レッドゾーン・前編

 

  レッドゾーン・前編

 
 一護の部屋に虚が現れてから一週間。
 あれから一家も少々落ち着きを取り戻し、表面上はそれまでと変わらない生活が続いている。変わらない、というのは『雨竜』がいる生活、という事だ。朝は雨竜に起こされ、帰宅すれば出迎えられ、在宅中は常にどこかしら近くに控えていた。
 無論、一護もバッテリーの件を忘れてはいない。
 だが雨竜はそれきりチャージを要求してこないので、大丈夫なのかと疑問を抱きつつも、一護は気付かないフリを続けていた。どうしても必要になった時には言って来るだろうと高を括っていたのだ。バッテリーに限りがある以上、それはいつか必ず訪れる事態だ。何となくもやもやとして決まらない覚悟も、もう後がないと追い詰められれば何とか出来るのではないだろうかという期待もあった。
 しかし、妹の夏梨はそんな兄を苦々しく思う。
『───夏梨様、お願いが…』
 どうせ逃げ腰になってるんだろという読みが的中していたせいだ。
 あの日、少々遅く夕食を取って風呂に入った。
 出てきてパジャマに着替えていた時、雨竜がそっとそこへやって来たのだ。
『───ひとつ、お願いが』
 夏梨はその『お願い』を了承し、父親と遊子に事情を説明し、兄一護にはこの件について口外しないと約束させた。この件については、時期を見て雨竜から直接打ち明ける。それまでは絶対に悟られたくないと、そういうお願いだった。
(…情けないな、一兄…)
 身を呈して虚から護ってくれた雨竜に、本来ならバッテリーチャージどころかメモリー増設だってご褒美にしてあげてもいいぐらいなのに。
 呆れるような、苛立たしいような、見ていて何とももどかしい。
(雨竜も苦労するよ)
 雨竜が黒崎家に来てから既に三週間以上が経過している。その間、兄はメモリー増設はおろかバッテリーチャージすらしていないのだ。
 ただの一度も。
 だが、ここで下手に突っつけばデリケートな兄は引きこもってしまいかねない。口も出せないこの状況に、夏梨まで常時眉間に皺が寄るようになってしまった。
 どうしてくれんのさ。
 これで万が一雨竜を返品などという事になったら、確実に爆発する予感でいっぱいの夏梨だった。
 
 
 その日は日曜日、十一月最後の週の始まる日だった。
 十二月に入ってしまえば二週間で期末テストが始まる。このテストで、最終的な志望校が決定する。一護は始めから近所の公立高校一本に絞っているので、ここで成績が下がって「やっぱりちょっとムリっぽいね」という事にでもなったら悲惨だ。
 成績は、悪い方ではないように思う。
 だが、特別良い訳でもない。300人はいる学年中で50位前後といったところか。塾に通わずに自力でこの順位なら良い方ではないかとも思うが、どうしてもそれ以上には上がらないのが癪でもある。
 普段、一護は日曜日は勉強しない日と決めている。
 だが今日の日曜日という日、机に向かうには訳があった。
 十一月に入ってからこちら、色々とありすぎてろくに勉強出来ていなかった。頑張って教科書を広げたって、内容など頭には入りようがなかったのだ。
 ひとえに、雨竜。
 人型のパソコンが来たお陰で。
 とは言え、今『勉強』と称して机に向かっていても、やはり落ち着かない。気を緩めればどうしても、雨竜が頭を占拠する。
(…)
 気が散る。
 例題の数式を解いていた筈の頭は、いつの間にか雨竜のバッテリー残量の計算をしている。
(80%で出荷で、一回攻撃して、15日後に残30%…)
 50%の霊力を消費したという事だ。
 一日の基本動作で消費する量をx、攻撃時に消費する量をyとすると、15x+y=50。ちなみに雨竜の話からすれば、xはyを上回らない。
(仮にxを3だとすると…yは5か)
 しかし、攻撃時には大量に消費すると言っていた筈だ。5%とは果たして『大量』と言えるだろうか? 比率からすれば二倍にも満たない。
(2なら? yは20になるな…)
 基本動作に2%必要で、攻撃時には20%必要というならそれは実に10倍、『大量』と言える数値だ。
(一日に必要なのは3%以下って事か…)
 そして、残30%を切りましたと言われたのが一週間前。xが2なら現在のバッテリー残量は16%以下、3なら実に9%以下という事になる。
 しかし、20%以下になるとどうのと言ってはいなかっただろうか? だから30%を切った時には警告をする、と。それならば、20%を切って雨竜がそれをオーナーである一護に告げない筈は、多分ない。
(…じゃ、1%か?)
 そうすると攻撃時には35%もの霊力を使う計算で、それは少々行き過ぎのような気がしなくもない。
 しかし、必ず決まった数値でもないだろう。良く動き回る日もあれば殆ど動かず喋らない日もある。1%から3%の範囲なのかなと大雑把な想像をして、一護は溜め息をついた。
(…ん? て事は…)
 一日1%と仮定しても、あれから一週間だ。
 最低でも7%を消費しているとなると、現在では23%以下の筈で、それはつまり───。
(…そろそろ、て事か…?)
 急激に、頭に血が昇る。自分が今、元々は数学の復習をしていたのだという事すら思い出しもせずに、机に突っ伏した。
 舌の接触を伴う───キス。
 バカみたいだ、と思ってもどこかに逃げ道がないか探してしまう。しかし、唯一の逃げ道は夏梨のみ。そして、夏梨にそんな事をさせるようでは兄としての面子が立たない。
 一護の脳裏に『返品』の二文字が浮かぶ。
(…)
 しかし、一護は自分でその考えを打ち消した。
 返品すると言えば父親はそれを夏梨に与えると言うのだし、どうやら雨竜を気に入っている夏梨は、恐らく返品はしないだろう。とすれば、どのみち夏梨がバッテリーチャージを行うという事になってしまうのだ。
 堂々回りだ。
 良くない。
 雨竜の、
 舌は。
(…やべ)
 茹だってきた。
 落ち着かなくなるのも仕方ない。
 絡み付く、雨竜の舌の感触が蘇る。
 薄くて、柔らかくて、なめらかで、温かい。
 考えないようにすればする程、余計に意識してしまう。つまりはあの舌に、自分の舌を接触させなければならないのだ。
 顔を見てしまえば、それはどうしても男だ。
 生理的に受け付けないのは、一護自身にはどうしようもない。
 だが、と一護は突っ伏したまま溜め息を吐く。
 だが、そう、キスならしたのだ。フレンチキスとかバードキスとか言われる、そういう類いの、ただ触れるだけのキスなら。
 柔らかかった、と思い起こして火を噴かんばかりに沸騰する。
(や、やばいって、それは!)
 反射的に目を閉じてしまったのがいけなかったのだろうか? 唇の感触は、酷く───心地良かったのだ。
 キスなんかした事がないから、比較も何もない。誰も彼も皆、唇はあんな風に柔らかいものなのか。何となく自分の唇に触れて、そうでもないかなと思う。少々荒れ気味だなと気付いて、雨竜はつやつやだったなと思い出す。
(…あー…)
 なるほど、女の子がリップクリームだ何だと気を使う訳だ。好きな男に荒れた唇で迫っても、色気も何もない。
 雨竜はその点、人工物なので人間のように荒れる事はないのだろう。いや、もしかしたら荒れたりするのかも知れないが、家から外へ出していないので無事なだけという事も考えられる。
 やばいな、と思うのは、あのキスがさほど悪くなかったという事実だった。
 目を閉じてしまえば顔なんか関係ない。
 触れあった唇がつややかで、柔らかくて、心地良ければ問題ない、のではないだろうか? そして、目を閉じたまま別の事でも考えていれば、舌を接触させるのも可能かも知れない。
 問題は、一護にそんな器用なマネが出来るかどうか、だ。
 何十メートルも離れたところから目を瞑って歩み寄る訳にもいかない。ある程度雨竜の顔に近付いていなければ外してしまう事請け合いで、しかも何やらコントみたいだ。しかし、充分近付いてからとなると当然視界は雨竜で占められる訳で、それから目を閉じ他の事を考えるなど、至難と言う他はない。
(…無茶だ)
 しかし、雨竜は霊気のチャージを受けなければ動けなくなる。それは人間が空腹を感じる事より遥かに厳密で、深刻なのだ。
 非難がましい夏梨の目、憐憫めいた遊子の目。面白可笑しそうな父親はともかく、雨竜が動作停止したら妹二人は黙っていないだろう。
 それに───。
 雨竜は既に二度、一護を護っている。
 お礼のつもりとか、ご褒美とか、ボランティア精神とかいう気持ちで出来る事だったらどんなに良かったか。
 キスぐらい何という事はない、とはもう思えない。
 キスが心地良いものだと、知ってしまった今は。
(でも…チャージしない訳には…)
 こんな動揺ぶりで、本当に切羽詰まれば自分は雨竜にチャージしてやる事が出来るのか。
(20%…)
 残量が20%を切ると、どうなるのだったろう? 説明を受けたのはユーザー登録のショック覚めやらぬ時で、あの時言われた事なんて、殆ど右から左だった。
(…20%…?)
 不意に、一護はぎくりとして顔を上げた。
 20%という数字の何に戦いたのか、一瞬自分でも分からなかった。
(2%だ)
 一日の基本動作に必要な数値。それが2%の時、攻撃に必要な数値は20%となる。単純計算で、実際には前後するかも知れないけれど───。
 だとすれば、残量20%というのはそのまま、あと一回の攻撃でバッテリーが切れますよという事ではないのか。
(でも)
 そうすると、現在はもう既に残20%を切っている事になってしまう。それを雨竜がオーナーに警告しない、などという事があるだろうか?
(…)
 ありえない、とは一護には言えなかった。
 雨竜はコンピューターの癖に怒るし拗ねるし、引きこもる。チャージ方法の説明がなかった事を叱責されて、残量を言い出せないという事ぐらいはありえそうに思えてくる。
(まずいだろ、それは)
 コンピューターに責任などない。
 何かあったら、それはユーザーである一護の責任だ。例えば先週のように、家族が一緒にいる時、極近くに虚が現れた場合。シェルターであるあの柩には、二人入るのがやっとだ。雨竜の優先順位からすれば、一護をまずシェルターに入れるだろう。夏梨も入れるかも知れない。父親と遊子はどうするだろう? 逃げろという指示ぐらいは出してくれるかも知れない。
 例えば居間とか、家族で出かけている時とか、一番始めの時のようにシェルターのない場所で虚が現れたら?
 外にまでシェルターを持ち歩く事は出来ない。
 そういう場合にはつまり、雨竜は虚を攻撃し、撃破または撃退しなくてはならない。そこに他にも人間がいたなら尚更だ。
 その時にバッテリーが足りなかったら。
 それは一護の責任だ。
 居合わせた人間に危害が及んだら?
 それも一護の責任だ。
 一護は冷や汗に、思わず立ち上がった。居合わせる確率が一番高いのは、家族なのだ。
(無茶だのヤバいだの、言ってる時じゃねえ…)
 この一週間、気付かないフリで過ごしてきた自分が情けない。
 とにかくバッテリーの残量だけでも確認しないと、とドアを開けると───。
 雨竜が驚いた顔で立っていた。
 左手が軽く上げられていて、ドアをノックするところだったようだ。驚いたのは一護も同じだったが、用があるので丁度いい。しかし、一護は口を開きかけたまま唖然とした。
 何故か、はち合わせた雨竜の顔が、みるみる赤く染まってゆくのだ。
「おい…?」
 声をかけるのと殆ど同時に、ドアがパタリと閉められる。
 自室に閉じ込められた格好で、一護は首を傾げた。それまでの経緯を考えると、唐突にはち合わせてうろたえるのは一護の方だった筈だ。しかし今、奇妙な焦燥感に突き動かされていた為に、動揺はさほどではない。
 しかし、だからと言って雨竜の方が動揺するとはどういう事なのか? ノブに手をかけ、もう一度開けようとするのだが、外側で雨竜が押さえ付けていてそれを許さない。
「こら、何やってんだ」
 夕食の準備が整いました、という声がドアの向こうから聞こえてくる。ようやく開いたと思えば、雨竜は慌てて階段を駆け降りるところだった。
「石田!」
 呼び止めるのに、雨竜はそのまま階下に消える。
(…何だァ?)
 およそコンピューターらしからぬ態度と行動。
 いや、コンピューターである以上、その態度と行動には何かしらの理由があって然るべきである。一護は、自分がまた無意識にも何か言ったのかと眉間の皺を深める。
 だが、思い当たらない。
 チャージの件から言えば、雨竜が不安そうな顔だとか苛立った顔だとか、不服そうであるなら一護にも理解が及ぶ。
 しかし、雨竜は───赤らんだのだ。
 人間が赤らむのは、照れたりとか恥じらったりとか、好きな人を前にしたりとかいう場合だろう。緊張した場合もそうだうろか。
(緊張?)
 ドアではち合わせて驚いて、緊張? あまりピンと来ない。しかし照れたり恥じらったりというのは、もっと的外れな気がする。好きな人というのも、何か違う。雨竜の場合にはオーナーが特別というのはあるだろうが、好きとか嫌いとかはないだろう。
 しかし、逃げられた。
(訳分かんねえ)
 喜怒哀楽はないと言い張る雨竜なので、直接聞かなければ逃げた理由も分からない。思い当たらないだけで、一護はやはり雨竜が逃げ出すような何かをしでかしたのかも知れないのだ。
(…メシ、だっけ)
 先程まで自分が悶々としていた事など、殆ど忘れる一護だ。それでも深く溜め息をつくと、目の前の階段を降り始めるのだった。
 
 
 夕食は、遊子お得意のハンバーグだった。普通に作ったハンバーグに、カレーソースがかかっている。付け合わせは茹でたホウレンソウとポテト、それとは別に生野菜のサラダの小鉢。ミルク入りのコンソメスープに、今盛られたばかりの炊きたてご飯。
 居間を通って食卓について、一護は周囲を見回した。
「…石田は?」
 家族の食事中は台所で控えている筈の、雨竜の姿がどこにも見えない。誰にともなく尋ねた科白は、夏梨がひと睨みと共に受けて立った。
「雨竜がいなきゃメシも食えねえのかよ」
「…」
 元々あまりよろしくなかった言葉遣いが、もう殆ど男の一護とソックリになっている。
 最近、夏梨はあまり機嫌が良くない。一護の部屋で虚に遭遇して以来ではないだろうか? 最初は虚のせいで体調が芳しくないのかと思ったが、どうもその苛立った視線はハッキリと一護に向けられている。そんな様子に、あの父親までもが逆らわないし、絡まない。
「それとも食後のお茶の心配か? 何ならあたしが入れてやるよ。…まさかあたしの入れたコーヒーじゃ飲めねえなんて、言わねェよなァ?」
「…滅相もございません…」
 妙に迫力のある妹の視線にたじろいで、そう言うのがやっとという情けない状況だ。遊子も、困ったような憐れんだような、複雑な笑顔を向けるだけで助けてはくれない。
 そして、緊張感に包まれた夕餉の団欒が終わっても、雨竜は姿を現さなかった。宣告通り、食後のお茶は夏梨が出してくれたのだが、残念ながら一護には味など殆ど分からなかった。
 
 結局一護は雨竜の姿を見つけられないまま歯を磨き、風呂に入り、自室に戻ってきた。居間でテレビを見る気も起きず、さっぱり進んでいない勉強も一護の気分を萎えさせる。
 雨竜は、この家のどこかにいる。
 なのに、一護を避けて出てこない。
 もしかしてもまた納戸にでも隠れているのだろうか?
(…大丈夫なのかよ)
 猛烈に気になりだしたバッテリー残量、それを聞く為に自らドアを開けたのに。
 あの時だったら───。
 あの時雨竜が逃げなかったら、チャージ出来ていたかも知れないのに。
 いや、多分もう覚悟は出来ている。
 目を閉じる雨竜を前にしても、自分が逃げ出す事はないだろうと一護は思う。抵抗感があろうがなかろうが、チャージをしてやらなければ雨竜は電源が落ちるのだ。
(…やっぱ…今、だよな…)
 家族は皆、居間でテレビを見ている。今ならおかしな横やりを入れられる事なく済ませられるだろう。一護は一番の心当たりである納戸に向かった。
 だが───。
(いねェ)
 なるべく音を立てないように開けた納戸の中には、あの黒髪は見当たらなかった。
 何だ?
 どういう事だ。
 黒崎家に来て早々、拗ねて隠れたのはここだ。そして、隠れようと思うのならこの家の中ではここぐらいなものだ。
 そっと居間を覗く。
 そこには家人の三人がいるだけで、台所も見える範囲では雨竜はいない。
 医院の方へは、この居間を通らなければ行く事が出来ない。一護はひとまず引き返し、風呂場とトイレを覗いてみる。
 だが、当然のようにいない。
 二階へ行き、父親と双子の部屋をコッソリ覗く。だがやはり、見当たらない。
「…?」
 医院の方へ隠れているのか。
 居間を通らずに行くには一旦家を出て、外から鍵を使って入るしかない。
 だが、と一護は自室へ戻る。
 雨竜が隠れるのは、何か理由がある筈なのだ。その理由は、今のところ一護には分からないのだが。
(…知らねえぞ)
 どうせ朝には起こしに来る。その時に聞けばいい、と一護は雨竜探索を諦めた。そして気の乗らない勉強を一時間程、取り敢えず明日当たりそうな英語と数学の予習だけして、ベッドに入ったのだった。
 
 
(…ん)
 翌朝、何か物音を聞いた気がして一護は目覚めた。
 とは言え半分以上はまだ夢の中で、覚醒と言うには程遠い。部屋はまだ暗いが、真闇ではない。もう朝なのだと分かる程度には白んでいた。
(…石田)
 目覚めた格好のまま、まだ身動き出来ない体をそのままに、一護は目の前に黒髪を認めた。やはり起こしに来たのだ。
 しかし、雨竜はベッドに寄り掛かるように床に座って、一護に背を向けている。
(何やってんだ)
 ぼんやりと眺める先の雨竜は体育座りで、何やら手の中のものを見つめている。
(あ)
 指輪だ。
 余程気に入ったのか、指から外し、目の前に掲げて角度を変えては眺め、また指に嵌め、その手を眺める。
(…?)
 再び外し、眺め、そっと握りしめ、その拳を額に当てる。
 まるで祈りだ。
 コンピューターが何を祈る? 一護はまどろみながら、自分の考えを笑った。
 その時、ピピ、と小さな音がして、雨竜は指輪を定位置に嵌めるとくるりと振り返った。
 当然、目が合った。
(…おいおい)
 雨竜は半分口を開きかけて───真っ赤になった。
 勢い良く立ち上がり、イタズラを見つかった子供のようにダッシュで部屋を飛び出す。
(…何て言うんだっけ、こうゆうの)
 すぐに思い出す。
 脱兎だ。
 あくびよりも先に笑うと、一護は完全に目が覚めた。上半身を起こしたところへ、おずおずとドアが十センチ程開かれ、その隙間から「七時です」と言う雨竜の声が入ってくる。返事を求めるつもりもないようで、ドアはすぐに閉じられた。
「…」
 つまり───また逃げられた。
 何というパソコンだ、一護は力なく頭を掻いた。
 黒崎家に来た当初はあれだけ無表情で無感動だった癖に。いや、小さな表情を見せたり盛大に怒ったり拗ねたりはしていたか。だが、三週間を経て初めて見る雨竜の状態に、軽い感動すら覚える一護だ。感情はないと本人は言うものの、その人工知能は明らかに『感情』を理解し、表現しているように見える。
(…何を学習してんだか…)
 人工知能は物事に接して、自ら学習する。感情を学習するならば、接した人間からという事なのだが、一護はそこまでは気付いていなかった。
 顔を洗って居間に入ると、何食わぬ顔で食卓の準備を手伝う雨竜の姿が目に止まる。
「お兄ちゃん、おはよー」
「おう」
 食卓には焦げ目のついたベーコンエッグと、昨晩のスープに野菜を足したものが並んでいる。
「おはよ」
「おう…」
 遅れて、パジャマ姿の夏梨が二階から降りてきた。朝一番で起き出して朝食と弁当の支度をする遊子と違って、まだ眠そうだ。
 その夏梨が、雨竜を見る。
「雨竜。ちょっと来な」
 声をかけられた雨竜は箸を並べる手を止めると、素直に従い居間を出て行った。
(…)
 誰がオーナーなのか分からない。雨竜は一護の方など見もしなかった。
 それはそれで、面白くない。
「ご飯とパン、どっちがいい?」
「…」
「お兄ちゃん?」
「えっ」
 ご飯とパンどっちにする、と再度尋かれて、じゃあパンでと答えながら、一護は内心溜め息をつく。ロールパンが二個オーブントースターに入れられる音を聞きながら、目は居間の外を追っていた。
 ぼそぼそと、何か話しているらしい事は窺える。
 眉根を寄せる夏梨が二言三言喋る度に、後ろ姿の雨竜の頭が頷いたり横に振られたりしている。
 何を話しているのか。
 何故夏梨には従うのか。
 何故自分からは逃げるのか。
 段々に苛ついてくるのが、自分でもハッキリ分かる。
 やがて、困ったような雨竜を残して夏梨だけが戻ってきた。椅子に座る兄を尊大な態度で見下ろして、顎で雨竜を示す。
「話あるってさ」
「…は?」
 石田が?
 俺に?
 話があるのはこっちの方だったのに。
 その時「チーン」という小気味良い音が響き、パンが焼けた事を知らせたが、そのパンは当たり前のように夏梨が奪う。
「ついでに着替えてくれば? 早くしないと食いっぱぐれるよ」
「…」
 不審な気持ちは隠しようもなかったが、夏梨はそれを相手にしてくれない。焼き上がったパンを齧り始める夏梨を見て、一護は諦めて立ち上がった。
 それを察した雨竜が、視線をこちらに寄越しながら階段を昇る。今度は逃げている訳ではなさそうだ。一護も続いて二階に上がった。
 自室に入ると、雨竜はぽつんと立って待っていた。
「…」
 表情は極力抑えられているようだ。
 だがその佇まいが、何とも心許ない。一護は雨竜が口を開く前に切り出した。
「話って、バッテリーの事か?」
 途端に、うろたえるように視線を彷徨わせる雨竜だ。辛抱強く答えを待つと、やがて「はい」と小さな声が聞こえてきた。思い切りが付いたのか、俯き気味にではあるが言葉を紡ぎ始める。
「…考えたのですが、私は…スリープに入ろうと、思うのです」
「…は?」
 スリープ?
 眠る…?
 てっきりチャージを要求されるものだとばかり思っていた一護は、少々拍子抜けした。
「どういう意味だよ」
「はい。バッテリーのセーブモードです。スリープ状態なら霊力の消費は五分の一に抑えられます。虚を検知した場合には起動します」
「…」
 文字通り『眠る』という事らしい。
 しかし、一護は首を傾げた。
「ただ…スリープ状態で待機するには、少々お邪魔になりますので…やはり納戸に」
「ちょっと待て…」
 本当に申し訳なさそうに喋る雨竜を、ひとまず制止する。
「…お前、バッテリー、ヤバいんだろ?」
「はい…ですから」
「チャージしなくていいのかよ」
「…」
 雨竜は、言葉を失ったように一護を見た。
 何故だか、絶望的といった顔だ。とうとう完全に俯いてしまう。一護は唖然としてそれを見た。
「……ですから、スリープに…入ります」
「や、だから…」
「今からですと、最大50日の待機が可能です」
 雨竜は俯けていた顔を上げた。何やら、自分を取り戻したかのような無表情だった。
「私は、動作停止しても人間のように死ぬ訳ではありません。霊気をチャージして頂ければすぐに動作が可能です。ご主人様が私を必要とされる時まで、お忘れになって下さっていいのです」
 その声には決意めいた色などなかったし、淡々と述べられる内容も冷静だ。
 だが、それが痛烈に一護を非難しているように感じるという事は、一護の方に罪悪感があるからなのか。動作停止しても構わないと言いながら、バッテリーセーブの為にスリープに入る。それはひとえにオーナーである一護の為に、少しでも長く虚を索敵し続けるという事だ。
 先程夏梨と問答していたのはこの事だったのだろうか? しかし、夏梨がそんな状態を許すだろうか。
「…石田」
「はい」
「さっき、夏梨に何言われた?」
「…は」
 顔は変わらないが、声には困惑が混じる。一護はもう少し強い調子で、促した。
「石田」
「…はい」
 雨竜は観念したように、しかし言いにくそうに白状した。
「…押さえ付けて、その…奪い取れ、と…」
「……」
 夏梨の言っていた『話』とは、この事だったのか。自分の妹にしては少々過激すぎやしないだろうか。嫌な沈黙が二人の間を流れる。
「…悪かった」
「…は」
 長いような短いような沈黙を破ったのは、一護だった。
 散々悶々として、どうにか逃げ場がないかと足掻き続けていたのは昨日までの話なのだ、一護は自分をそう説得する。
「お前、いないと…困る」
「…はい」
 覚悟なら、多分、もう出来ている筈なのだ。
 座れ、とベッドを指し示す。雨竜は良く分かっていないような顔で、しかし言われた通りそこへ腰掛ける。一護は正面に立つと、その肩に手を置いた。
 布を隔てて、体温がじわりと伝わる。
 だが、これは人間ではない。
 気にする事は───何もない。
 密かに深呼吸して、膝でベッドに乗り、雨竜に顔を近付ける。
 しかし、やはり、気にする事はないとは言え、この整った顔に見上げられるのは心臓に良くなかった。動悸が始まる。それは確かに男性の顔なのに、唇だけを見れば、奇妙に婀娜めいている気さえするのだ。
 そう、この唇は柔らかいのだと、一護は知っている。
 薄く開いた唇の奥には、あの舌が潜んでいるのだと知っている。
(…やべえ…)
 動悸が治まらない。
 何だか手が震え始めた。
 きっと、今顔は赤い。
(…ん?)
 一護はしかし、雨竜の様子に気付いた。
 30cmと離れていない至近距離で、雨竜の顔が紅潮する様を目撃した。まるで一護の動悸が感染したかのように、体を震わせてもいた。わななく唇が、ご主人様、と小さく呟いた。体温すら上がっている気がする。
「な…何でお前が、赤くなるんだよ!」
「も、申し訳、ございません…」
 殆ど涙目になりながら、雨竜はそれでも一護を見続けた。それはもう、信じられないものを見る目だった。
 覚悟は出来ていた筈なのに、こうなると自信がなくなってくる。
 ダメだ、これ以上は耐えられない。
 考えてはいけない。
 見上げる雨竜に額を付き合わせるように近付けば、夢でも見るかのように瞳が伏せられる。バカみたいに頭に血が昇るのを感じて、畜生、と心で呟く。
 鼻をすり寄せ、一護はとうとう、唇を合わせる事に成功した。
(…柔らかい)
 しっとりと湿る唇は、合わせてすぐに熱くなる。
(…ヤバい…)
 耳まで熱い。
 熱で震える、しかしそれは雨竜の方も同じだという事は伝わっていて、一護は少し安心した。膝の上で固く握られていた手が、いつの間にか一護のシャツに縋っていた。確かめるように、角度を変えて唇を押し付ける。少し深くはむと、かちりと歯が当たって、それが少し可笑しかった。
 意外に抵抗感なく、一護は舌を忍ばせた。
「ん…」
 雨竜が鼻に抜ける声を、熱い吐息と共に吐く。
 その時、だった。
「───ッ!!?」
 バチバチ、という音が耳の中に響き、唐突に襲った痛みに一護は雨竜を突き飛ばす。
 いや、突き飛ばされたのは一護の方だ。
 辛うじて床に転がるには至らず、しかしよろめくように後ずさって、一護は口を押さえ込む。
(…痛ェ…?)
 舌が痛みを訴えていた。
 舌先が触れ合ったと思った瞬間の出来事だ。
 何だ?
 感電したようなイメージだ。
 見れば、ベッドに腰掛けたまま上半身を捻って伏せる雨竜も、口を押さえている。よろよろと体を起こして、手を口に当てたまま、驚いたように一護を見上げる。申し訳ございません、くぐもった声が聞こえた。
「…何だよ、今の」
 麻痺する舌をやっと動かしてそう問うと、雨竜は涙目で「信じられません」と呟く。
「はあ?」
「…ご主人様の、霊力が…強すぎて、シャットアウトされました…。オーバーヒート防止の為の予測数値を、遥かに超えていたのです…」
 シャットアウトされた?
 つまり、チャージは出来ていないという事か。
「…どうすんだよ」
「数値を修正しましたので…もう問題はございませんが…」
 赤く染められたままの顔が、小刻みに震えながら俯く。
「…あの、お帰りになられてからで…」
「…え?」
「お時間が…。失念しておりました、申し訳ございません」
 机上の時計を見て、一護は「あ」と呟いた。7時40分を回っている。いつも8時10分には家を出ている。遅くても8時20分までには出なければならないのだ。
 今から、着替えて朝食を食べて歯を磨いて髪をセットするのに、急げば三十分はかからない。だがいつもはそれらに三十分以上(主に朝食をのんびり取るので)かかっているのを、雨竜は知っている。
(…)
 一瞬迷ったが、もう恥じらっているようにしか見えない雨竜に、従う事にする。
「…分かった。帰ってから、な」
「はい」
「…寝るなら、そこで寝てていいぞ。納戸はよせ」
「はい」
 手早く制服に着替えながらそう告げるが、雨竜は「遊子様のお手伝いをします」と立ち上がった。
「あー、んじゃ、パン焼いといてくれ、二個」
「了解しました」
 頬を染めたまま、俯いて一護の横を通り過ぎる。
 雨竜の去ったドアを横目に眺め、ベルトを締める。ウォレットチェーンに財布を繋いでポケットに捩じ込みながら、一体自分は今笑ってしまいたいのか溜め息をつきたいのか、そんな判断も付かなかった。
 結局、チャージには至らなかった。
 つまりそれは、ただキスをしたに過ぎないという事だ。
「…」
 感電(?)に驚いて、唇を合わせていたのだという甘やかな現実から意識が切り離されたのは、良かったと言うべきか。
 頭に血は昇るし、手は震えるし、やたらと変な汗が出る。
 高々キスに、そんな状態に陥るのだ。
(…尋くの忘れたな…)
 バッテリーの残量を尋き忘れた事に今更気付く。
 だが、雨竜は帰ってからでいいと言った。残量は確実に少なくなっているだろうに、しかしもう、一護がチャージを厭わないと安心したのだ。
 一護の方は、二度のキスで度胸が付いたとでも言おうか、昨日までに比べれば随分冷静だった。
 いや、雨竜のせいかも知れない。
 一度目のキスの時、雨竜は全く動じた様子もなく一護を待っていた。
 しかしその後、何故だか狼狽して見え、二度目の今などは顔を近付けただけで赤らむは目を潤ませるはで、一護の方が冷静にならざるを得なかったのかも知れない。
(…慣れれば、そんな、悪くねえかも…)
 そんな風に思う事が出来るようになるとは、飛躍的な進歩だ。
 しかし、あくまでも昨日までに比べれば、というレベルではある。
 何しろ、熱い。
 熱で手が震えたのは先程までの話だ、だが今、一護の体温は確かに上がっていた。もうすぐ十二月で、朝はそれなりに気温が下がっているというのに。
 暑い。
 手も足も、指先まで熱が行き渡っていて、暑い。
 きっと、あの唇の感触を思い出したらそれどころではない。一護はぎりりと唇を引き結ぶと、学ランを掴んで部屋を出た。
 台所では、雨竜が丁度焼けたパンを皿に移しているところだった。父親はこれから起き出してくる時間で、今一番警戒する夏梨は既に食べ終わって洗面所だ。密かにほっと息をつく。
「お弁当、ここ置くね」
「おう、サンキュ」
 それにしても、押さえ付けて奪い取れとは、ものすごいアドバイスだ。問答無用で実行されなくて良かった。まあ、良く考えればパソコンの雨竜がオーナーにそんなご無体が出来るとは思えない。
 食卓にパンの皿を置く雨竜は、既にいつものつれない顔だ。しかし、一護の顔は決して見ようとしない。
(…)
 明らかに意図的だ。
 可笑しかったが、笑う事はせず一護は朝食にありついた。
 
 
 
「…で? チャージは出来た訳?」
 一護を見送って居間に戻るとすぐ、腕を差し組んだ夏梨に尋ねられ、雨竜は一瞬答えを躊躇した。
「…いいえ」
 結論から言えば出来てはいない、雨竜は少し考えてそう答えた。夏梨は苛立ったように溜め息をつく。
 夏梨は、雨竜にとって協力者だ。
 この家の中で一護以外にチャージが可能である人物という意味も無論だが、雨竜が一護のものであり続ける為の、と言うのが正しい。何故なら、一護が「チャージは俺がする」と言ったからだ。その発言は撤回されていないし、実際先程はそれを試みた。
 尋ねられた内容に対する答えは「いいえ」でしかありえない。だが、それだけでは不充分だと判断して、雨竜は「ですが」と付け加えた。
「…状況は、改善されています」
「はあ?」
 不思議そうな夏梨の顔。
 だが、不機嫌な眉間の皺はそのままだ。雨竜は戸惑った。
 一護も夏梨も、その表情は雨竜には読み辛い。父親や遊子の方は、雨竜の良く知るパターン通りだ。だが夏梨や肝心のオーナーは、常に不機嫌なようにしか見えないのだ。それはどうしても、雨竜を不安にさせる。
「チャージ出来てないなら、改善されたとは言えないよ」
「…はい」
「今日20%切るんでしょ。いいからもう寝な」
「はい…」
 今の時点で、バッテリー残量は20%だ。正確には20.18%、スリープしていれば丁度一護が帰る頃20%に到達する。
「…夏梨様」
 スリープしなくても、一護が帰るまでに20%を切っても、チャージはして貰えそうだと思う。だが確定事項ではないので、それを夏梨に告げる事は出来ない。
「ご主人様は…寝るならご主人様のベッドを使って良いと、おっしゃいました」
 何とか、状況は改善しているのだという事は理解が欲しくて、そう言ってみる。だが夏梨は五秒ほど雨竜の顔を見つめたかと思うと、苦笑気味に溜め息をつくのだ。
「あんた、そんな事ぐらいで幸せそうな顔してどうすんの」
「…は」
 幸せそう?
 理解が及ばない。表情を変えたつもりはなかったのだが、そんな風に見えたのだろうか。雨竜は少々首を傾げた。
「まあいいよ、寝な。一兄帰ってきたら、起こしてやるから」
「…はい」
 夏梨に背を叩かれ、不可解なまま雨竜は一護の部屋へ行き、一護のベッドで眠りに就いた。
 
 
 
 何の前触れもなく、警告は発生した。瞬時にスリープ状態から脱して雨竜は目を開ける。
 部屋は暗い。
 時刻は17時31分27秒、室温11度、湿度68%、窓から見える天候は曇り。オーナーは今日は委員会で帰宅は17時頃の予定、しかしまだ学校にいるようだ。登録した一護の霊気のパターンを探すと、おおよそ北西530mの地点に確認される。
 人工知能に働きかける警告はまだ点滅状態で、虚が境界を破ろうとこちら側へ接触を開始したばかりという事だ。
 位置は西に約1km、高度約30m。
 半径5kmでの索敵が標準で、しかし今の雨竜はメモリーと霊力をセーブしていて、半径2kmまでとしている。それでも、スリープ中こういった警告に起こされる事は時折あるのだ。ただ、大抵の場合オーナーから遠かったりバランサーの登場が間に合ったりで、黒崎家に来てから雨竜がアラート状態に入ったのは二度しかなかった。
(…通学路に近い)
 僅かに眉をひそめ、雨竜は跳ね起きる。
 ここまで、警告が発生して二秒だった。
 雨竜の決断は早い。虚が学校へ近付くかは分からないし、一護が今学校を出て出現点に近付くかも分からない。だが雨竜の役目は、万が一に備える事だ。
 一護の部屋を出た時、雨竜の意識領域に別の警告が出る。バッテリーが20%を切ったのだ。雨竜は構わず階段を降りた。
「あれ、雨竜くん?」
 遊子が驚いたように声をかけて来るが、その時丁度アラート状態に突入した雨竜は、返事が出来なかった。
「雨竜、どうかした…」
 居間から夏梨が出てくる。
 返事が出来ない。
 靴を履くのももどかしい。
 玄関を飛び出す直前、辛うじて指輪を引き抜き、たたきへ投げた。
 
 虚が出現点から移動を始めた。走りながら、雨竜は唇を噛む。東へ、つまりこちらへ移動しているのだ。一護の通学路に、それだけ近くなる。
 バランサーは未だ現れる気配もない。
 虚のレベルはDマイナス、初期メモリーだけでは微妙なラインだ。攻撃するなら、外せない。残り少ない霊力では一度の攻撃しか出来ない、なるべく近付かなければならないのだ。
 一護の位置を探る。
 まだ学校だ、ほんの少し安堵する。
 夕闇の中を、人や車を避けながら走る事は時間のロスだと判断し、人気のない路地から塀へ上がり、古いビルの屋上へ跳躍する。屋根伝いなら、ほぼ直線に進む事が可能だ。出来る限りのスピードで進む。
(目標発見)
 中空をうろつく虚は、まっすぐ東に進んではいなかった。駅近辺で、電車から降りてくる人間を物色しているかのように見える。
 小さなビルの屋上、大きなビルの影に隠れるようにして様子を窺う。虚は本当に、襲うべき人間を探しているようだ、駅から動かない。
 このままならいい、雨竜もじっと動かない。
 17時41分5秒。
 一護が学校から出たようだ。
 まっすぐ帰るのなら、虚からは遠ざかる。しばらく一護の動きをトレースするが、やはり寄り道の様子は見えない。虚が駅に貼り付いている以上、今回は攻撃の必要がなくなるかも知れない。そうだといい、雨竜はあくまでも一護の安全を優先する。
 だが、まだ警戒を緩めた訳ではない。
 じっと潜んで様子を窺う。
 雨竜は目を眇めた。
 虚が、駅から目を上げた。
 人工知能に、警告以外の警告を感じる。
(これが、『イヤな予感』?)
 雨竜は少し笑った。それは考えられる事態の中でも最悪を想定したに過ぎないと、雨竜は知っている。虚が体の向きを変えた。もう、間違いない。
 気付かれた。
 雨竜のオーナーの霊気に。
 虚ははっきりと分かっているようではなく、逡巡する様子を見せる。
 夕闇から夜の闇に変わる空、その黒に身を隠しながら雨竜はビルの上を飛び移り、虚との距離を詰めてゆく。
 虚が移動を始めた。
 行く手を遮る位置に、雨竜は立った。
(距離125…116)
 バランサーは現れない。
 もう待てない、雨竜は『滅却師』を起動した。
(110…100…)
 メモリーとバッテリーをチェックする。
 雨竜は一護を真似て、顔をしかめた。
 初期メモリーでは、フルパワーの30%の攻撃力しか出せない。しかも、今はバッテリーがレッドゾーンに突入している。霊気を矢として放出する以上、それは致命的だ。小さな矢で攻撃力を上げるには、メモリーが必要だ。
(93…85…)
 行く先で、矢を番える雨竜に虚も気付かない訳はない。興味を示したかのようにスピードを上げて近付いてくる虚に、雨竜はあっさり決断した。
(データを消去)
 オーナーに関する情報は、基本動作に割り当てられているメモリーに保存している。雨竜は、オーナーの『黒崎一護』という名前以外、全てのデータを捨てた。
(メモリークリア)
 最小のメモリーを基本動作に残し、それ以外を攻撃アプリケーションに回す。
(65…52…38…)
 メモリーチェック、33%での攻撃が可能、撃破可能範囲と認識。
(外さない)
 雨竜は無感動に、矢を放った。
 
 
 
 頭に矢の命中した虚は、すぐに消えてなくなった。
(アラート解除、『滅却師』終了)
 人気のない事を確認し、ビルから地面へ飛び下りる。鈍い音が響いたが、気付く人間はいなかった。雨竜は大通りへ出て、自分がやってきた方向へ歩き始めた。
 ユーザー情報は名前以外のデータを全て捨ててしまったので、帰るべき場所が雨竜にはもう分からない。ただ、ここへどういう経路で来たのかは、ある程度は短期記録でトレースする事が可能だ。辿れるだけ辿って、あとはオーナーの名前から家を探せばいい。
 本来、こういった状況の時にはサポートセンターに連絡すれば保護して貰える。
 だがバッテリーは既に1%を切っていて、基本動作以外には使い道のない量だった。ただし、基本動作だけならあと数時間は動ける。
 ビル街から住宅街に入る。
 十分程歩いたところで、雨竜の足は止まった。細い道に、等間隔の小さな街灯。
「…」
 仕方のない事だが、覚えのない道だ。
 雨竜は一軒一軒、表札を見始めた。
 そうして一時間程探したが、雨竜は黒崎一護の家を見つけられずにいた。道をゆく人間とは何人もすれ違ったが、音源ボードも使用停止していたので、わざわざ聞く事はしなかった。
 方向が違うのだろうか。
 地図は、入っているがメモリーも霊力も足りないので開く事が出来ない。
 だが、先程のあの虚を倒すには必要な処置だった。間違った選択はしていない筈だ。だが、雨竜はバッテリーのカウントダウン開始に、焦りを禁じ得ない。
(…焦燥?)
 既に表情を作る事も難しくなって、だが人工知能はどうすればいいのかを考え続ける。歩き回りながら表札の名前の照合を続ける事は、通常よりも多少は動力を消耗するのだ。それは普段であれば些細な量だが、この状況下では致命的だ。
(あと0.3%)
 トレース出来なくなった地点から、大分離れている。反対側を探すべきだと、雨竜はきびすを返した。
(…ご主人様)
 来た時とは違う道を通り、表札を確認しながら反対方面へ向かう。
(黒崎一護様)
 オーナーに会う事が出来れば、何とでもなる。バッテリーをチャージして貰って、メモリーを増設して貰えれば、修復アプリケーションを使って消去したデータを復活させられる。
(…)
 ふと、雨竜は足を止めた。
 自ら止めた意識はなかったが、雨竜の足は止まってしまった。何が引っ掛かったのかが分からない。
(あと0.2%)
 分からないままに、再び歩き出す。
 やがて小さな公園が見えてくる。
 19時7分13秒。気温7度、湿度60%、天候は曇り。陽は完全に落ち、しかし雨竜の視界に不都合はない。
 雨竜はその公園に入った。
 小さなシーソー、ブランコ、動物をかたどった置き物、すべり台、ベンチ。それだけしかない、小さな公園。この時間で、既に誰の姿もない。
 自分が何故オーナーの家を探さずこの公園に入ったのか、理解出来ない。バッテリーはまだ0.2%弱、残っている。
 ああ、そうか。
 探している途中で電源が落ちたら、場所によっては危険だ。だから自分は電源が落ちる前に、差し支えない場所に来たのだ。
 オーナーを探す事に幾分消極的になった事など気付きもせずに、雨竜はベンチに座った。膝の上に手を置いて、その右手の薬指の辺りを撫でる。
 余力を残して、雨竜は自ら電源を切った。
 そうすれば、誰かに起こされた時、音源ボードのスイッチを入れて二言三言喋る事が出来る。その時に、黒崎一護様の元へお連れ下さいと言えばいい。
(ご主人様)
 全ての機能を停止した雨竜の体は、ぐらりと傾いで、ベンチの足元に崩れ落ちた。

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