいなあ、と思う。
 しかし───雨竜は教室の扉を開けて、愕然とする事になる。
 一護は、もうそこにいた。
 ガラガラ、という引き戸の音に振り向いて、当然雨竜と目が合った。一護は少々複雑そうな顔をしたのだが、雨竜はそれに気付けない。仕上がった3人分のメイド服が入った大きな紙袋は、バサリと音を立てて雨竜の手から滑り落ちた。
 雨竜は口を開けて、しかしそのまま固まった。
 雨竜は一護を凝視した。
 さすがに様子がおかしいと、一護は立ち上がって雨竜に向かって歩き始める。
 まずい、まずい、まずい。
 しかしどうしようもなくて、雨竜はひたすら一護と見つめ合う破目となる。
(な───何て事だ…)
 目眩がする。
 どうしたんだ、と首を傾げる一護を、雨竜は可愛いと思った。
 可愛い。
 可愛いぞ、君。
 何て可愛いんだ!
「は…反則だ…!」
「な、なにが?」
 顔をしかめて、訳の分からない風に一護は雨竜を覗き込む。
 恐い顔を近付けたってムダだ。
 雨竜はこめかみに指先を当てる。
 どんなにしかめ面をしようとも───。
 一護の頭には可愛らしい耳があり、体の正面からだって左右にはみ出る程に振られる尻尾が、雨竜には見えているのだから!


(イヌ…だな…)
 授業が始まっても、昨日とは正反対の意味で集中なんか出来ずにいた。振り返りたいのを鋼の意志で戒め、朝に見た一護の姿を心の中で反芻する。
 逆立てられたオレンジ色の髪に紛れるように、ちょこんと覗く耳。くるりと上向きに巻かれたふさふさの尻尾。
(…イヌ……)
 しかも柴っぽい。
 色のせいもあるだろう。明るいその髪と同じ色の、小さな耳と元気な尻尾。
 後方から、一護とルキアの会話がぼそぼそと聞こえて、思わず聞き耳を立てる。けれど、授業中の小声の私語は言葉の粒までは聞き取れない。
 幻覚か。
 これが、幻覚なのか?
 昨日一護に言った事は、そのまま今日の自分に当て嵌まる。ちょっと血の気が引く雨竜だ。
(まさか、昨日の黒崎が僕に何か悪影響を…?)
 ありえない、とは言い切れないだろう。
 しかし、完全に外的要因で一護の目に雨竜がネコに見えていたというのならば、今日雨竜の目には一護もネコに見えなければおかしい、という事にもなってしまう。精神的な事が原因なのか、それとも複合的なものなのか。
 実は、雨竜は小学校低学年の頃、犬を飼っていた事があった。
 柴である。
 不幸にも、一年程で交通事故に遭って死んでしまった。
(ミルヒ…)
 ミルクをよく飲んだ柴の子に、同じ意味の『ミルヒ』と名付けた事を思い出す。雨竜とは仲良しで、いつも全身で「大好き!」と飛びかかってくるミルヒは、くるりと巻いた小さな尻尾を懸命に振っていた。
 もしかして、そんな記憶も影響しているのだろうか?
(…そうかも知れない)
 朝、目の前にやってきた一護の姿を思い出す。
 厚みのある耳、綿毛のような産毛、ぱたぱたと振られる尻尾。少々首を傾げて雨竜を窺う様子は、ミルヒと良く似た仕草だった。
(ま…まさか、黒崎はミルヒの生まれ変わり…!?)
 そんな訳はない。一瞬はっとしてしまった自分が恥ずかしい。
(でも、似てる…)
 似ている、というのはミルヒに限定せずとも、犬全般に言える事なのだろう。そして、犬が尻尾を振るのは、好意と興味の証。
 多分、一護は自分を好きなのだ、と雨竜は思う。
 あんな風に尻尾を振られては、例え口でどんな事を言おうとも、微笑ましいとしか言いようがない。
(やっぱり、皆には見えてないみたいだな…)
 あれが他の人間にも見えていたら───。
 雨竜は密かに笑った。
 あれが見えていたら、一護にケンカを吹っかける輩の数は、まず減るだろう。女子には人気も出るかも知れない。元気がある時とない時、好きな人間と嫌いな人間、そんな事も一目瞭然なのだ。
 そして、多分、雨竜は好かれている。
 悪い気はしなかった。
 イヌ耳と尻尾がなかった昨日までだったら、好かれてるなんて思ったら鳥肌モノだった事だろう。いや、そもそも好かれてるなどとは、想像もしなかった。
『お前、俺の事好きなのか?』
 不意に一護の声が蘇って、何となく落ち着かなくなる。猫の事は詳しくないのだが、昨日、自分はネコ的に一護に好意を見せていたのだろうか?
 変な意味じゃなくて、と言ったのも今なら良く理解出来る。雨竜はミルヒが好きだったし、ミルヒも雨竜が好きだった。恋愛的な意味合いなどない、単純な好意。
(…それって、友達…って事、かな…?)
 不思議な感覚が沸き起こる。
 雨竜は、一護を友達だと思った事はなかった。最初に自分が突っかかったせいもあるけれど、昨日本人に言った通り、何事もなければ一護のような人間とは本来相容れない。縁なんて、なかった筈の種類の人間。
 この夏、行動は殆ど別になったとは言え、一緒に旅をした。だがそれは、仲良しだからなんて事では、なかったのだ。
 けれど、一護は今、雨竜に好意を向けている。
 イヌ耳と尻尾の原因は定かではない。しかし、彼が好意を向けている事は目に見えている事実に他ならないのだ。
 常にしかめ面の一護、それにイヌ耳と尻尾が付いただけで、こんなにも───愛らしい。好かれて悪い気がしないのも、仕方のない事なのだ。
 ただし───。
 常に難しい顔の自分にネコ耳と尻尾が付いた姿を想像してみる事は、雨竜には全く思い付かなかった。


「石田…」
 ある意味地獄のような4時間がようやく過ぎ、昼休みに入ると、一護が遠慮がちに声をかけてきた。その耳はまっすぐこちらに向けられていて、尻尾は今は神妙だ。
「ああ…うん」
 ちょっと忘れていたが、一護のお目当ては雨竜のネコ耳と尻尾だ。朝はそれで憂鬱だったけれど、今は2人きりになれるのはありがたい、と言うか嬉しい。昨日と同じように2人で連れ立って、騒がしい教室を後にした。
 学食で調理パンと飲み物を買って貰って、職員室へ寄り家庭科室の鍵を借りる。雨竜が手芸部の部長だという事は殆どの教師が知っていたし、文化祭も近い事から、昨日と同様余計な事は何も聞かれない。
 家庭科室の奥にある小部屋は、準備室だ。今の時期、家庭科室はミシンが机の上に出されたままになっている。昼食を取るには少々落ち着かないだろうと思って、準備室を選んだ。それも、昨日と同じだった。椅子を引き寄せ、座るなり一護は口を開いた。
「なくなっちまったんだな」
「え?」
 何を言われたのか、一瞬分からない。
 しかし、残念そうな一護の顔に、耳と尻尾の事だと思い当たる。
 確認するように顔を近付けて、一護は雨竜の頭をまじまじと見つめ、それだけでは足りず手を伸ばして黒髪をかき分ける。
「ちょっと…」
 ブレザーの裾まで捲って尻尾もない事を認めると、一護は溜め息をついた。
(…く…黒崎…!)
 オレンジ色の耳が───。
 力なく垂れた。
 心なしか、尻尾も垂れ気味だ。
「あーあ、ホントに幻覚だったのかよ…」
「…」
 そう言えば、今朝はイヌ耳と尻尾の衝撃で殆ど気にかけられなかったけれど、複雑そうな顔をしていたのはこのせいだったのか。
「て事は…僕は君にお昼をおごって貰う理由がなくなった…?」
「え? いや…それは別に…」
 確か、昨日「触りたい」と言われた時「昼食1週間分」と交換条件にしたのだから、都合良く解釈すれば、昨日のおさわり1回イコール昼食1週間分となる。けれど、それはさすがの雨竜も気が引けた。
「君にはまだ耳と尻尾が見えてるのかと思って、買わせちゃったけど…」
「や、いいって。そーゆー約束で昨日、触ったんだし…」
「…そう? じゃ、今日はありがたく…頂くよ」
 おう、と小さく返す一護は、それでも全身でガッカリを表現している。
 顔は、普段と殆ど変わらない。それだけ見れば、もうこの件はこれで終了、と思えたかも知れない。
 けれど肩は少々落ちているし、耳も尻尾も元気なく垂れてしまっているのだ。
(か…かわ…、かわい…ッ!)
 思わず、笑いを噛み殺すのを忘れる。
 ぎょっとしたように顔を上げた一護と、目が合った。
 オレンジ色の小さな耳が、ぴんと立ち上がる。今更笑いを隠すなんて、出来はしない。雨竜はそれでも一応、顔は背けて控えめに笑った。
「い、石田…?」
 一護にイヌ耳と尻尾が見えるだなんて、雨竜は言うつもりはなかった。こんなバカバカしい幻覚、無視してしまうのが一番だ、という結論だった。
 だが───。
 それはなかなか、難しい。
 ちらと窺い見ると、怪訝そうな顔つきでこちらを睨んでいる。耳と尻尾がなかったら、ただ単に「何笑ってやがる」としか見えないのだが。
ぴんと立てられた耳はアンテナのように雨竜を窺い、何故か尻尾は、振られ始めるのだ。
「黒崎…ッ」
 それじゃあ、あんまりだ!
 しかも、名前を呼ぶと尻尾は更に早くなる。
 それじゃあホントに、犬みたいだ!
「おい、石田…? どうした?」
 弁当を机の上に置いて、一護は更に覗き込んでくる。一体何がそんなに嬉しいのだろう? 一護の尻尾は、もはや高速だった。
(ああ…!!!)
 もうどうなってもいい!
 雨竜も昼食どころではない。ぽんぽんと膝を叩いて、一護を呼んだ。
「おいで、黒崎」
 こんなに笑っては、いかに相手が一護だからと言っても失礼だ、とは分かっている。だが雨竜には、もうどうにも止めようがない。
 雨竜の仕草に、一護はきょとんとなる。
 そんな姿も、愛らしい。
「黒崎」
 尻尾は止まらない。
 高速すぎて、体の両側に見える尻尾はまるで分身の術だ。その顔だけは怪訝そうに、しかしおずおずと雨竜の前に立つ。犬の自覚のない一護が果たしてどうするのか、雨竜はじっと見守る。
「…何が可笑しいんだよ」
 ふてくされたような、少々脅しを聞かせた一護の声。
 だが、ムダだ。
 だって、尻尾が───!
「…」
 再び堪え切れなくなった笑いに、口元を手で隠すが一護には逆効果だ。苛立たしげな顔で舌打ちをして、しかし椅子には戻らずに、雨竜のブレザーの胸倉を掴んだ。
 もう、ダメだ!
「あっはっは!」
 雨竜はとうとう、声を上げて笑った。飛びついてきた子犬を抱き止める仕草で一護を迎える。
「な…な…!?」
「君、そんなに僕の事好きだったの?」
「はあ!?」
 後頭部の辺りを撫でてやりながら、雨竜は至近距離の一護を覗く。
「…振りすぎだよ、…尻尾」
「………」
 何だとお、という悲鳴のような叫びは、一瞬も二瞬も間を置いた後ようやく、一護の口から飛び出した。


「…いつからだよ」
「今朝から、ずっと」
 一護は床に胡座をかき、雨竜の膝に顎を乗せている。椅子に座る雨竜からは、それまでよりハッキリと尻尾の様子が見えて微笑ましい。
 手を頭の上にかざすと、ぺたりと耳が後ろへ伏せられて、撫でられるのを待つ。
「やっぱり、他の人には見えないみたいだね」
「…」
 見えてたまるか、とぶつぶつ呟く一護の頭を雨竜はよしよしと撫でてやる。
「昨日の僕の気持ち、分かった?」
「…。あー」
 額の辺りから耳の間、耳の後ろから後頭部と、昔ミルヒにしてやったように優しく撫でる。一護の返事は半分上の空だ。
「…君は、触られるの平気みたいだね…」
「…。ん」
 自分は昨日、あれだけ苛立ったのにと思う。
 親指の腹で眉間を解すように撫でると、意外にも素直に和らいだ。そうしていれば、随分幼く見えもする。うっとりと目を細めて、まるで今にも眠ってしまうのではという風情だが、尻尾の状態を見ればそうでもない事が良く分かる。
(…は、激しいな…)
 頭を撫でられる事に抵抗を感じるどころか、何やらとてもそれを望んでいるように見える。誘われるまま、雨竜はオレンジ色の頭を引っ掻き回してやる。
 イヌ耳の付け根を、後ろから辿る。
(…繋がってる…)
 一護は特に嫌がる素振りも見せない。
 髪と同質の毛で覆われる耳は、やはり内側は一護の頭の内部に続いているようにしか見えなくて、雨竜は複雑な気分になった。
 昨日、自分の頭がこうだったのだろう。
 先に一護の目がおかしくなって状況を聞いていたから、今雨竜は大したショックを感じていないだけなのだ。昨日、何の前触れもなくイヌ耳と尻尾が見えていたら、やはり自分は相当奇異の目に晒された事だろう。一護が先で良かった、と少々卑怯な事を思う。
「あー…」
 耳やら頭やらを撫で続けて貰って、一護は溜め息と共に声を漏らす。
「お前、触るの上手いなー…」
「そう?」
 マッサージでも受けているような声に、雨竜は苦笑した。
「君は下手だったよ」
「…!!!」
 がば、と上げられた顔は、殆ど真っ赤だった。
「わ、わ…悪かったなあ! 下手クソで!!」
「別に悪いなんて…」
 もう自分にはネコ耳も尻尾もないので、雨竜にとっては過ぎた事だ。しかし、俄に頭に血が昇った一護は、雨竜の腰にタックルをかけた。
「ちょ、ちょっと…!」
 ガタン、と大袈裟な音を立てて椅子がひっくり返る。床になぎ倒されるのを察知して、取り敢えず頭だけは庇ってみる雨竜だ。けれど、元々床に座っていた一護に引きずられただけなので、体のどこも痛みはしなかった。
「黒崎」
 目の前に、オレンジ色の髪と、小さな耳。顔を真っ赤にして抗議のまなざしを寄越す一護に、雨竜は思わず吹き出した。
(か、可愛…!)
 しかし、一護の方はその事に更にショックを受けた。ギリギリと歯噛みして、耳と尻尾がなければ相当コワイ顔である。しかも、雨竜を床に押し付けて、いわゆるマウントポジションを取っている。
「こら、黒崎」
 笑いながらも、雨竜は一護を窘めた。犬のしつけ上、マウントポジションを取られるのは良くない。その人間よりも優位にあると勘違いしてしまうのだ。
「いい子だから、降りなさい」
「ッ!!!」
 上半身を起こしながら、顔を押し遣る。
 一護はと言うと、二の句が継げないというように口をぱくぱくさせて、雨竜を凝視していた。イヌ耳をぷるぷると震えさせ、雨竜の行動に衝撃を受けているのだろうか?
 そこで雨竜は、はっとした。
 一護はイヌではない。
 イヌ耳と尻尾は、雨竜にしか見えない。そしてそれは、一護自身にも見えていない。一護には犬の自覚などないのだ。
(しまった)
 それを、犬扱いしてしまった。
 犬ではないし、プロレスごっこをしている訳でもないのだから、別に腹の上に乗っかられたといって慌てる事はなかった。
「…黒崎?」
 それでもまだ腿の上に跨がったままの一護を、雨竜は覗き込む。俯いて、イヌ耳どころか肩まで震わせている様子には少々良心が咎める雨竜だ。
(き、傷付けちゃった…かな…?)
 うう、と小さく唸って一護が顔を僅かばかり上げる。
 上目遣いに睨むその目は潤んでいて、顔は赤く染まっていて、心が痛むのに───その頭にイヌ耳が付いているというだけで、雨竜の頬は緩んでしまう。
 そんな雨竜をどう思ったのか?
 一護は「わん!」と一吠えすると、再び雨竜に飛びかかったのだった。


「こ、こらっ黒崎! あはは、ちょっと…!」
 全身で「好き」を表現する一護に、雨竜はたまらず声を上げた。
 肩を床に押し付けられ、顔を寄せられ、少々荒めの吐息がかかる。久し振りのシチュエイションに、雨竜は(一護には悪いと思いつつも)嬉しくて仕方がなかった。何しろ、犬にじゃれつかれるのは7年振りの事なのだ。
「あはは、ダメだよ、ん、んんっ」
 唇の辺りを舐められ、更に口を塞がれ、しかし肩越しに垣間見える尻尾に雨竜の笑いは止まらない。ちぎれそうな程振られる、くるりと巻いたふさふさの尻尾。
「くすぐったいって! あは、あはは!」
 耳朶を甘咬みされて眼鏡が外れかける。視界はちぐはぐになるけれど、雨竜は構わず一護の頭に手を伸ばした。両手でくしゃくしゃと撫でてやると、頭を上げる一護と目が合う。
 そんな切ない顔をしなくても、と思うと同時に再び口を塞がれた。舌が口の中にまで入り込むので、ちょっと不衛生じゃないかなと雨竜は思う。けれど、犬が口元を舐めるのは甘えの仕草だ。それを思うと、はね除けるのは可哀想な気もする。
 しばらくして気が済んだのか、一護はようやく顔を離した。覆い被さる格好のまま見つめてくるその頬は、やはりまだ赤い。
「い…石田…」
「ん?」
 何故かイヌ耳がへたりとなって、落胆したような雰囲気で、雨竜はきゅんとなる。
(か、飼いたいなあ、これ…)
 よもや、一護を見て胸がときめくなどとは、昨日までは思いも寄らなかった事だ。ああ、しかし雨竜のアパートはペット不可なのだ。こんな大型犬ではエサ代もバカにならないし、経済的にも難しいだろう。
 そんな事を考えた時だった。
 ガラリ、と扉が開いた。
 雨竜と一護の視線の先に、ルキアが立っていた。
「い…ぃ…一護ォお!!!」
 雨竜に覆い被さる一護を見て真っ青になったルキアは、素っ頓狂に悲鳴を上げた。


 そこへ直れ、と人さし指を突き付けられて、一護はあぶら汗をタラタラと流しながら正座する。
「い…石田…、その…大丈夫か?」
「え? うん…」
 差し伸べられた小さな手を取って、雨竜は立ち上がった。次いでルキアは、転がっている椅子を起こして雨竜に差し出す。促されるままそこに座って、雨竜は一護の様子をそっと窺った。
 耳が後ろへぴたりと貼り付いている。
 尻尾は元気なく、かかとの辺りに乗っている。
(そうか、朽木さんが飼い主なんだな…)
 ふてくされたような顔を明後日の方角へ向けながらも、一護の気まずそうな雰囲気は手に取るように明らかだ。
「済まなかったな、石田…」
「は?」
 ゆるゆると頭を振ってそう言うと、ルキアは溜め息を漏らした。端正な顔を悩ましげに歪め、腕を差し組み一護を睨み付ける。睨み返す一護は、顔は恐いけれど耳と尻尾は戦々恐々だ。
「昨日から様子がおかしいとは思っていたのだが…まさか校内で愚行に及ぶとは…。監督不行き届きだった」
「…何でお前にカントクされなきゃなんねーん…」
「黙れ小僧! この暴行魔が!!」
「な…ッ!?」
 一護のイヌ耳がぷるぷると震えるのは怒りのせいか、それとも怒られたせいか? 雨竜はぽかんと2人を眺めた。
「いいか、貴様が誰にどんな劣情を抱こうが、それは自由だ。だが時と場所をわきまえろ! そして相手の気持ちを考えろ!! でなければ貴様は犯罪者だぞ!?」
「れ、劣じょ…ッ、つーか、別に俺は…」
「言い訳をするな見苦しいッ!!!」
「み…───!!?」
 一護は口をぱくぱくさせて、赤くなったり青くなったりしている。耳は忙しなく、尻尾はぶるぶる震えていて、見ている雨竜の哀れを誘った。
「く、朽木さん…もうその辺で…」
「石田…」
 一護はルキアに怒られている。それは雨竜の上に乗っかっている現場をルキアに見られたからだ。だとすれば、ちょっぴり嬉しかったが故に強く「どけ」と言えなかった雨竜の責任でもあるのだ。
「しつけが大事なのは分かるけど、僕も悪かったから…」
 耳と尻尾をわななかせる一護をつい庇う。だがルキアは怪訝そうに、大きな目を眇めて雨竜と一護を交互に見た。
「ま…まさか、合意の上…だったのか…?」
 合意?
 ルキアの言に、雨竜は首を傾げた。
「いや、合意も何も…急に飛びかかってきて、」
「や・やはりか…ッ!?」
「一応『ダメ』とは、まあ、言ったけど…。でも、もう少し強く言えば良かったのに、…言えなくて」
 ルキアは開いた口が塞がらないまま、目を見開いて、そしてそのまま一護を振り返る。一護は頭を抱えていた。
「…き…き…貴様に、理性はないのか…!?」
 握り拳を震わせるので、雨竜は慌ててルキアと一護の間に割って入った。
「朽木さん! 黒崎だって、悪気があった訳じゃ…」
「石田…! 貴様も、自分の事だろう!? 庇ってどうする!」
「で・でも…可哀想だよ、そんなに怒ったら…」
「可哀想!!?」
 訳が分からない、という顔でルキアは後ずさった。
 雨竜は困った。
 ルキアには、雨竜が何故一護を庇うのかが分からないのだ。今、雨竜としては耳と尻尾のある一護が可愛くて仕方がない。こんなに慕ってくれるものを、庇わずにはいられない。
 だが、考えてみれば昨日までの自分とは、明らかに態度が違うのだ。当然だ、昨日までは、ただの一度も一護が可愛いなどと思った事はない。ないのだが。
 現実に、今の一護は───可愛い。
 困っていると、不意に背後で立ち上がる気配に、雨竜は振り向いた。一護が、怒った顔で床を睨んでいた。
「…悪かったな、石田…」
 耳を伏せられたまま告げられる謝罪に、雨竜はますますきゅんとなる。
「いや、僕は別に…」
「別に!!?」
 ルキアが雨竜の科白を反復する。だが一護はそれを無視して、話題を逸らした。
「ルキア、お前、何か用があったんじゃないのかよ」
「よ、用か…用なら、済んだ…」
 そうだ、ルキアは偶然家庭科室を通りがかった訳ではないだろう。しかし、ルキアはこめかみに指を当て、力なく溜め息を吐いた。
「こ、小島がな…『今頃石田くん襲われてたりして~』などと言うものでな…昨日貴様がおかしかったのはそういう事だったのか、と…」
「…」
 まあそういう事だったのだなと口の中で呟くルキアに、一護は蒼白となった。
「い…石田がいいなら、良いのだ…。良いが…5時間目は選択で移動だからな、遅れるなよ…」
 フラフラと出てゆくルキアを見送って、雨竜は首を傾げた。
「小島くん…?」
 ルキアは襲われてたりして~という科白を聞いて、心配して来てくれたのだ。しかし、雨竜が一護に襲われるという事態を、水色はどう考え至ったのか。
「まさか、小島くんにも、君の耳と尻尾…見えてた…!?」
「…」
 呟きつつ振り返るが、一護からは何故か、溜め息しか返って来なかった。


 翌日───。
 案の定イヌ耳と尻尾は一護から消えていて、雨竜は酷くがっかりした。
「こんな事なら、昨日もっと一緒にいれば良かった」
「…」
 それでも今日も2人で、家庭科準備室での昼食タイムを過ごす。律儀にも一護は昼食をおごってくれて、雨竜としては(経済的に)断る気持ちが薄くて、ありがとうと言う結果になった。
 ぶづふつ言う雨竜をチラと見て、一護は力なく溜め息をつく。
「…君、昨日から溜め息多いんじゃない?」
「…」
 代わりに、口数が減った気がする。
 何やらアンニュイな視線を送られて、雨竜は戸惑った。こんな時こそ、耳と尻尾があれば真の心情を推し量る事が出来るのに。しばらく見つめても、いつも通り不機嫌な顔にしか見えなくて、雨竜は諦めてたまごサンドに手を伸ばした。
「…お前」
「え?」
 頬杖をついて、一護はその様子を眺めながら唐突に口を開く。パッケージから出したたまごサンドを手にしたまま、雨竜はきょとんと顔を上げた。
「今日も、2つ食って1つ残す気か?」
「えっ」
 ぎくりとする。
 実は昨日も一昨日も、3つ買って貰って、1つは「もうお腹一杯になったから」と持って帰っていた雨竜だ。それは当然、大事な夕食の足しにしている。
 一昨日は、3つ食べるつもりで買って貰った。だが、2つ食べたら落ち着いてしまったのだ。ここしばらく粗食&少食だったので、胃が細っていたのかも知れない。そして、昨日は一護に促されるまま前日と同じく3つ買って貰って、やはり1つは残してしまった。
 今日こそは、と思うけれど───。
 夕食が浮く事を考えると、残して持って帰ってもいいかなと思わなくもない。
「べ、別に…昨日も一昨日も、残すつもりなんて、なかったんだけど…ッ」
「…」
 考えてみれば、それはちょっと、ずるいかも知れない。
 急に申し訳ない気持ちが沸き起こってきて、雨竜は慌てた。が、一護の方は、自分で話を振っておきながらその答えを聞き流しているようだ。
「く、黒崎?」
「…あのさ」
 一護は頬杖のまま、目を逸らした。
 少し、顔が、赤い気がした。
「俺、お前の事、…好き───みたいなんだけど…」
「え? ああ…うん」
 昼食とは全く関係のない話題になって、雨竜は肩透かしを食う。
「どうしたの、今更」
「い、今更って…」
 怒ったような顔が雨竜を見る。
 まずい事を言ったかな、と雨竜も眉間を寄せるが、急におかしな事を言い出したのは一護の方なのだ。開き直って、雨竜はたまごサンドをぱくりと齧った。
「あれだけ尻尾振られて、分からない方がどうかしてるよ」
「…」
 もぐもぐと口を動かしながらのお喋りは少々お行儀が悪いけれど、一護の前なのであまり気にしない。
 そんな雨竜に何か言いかけて、しかし一護は目を逸らして舌打ちをした。
「…何が言いたい訳?」
 一護が自分を好きだという事は分かっている。
 それを今、本人が改めて口にした理由は何だろう? 雨竜は半分以上たまごサンドに気を取られたまま尋ねる。
「…お…お前は…?」
「はい?」
 マヨネーズたっぷりのたまごサンドは、学食にしては本当に美味だ。食パンだって、しっとり柔らかい。
(ん? 僕?)
 難を言えば、たまごが茹で過ぎというところだろうか。黄身がぱさぱさで、マヨネーズで和えてあるから何とかなっているが、売り物としては欠点と言える。
 で───。
 黒崎は、何だって?
「僕が、君を好きかって事かい?」
「…」
 おう、と口の中でぼそりと呟く一護の頬は、やはり少々上気している。
 雨竜は、イヌ耳と尻尾を想像して笑った。
「君、ホント…意外に可愛いよね」
「…!!!」
 一護の顔は、真っ赤になる。
 もういい、そう呟くと一護は雨竜から顔を背けたまま、弁当を広げ始めるのだった。

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