エトヴァス:前編

 山道は、普段の人通りの少なさを物語るように若草で覆われていた。踏み締める感触は柔らかく心地良い。足が離れれば、抗議するようにその茎を起こす。時折ぱきりと小さな音が靴の下にあり、乾いた小枝が控え目にその存在の最後を主張する。
 この道を辿るのも何度目だろう。
 若い緑に覆われた山の道、仰ぎ見れば清潔な陽光の中を、穏やかな風が小鳥と共に横切ってゆく。もう春なのだと気付くのは、雪のさなかに芽吹く若葉を見かけたりした時だが、ああ春なのだと思うのは今日のような、若葉の遮る陽光を見る時だった。
(春はいい)
 放浪を続ける身には、冬の寒さや夏の陽射しはまことに厳しい。慣れはしても、不快な事には変わりないのだ。しかも、気候が厳しいというだけで注意力は落ち易い。それが分かっているので普段以上に気を張る。故に、余計に疲れる。
 体に負担のかからない気候であれば、今そうであるように、穏やかでいられる。余計な力みは必要なく、意識的に気を張らなくても周囲の情報は自然と体に伝わってくる。
 山道を抜ければ、驚く程人間の気配がある。
 踏み固められた道、やがて道祖神が見えてくる。
 内と外との境界、そこからは人里だ。
 海風の匂いが微かに届く。
 この道を辿るのも何度目だろう。
 前に来たのはいつの事だったろう。
 山が色付き始めていたから、秋の頃だろうか。
 いや、夏の終わり?
 それはもっと以前の事か?
 記憶が曖昧なのは、それを重要と思っていない証拠だろうか。
 そうだ、季節は重要ではなかった。
 ここへ来るのには、季節には関係のない、理由がある。
 逆に言えば、理由がなければ来ない村。
「…ギンコ、さん…?」
 海辺の方から、空の桶を抱えた娘がやってきた。
 

  エトヴァス

 
「いお。元気か」
「ええ。…化野先生のところへ?」
「ああ」
 ほつれた黒髪を耳へかけながら、いおはすっかり明るい笑顔で見上げてくる。ギンコはつられて笑った。この娘がこの村へやって来たのは、果たしていつの事だったか。そんな事すらも記憶はおぼろだ。
「漁は終わったのか」
「ええ、これからお昼。少し遅くなったけど、大漁で忙しいのは嬉しいわ」
 こんな娘だったろうか?
 きらきらと瞳を輝かせて笑う様は、ギンコの記憶には存在しない。出会ったいきさつを思えば無理からぬ事だ。
 いお、と数人の娘が走り寄ってきた。
 良く働く、村の娘たち。
 皆顔が明るい。
 いおも、或いは感化されたのか。
 だが、彼女らの様子はどこかおかしかった。いおの後ろで、こそこそと喋り合ってはこちらを窺う。
 一人が言った。
「いお、引き止めちゃ悪いよ」
 別の一人が言った。
「そうだよ、先生はお待ちかねなんだから」
 きゃあ、と娘たちは一斉にはしゃぐ。無論いおも入っている。口元を隠してひそひそと喋っていたのは、その笑みを隠す為か。
 何なのだ。
 呆気に取られていると、その様子がまた可笑しかったのか、止みかけた笑い声が大きくなった。
「ご、ごめんなさい、ギンコさん。しばらくはいるんでしょ? また後で!」
「…」
 困ったように笑いながら、いおは騒ぐ娘たちと走り去って行った。
(…何なんだ)
 狐につままれたように、見送る格好でギンコは立ち尽くした。面白がられていた事は確かだが、その理由が分からない。溜め息をひとつついて、ギンコは釈然としないまま、この村唯一の医者の家へ向かって歩き出した。
 
 
 風防の木々と石垣の間を縫って、足の記憶する緩やかな坂道を昇る。古いが広い屋敷の屋根を見上げたところで、背後から呼ばれて振り向いた。化野がいた。
「よう、先生。元気そうだな」
「お前もな。何だ、待たせたか?」
「いや、今着いた」
 化野は大きな鞄を提げていて、往診帰りのようだ。変わらない笑顔で迎えられてほっとする。
「飯は」
「まだだ」
「雑炊でいいか」
「ありがたい」
 土間に消える住人を目で追いながら、ギンコはいつもそうであるように縁側へ回り込む。背負った木箱を下ろして、そこでようやく息をついた。
 縁側に腰を下ろし靴を脱ぐ。
 そこから庭を見渡す。
 振り返り、部屋の中へ目を走らせる。
 蟲はいない。
 それでも自分がここに滞在する一、二週間の内には集まってくる。殆どが害を為すようなものではない、だが集まり過ぎれば何らかの影響が出ない訳でもない。蟲煙草なしでも問題ないのは二、三日の事だろう。
 木箱を持って畳へ上がる。
 素足の踏む畳の感触、ひやりとして心地良い。
 殆ど自分の家のように、ギンコはごろりと横になった。腕を枕に仰向けに、ゆっくりと深呼吸する。外よりは幾分冷えた空気が、疲れた体には丁度良かった。
 一人で旅をしていれば、うまく宿にありつけない事の方が多くなる。宿屋も良いが金がかかる。人家に宿を借りてもそこは他人の家なので、全く寛いでしまう事は出来ない。もう人の住まないあばら屋の方が余程息をつけるのだ。
 ただし、ここは別だ。
 化野が単に顧客の一人だというだけならば、そもそも長居はしない。それこそ着くなり売り物を広げて、売買が成立すればそれ以上の用はない。
 知り合って間もない頃、蟲ゆかりの品を見せているところへ急患の知らせが来た。化野はさっと立ち上がると、往診の鞄を持って飛び出したのだ。
『茶でも飯でも、好きにやっててくれ』
 反射的に『おう』と返して、つまりは取り残された格好だ。まだ商いの途中だったし、出てゆく訳にも行かなかった。いや、また次の機会にと言って、別の客に売りに行っても良かったのだが、そういう事は咄嗟に思い付かなかった。
 ともかく留守を任された事になるのだろう、そう思ってしばらくは通された部屋でおとなしくしていた。
 だが、半刻待てど一刻待てど、この家の住人は帰ってこなかった。次第に暇を持て余し、厠を探すついでにこの家の探検を始めた。探検と言っても棚や箪笥を開けるような事まではしない。襖を開けて間取りを見たり、かまちを見たり、庭に出たり、その程度だった。
 次第に腹も減ってきた。
 辺りは暗くなり始め、ギンコは観念してかまどに火を入れた。適当に野菜と魚を使い、念の為にと家人の分も用意したが、その当人が帰って来たのは翌朝の事だった。
 ギンコはなるようになれ、と勝手に布団を敷き勝手に戸締まりをして勝手に眠った。目覚めた時には何故だか、自分がどこにいるのかしばらく気付けない程の熟睡だった。のそのそと起き出したところへ、化野は帰ってきた。目の下の隈を見れば、夜通しの仕事だったのだろう事も分かる。
 済まなかったな、化野はそれでも笑って言うと、ギンコと入れ替わりにそのままになっていた布団へ潜り込んだ。ひとしきり寝顔を眺めた後、一晩ですっかり馴染んだこの家で、ギンコは食事の準備を始めたものだ。
 以来、ここへ寄る度にこうして一、二週間程滞在するようになった。
(不用心な事だ…)
 化野は基本的に、開放型だ。来る者拒まず、去る者追わず。医家としては理想的なのだろうが、商いに来る蟲師にまでとは思わなかったので、多少面喰らったのも事実だ。
 村や集落は、大抵の場合閉鎖的だ。
 他所から来るものや異質なものは、警戒されるし排除の対象となる。それは村という集団を守り維持する為にはごく一般的な反応だ。だが化野にはそれがない。彼と懇意にしているお陰で、自分のような異質な他所者でも、この村は受け入れてくれる。
 警戒心がない訳ではないのだろう。
 ただ、ギンコの持ち込む品に魅せられている。
 それでも、ギンコの逗留を許しまるで家族であるかのように扱うのは、その為だけではないと思う。
 年の頃も近い。
 神経を使う事もなく、つまりは。
 気が合うのだろう。
「おおい、食えるぞー」
 声だけが、どこからかギンコを呼んだ。
 
 
 囲炉裏の部屋へ入ると、敷いた布巾の上に土鍋が置かれていた。囲炉裏に火は入っていない。
「早いな」
「冷や飯があったからな」
 かまどでついでに湯も沸かしたのだろう、お茶の盆を持って化野は土鍋の前に座った。
「あとは魚でも焼けば良かったんだが。そこまで待てなくてな、腹が」
 古い漆器に雑炊を移しながら笑う。
 突き出されたそれを、手を合わせてから受け取った。化野の作る適当な雑炊にも慣れた。元々食にはうるさくない性質だ。
「そういや…化野、何かあったのか?」
「何かって?」
 雑炊を啜りながら、ギンコはふと思い出したように言った。
「さっき、浜の方でいおに会った」
「いおか。もうすっかり馴染んでるだろう」
「ああ。漁師の娘たちと一緒だった。…ただなあ、何やら様子がおかしくてな」
「様子?」
 小鉢のたくあんをポリポリと齧りながら、化野は顔を上げた。
「…笑われた」
「…。いおに?」
「いおにも、だ。その時、お前が俺を待っているような事を言われたんだ」
 化野は半分憐れむようなまなざしだ。
「…そりゃあ俺は、お前と言うかお前の持ってくるものを心待ちにはしているが。笑われたのは…お前がそんな、やつれた格好をしてるからじゃないのか?」
 一瞥されて、ギンコは思わず自分の出で立ちを見下ろす。
「やつれてるか?」
「…服は煮しめたような色になってるし、髭も剃ってなけりゃ髪も伸び放題、おまけに…少し痩せただろう」
 そういうのを一般的にやつれたと言うのだ、と化野は軽い溜め息をついた。
「髭くらいは風呂入る時何とかしろよ。服は明日ついでに洗ってやる」
「…すまん」
 神妙に言えば、化野は困ったように笑った。
「娘らに笑われたのは…まあ気にするな。箸が転がっても可笑しい年頃だ」
「そんなもんかね」
「気にしたいなら止めんぞ。直接聞いて来い」
「…」
 そうまで言われて引っ張る話題でもない。
 娘たちの好奇に満ちたあの笑いは気にはなったが、それを見ていない化野にうまく説明出来ないのだ。ギンコはおとなしく、雑炊のおかわりを要求した。
 

*   *   *

 
 この村に来る理由、それが化野だ。
 ギンコは化野に会う為にここへ来る。
 この医家は珍しいものが大好きで、特に蟲にゆかりするものを集めている。蒐集したもので蔵は一杯で、蟲とは関係のない珍品は部屋にも溢れていた。出会った当時でも相当な数があったので、筋金入りというところだろうか。ともかく危険な保管はしていないだろうかと、商売より先に点検をした事を思い出す。
 だが今回は、商売の為に来たのではなかった。
 ただ、喜ぶだろう、と───。
 そう思うものを持っていて、ギンコはここへ来たのだ。
 普通に考えて、金を取っても良いとは思う。
 だが今回は、日頃の礼も兼ねて、商売ではなく。
 日頃の礼とは無論、品を買ってくれたり訪れる度にこの家を使わせてくれたりという事への。そこに、ゆかりはあるとは言え本物ではないものを売り付けた過去への仄かな罪悪感が加わっている事は、口に出しては言えないのだが。
 簡単な食事の後、早速見せろと言って目を輝かせる男を前に、ギンコは苦笑した。
「今日は…まだ早いな」
「早い? 何がだ」
 家の中を見回し、縁側から外を見回し、ギンコは頭を掻く。
「明日か…明後日頃がいいだろう」
「…分からん。どういう意味だ」
「その方が楽しめるという事だ」
「…ますます分からん…」
 怪訝そうに見上げられ、ギンコは何故だか愉快な気分になってきた。
「焦らす気はねえよ。待てないと言うなら、今出してやってもいい」
「本当か」
「ああ。ただし…今出しても、あまり意味がないんだが」
「…う」
 逡巡を見せる化野の傍に座って、その顔を覗き込む。目を眇めて、かの医家は楽しげな蟲師を窺っている。
「どうする、化野先生」
「うぅ…」
 どうやら彼は、本気で苦悩しているようだった。医家というものは患者に余計な不安を与えない為に、普段から深刻な顔など見せないものだ。だが化野は、驚く程感情が表に出易い。医家としての腕は確かな筈なのに何かと村人が面倒を見に来るのは、それ以外はまるで駄目なように見えるせいだろうか。
「…明日か明後日の方が…いいんだな?」
「状況にも寄るが、恐らくは」
 医家なんて大して儲からないのに、おかしなものに散財してしまう姿を見ては、放っておけないのだろう。そう思うと余計に可笑しく思えてくる。
「…何で、明日明後日の方が、楽しめるんだ?」
「それを明かしたら楽しみも半減するぞ」
「うっ。…んん」
 顎をさすり眉間を寄せ、大いに悩む化野だ。
 自分の仕掛けた事に頭を悩ませる姿を見るのが、こんなに楽しいとは思わなかった。笑って眺めていると、じっとりと睨み返される。
「分かった。明日か明後日だな。よし」
「そうか、我慢するのか」
「そうと決まれば風呂だ」
「え?」
 未練がましい目をギンコに向けて、それでも化野はすっくと立ち上がった。
「風呂を炊いてやるから使え。汚れた服も今洗ってやる。今日はもう往診はないからな」
 目が据わっている。
 ぽかんと見上げていると、化野は苛立った風に髪を引っ掻き回しながら、どかどかと足音を立てて部屋を出るのだ。
「何かしていないと気が紛れん!」
「…」
 遠ざかってゆく愚痴に、ギンコは再び笑わされた。
 

*     *     *

 
 湯に浸かっていると、慌ただしく近付いてくる気配があった。ややあって、化野の声が風呂場に響く。
「急患だ、行ってくる」
「おう」
「ちょっと離れた島だから、今夜は戻れん」
「そうか。良かったな、気が紛れて」
「笑えねえぞ、それ」
 失言だったかな、とギンコは済まなく思う。あれでいて、患者とくれば何よりも優先させる医家なのだ。
 
 
 翌日、朝と言うには遅い時間にギンコは起き出した。が、未だこの家の主は帰っていない。浜の方へ行ってみようか、と思った時にいおが現れた。
 干物を盛った笊を片手に、ぽかんとギンコを見つめる。
「何だ? 今日は漁はないのか?」
「ああ、いえ…波が荒くて、今日はもう…」
「…どうかしたのか。化野ならまだ戻ってないぞ」
「あ、急患で舟を出したというのは、さっき聞きましたけど…」
 いおは驚いたような顔のまま、まじまじとギンコの姿を眺めていた。
「…それ、化野先生の着物…ですよね」
「ん。ああ、借りた」
 いつもの服は、昨日風呂を使う際に全て化野に奪われた。その場で洗い桶に突っ込まれて、そのままだ。洗濯板を出す間もなく化野は飛び出して行ってしまったので、これを着ていろと出された着物を、今日も着ている。
「…おかしいか?」
「えっ」
 履き物は自分の靴なので、全体的に見ると珍妙かも知れない。いおの凝視の理由を探ってギンコは首を傾げた。
「いえ…おかしい訳じゃないです、あの…ただ、見慣れないもので…」
 言いながら───いおは笑っている。
 微笑みなどという生易しいものではない。
 全開だ。
 つまり可笑しいのか。
「あの、これ。ギンコさんもいるからと思って、多めに持ってきたの。食べて下さい」
「ああ、悪いな。頂くよ」
 笑い顔で笊を押し付けられ、ギンコも曖昧ではあるが笑った。箸が転がっただけでも可笑しいのなら、この格好も確かに可笑しいだろう。失笑でない事を祈るばかりだ。
 化野邸の庭先から、走り去るいおの姿を見送る。するとすぐに娘たちの歓声が聞こえて、いおが一人でここへ来たのではない事が知れた。
 遠ざかるはしゃぎ声に、ギンコは何とも言えず疲れを覚える。
(分からん、意味が…)
 考えてみても、ギンコには箸が転がって可笑しかった時代はないので、仕方なかった。
 気を逸らせようと、笊の上の魚を見つめる。
 この村は主に漁業で成り立っているが、化野は生の魚を食べる機会があまりない。化野の生活は患者が最優先で、生のまま魚を貰っても駄目にしてしまう事が多いのだ。それを知っている漁師たちは、あらかじめ加工した状態で収穫物を差し入れてくれる。
 化野が一人身でなければ、話は別だった事だろう。
 だがそんな話題が二人の間に上った事はないし、幾度村に来ても彼について浮いた噂のひとつも聞いた試しがない。
 実は、そんな事もギンコにとってはありがたかった。
 化野の口に上るのは主に蟲の話であり、女の事などその存在すら忘れているかのようだ。だが、でなければギンコはここへ留まる事を遠慮しただろう。化野に妻があったとすれば、彼が往診や急患で家を出る度に、彼の妻とここへ取り残されるのだ。
 ギンコは鯵を見つめたまま、少し笑う。
 彼の妻となる女性は、酷く苦労するだろう、と。
 ただでさえ医家の嫁には苦労が多いというのに、化野の場合、趣味への散財もある。今だって食料の殆どが、漁師や患者宅からの差し入れで賄われているのだ。これで嫁という食い扶持が増えたらどうなるのだろう?
 化野の経済状況はともかく、ここへ逗留する事は出来なくなるな、と思う。場合によっては、持ち込む品も今までのようには買って貰えなくなるかも知れない。
(…)
 それは困る、と正直に思う。
 珍しいものが好きな輩は、意外と多い。売るあては、だから探せば良いのだ。ギンコが困るのは、ここへ来る理由がなくなってしまう、という事。
 何日ぶりかで剃った顎を掻きながら、ギンコは軽く溜め息をつく。
 それから、急に可笑しくなった。
 化野に嫁が来る事を想像して困っているのだ、これは可笑しい。こちらの都合で「嫁を貰うな」と言うのも、いかにも可笑しい。いや、そんな事を言うつもりはなかったが、ギンコの足が遠のくと知れれば化野は承知しそうで、それが更に可笑しい。実際どういう反応を見せるのか、言ってみたくなる程に可笑しい。
(バカバカしい)
 一人笑いを堪えながら、ギンコは干物の笊を持って、化野邸へ引き返した。
 
 
 食事を済ませ、仕方なく洗濯をしていると、ようやく化野が帰ってきた。
「いや、参った。波が高くて…まだ足元がおぼつかん」
「雨でないだけマシだろう、まあ休めよ」
 空は曇っているが、重苦しいものではない。
 が、この洗濯物は今日一日では乾かないなと思う。不意にいおの凝視と笑いを思い出して、ギンコは少々苦くなった。若い娘というのは残酷なものだ。
「何だ、自分で洗ってんのか」
「…暇でな」
 ギンコの方は昨晩、寛ぎ過ぎる程に寛いで、疲れも何もない。往診帰りの医家にさせる事でもないだろう。だが化野は子供のように口を尖らせた。
「やる事が減った…」
「ああ?」
「今日は一件、薬を用意する他は何もない」
「…」
「気が紛れん」
 じっとりと見下ろされ、ギンコは思い切り下を向いた。
「笑うなよ」
「すまん」
 化野は、昨日からギンコの持ってきた品を待っているのだ。苛々悶々としながらもおとなしく待っているその姿勢に、ギンコは折れざるを得なかった。
「化野。明日の予定は?」
「明日? 定期的に様子を見に行く家が一件ある。今のところは、それだけだな」
「そうか。なら今夜にしよう」
「今夜?」
 聞き返した一瞬後に、化野の顔が輝く。
 こんなところが、全く子供なのだ。
「…ギンコ。何で夜なんだ。今じゃ駄目なのか」
「あのな、本当は今夜でもまだ早いんだ。だがお前さん、明日と言ってももう待てないだろう」
「うっ。い、いや…。そんな事は」
「じゃ明日にするか」
「や、待て! お前、今夜って!」
 慌てる化野に、ギンコはにっこりと笑んでみせた。化野は少々たじろいだ様子で言葉を飲み込む。
「用事は早めに済ませておけよ」
「…おう」
 ふて腐れたような声で、それでも了解の返事がある。
 部屋の奥へ消える後ろ姿を横目に追いながら、ギンコは己の洗濯物を絞った。
 
  
 子供のよう、と言ってもそれは性質を表すものだ。日が落ちるまで一時も休む事なく仕事をしたのが、例え気を紛らわせる為だとしても、化野は確かに医家だ。薬を調合したり記録を取ったり、その姿勢は常に真摯でギンコはほっとする。生業を疎かにするような蒐集家だったら、いくら金離れの良い上客でもギンコは売りには来ないだろう。
 行灯に明かりを灯し、ギンコは荷物の中から瓢箪の徳利を出した。光酒の入った瓢箪とは別のものだ。
「土産だ」
 縁側で暮れゆく空を眺める化野の隣に座って、ぐい飲みを渡す。
「おお、酒か。たまにはいい」
 化野は深酒はしない。いつ急患の知らせがあるか分からないのだ。
「いおに干物を貰ったんだが、焙るか?」
「そうだな…、いや、今はいい。たまに飲むんだ、酒の味を見たい」
 頷いて注いでやると、化野の目が見開かれる。
「…光ってるように見えるんだが」
「ああ。いい酒だぞ」
 飲め、と促すと、化野は医家としての癖なのか匂いを確かめてから、少しを口に含んだ。
 感心したように頷く。
「美味い。この辺りじゃ、こんないい酒は手に入らんな」
「だろ」
「辛口とも甘口とも思えん。いや、甘いのか…? 飲み口は水のようだが、薄い訳でもない」
 面白いな、と化野は破顔する。ギンコは和やかな気持ちでそれを見返した。
「お前も飲めよ」
「俺はいい。土産だと言ったろう。それに…これしかないんだ、今夜お前が飲むのに丁度だろ」
「そうか? 何だ、気味が悪いな。お前が土産だなんて、初めてじゃないのか」
 二口、三口と運びながら笑う。
 で、と言葉を継いで、化野は身を乗り出してきた。
「今度の品は何だ。昨日よりも今日、今日よりも明日の方が楽しめるというのはどういう事だ」
「…気が早えな。まだ夜じゃねえだろうが」
「日はもう暮れてる」
 焦れたように寄ってこられてギンコは笑った。徳利の口を向ければ、不満そうな顔でそれでも器を差し出す。
 ぐい飲みを傾ける化野の、視線の先には朧月。
 昼間は強かった風も、今はもう止んでいる。
「…化野」
「何だ」
 輪郭のおぼろな上弦の月を見つめたままなのは、果たして機嫌を損ねたせいか?
「本当はな、迷ったんだ。お前に渡してもいいものか」
「…危険なものなのか?」
「いや。…ああ、危険と言えば危険だな」
 小さな笑いに、そこでようやく化野は月からギンコへ目を移した。
「下手を打てば、深みに嵌って医家の生業を放り出すかも知れないと…思ってな」
「…だがここにいるという事は、俺は見くびられた訳ではなさそうだな?」
 淡く目を細め、化野は笑う。
 機嫌を損ねたのではないようだ。
 今は、純粋に酒を楽しんでいるのだろう。
「美味い」
 そう呟いて、二杯目を干す。
 見計らって三杯目を注いでやると、化野は満足そうな溜め息を漏らした。そうして再び半月を見上げる。
「…ずっと昔には、月は忌み物だったそうだ」
 ギンコは化野の手の中に映る月を見つめて言った。
「へえ、そうなのか。じゃ、月見というのはいつから始まったんだろうなあ」
「元々は海の向こうの習慣らしいが」
「ふうん」
 お前はそういう事には詳しいな、化野は半月に向かって呟く。
「ものの価値なんてのは時によって変わる。人によっても」
「…何が言いたい」
 自分の蒐集について咎められたと思ったのか、半分笑いながら化野は目を眇めてギンコを見る。ギンコは笑って白状した。
「俺も大概、お前に甘いって事だ」
「…」
 脈絡を見つけられずに、化野はきょとんとする。
「…お前、俺に甘いのか」
「不本意だが、かなりな」
「おかしいな…甘やかして貰った記憶が、俺にはない」
 わざと真剣そうに首を傾げてみせるので、ギンコは思わず吹き出した。
 その時だった。
 不意に、何かを見つけたように化野は庭に目を落とす。外はもう暗く、しかし真闇ではない。輪郭の曖昧な影と、部屋からの遠い灯火。ぐい飲みを口に近付けながら、しかしやはりというようにその手を止める。
「…ギンコ」
「何だ」
「もう酔ったみたいだ」
 化野は酒を置くと、片眼鏡を外して目をこすった。着物の袖でレンズを拭いて、再び右目に宛てがう。
「…光るミミズが隊列組んで歩いてる」
「何だ、見えてきたか」
 ギンコは化野の視線の先に、同じものを見た。
 驚愕のまなざしが向けられる。
 まさか、化野は口の中で呟いた。
 はっと部屋の中を顧みて、化野は空いた口をどうにもふさぐ事が出来ない。
 畳の上を、螺旋状のものが伸縮を繰り返しながら進んでゆく。小さな光の玉が、鞠のように跳ねて庭へ出る。化野は思わず立ち上がっていた。
 が、何をどうして良いか分からない。
 再び庭に目を向ける。
 暗い中を仄かに移動する隊列は、際限なく続いているように見えもする。
「暗い中だと良く見えるだろう」
 ギンコは声をかけるが、化野には届いていない。半分口を開いたまま、言葉もなく、光る蟲をただ見つめる。
 縁側の方へやってきた螺旋の蟲を、化野は膝を折って食い入るように見つめ、恐る恐る手を伸ばす。行く手を阻まれた蟲は、困ったようにおどおどと化野の指先を迂回してゆく。
「…ギンコ」
「ん」
「これは…この酒のせいか」
 蟲から目を離す事も出来ないまま、化野が尋ねてくる。やっと言葉を取り戻した化野に、ギンコは「そうだ」と答えた。
「普段見えない者も、酔ってる間だけ見えるようになる」
「…この野郎、いくらで売るつもりだ」
「土産だと言ってるだろう。売る気はねえよ」
 軽く酔った目が、ギンコを捉えた。
「…本当か」
「ああ。…な、甘いだろ」
 途端に、化野はギンコに抱きついた。
 至近距離から不意打ちで飛びつかれて、さすがにギンコも支え切れない。
「おい、化野…」
「ギンコ、お前、お前…ッ、いい奴だなあ…っ!」
「…」
 力の限りに締め付けられて、ギンコは笑う。
 が、化野の感謝は短かった。
 興味はすぐに目の前の蟲に移り、ギンコは放り出される。そんな様子は、しかしギンコには面白い見物だ。
 蟲のひとつをじっと見つめ、じりじりと追い、しばらくすると近くの別の蟲に気を取られる。尺取虫のようなものの行く手を遮って、己の掌に乗るのを待つ。自分の手の上を移動する蟲を、それはそれは楽しそうに観察する。
「…絵で見るのとは、まるで違う」
 ひとしきり観察を終え、化野はギンコの傍に戻り、溜め息をついた。まだ残っている杯を渡せば、素直に口に含む。
「お前が迷ったというのも頷ける」
 庭をゆく蟲を眺めながら機嫌良く飲んでいたと思うと、不意に化野は切なそうに眉根を寄せた。
「…溺れそうだ」
「どのみちこれしかないんだ。今夜ぐらいは構わんだろ」
「いや、駄目だ。残りは…持って帰ってくれ」
 ギンコは一瞬遅れて理解した。
 酒がなくなったから仕方ない、ではなく、自分の意志で飲むのを止めたと思う事が肝心なのだろう。
 分かったと言って徳利に栓をする姿を、化野は見ようとはしなかった。ギンコは少し、嬉しかった。
「化野」
 徳利と空になったぐい飲みを押しのけ、ギンコは蟲を愛でる化野の目をこちらへ向けさせる。楽しそうだった筈の目は幾分淋しそうにも見えて、だがそれを一層嬉しく思うのをギンコは自覚していた。
「…すまん」
「何で謝る? いい土産だぜ」
 化野は笑うと、近付いたギンコに体を預けた。肩口に顔を埋め、懐くように擦り寄られて、ギンコはその頭を撫でてやる。
「…この目で蟲を見る事があるとは…思ってもなかったんだ。一生忘れん。感謝する」
「…ああ」
「なあ、ギンコ」
「ん」
 酔った腕が縋り付いて、ギンコの背に回った。
「…気が乗ってきたんだが」
「お前が? 珍しいな」

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