レッドゾーン・後編

 

  レッドゾーン・後編

 
 その日の放課後、一護は体育委員会に出席していた。
 一護の中学では、生徒は必ず何かしらの委員会に所属させられる。とは言え、大層なものではない。小学生の時のナントカ係、というものが委員という名称に変わったに過ぎないのだ。
 体育委員になったのは、この委員会のメイン活動が年に一度の体育祭しかなかったからだ。これさえ終われば、あとは大した活動はない。今日の会議も三学期に行われる予定のマラソン大会について、多少の意見交換がなされただけですぐに終わった。当然、一護はそのまま帰るつもりだった。
 だが、たまたま体育委員会の担当教師のひとりが、三年生の社会科の教師で───そこで数人の生徒を相手に臨時講義が始まってしまったのだ。その教師は一護のクラスは教えていなかったが、教え方が上手いと専ら評判だったので、少し聞いてみるつもりで、残ったのだ。
 結果、一、二年生達の部活動が終わる17時を過ぎても、一護はその臨時講義を聞き続けてしまった訳だった。
 中年の男性教諭は、頭のてっぺんは禿げ始めているし格好も冴えない。だが、話は抜群に上手かった。ここで授業をすると他の皆に不公平になっちゃうからなあ、と困ったように笑い、始めは質問された事について答えるだけだった。やがて話は、授業とは異なった日本史に移った。年号と出来事を覚えられないと言う生徒に、その教師は「小説を読むといいよ」と言った。お勧めの歴史小説のタイトルを幾つか挙げ、メモを取りながら読むといい、と言うのだ。
 歴史の授業は、とかく暗記問題に走り易い。しかし、ストーリーで覚えると何故その年に何の乱が起こったのか、という流れも掴める。そして何より、歴史上の人物は確かに生きていたのだと実感出来る事が大事だと言った。
 一護はいたく感心した。
 この教師は生徒を乗せるのが上手いのだ、と思った。
 一護は本は嫌いではないし、他の生徒に比べれば読んでいる方だと思う。母親の遺した本だって、あらかた読み終えている。
 自宅に帰ったところで最近はろくに勉強が進んでいなかったのだから、一護は少々得をした気分で帰途に就いたのだ。
 帰ったら、今日は社会と数学をやろう。
 気分が乗っていなければ、身になりようがないのだ。
 そうだ、その前にバッテリーをチャージしてやらないと。今日はいつもより遅くなったから、心配しているかも知れない。いや、怒っているかも。何しろ、帰ったらチャージするという約束だ。避けられていると思い込まれるのも厄介だ。
 帰りついたのは18時より少し前だった。
 もう大分暗くなった中玄関に入ると、夏梨が居間から出て来て立ち塞がった。
 その表情は、今朝と同じ。
「…雨竜、いなくなった」
 靴を脱ぎかけた、体が止まった。
「…何?」
「出たきり、戻ってない」
 怒ったような、苛立たしげな、それでいて不安そうな妹の顔を一護は訝しげに見た。
「多分、ホロウが出たんだと思う」
「虚…?」
「これ、置いて出てったから」
 突き出された拳に手を差し出すと、あのシルバーリングが渡される。
 攻撃時には外します、と言ったのは双子が一緒の時だった。
 大事にします、と。
「あんな風に出てって、戻らないのはおかしいからって…今、お父さんが探しに行ってる」
「いつ…いなくなった?」
「五時半ぐらい」
 指輪を見つめたまま、一護は後悔した。上向いた気分は、どこかへ消え失せた。委員会が終わった時点で帰っていれば良かったのだ。
 いや、そもそも───。
「一兄…何で、今日遅かった訳」
 目を上げると、夏梨の顔は非難に歪んでいた。
「ねえ、この一週間雨竜がどうしてたか、聞かなかったの?」
「…え?」
「この一週間、一兄が学校に行ってる間と寝てる間、雨竜がどうしてたか…今朝、あいつ何も言ってなかった訳?」
 夜は知らないが、昼間は───。
 医院で父親を手伝っているのではなかったか。その後は遊子を手伝って、食事の支度を───。
「…夏梨ちゃん」
 台所から遊子が出て来る。
 夏梨の袖を引いて、しかし一護の方には視線を寄越さない。夏梨はその手を振り払った。
「ずっとスリープしてたんだよ」
 スリープ?
 一護は目を眇めた。それは今朝聞いた言葉だ。バッテリーの残量が少なくなって、チャージを期待出来ないと判断したらしい雨竜がそう言った。
「でも、一兄が機嫌悪くするかも知れないから、黙ってろって。そのうち自分で言うからって」
「夏梨ちゃん」
「ねえ、一兄。使う気がないなら、あたしに頂戴」
 一護は呆然と、夏梨を見つめた。
「雨竜使う気がないなら、頂戴。あたしが使うから!」
「夏梨ちゃん…」
 夏梨は本気で言っているのだろうか?
 本気なのだ、と一護は感じた。
 一体どこまで知っているのかは分からなかったが、夏梨が本気である事だけは感じられた。業を煮やした、と言うのが正解だろう。
 メモリーを増設して貰えない雨竜は、家の中では大して役に立たない。
 メモリーが充実していれば、遊子は家事から解放されるのかも知れない。人手不足のクロサキ医院は助手を得るのかも知れない。
 メモリーが充実していれば。
 先週一護の部屋に現れた虚も、撃破出来ていたのかも、知れなかった。
「…夏梨」
 あの時負った怪我はテープで補強しただけだ。動作に支障はありませんと雨竜は言った。だが、メモリーがあればあの虚に怪我を負わされる事はなかったかも知れないのだ。
 そういう事は、雨竜は言わない。
 一護は夏梨に鞄を押し付けた。
「…あれは、俺のものだ」
 シルバーリングをポケットに捩じ込むと、一護はそのまま家を出た。
 
 
 一護は走りながら考える。
 雨竜が家を飛び出したと言うのなら、それは虚から一護を護る為だ。五時半頃と言えば、一護はまだ学校にいた時間で、つまり学校近辺に虚が出たという事だろう。
 通学路は、雨竜も知っている。
 しかし帰り道では出会わなかった。違う道だろうか、一護は普段使わない道へ入る。途中の脇道にも目を遣って、あの黒髪を探す。通りは随分と暗くなって、人が歩いているのは分かっても街灯の下に入らなければ顔の判別がつかない。
 虚はどうなったのだろうか?
 学校にいた時も帰り道でも、あの不吉な声は聞かなかった。気配でも感じる事が出来ればいいのだが、あいにく一護はそんな事を試みた事はない。初めて虚を見た時のあの感覚を思い出そうとしても、焦るばかりで上手く行かない。或いは雨竜が撃破したのか。
(…攻撃したのか?)
 ざっと血の気が引く。
 雨竜のバッテリーは残り少なかった筈だ。計算が間違いなければ、攻撃の余力などない。仮に攻撃が可能だったとしても、それなら間違いなく───動作停止、雨竜は電源が切れる。
 雨竜が家を出てから三十分は過ぎている。
 攻撃せず虚の動向を監視したというだけなら、自力で戻って来るだけの動力はある筈だ。まだ監視を続けているのであれば話は別だが、それでも一護が帰宅したのに戻って来ないのはおかしい。雨竜には一護の位置は、その霊気によって分かるのだ。
(攻撃したのか)
 攻撃して、霊力を使い果たしたのか。
 ならば、どこかに倒れているのか? とすれば、道ゆく人間の顔を確かめるのは時間の無駄だ。
「一護ッ」
「! 親父ッ」
 白衣のままの父親と、交差点で出会う。
 父親の方はそれとなく探している雰囲気で、一護とは対照的に息を切らしたりはしていない。だがその顔は、白衣のまま探しに出た真剣さを表していた。
「夏梨たちに聞いたか? 二丁目は大体見たけど、いなかったな」
「…俺は、家からここまで、今…」
「人目につくような真似はしないと思うがな…一応大通りの方も行ってみるか」
「…」
 一護は唇を噛んだ。
 父親も、雨竜の事情は知っていたようだ。
「…親父、人間が倒れてると思って、病院運ばれたりしてねェかな…」
「あー、一応知り合いの医者にはそれとなく言ってある。この辺りで特徴似てる奴が運ばれたら、携帯に連絡がある筈だ」
「…」
 自力で自宅に戻って来るようなら、夏梨と遊子が電話して来る筈だしな、と続けて言う。
 父親は、さすがに大人だ。
 一護は俯いた。
 父親は、そんな息子を見て笑った。
「どうした、一護! あんなパソコンはいらねーって喚いてた割には、顔が深刻だぞう? んん?」
「…」
「何とか言え、ホラ」
「…いらなく、ない」
 もはや手遅れだ、と一護は思う。
 父親は驚いた顔だ。
「…いた方がいい。多分、だけど…」
「…そうか」
 二度護られた。いや、今回もそうだとしたら三度だ。
 雨竜から虚というものについて知らされていなければ、何の予備知識もなかった筈なのだ。そんな状態でひとりで虚と対峙していたら、どうなっていただろうか? 雨竜がいなかったらなどという想像は、もはや手遅れでしかないのだ。
「よし、お前、三丁目の方見て来い。あっちにゃ団地も多いから、目立たないようなとこ、見逃すなよ」
「…分かった。親父は?」
「ここら辺りから、中学の方を確認してくる」
 励まされるように肩を叩かれて、一護は不機嫌な顔を上げる。
「今六時過ぎか…七時に一回、携帯に連絡くれ。七時までに見つかった時もな」
 唇を引き結んで、一護は頷いた。
 父親は、笑ったようだった。
 
 
 寒い、という事にも気付かずに一護は制服のまま走り、雨竜を探す。
 倒れているのか、それともまだ動いているのか。バッテリー切れで倒れている可能性の方が高いが、それでも道をゆく人間の顔も確かめる事をやめられない。走って息の荒い中学生を、周囲の人間は胡散臭げに見遣るばかりだ。
 今は通勤者の帰宅の時間帯であり、駅からこちらの住宅街に流れてくる人間は意外に多い。父親に言われた三丁目をくまなく探索するのに三十分以上はかかっただろうか、それでも雨竜を見つけられなかった。
「すいませんッ」
 通りがかる人間を掴まえて、とうとう一護は尋ねる事まで始める。
「あのッ、人を探してるんですけど…ッ」
 しかし、帰宅を急ぐ年配の男性は煩そうに顔をしかめ、立ち止まってもくれない。若い女性や中年の女性などはあからさまに、声をかけられる前から一護を避ける。
 普段ならこんな風に見知らぬ人間に声をかけたりしないし、もしする事があっても声をかけた人間を逃がしはしない。だが、今は気ばかり焦って、立ち去る人間を引き止める手段すら思い付かない。
 一護は空座町三丁目を抜け、駅方面や中学から離れた住宅街に入る。どちらかと言えば自宅や小学校に近い場所で、すぐ側に商店街もあるのに人通りは少なかった。
(畜生)
 小学生の頃には散々探検し尽くしたエリアで、馴染みは深い場所の筈だった。なのに、暗いというだけでこんなにも様相が違うという事に苛立ちを感じる。まばらに歩く人間に、尋いてみようかと逡巡した、その時だった。
「あら…黒崎くん?」
 息を呑んで振り返った。
 街灯の下、知った顔がそこにあった。
 生活圏なのだから知り合いや友人がいてもおかしくない、だが今という時に出会った事に、感動すらした。
「ああ、やっぱり。卒業式以来だから、三年ぶり?」
「…あ」
 名前は覚えていない、だが確かに見覚えのある顔。中年と言うよりはもう少し高齢の、優しそうな女性。その科白から小学校の関係者だと推測し、次いで保健教諭である事を思い出した。スーパーの袋を下げて、買い物帰りのようだ。
「…保健室の、センセー?」
「やあだ、大きくなったわねぇ!」
 高学年の時には特に、主にケンカで保健室の世話になった。背が急激に伸びたのは中学に入ってからで、彼女は驚いたように笑う。
「結構ご近所なのに、やっぱり卒業しちゃうと中々会わないものねぇ。元気? ケンカは控えめにしてる? 中学はどうなの、もうすぐ高校受験よね」
「センセー、俺、今人探してんだけど…ッ」
「えぇ?」
 散々頭をはたかれながら応急手当を受けた事を思い出す。だがそれ以上に、今の一護の頭には占めるものがあった。
「男で、背は俺ぐらいで、黒髪で…ッ、どっかで倒れてるかも知れなくて…あー…ちょっと体弱い奴だから…」
「まあ…お友達?」
「や、えーと…いとこ」
「そう…心配ね…」
 同情気味に声のトーンを落とす保健教諭は、しかし心当たりはなさそうだった。一護は落胆を隠せない。
「そういう子、見かけたら…連絡するわね。おうちには誰かいらっしゃる?」
「…妹が…。あ、電話番号…」
「ああ、分かると思うわ。クロサキ医院でしょ?」
「はい…」
 慰めるように笑いかける保健教諭にお願いしますと頭を下げ、一護は歩き始めた。走る気力は、失われていた。
「黒崎くん」
 十メートルも行かないうちに、再び声がかけられた。保健教諭は小走りに近付いて、戸惑ったように言った。
「ちょっと様子がおかしい子なら、見たわ」
「…え?」
 手を口元に遣って、困惑したように続けて言う。
「こう、一軒一軒家をじろじろ眺めながら、薄着で…何にも持たないで歩いてる子がいたのよ。君の捜してる子かどうかは分からないけど、背は、そうね…君と同じぐらいで、黒髪だったと思うわ。こう、長い前髪を分けててね」
 指先で前髪の形を示す。
 綺麗な顔立ちだったわ。
 一護は全身に血が巡るのを感じた。
「ど…どこで…ッ!?」
「ウチの近所よ。小学校の裏の…さっき家を出た時に見たの。十五分か、二十分ぐらい前」
「…センセー、ありがとうッ」
 言うや否や、一護は走り出した。
 暗いから気を付けなさいねと言う声は、聞こえていたが返事をする余裕は、なかった。
 小学校の裏手には、市営団地と戸建ての住宅が密集している。歩いていた、という事は攻撃アプリケーションは使わなかったのだろうか。しかし、それなら何故この辺りを歩いているだけで、戻って来ないのか? 或いは別人か、それとも既に戻っている頃なのか。
 腕時計に目を遣ると、もう七時を過ぎていた。
(そうだ、電話…)
 七時に父親に連絡を入れる約束だ。一護はまだ携帯電話を持っていない、公衆電話を探してかけるしかない。
 気がはやる。
 まだその辺りにいるかも知れない。電話をかけている間にいなくなってしまうかも知れない。
 この辺りは本当に住宅街で、公衆電話なら今来た道を戻って商店街に出なければならない。
(…いや、確か…)
 記憶を辿る。
 小学校の裏門、その斜向かいに文房具と駄菓子を扱う小さな店、その横に。
 三年前の記憶だ、もしかしたらもうないかも知れない。
(あった!)
 みすぼらしい公衆電話が、そこにはまだあった。
 シャッターの下りた古びた店先、緑色ではなく、殆ど変色した茶色のような赤。小さな雨除けがついているだけで、ボックスですらない。使えるのか、と不安になる。
 財布を出して、舌打ちした。
 カードが使えない。
 公衆電話の掠れた文字は、10円玉・100円玉と書かれていた。
「何だよ、畜生ッ!」
 小銭入れを覗くが、暗闇の中発見出来たのは500円玉一枚とアルミの軽い音。
(やっぱケータイ、必要じゃねえか!)
 高校に受かったら携帯電話の契約をして貰う約束だった。全てが噛み合わない歯痒さに、一護は公衆電話を蹴飛ばした。
(どうする…)
 出来れば家にも電話をして、雨竜が帰っていないか確認したかったのだが。
 やはりこのまま雨竜を探せという事ではないのか。一護は息が整わないまま、行くつもりだった方向へ走り出した。
 市営団地の中へ入る。
 塀やら垣根やら、入り組んだ中に倒れられたら見つけにくい事この上ない。まだ歩いているのだとしたら、先程保健教諭が言っていた通り、一軒一軒何かを確認しているのだろうか。
 ふと、団地の敷地の端に煌々と灯る明かりが目に飛び込んだ。
 自動販売機だ。
(…)
 500円玉を崩せば、あの電話を使える。まださほどの距離は走っていない。少し迷って、だが一護はそれに走り寄った。
 財布を出そうとした時、その裏手に郵便局を見つける。
「…」
 住宅の影に隠れるように、しかし夜通し点灯しているあの〒マークが。一護が小学生の頃、この郵便局は酷いオンボロだった記憶がある。あんな真新しい看板ではなかった筈だ。
 もしかして、と思い近寄ってみると、小さいままだが建て直された局社。そして思った通り、ポストの横にカード式の公衆電話を発見した。
 ついている、と思うより先に財布からテレホンカードを出し、まず父親の携帯をダイヤルする。
(…早く出ろよ)
 呼び出し音を聞きながら、一護は苛々と周囲を見回す。こうしている間にも、雨竜は移動を続けているかも知れないのだ。
 郵便局の申し訳程度の駐車場、密集する住宅、背後には市営団地。人影は───ない。
(…まだかよ、親父)
 駐車場の向こう、住宅の隙間に小さな空間が見える。
 寂れた公園だ。
 市営団地の中庭が大きな公園だから、子供達はそちらに行く事が多い。あそこに見える公園には一護も覚えがあった。住宅の隙間という場所で、騒げばすぐに「煩い」と怒鳴られる。従って、あの小さな公園は昼間、ベビーカーの若奥様が少々の情報交換をするぐらいにしか使われていないのだ。
(…おい)
 一護の目はその公園に、釘付けになっていた。
 電話に、やっと父親が出た。
『一護か?』
 幾分整った呼吸で、一護は「悪ィ」と呟いた。
「かけ直す…」
『おい、どうした?』
 駐車場に車が停まっていたら、見えなかっただろう。
 郵便局に来なかったら、随分遠回りしただろう。
 自動販売機に近寄らなかったら。
 小銭を持っていて、既に用が済んでいたら。
 保健教諭に会わなかったら。
 受話器を下ろし、カードが出て来たが一護はそれに気付かない。ピピー、という音は聞こえていたが、それが『カードをお取り下さい』という意味だと気付かない。一護の目は、その小さな寂れた公園に、注がれたままだった。古い木製の、しかし丈夫なベンチの足元に、仄かに白い手が浮かび上がって見えた。
 一歩近付く。
 手の延長線上に、横顔が見えた。
 間違いようもない。
 駐車場を突っ切って、小さな柵を跨ぎ越え、最短距離で公園に入った。
 呼吸も忘れて歩み寄る。
 眠る雨竜が、そこにいた。
 
 
「石田」
 小さく囁いて、その上半身を抱え起こす。
「石田」
 冷えた体は外気によるものか、それともバッテリーが切れて時間が経ったせいか?
「おい、起きろ…」
 しかし、脱力して重い体には一向に力が戻らない。
 スリープではなく、本当にバッテリー切れなのか。
 そう思った時、不意にぱちりと目が開いた。
「石田…」
 郵便局の外灯の仄かな明かりだけが頼りの中、雨竜の目が正面の一護を捉えた事には、少なからず安堵する。
 しかし、体は動かそうとしない。
 動けないのだ、と一護は思った。
 無表情なその唇に、一護は口付けた。
 唇は冷え切っていた。少し強く押し付けると顎が動く。舌を差し入れると、雨竜の中にはまだ僅かに温度が残っている事が分かった。
 ぶうん、と何か駆動音のような微細な振動が起こる。
 雨竜が身じろいだ。
 舌が微かに動いて、一護の方へ押し付けてくる。
 触れ合わせた舌先から、何かが流れ出している感覚。これが、自分の霊力を分けているという感覚なのだろうか。それは淡く心地良くて、一護は探るように、更に深く唇を合わせる。
 息を継ぐように唇を離し、角度を変えて再び合わせる。
 腕の中の体に温度が戻ってきた。
 舌を差し出し続けるのに疲れて少し引くと、それを追うように雨竜の舌がついてくる。薄く柔らかい舌が徐々に熱を帯びてきて、一護は何故だか酷く興奮を覚え、必死に己の舌を絡ませ続けた。
 やがて、雨竜の体が軽くなる。
 完全に一護の腕に凭れていた体に、力が戻ったのだ。その腕が動いて、一護の肩に触れた。それは縋るというよりは諌めるようで、気付いた一護は雨竜の唇を解放した。
「…大丈夫か?」
 小さく問うと、雨竜は「問題ありません」と一護の腕を抜け出した。だが、その様子は何やら神経質で、顔は強張っているようにさえ見えた。仄かな外灯で、表情は確かには分からない。それでも一護には、幾許かの違和感が湧き起こった。そしてそれは、雨竜の次の言葉で現実問題となった。
「…失礼ですが、あなたは黒崎一護様でしょうか」
 一護は耳を、疑った。
「な…何言ってんだ、お前…?」
「やむを得ない事情で、ユーザー情報は氏名以外のデータを全て消去しました。状況から判断しますと、あなたが私のオーナーである可能性が高いのですが」
「…消去?」
 何がどうなって、雨竜は一護に関するデータを捨てたのか。
 名前以外は分からない、つまり今の雨竜には、一護の顔すら分からないという事だ。顔は分からないが、自分を『石田』と呼びバッテリーをチャージした、目の前にいる人間が自分のオーナーだと判断したという事だ。
「…俺は、黒崎一護だ…」
「証明するものはございませんか」
「証明?」
 自分が黒崎一護である事の証明。
 一護は学ランの胸ポケットから、生徒手帳を取り出した。写真付きの、学生証。
 無言で手渡すと、雨竜はじっとそれを見つめ、すぐに一護に差し出した。
「あなたを私のオーナーと認識します」
 一護はほっと溜め息をつく。学生証が役に立った事など、映画以外ではこれが初めてだ。
 だが、雨竜の方にはほっとした色はなかった。表情らしい表情、感情らしい表現など、何も見せないままだ。
「消去したデータは復元が可能です。メモリーを増設して下さい」
 淡々と喋る雨竜は、そうだ、初めて柩を開けた時のあの様子そのままだった。
「…取り敢えず、帰ろうぜ」
 話はそれからだ、一護は冷えた地面からようやく立ち上がった。了解しました、無機質な声がそれに続いた。
 
 
 それから一護は郵便局の前の公衆電話に戻ると、双子の待つ家に、次いで父親に連絡を入れた。今度は忘れずにカードを抜き取って、財布にしまう。
 雨竜は黙ってついて来ている。
 オーナーの二歩後ろを歩くのは彼の基本なのだろうか? 隣を歩けよと言うと、ややあって雨竜は一護の左に移動した。
 自宅までは五分の距離だ。
 だが、押し黙ったまま歩く五分は果てしなく重い。自分の足元を見ながら、その左を歩くコンバースを確認する。
 雨竜には靴も買った。だが基本的には家の中にいる事が多い。靴を履いた姿を見るのは、一護はこれが二度目で───その二度共が、一護のお下がりのこのコンバースだ。
 一護の名前以外のデータを捨てたという事は、雨竜はそんな事も覚えていないのだろう。
 雨竜が黒崎家に来た日、一護が余計なデータを捨てろと言った時、何と言い返したか。嫌だと言ったのだ。自分にはこれだけだから、と。
 それを捨てたのは何故だ、一護の眉間は常よりも深く寄せられる。
 大体は想像がつく。
 直接の原因は虚でも、元を辿れば自分が原因なのだろう。
 ようやく辿り着いた自宅が、何故だか見慣れないもののようだった。
 
 玄関の扉を開けると、すぐに双子が奥から出てくる。
「一兄、待ちくたびれたぁッ」
「お帰りなさい、お兄ちゃん、雨竜くん! 夕飯出来てるよ!」
 夏梨も遊子ももう既に半分安心、半分呆れ顔だった。そうだろう、電話では雨竜が見つかったとしか伝えていない。
 だが、双子を見ても何の反応も示さない雨竜に、遊子は気付いたようだった。一護はわざと、それを無視する。視線を靴に落とし、脱ぎながら口を開く。
「悪かったな、遅くなって。メシ、まだ食ってねえのか?」
「ん、まあ、一応? 待ってたったゆーか」
「そうか。…親父、まだか?」
「うん。まあ、そろそろじゃない?」
 雨竜は突っ立ったままだ。一護が促してようやく、踵に手を添えて脱ぎ始める。
「…俺は、あとで食うから。先に食べてていいぞ」
「え…」
 それとなく夏梨と遊子に交互に視線を遣るが、はっきりとは見られない。家の中が明る過ぎるせいだ、と一護は思った。
「それと…ちょっと、こいつと話あるから…。邪魔、すんなよ」
 親父にもそう言っとけ、一護はそう言い残して階段を昇った。雨竜を振り返ると、おとなしくついてくる。夏梨と遊子は顔を見合わせると、分かった、と声をかけてきた。
 自室に入って、やっと落ち着く。
 明かりを灯し、カーテンを閉める。机上の時計は19時40分を示していた。風がないというだけで、随分暖かく感じる。一護は制服のまま椅子を引き寄せて座り、大きく息を吐いた。突っ立ったままの雨竜にベッドを示し、座らせる。
 雨竜は控えめにベッドに腰を下ろすと、部屋の中を見渡していた。今の雨竜にとって、この部屋は初めて見るものと同じなのだ。
 何を喋ったら良いのか、分からない。
「…申し訳ございませんでした」
 唐突に、雨竜が口を開いた。
 驚いて目を上げると、雨竜が平坦な顔でまっすぐに一護を見ていた。
「ご主人様のお怒りはごもっともです。こうなりましたのは私の不手際です」
「なに…」
 怒り?
 一護は始め、意味が分からなかった。一瞬遅れて、自分が雨竜に対して怒っていると思われている事に気付く。
「ですが、処置は適切であったとご理解下さい。攻撃アプリケーションにメモリーを割くには、出来る限りデータを捨てる必要がございました」
「…」
 一護は眉間を深く寄せたまま、訝しげに雨竜を見つめた。その雨竜に表情はない。黙ったままのオーナーに、僅かに首を傾げてみせる仕草は、だが見覚えがあって一護は顔を背けた。
 雨竜は、一護が怒っていると判断している。
 つまりその科白は言い訳で、一護をなだめようとしている事になる。
 どうしたらいいのか、分からない。
 何と言えばいいのか。
「…虚は撃破しました。…ご主人様に危害は及ばなかったものと…理解します」
 雨竜の声に変化はない。ただ、多少歯切れが悪くなった物言いに、答えがない事に困惑している様子が分かる。
「…石田」
「はい」
 違うんだ、と言っても分かって貰えるのか。
「…そうじゃ、ねえんだ」
「…は」
 言葉を探しながら、一護は雨竜の顔を見る事が出来ない。
 その、何の表情もない雨竜の顔を。
「メモリーもバッテリーも、スカスカだったのは…お前が悪い訳じゃねえんだよ」
「…理解致しかねますが…」
 どうしても、顔を向ける事が出来ない。
 体は向き合ったまま、その顔だけを横に俯けて一護は唇を噛んだ。
 そうだ、責任は自分にあると、一護は知っている。
 再び黙り込んでしまったオーナーを、雨竜は何と思うだろうか。まだ怒っていると判断するのだろうか。
「…ご主人様のデータでしたら、復元は可能です。修復アプリケーションにサルベージ機能がございますので…」
 データを捨てた事を怒っていると判断したのか、遠慮がちに雨竜はそう言う。
 違うんだ、一護は首を振った。
 逆だっただろう、と首を振った。
 捨てろと言ったのは一護で、嫌だと怒ったのは雨竜だった。
「…メモリーが、要るんだったな」
「はい」
「…バッテリーは…足りてるか?」
「現在35%です。問題ありません」
 あの公園で行ったチャージ、一体どれほどの時間をかけたかは一護は殆ど覚えていない。だがあの時、雨竜に口付ける事に躊躇はなかった。
(…)
 視線を少し動かして、机の引き出しを見つめる。
 雨竜が来た日、あのケースを放り込んでから一度も開けられない引き出しだ。接続補助剤という名の、例の潤滑剤。
 出来ない事はない、と今になって一護は思う。
 キスも出来た。
 舌を絡ませて、夢中になった。
 雨竜の顔はしっかり見ていたけれど、あの公園で、一護には何の躊躇もなかったのだ。
 ようやく一護は顔を上げた。
 雨竜と目が合う。
 雨竜の顔は冷静で、今朝頬を染めて逃げた雨竜とどうしても繋がらない。一護はどこかが痛くて、苦々しく笑った。もう一度引き出しに目を遣ると、そこからあの黒いケースを出す。
 蓋を開くと、一度も使われる事のなかったそれをひとつ手に取って、立ち上がる。
 それが何なのかを知っている雨竜は、しかし何故か───眉をひそめた。
「…ご主人様」
 近付く一護を、戸惑ったように見上げる。
 肩を押してベッドに横たえると、焦ったようにずり上がって上半身を起こすのだ。
「メモリー増設は出来ません」
 意外な科白が、雨竜の口から零れ出た。
「…何?」
「申し訳ございません…」
 ベッドに乗り上げて、一護は固まった。
 メモリーを増設して下さいと言ったのは雨竜ではなかったか?
「…メモリーがなきゃ、データの復元が出来ねえんじゃなかったっけ?」
「はい、そうです」
「なのにメモリー増設は出来ない?」
「はい、そうです」
 雨竜の戸惑ったような顔は、次第に驚愕と言える色まで見せ始める。混乱しているようだった。
 一護はひとつ、心当たりを思い出した。
「…俺が…増設はしないって言ったからか?」
「ご主人様が…?」
 雨竜はありえません、と手を額へ当てる。
「ご主人様の氏名以外のデータは消去しております。ご主人様からのコマンドも例外ではありません」
「…けど…」
「ROMに…ROMに書き込まれているのです」
 ROMはリード・オン・メモリー、読み取り専用の記憶媒体で、つまりそこに書き込まれているのなら、一護がした事ではないと雨竜は言っている。
「ですが…修復アプリケーションを使用するにはメモリーの増設は不可欠です…矛盾します…」
 雨竜は青くなって俯いた。
「矛盾…、プログラム異常です。ありえません、このような状態で出荷される事はございません。故障と…判断致します。サポートセンターへ…ご連絡を…」
 一護には、パソコンの事は良く分からない。
 今目の前で雨竜が深刻に頭を抱えている事も、一護には、だって絶対しないと言ったじゃないかと責めているようにしか見えなかった。
 表情だって、作れるじゃないか。
 表情を作る事を忘れた訳ではないのだ。それなのにずっと無表情を貫いていたのは、恐かったからではないのか。
 名前しか覚えておらず、チャージをした人間が自分のオーナーであるとは理解しながらも、その実全く見知らぬ人間なのだ。
 あの時公園で、チャージを途中で止めたのは何故だ?
 恐かったからではないのか。
 見知らぬ人間に対する警戒。
 殆ど泣きそうに混乱する雨竜の頭を、一護は抱き寄せた。
「ご主人様、申し訳ございませ…」
 体は震えている癖に、その腕は一護に縋る事をしない。
「謝るな」
「申し訳…」
「石田」
 その白い顔を両手で固定して、鼻をつき合わせる。一護の方はもう焦点など合わない距離だが、雨竜にははっきりと見えているのだろうか? 驚いたように二度、三度まばたきをする。
「俺が恐いか?」
「…いいえ。私はコンピューターです。恐怖などの感情はございません…」
「そうか。そりゃ良かった」
 言うなり、一護は口付けた。
 雨竜に抵抗はない。
 自分と同じぐらいの体温を感じて、その事に落ち着く。柔らかな唇は微かにわななくが、構わず幾度もはんだ。
 ただのキスだ。
 少し離れて顔を見る。
 再び唇を合わせる。
 また少し離れて、様子を見る。
 チャージではないキスを受けて、訳が分からないという顔をしていた雨竜がやがて身じろぎ、逃れようとし始めた。一護はそのまま肩を押して、ベッドの上に縫い止める。雨竜は、困った顔を赤く染めていた。何となく、ほっとした。
 一護は覆い被さると、今度はチャージの為のキスを落とす。
 強く押し付ける事はせず、そっと唇を触れ合わせたまま、舌先で雨竜の唇をなぞる。やがて誘われるように歯列が割れ、雨竜の舌がそれを追い始めた。
 舌が触れ合う瞬間、再びあの微かな駆動音のようなものが感じられる。
 人に何かを分け与えるという事が、一護には今まで縁がなかったように思う。この場合相手は人間ではないものの、それでも、霊力を分け与える代わりに何か別のもので満たされる気までする。
 今日という『緊急事態』なら、夏梨からチャージを受けても雨竜は立派に言い訳が出来る。なのに以前「ダメだ」と言われた雨竜は、忠実なあまりそのまま虚に立ち向かったのだ。
 もう、そんな事はさせられない。
 柔らかく合わせていた筈の唇は、いつの間にか深く雨竜を貪っていた。舌の動きと共に小さく響く水音に、耳を刺激される。片手を首の下に差し入れ、片手で肩を抱き、幾度も角度を変えては口付けた。ほんの少し離れる度に、切なそうな雨竜の顔が目に入る。背に腕の力を感じ、ようやく雨竜が縋り付いた事を知って一護は安堵した。
 やがて、あの駆動音が途絶えた。
 チャージが終わったのだなと思うけれど、一護は離れ難くて、そのままキスを繰り返す。背に回された雨竜の腕もそれを拒んではいなかった。
 さすがに自分でもおかしいなと思う。
 キスの合間に見る顔は、雨竜の顔は、男性だとしか思えない。ほんの少し前、正確には昨日の夕方まではその事で頭痛を抱えていた筈だったのだ。
 こういう事態になってしまったからか?
 いや、それ以前にも覚悟は決まっていたように思う。現に今朝だって、チャージを試みた。
 雨竜が表情を見せるようになったからか?
 目の前で、何故か赤面したりするのを見たからか?
 そんな事では、ないと思う。赤らんだり逃げ出されたりしても、男性は男性で、女性や子供がそうする様子とは別物だ。
 分からないな、一護は諦めた。
 雨竜に対して恋愛めいた感情を持っている訳ではない事は、自覚がある。
 なのに、こうして唇を合わせていれば、不思議にそんな気分になってくるのだ。体を抱く腕にも力が入り、そのラインを辿ってみる事までしている。自分の体が、熱を持ち始めている事にも、気付いている。
 雨竜はもう息も絶え絶えで、そんな様子は人間とどう区別を付ければ良いのだろう? そういうプログラムなのだと分かっていても、吐息に掠れた「ご主人様」という声を聞いて冷静ではいられない。
 服の上から体の輪郭を辿る事に飽いて、黒いシャツの下へ手を忍ばせる。
 ご主人様、引き攣れたような声が上がった。
 何度も何度も口付けながら、直に触れる肌の感触を追い続ける。人工皮膚だからなのか、それとも人工皮膚なのにと言うべきかは分からないが、やたらと繊細ですべらかで、しっとりと掌に吸い付くようで心地良い。
 その手がジーンズに行き当たって、一護ははっとした。
「…」
 少し体を浮かせて、雨竜の様子を窺う。
 雨竜はしっかりと一護の制服を掴んだまま、しかしぼんやりと見上げてくる。その目は潤み、頬は紅潮し、薄く開かれた唇は唾液に濡れている。
(…ヤバいな、俺…)
 一護は途方に暮れた。
 ゆっくりと顔を近付ければ、雨竜は決まり事のように瞳を閉じる。濡れた唇を吸い立てながら、体をずらして雨竜のジーンズのボタンに手をかけた。
 それは自分のものだった筈のジーンズなのに、片手で外すのには随分時間がかかった。
 そして、ようやくファスナーを下ろした時だった。
 急に雨竜がもがき始めた。
 唇を解放してやると、焦ったように一護の下から這い出て体を起こす。
「メモリーの、増設は…、で・出来ません…ッ!」
 その我に返ったような言い方に、一護は呆れて雨竜の真っ赤な顔を見た。
「も、申し訳ございませんが…消去したデータは、お諦め下さい…。ボイス・インタラクティブでの、再入力でしたら、…現状でも可能…です」
 ベッドについた雨竜の手は震えている。
 それは、今執拗に続けたキスのせいか、それとも恐怖のせいか?
「あの、メモリー増設は…、プログラム修正が終わったあとでしたら、可能ですから…今は…」
「…恐いのか?」
「ち、違います! 現状で増設作業を行っても、無駄になるか、新たにバグが発生する可能性が…ッ!」
「石田」
 それを『恐い』ってんだよ、一護は逃げた雨竜に体を寄せて、囁いた。するとややあって、はい、と雨竜は呟いた。
 一護は目を瞠った。
 潤み切ったその瞳から、涙が落ちた。
「この状況を恐怖と表現するなら、そうです…私は、恐い」
「い、石田…」
 一護は慌てた。
 まさか───泣く、とは。
 雨竜は震える指先で、頬を伝う涙を掬い取って悲しそうに見つめる。
「…私はこのようなコマンドは出しておりません。…既に…重大な異常が起きているものと…判断します」
「…石田」
「わ…私は果たして、ご主人様のお役に、立っていたのでしょうか…? 私は、恐い…、以前からこんなバグを抱えたままだったとしたら…」
「石田」
 違う、と一護は呟いた。
 確信ではなかったが、一護は雨竜の言うそれらの『異常』の原因は、自分にあるのだと直感していた。
「それは…バグじゃねえよ」
「…は…?」
「大丈夫だ」
「…ですが…」
 零れ落ちる涙を親指で拭ってやりながら、これは相当根が深い、と可笑しくさえ思う。
「お前は、役に立ってた」
 この潤んだ黒い瞳に、自分がどう映っているのかを想像する。
 頼りなく見えるだろうか?
 護るべき対象としか見えないだろうか?
 信じられる人間に見えているだろうか?
 雨竜の目はカメラで、ありのまましか見えようもないだろう。けれど、そのレンズに写る映像を情報として分析するのは、人工知能───つまり雨竜自身に他ならない。
「…メモリーを増設する」
 一護は宣言した。
 びくりと戦く様子が痛々しかった。
 返事はない。
 だが、一護は待った。
 一護から目を逸らし、俯き、固く握りしめた自分の手を見つめる。長い前髪が表情を隠している。
 雨竜は俯いたまま、はい、と小さな声で返事をした。
 
 
 体が───熱かった。
 怖がる雨竜をなだめすかしてまでメモリーの増設作業に臨むのは、本当に雨竜の為だろうかと疑う程だった。脱いだ制服をベッドの上から床に放る。
 雨竜の方も、観念したようにジーンズと下着をもたつく手で剥ぎ取る。畳もうとするのを見て、一護はそれを掴んで奪い、同じように床に落とした。
「…」
 実際のセックスなど経験はなかったが、何となくは分かっているつもりだった。だが、雨竜を相手に一通りの手順を踏むべきか少々悩む。
 雨竜はパソコンだ。
 人間のように扱う事が必ずしも良い事とは言えないのだとしたら、余計な事は考えなくていい。
 先程ベッドに放り出した潤滑剤に手を伸ばす。
 憔悴したようにも見える雨竜は、それでも俯せになった。黒いシャツの裾に覗く足に触れると、雨竜はびくりと体を強張らせる。何だか、悪い事をしている気分だ。本当にバグが発生する事を恐怖と感じているのだろう。
(…)
 罪悪感と不安が心を過る。
 もし、雨竜の言う通り、異常の原因が自分ではないとしたら。
 もし本当に、バグとやらが発生したら。
 一護は暗澹たる思いで笑った。
(何だよ…)
 そう考えても、体の熱は治まらないのだ。
(イカレてんの、俺の方かよ)
 理由が欲しかっただけなのかも知れないな、と認めてしまうと、ほんの少し気が軽くなった。ただし、現実的には泥濘に足を取られた状況に陥ったのだという事も、認識出来ていた。
 つまり、何をどう考えても、今ここで自分がやめる気になどならないという事が、分かってしまったのだ。
 触れた足を撫で上げる。
 どこまでも手触りが良い肌だ。
 履いていたジーンズの跡がうっすらと残っていたが、そんな事は気にならない程、すべらかだ。微かに震える体に、何かが沸き起こる。
 肌を辿って、足の付け根に指先を滑らせる。白い肌に緊張が走った。
「…ここか?」
「はい…」
 窪みに指を当てると、上ずった返事がある。
 人体を模した体。
 人間で言えば排泄の為の器官だが、雨竜は違う。そんな事に、一護は今更感動した。煌々と灯した照明の下で見ても、抵抗感など起こりようもない。そこは仄かに色付く、別のものだった。
 潤滑剤の封を切り、それを指先に掬い取る。
 とろりとしたそれを指先で摺り合わせると、燻り続けていた熱が俄にかき立てられる。一護はその指先で、そこへ触れた。ああ、と声にならない吐息が上がった。
 くすぐるように塗り付ける。
 雨竜は枕を抱くように、顔を隠した。
 探るように、そっと指先を潜り込ませる。
「…っ」
 そこは、想像していたような抵抗はまるでなかった。そのまま誘われるように指を沈めてゆく。
 その熱さに驚いた。
 潤滑剤を行き渡らせるようにぐるりと指を回すと、内壁はびくびくと締め付けてきた。
(うわ…)
 締められているのは指であるというのに、その感触はダイレクトに下半身へ伝わっていた。一旦引き抜き、今度は二本差し入れる。
 先程よりは抵抗を感じるが、侵入はそれでもまだ容易だ。内部を味わうように指先を曲げる。雨竜は、ただ震えていた。
 中は柔らかい。
 細かな襞の感触が指先をくすぐる。
 とろりとしていた潤滑剤も、その熱で溶けている。一護は残っていた潤滑剤を絞り、それを念入りに雨竜の中へ送り込んだ。ご主人様、くぐもった声に顔を上げると、困ったような涙目の雨竜が訴えてくる。
「あの…、もう……」
「え?」
「…い…インストール、可能…です…」
「…」
 今朝の、恥じらったような雨竜と重なる。
 何故だか、心のどこかが痛んだ、気がした。
 そっと指を引き抜くと、一護はいまだ怯える雨竜に顔を寄せた。
「石田」
「…はい」
 見つめて、何かが沸き起こる。
 言うべき言葉が、やっと浮かんだ。
「…ごめん」
 雨竜は驚いて、目を見開いた。至近距離の一護を、信じられないという風に見つめ、やがて慌てる。
「ご主人様…? あの…」
「ごめんな」
 重ねて言って、一護はその体を抱き締めた。
 雨竜を見つけてからずっと、何と言って良いのか分からないままだった。そうだ、謝るべきだったのに、思い付かなかった。名前以外の全てを忘れたという事実に気を取られたのか。
 体をずらし、雨竜と向き合って顔を近付ける。
 見開かれたままの瞳に居心地の悪さを感じながらも、一護はそのまま、口付けた。
 雨竜は硬直している。
 何度も啄むうちに、ようやくキスを受けているのだと認識したのか、雨竜はぎこちなく目を閉じた。
 一護も安心して、今度は深く合わせる。ふたりの唇の間で舌が触れ合うが、あの音はしない。ただ緩やかに絡め、その薄い舌を吸う。
「…ん…」
 キスの合間に、雨竜は吐息を漏らす。
 それは熱くて、どうにかなりそうだった。
「…石田」
「ん…ッ」
 雨竜は夢の中にいるように、どこかぼんやりした顔で、それでも必死に一護を見続けている。
「…大丈夫だから、心配すんな」
 返事はない。
 ただ一生懸命という風情で見つめられ、一護は笑った。
 体を起こし、雨竜を俯せにする。
 その腰を少し引き寄せて、一護は先端を宛てがった。
 雨竜は振り向かない。
 ただ、体を震わせた。
 一護はゆっくり、押し入った。
「…───う…」
 思わず呻く。
 思ったより狭い。指とは違うのだ、と当たり前の事に気付く。先端を捩じ込んだところで息をついた。
 痛みの一歩手前の感覚だ。
 雨竜に痛覚がなくて良かった、とも思う。
 そこはびくびくと痙攣するようにひくついて、一護を刺激してくる。促されるように、一護は歯を食いしばって腰を進めた。
「…ッ…」
 熱い。
 くらくらする。
 何度も息を吐きながら、ある程度まで侵入を果たして、一護はほっとした。内部は狭く、なのに柔らかい。視線を上げて雨竜の様子を窺う。
 枕に顔を擦り付けて、細かく体を震わせている。
 黒い襟に見え隠れする項の窪みが艶かしい。
 やがて、内壁が小刻みに収縮を始めた。
(わ…、ッうわ…!)
 それだけで達してしまいそうになって、一護は慌てて腰を引く。
 だが、それは逆効果だった。引きかける一護に、細かな襞が絡み付くようにそれを追うのだ。
(やべ…、)
 それは、一護が初めて得る快楽だった。
 どこかが麻痺したようで、思考が途切れる。きつかっただけの筈なのに、いつの間にか熟れたようになって、動きが自由になっていた。襞を掻き分けるように進み、流れに逆らうように引き、もはや苦痛のような快楽に意識が白んでゆく。
 ご主人様。
 頼りない声がどこからか、一護の意識に割り込んでくる。
 奥へ───。
「…、おく…?」
 はい。
 奥へ、下さい。
 意味を理解するのには労力を要した。
 言われるままに腰を打ち付け、根元まで飲み込ませる。始めは全部は入り切らなかったのに、と思い出して、しかし一護はすぐに言葉を手放した。狭いのにどこまでも柔軟な内壁、奥には先端が引っ掛かるような感触があって、一護は呻く。
 訳も分からないまま、一護は達した。
 
 
 脳裏からじりじりと、意識が戻り始める。
 ずっと聞こえていた荒い呼吸は、当然自分のものだと気付く。
 恐る恐る、雨竜の様子を窺って顔を上げる。白い横顔が見えて、それは酷く辛そうでもあり、しかし目元と頬は赤く染まっていて一護を煽る。
 足りない。
(…マジか、俺…)
 ぼんやりと戻ってきた意識で、一護は呆れたように己の状態に気付いた。
 足りない。
 それ以前に、あっという間だった事に失笑さえする。
(…カッコ悪…)
 しかし、雨竜の中に納めたままのものは、いまだにやわやわと伸縮を繰り返す内部に硬度を失わない。
「…あ…ッ、ぅ…」
 身じろぐと、雨竜の口から声が漏れた。
 引き止めるように絡み付く、同化した体温。
(すげェ…)
 振り払うように途中まで引き、再び根元まで突き入れる。
「あぁ…ッ、あっ…!?」
「悪ィ、…大丈夫か…?」
 雨竜の背に覆い被さり、その体を抱き、密着させる。雨竜は何度も頷いた。それを見て、一護はゆるゆると腰を動かし始めた。
 自分の体の下に回された一護の手に、雨竜が遠慮がちに触れてくる。突き上げると、力ない指がそれでも縋ってきた。答えるように、一護はその指を絡めて強く握った。
 目の前の項に口付ける。
 きゅ、と吸うと、雨竜は身を震わせて一護を締める。
「石田」
 目眩が起こって、しかしそこで先程とは違い、意識が幾らかはっきりと残っている事に気付いた。横顔を見せていた雨竜が、はい、と小さく返事を寄越す。
「石田…」
「…はい、」
 律儀に返事をするのが少し楽しくて、一護は繰り返して呼んでみる。
「…石田」
「はい…」
 何なのだという風に、身を捩って一護を振り向く。
 戸惑ったような顔が、熱に浮かされている。
「…ごめんな」
「あ…あの…?」
「データ、戻れば…分かるから。謝らせとけ、…な?」
「ですが…、あ…ッ」
 許してくれるといい。
 いや、怒ってくれた方がいい。
 別に『ご主人様』なんて、呼ばなくてもいい。
 柄じゃないし。
 そんな事を思いながら、許しを乞うように抱きすくめ、雨竜の首筋を小さく舐め上げる。軽く腰を揺すりながら、辿り着く耳たぶを口に含み、吸い立てる。
「ご、しゅじ…ん、さま…!」
「ん?」
 急に───雨竜は背をしならせた。
 一護の手を強く握りしめ、がくがくと体を震わせる。それと同時に内部も激しく痙攣し、きゅう、と一護を締め上げた。
「わ…ッお・おい…ッ」
「あ…、う…ん…ッ!」
 雨竜は枕に顔を擦るように頭を振って、一護の腕の中で小さくもがく。
 余計な事をしたのか、又は言ったのか。一護には何だか分からない。
「ご主人様ッ…」
 引き攣れた声は、大きな声ではなかったが、それは殆ど悲鳴のようだった。
 しかし、その悲鳴は。
 艶めいて、一護の耳を刺激した。
 誘われるままにきつく抱き締め、中を大きく突き上げる。柔らかな内壁は一護の動きを難なく受け止め、最奥へ誘う。ご主人様、とうわ言のように呼び続ける雨竜がコンピューターであるという事などは、一護は既に忘れ去っていた。
「石田…」
 呼応するように名前を呼ぶ。
 ああ、と熱い息を吐く雨竜が懸命に振り返る。顔にかかる黒髪を払ってやりたいけれど、手を伸ばす余裕がない。
「石田…」
 打ち震える熱い肉を掻き分け、絡み付く襞の感触を確かに味わう。雨竜の吐息混じりの上ずった声に、次第に思考は追い遣られ始めた。
 熱くぬめる内部に二度目の射精を果たすのは、そう先の事ではなかった。
 
 
 
 重い体をようやく動かし、部屋着に着替える。
 夕食はまだだったが、不思議に空腹は感じなかった。制服を拾ってハンガーに掛けようとした時、ポケットから何かが落ちて硬質な音を立てた。
 指輪だ。
 …指輪。
 それを拾い上げると、どこかぼんやりした頭で、一護はベッドを見る。
 そこには雨竜が眠っていた。
 再起動しますと言って、目を閉じて既に五分以上は経っている筈だが、未だ目を覚まさない。ユーザー登録の際にも再起動をしていたが、こんなに時間がかかっていただろうか? 幾許かの不安が胸の内を過るのだが、一護の頭はそれでも霞が晴れない。
 指輪を握り締めたまま、床に投げ落とした雨竜のジーンズと下着を拾う。
 下着はともかく、ジーンズの方は良く見れば僅かに土が付いている。軽く手で払ってベッドの端に置くと、一護もそこへ腰掛けた。
 目に入った腕時計に、時刻を知る。
 20時30分。
 帰って来て、一時間と経っていない。
 今日は色々な事があったのだ、意識の裏側でそう思う。
 深く溜め息をついて、俯いた。
 体は疲れていたが、一護はそれに気付かない。膝に肘をついてようやく体を支えるが、雨竜の隣に横になる事までは思い付かなかった。指先にシルバーリングを引っ掛けて弄ぶ。
 体の熱が治まってしまうと、半分無理矢理に雨竜を組み敷いた自分が不思議でならなかった。
 雨竜は、明らかにバグの発生を恐れていたのだ。
 コンピューターが恐れるという事は、その可能性が高かったという事ではないのか。今、冷静になってそう思う。
 だが、やはりメモリーの増設は出来ないと言い出したのは、自分が原因である気がしてならない。雨竜がそう思い込む理由なんて、他には考えられなかった。
 体を離し、雨竜を清めてやる時、黒いシャツの下にあの白いテープを見た。
 端は小さく剥がれ始め、服の細かな繊維が汚れとなって付着していた。再起動中でぴくりとも動かない体、そっと触れると傷口の凹凸が微かに指先に感じられた。一護は、自分が雨竜にとって良いオーナーではなかったのだと痛感した。
 問題ありません、と雨竜は言った。
 確かに、動作に支障はないのだろうから、問題ないという事になるのだろう。
 だが、それはテープで補強したというだけの話だ。
 痛々しかった。
 この傷は、修理する事は可能だろうか───。
 そう思った時、ピピ、と小さな音が聞こえてきた。
 指先から指輪が落ちて、床に転がった。
 振り向くと、雨竜がゆっくりと、目を開けるところだった。
「…、石田…?」
 雨竜は寝返りを打って、仰向けだった体を一護の方へ向けた。満ち足りたような溜め息をもらし、穏やかな目で一護を見た。
「くろさき」
 何と言われたのか、分からなかった。
 名前を呼ばれたのだと分かった時、一護は目を見開いた。
「ありがとう」
 雨竜が礼を言っている。
 一護を見つめる目が潤んで一瞬揺れ、視線が少し逸らされる。泣くのか、と思ったが、涙が落ちるまでには至らない。その口元が、僅かに笑みの形を作る。
「…イヤな事、させて…ごめん」
 何だって?
 一護は半分口を開いたまま、固まって、ただ雨竜を見つめた。
「僕は、嬉しかったけど…」
 とうとうその目が伏せられる。
 どうした事だ───。
 一護は混乱し、唖然とした。
 その仕草、その言葉のひとつひとつが、今までとはまるで違う。
 まるで、
 人間だ。
 本当は人間だったんだと言われたら信じてしまいそうな程だった。嬉しかったけどと言った雨竜は枕に半分顔を埋めて、きゅ、と唇を噛んだ。枕の端を掴む手が、小さく震えていた。
「…何とか言ったら?」
 雨竜の科白は、頭が理解するのにいちいち時間がかかって仕方なかった。
「何か…言ってよ」
 柳眉が切なげに歪められる。
 何かを、言う?
 何を。
 一護は懸命に考えるが、雨竜が何を期待しているのか分からない。
「お願い…」
 酷く頼りなく揺れる声は、殆ど枕の中へ吸い込まれていた。
「…石田…」
 ようやく声を絞り出す。
 喉が異常なまでに乾いていて、しかし一護は構わず名前を呼んだ。
「石田…」
 片足をベッドの上に乗り上げて、じりじりとせり上がる何かを必死で押しとどめる。
 雨竜は唇を引き結んだまま、恐る恐る目を開けた。一護が体を向けている事に気付き、肘をついてのろのろとその体を起こす。一護は雨竜を見続けた。目が合うと、雨竜は何かを言いかけ、しかし口を噤む。
 一護は重い腕を、雨竜に伸ばした。
 雨竜の緊張もほどけ、それに縋るように腕を伸ばし、体を寄せた。
 ぎゅう、と抱き寄せ、肩口に顔を埋める。
 温かい。
 一護は強く抱き締め、その黒髪に手を伸ばし、抱えるように頭を擦り付けた。
「…お前、なかなか、起きねえから…」
 雨竜の腕が、一護の背を撫でる。
「ちょっと、データの整理に…時間かかった、かな?」
「かな、じゃねえよ…。壊しちまったかと…思った」
「…ごめん。大丈夫だったよ。君の言った通りだった」
 安堵の溜め息を盛大に吐くと、一護はようやく腕の力を緩める事が出来た。雨竜の方も、それに合わせて体をそっと離す。
 雨竜の目元は少し赤くて、もしかして自分もそうなんじゃないかと思うと、見ていられなくなって目を逸らす。
「…。お前…さ、」
「ん?」
「…前と、ちょっと違くねえか? あー…何か。口のきき方とか…」
「気になる? …でもこれ、君が書き換えたんだけど」
 何だって?
 思わぬ科白に顔を上げると、雨竜は少々困ったようにほんのり頬を染めていた。
「だ…だって、僕らがオーナーを呼び捨てにするとかって、自分で書き換えられる訳ないだろ。さっき、君が…やったんだよ…」
「…」
 しかし、一護には全く心当たりがない。
 何しろパソコンの知識など殆どないのだ。
 もしかして本格的に壊してしまったのだろうかと、一瞬不安になる一護だ。
「…ホント?」
「僕が嘘ついてどうするんだよ」
 懐疑的なまなざしで問えば、雨竜はそれこそ真っ赤になって顔を逸らす。
「…信じられないよ、君! オーナーが自分で勝手に書き換えるなんて、聞いた事ない…。僕のコマンドなんか全然追い付かないしさ…! だ・だから、データの整理に時間かかったの、君のせいなんだぞッ」
「…」
 一護はぽかんと雨竜を見つめた。
 言われている事の半分以上は良く分からなかったが、雨竜が急に人間らしくなったのはどうやら自分のせいという事だけは、本当のようだ。
「ど…どうせ…、メモリーなくなればベーシックに戻るし…。それまで我慢すれば?」
「…え?」
 単なる愚痴を聞き流そうとして、しかし一護は聞き咎める。
 メモリーが、なくなる?
 ああそうか、と雨竜は渋々顔を向けた。
「ちゃんと言っておかないと、また怒られるよね…」
 小さく溜め息をついて、一護の様子を窺うように僅かな上目遣いを見せる。
「増設したメモリーは、使えば勿論減るけど、使わなくても七日前後で消滅する」
「な…」
「何しろ…ホラ、生…だからね…」
 雨竜は気まずそうに俯いた。
「…今、消去したデータのサルベージに1.5テラバイト使って、約230テラ残ってる。攻撃アプリケーション使うと殆どなくなるけど、それ以外の事だったら…結構色々使えるよ」
「え…。え?」
「医療関係のアプリケーションは揃ってるし、料理だってプロ並のが出来るし、…君や妹さん達の家庭教師も、出来るよ…」
 折角だから、使えるメモリーは使ってしまいたいという雰囲気で、しかし一護は科白の最後に目を瞠った。
「…かてきょ?」
「…うん」
「マジで?」
「うん。…もうすぐ、期末テストだったよね」
 一護は思わず雨竜の手を取った。
 それはとても心強い。この一ヶ月、自宅での勉強は殆どはかどっていないのだ。期末は50位圏外を覚悟していたところだった。
「た、助かる…、かも」
「かもって何」
 手を掴まれて、少々赤らんだままの雨竜はそれでも呆れたように言う。
「僕は君のパソコンなんだから、好きに使ったらいいんだよ。虚だって、そう毎日出る訳じゃないんだし」
「お…おう」
 それもそうだ。
 しかし、虚という単語が雨竜の口から出て、一護はその背と腕の怪我を思い出す。
「い…石田…」
「ん?」
 その傷について切り出す事には、勇気が要った。
 その責任が自分にあるせいで、それでも、もう知らない振りは出来ない。
「…お前の、怪我の事なんだけど」
「怪我? ああ…」
 雨竜は一瞬きょとんとする。その様子からすると、本人としてはさほど気にするものではないのだろうか? それとも、オーナーを気遣っての事だろうか。
「…それ、修理とか…」
「ほっとけば治るよ」
 けろりと言われて、一護はまばたいた。
「有機人工皮膚だから…霊力足りてれば、そのうち治るよ」
「…そのうちって…」
「そうだな…結構ザックリいっちゃってるし、三~四週間はかかるだろうけど」
 それは、殆ど一ヶ月ではないか。
 一護は眉をひそめて、少し俯いた。そんな様子をどう受け止めたのか、雨竜は慌てて続けた。
「気になるなら、修復アプリケーション、使うけど…」
「え?」
「ただ、20テラは使うから、ちょっと勿体ない気はするけどね…」
 ほっとけば治るものだし、と科白の最後はすぼまってゆく。雨竜の手を掴む一護が、その力を強めたせいだった。
「…黒崎…?」
「治せ」
「…今すぐ?」
「今すぐ」
「…」
 困った顔で、雨竜は掴まれた手を見つめる。
 それを、空いた片手で剥がそうとする仕草を見せるので、一護は素直に力を緩めた。すると、その一護の手を今度は雨竜が弄び始める。
「…おい?」
「やってるってば。今、修復中」
「…」
 何の音も聞こえて来ない。本当にやっているのか?
 少々疑った時だった。
「…僕は、君の手が好きだ」
 唐突に、雨竜は言った。
「…へ?」
「正直言って、君の顔って、良く分からないんだよ。機嫌いいのか、悪いのか、さっぱり分からない。でもさ、君の手は、結構ストレートだよね。だから、僕は安心するんだ」
 指を絡めてくるのを、逆らわずにされるがままになっていた一護は、それを聞いて眉間の皺を更に深くした。
 この眉間は、双子を始め色々な人間に指摘され続けている。自分ではもう普通にしているつもりだったけれど、癖になってしまっているものだ。コンピューターにまで指摘されるとは思わなかったが、逆に納得もする。人間の表情は、雨竜にとって状況判断の材料なのだ。
「僕は、ずっと恐かった」
 雨竜は手を見つめたまま、穏やかに言った。
「メモリーなくなったら、こういう事は言わないと思うから、今の内に言っておくね」
「…石田…?」
 雨竜が視線を落としているのをいい事に、一護は不躾なまでにその俯き気味の顔を見つめた。
「僕はずっと、嫌われない為にはどうしたらいいのか…そればかり考えてた。だって、君ときたら…いつもすごい顔で、睨むみたいにしか僕を見なかったからね。僕は歓迎されてないんだと思うには、充分だったよ」
 まばたきを繰り返す伏せ気味の瞳は、潤んでいた。
 思わず、絡められた雨竜の指を握る。
 雨竜は笑った。
「しばらくして、君はそういう顔なんだって事は分かったけど…でも、君に嫌われてる事には違いないって思って、いつ捨てられるのか、僕はずっと、それが恐かった」
「…」
 思い当たる事が多すぎて、一護には居心地が悪い。
 そうだ、返品という二文字がぐるぐると頭を駆け巡っていたのは事実だ。雨竜という人工知能が、それを恐怖と感じていた事には、しかし気付かなかった。
「でも、初めて虚を倒した時、褒めてくれただろ? だから、君は働きに対しては正当な評価をくれるんだって分かって、すごくほっとした」
 何たって僕は、その為にいるんだからね。
 さも嬉しそうに笑うので、一護は胸が重くなる。
「黒崎、君は優しいね」
 優しい、だろうか?
 自問するが、肯定の答えは見当たらない。
「…僕を見つけてくれて、ありがとう」
 伏せた瞳から、涙が落ちた。
 それを隠すように深く俯くのを、空いた片手でその前髪をかき分ける。
 目が合った。
 零れる水滴を、その指先で拭ってやる。
「…僕、泣こうなんて思ってないんだけど。でも、これ…バグじゃないんだね」
「…ああ」
 一護は自分を笑った。
 目の前で泣く雨竜は、やはり男の顔で、男の体だ。なのに、もう何も気にしていない自分に気付いた。コンピューターである事すら、気にしていなかった。先程メモリーの増設を強行したのは、ただ雨竜を真実自分のものにしたかっただけではないのか。
 チャージでないキスをした事も───。
 一体いつからそうだったのか。
 その唇にもう一度触れたくて、一護は体を寄せる。
「あ、終わった」
 顔を近付けようとした時、雨竜はけろりとした口調で言った。
「…え?」
「え、じゃないだろ。今僕、傷を治してたんだけど」
「…あ」
「何、『あ』って」
 君が「治せ」って言った癖にさ、と怪訝そうな雨竜に、一護はがっくり溜め息をついた。
「…そうか。見せてみろ」
「えっ」
「テープ剥がしてやる。脱げ、ホラ」
 気が抜けて、一護はぶっきらぼうに促す。
 だが雨竜は慌てたように、ぶんぶんと頭を横に振るのだ。
「い、いいよ、自分で出来るから!」
「何言ってんだ。背中だぞ」
「届くよ! そ…そうだ、それより君、夕飯食べて来たら!?」
「…」
 おかしい。
 一護はじっとりと睨めつけ、問い詰めるように、逃げかける雨竜の腕を掴んだ。
「ホントに治したのか?」
「な、治したよ。治ってるよ」
 目を逸らすまいと必死の雨竜だが、今の一護には通用しない。
「じゃあ見せてみろ」
「いや、でも…」
「…ふーん、そうか。俺に脱がして欲しいのか。よし」
「な…ッ何が『よし』なんだあッ! !」
 真っ赤になって、雨竜は一護を突き飛ばした。
 さすがに虚を相手に戦うマシンだけはある、すごい力で腕を振り払われて一護は床に転げ落ちた。
「…い…痛ぇ…」
 打った後頭部を押さえて体を起こすと、布団の中で何やら必死な雨竜が目に入る。何をしているのかと思って見ていると、やがてジーンズ姿になった足がベッドから出て来た。
「君ってホント、時々すっごい鈍いよね…」
「は?」
 今の場面で、自分のどこが鈍かったのか分からない。
 溜め息までつかれて、一護は瞬間的に険悪になった。
「何がだ。俺はただ心配で、確かめようとしただけだろうが!」
「…心配?」
 そう、ただ心配だっただけなのに。
 頬を上気させたままの雨竜は目を見開いて、すぐに横を向いてその前髪で顔を隠した。
「…疑ってる、の間違いじゃないの?」
「それもある」
「…」
 正直に返すと、雨竜は言葉を失ったようだった。
 何かを逡巡している様子を見守る。
 やがて、もぞもぞとベッドの上に上がると、雨竜は視線を合わせないまま一護に背を向けた。腕の動かされる様子からすると、ボタンを外しているらしい。ようやく見せてくれる気になったようだ、一護は立ち上がろうと床に手をついた。
(…あ)
 ついた手に、小さく冷えた固い感触。
 先程落とした、シルバーリングだった。
 一護はそれを掴んで立ち上がった。ベッドの上では、雨竜が黒いシャツを背に落としたところだった。
「…」
 綺麗な肌を台無しにしている、薄く汚れた白いテープ。
 手を伸ばし、一番端のテープの、剥がれかけたところを摘んで慎重に引っ張る。
(…治ってる)
 そろそろと剥がしながら、傷があった場所が塞がっている事に、一護は密かに息を吐いた。
 一枚を全て剥がして、テープの跡の付いてしまった肌を指先で辿る。居心地悪そうに、雨竜は身を捩った。
「…傷、ちょっと跡が見える…」
「それは…仕方ないよ」
 傷は塞がっていたし指先には何の凹凸も感じない。ただ、薄茶色の淡い筋が、皮膚のすぐ下に透けて見えていた。変色してしまった部分までは治す事が出来ないのだろうか、雨竜の口調からはそう思う。念の為に、消えないのかと聞いてみるが、やはり返事は芳しくなかった。
「サポートセンターで皮膚の交換は出来るけど…僕は、嫌だな」
「嫌?」
「だって、その間君の側にいられない」
「…」
 順にテープを剥がしながら、一護は唇を噛んだ。
 確かに動作に支障がない以上、雨竜にとってオーナーの側を離れる理由としては、優先すべき修理ではないのだろう。
「別にいいだろう? これぐらい…。名誉の負傷って事でさ」
「…」
 ごめんな、小さく呟いた言葉は雨竜の耳にしっかり届いていたようだ、同じぐらい小さな笑い声が聞こえた。
 全てのテープを剥がし終えると、雨竜は素早くシャツを羽織り、ボタンをかけてしまう。その様子は先程見たのと同じ種類の羞恥のようで、一護は首を捻った。
「…お前、何か隠してる?」
「えっ?」
「でなけりゃ、恥ずかしがってるとか」
「は!?」
 振り向いた雨竜の顔は先程と同様、赤かった。
「き、君って…!」
「え?」
「い…いや、何でもない…」
 しかし、傷を治していない事を隠そうとしていたのではないのだから、一護にはそれ以外には考えつかない。要領を得ない顔で見つめると、雨竜は諦めたように肩を落とした。
「…いや、あのね…、僕としては、一応、気を使ったつもり…なんだけど…」
「…は?」
「僕、男…だから」
「…」
 一護はますます訳が分からなくなって、ぽかんと雨竜を見下ろす。
「え…だから何?」
「何って! 脱いだら、モロに男の裸を見る事になるんだぞ、君は!」
「…や、まあ…そうだろうけど」
「君、男の趣味はないだろう!?」
「…ないな」
 そこまで聞いて、ようやく雨竜の言う「気を使ったつもり」の意味が朧げに理解出来た。
 つまり、先程メモリーを増設した相手が男なのだと再認識してしまうと、一護が行為を後悔するかも知れないと危惧したのだろう。なるべく男性である部分を隠そうとしたのだ。
 雨竜がそこまで自らの性別(?)を気にするのは、やはり自分のせいだと一護は思う。雨竜が届いた日、女性型への変更が出来ないかと尋いた覚えがある。一護は天井を仰いで、頬の辺りを掻いた。
「あー…アレだ、あんまり、気にすんな。な?」
「…それは、僕が君に是非、言いたい科白なんだけど…」
「や…悪かったって」
「…」
 一護は殆どごまかすように、背後から雨竜に腕を回した。
 嫌がる素振りはない。そのまま力を入れて、抱きすくめる。
「…どうしたんだい、ホントに…。君は今日、ちょっとおかしいよ…?」
 声の調子としては先程からと同様、非難半分呆れ半分といった風情だ。だがその頭は、雨竜の肩に乗る一護の頭に擦り寄せられる。
「…石田」
「ん…?」
「手、出せ」
「え?」
 一護は言ってから、自分の膝の辺りを探って指輪を手にし、曖昧に浮かされた雨竜の掌に落とした。
「あ…」
 小さな声を、雨竜は上げた。
 腕の中で振り返って、しかしすぐに戻り、手の中のシルバーリングを見つめる。一瞬目の合ったその顔には驚きと喜びが混じっていて、一護はほっとした。
「…ありがとう…後で探しに行こうと思ってたんだ」
「え? …探しにって」
「うん。家を出る時、玄関に放り投げてっちゃったから」
「…はあ?」
 放り投げた?
 確か、夏梨は「置いていった」と言っていた筈だ。少々咎めるように聞き返すと、雨竜は小さく笑って言い訳をする。
「仕方ないだろ、急いでたんだから」
「…ふーん…」
 相槌で発した声は、思いの外不満そうで、雨竜は余計に笑った。
「お前、それ、気に入ったんじゃなかったのかよ」
「えぇ? ああ、まあね」
「…」
 笑う雨竜の声は、それでも幸せそうだと思うのは主観的に過ぎるだろうか?
「全く、これには本当に悩まされたよ」
「…は?」
「意味が分からなくてさ」
 意味?
 指輪を与えられた意味?
「だってあの頃って、僕の事嫌いだっただろ、君は。嫌いって言葉が不適当なら、持て余してたってところかい? 少なくとも、僕はそう思ってた。…そこへ、これだ」
 シルバーリングを指先に持って、目の前に掲げる。少々歪んでいるそれは確かに傷が付いていて、放り投げたと言うのは案外本当の事なのかも知れないな、と一護は思う。
「何をどう考えても、繋がらない。服の事はさ、おじさんに言われてたのは僕も聞いてたけど…物を貰うって事は、やっぱり、それなりに理由があるものだろう?」
「…そうか?」
「そうだよ。特に、僕らにとってはね」
 雨竜はそう言うと指輪を握り締めて、その手を額に押し当てる。それは、今朝も見た光景だ。
 祈りの光景。
「ねえ、黒崎。意味なんか、なかったんだね」
「…ああ?」
 これをくれた意味、と雨竜は再び指輪を示す。
 確かに、これを買い与えた事に意味などなかった。ただ偶然が重なって、この指輪を手にしただけだった。
「僕は、すごい事に気付いてしまったんだ。意味なんかなくてもいいんだって事に」
 そう言う雨竜は何やら得意げだ。
「…それ、すごい事なのか?」
「そうだよ。すごい事だよ。それでね、もっとすごいのは、君が意味もなく物をくれたって事を、僕が嬉しいと感じてるって事なんだよ」
「…」
 雨竜は笑いながら一護の手を取る。
 そして、その掌に指輪を落として、握らせた。
「…おい?」
 表情は窺えない。
 だが、雨竜は甘えるように頭を擦り寄せてくるのだ。
「君が嵌めて。最初の時みたいに」
「は?」
「早く」
「…」
 返却された訳ではなさそうだった。
 差し出された手を取って、それが左手である事に気付いて一護はぺし、とはたく。
「…ケチ」
「ケチ!?」
 憤慨しながらも右手を掴んで、その薬指に傷だらけの指輪を嵌めてやる。雨竜は自分の指にそのシルバーリングが在るのを満足げに見つめた。その顔は背後からは見えなかったのだが、一護には容易に想像がついた。
「…君は、これから大変だね」
「…はあ?」
 唐突に言って振り向いた顔は、やはり想像通りの微笑みを浮かべていた。
 目が合うとその微笑みが不意にイタズラっぽく深められて、一護は嫌な予感に顔をしかめる。
「何がだよ」
「だって、どう見たって分かっちゃうと思うんだけど。…メモリー増設した事」
 特におじさんや夏梨ちゃんには、という科白は聞かなくても一護にも予測はついた。嫌な汗がどっと噴き出る。
 そうだ。
 全く。
 どんな言い訳も通用はしないだろう。
「…お前…余計な事、喋んなよ…?」
「分かってるけど」
 雨竜は楽しそうだ。
 そう、楽しそうだった。一護が自分の事で困っているのを見て、楽しんでいるようだった。
 腕の中で体の向きを変え、真正面から腕を伸ばして抱きついてくる。垣間見えたシルバーリングが、いつの間にか左手に付け替えられていたという事を一護が認識するのは、ふたりして居間に下りてしばらく後の事だった。

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