エトヴァス:後編

 半分本気で驚いて、ギンコは間近の顔を覗き込む。未だ酔いの醒めない顔が、それを嫌って背けられた。
「…お前が気分じゃないなら、別に」
「おいおい、そんな事言ってねえだろ。それになあ…お前に懐かれて気分出ねえ程、枯れてもなけりゃ聖人君子でもねえんだよ、俺は」
 聞いていた化野は、そうかと肩を震わせて笑った。
 そうだ、こういう事はギンコの方から言い出すのが常なのだ。そして化野は、少し迷ってそれを許してきた。それは彼が自分の体と附随する心情について、それ以上の大きな価値を見出す事が出来ないからだろうとギンコは思う。つけ込んだ、とまでは思っていなくても多少の引っかかりがあっただけに、今の驚きはほっとした事も大きかった。
「床、用意するか」
「…」
 待てない、化野は首を振る。
「ここでいい」
「ここって」
 縁側だ。
 いくら日は落ちたと言っても、夜更けとまではいかない。周囲には民家もあるし、当然まだ人は起きている時間なのだ。
「いや、せめて畳の上、な」
 しがみついたまま離れない化野を半ば引きずるようにして、ギンコは部屋へと這い上がる。引き戸を引いて閉めようとするのに、邪魔をするように化野の手がギンコの帯を解き始めた。
「こ、こら、もう少し待て…」
 慌てて閉めて振り向くと、さも可笑しいといった風情で化野は笑っていた。
「…酔っ払いめ」
「飲ませたのはお前だろ」
 化野が帯を放り投げると、その辺りにいた蟲がわらわらと散る。その隙に行灯の火を消すと、部屋の中はしんと暗くなった。ただ蟲だけが、ほの明るく蠢いている。
「…お前には常に、これらが見えているんだな…」
「ああ」
「俺に見えないだけで、これらはいつも、存在しているんだな」
「そうだ」
 蟲が光っているお陰で、化野にも暗い部屋の中ギンコの姿が見えている。蟲が見えなければ、そこは単に明かりを消した、暗いだけの部屋。
 蟲から視線を移して、化野はギンコに手を伸ばした。
 

*     *     *

 
 互いの肩口に互いに顔を埋め、はだけた袷から手を差し入れ、肌をまさぐり合う。待てないと言った化野はその言葉通り、すぐに呼吸が早くなった。酒の匂いの混じる吐息が耳元にかかって、ギンコの方も煽られる。遠慮がちに中心に触れてくる化野に、思わず肌が粟立った。
 言葉はない。
 絡む指に促され、ギンコも化野に触れる。
 主導権は化野にあるようだった。
 待てない、
 囁かれた声が脳裏に蘇る。
 追い立てられるように扱かれ、それは痛い程であるというのに、蘇るその声と耳元の息遣いが端から愉悦に変えてゆく。化野は既に張り詰めていて、先端から零れるものがギンコの手を濡らす。
 耳元に聞こえる呼吸が浅く激しくなって、化野の手の動きが途絶えがちになった。片手がギンコの肩に回され、縋り付いてくる。
 促すように、ギンコは化野へ強く柔らかく刺激を送る。
 引き攣るような呼吸、細かく震える、縋る腕。
 ギンコ、詰まるように小さく呼んで化野は果てた。
 荒い呼吸に、ギンコは目眩を覚える。掌に吐き出されたものは、我慢がなかったせいか、いつもより粘度が低い。指先で弄んで、ギンコは思い付いてそれを化野の後ろへ塗り付けた。化野はぴくりと体を戦慄かせたが、何も言わなかった。普段はもう少し冷静な化野が軟膏のようなものを出してくれるのだが、今回はそんな余裕はなさそうだ。かく言うギンコも、今回は化野に引きずられている。
 酒の勢いなのか、蟲を見た興奮なのか。
 指先を潜り込ませる。
 軟膏を塗り込めるよりも滑りが良い、ギンコはぼんやりとした頭でそんな事を思う。ぬめりを行き渡らせる為にゆるゆると抜き差しする。酒のせいか、中は酷く熱かった。
 呼吸を整える間も置かず与えられる刺激に、化野はくぐもった呻きを漏らす。擦り寄る頭が、互いに熱い。
 抵抗を押しのけて指を進めると、化野の息は不規則になる。それは酷く苦しそうで、しかしギンコは指を止める事が出来ない。己の幹に絡む化野の指もまた、ギンコを追い立てる事を止めないからだ。
 やがて、互いの呼吸が合い始めた。
 ギンコが中で指を曲げると、操られるように化野の指に力が入る。何度も繰り返すうち、化野の体が重くなってきた。吐息すら震え、縋る腕は力をなくし、幾度となく掴まり直す。この姿勢でいる事はそろそろ限界だろう。
「化野」
 低く呼んで、己の声が掠れている事に苦笑する。
 のしかかるようにして促せば、分かっているのかいないのか、畳に仰向けになって脱力する。その時になって、まだ化野が片眼鏡を外していない事に気付いた。常ならば、暗い部屋に意味を失うそれを、すぐに外して放り出しているというのに。
 今夜、化野には蟲が見える。
 二日間蟲避けの煙草を吸わずにいて、集まり始めた蟲たちを、化野は見ている。今も、目の前にギンコがいるというのに、畳を這う蟲を見ている。
(…この野郎)
 僅かに気に障って、ギンコは萎えかけた化野のそれを唐突に握り込んだ。
「…ッ、」
 はっと息を飲む気配に溜飲が下る。
 だが、嫌がる様子もない。ギンコは力を緩め、そろそろと撫で上げた。化野の膝が動く。
 特別気に入らない訳ではなかった。
 そもそも化野に蟲を見せる為に来たのだし、感謝も受けている。だが今は、事の最中なのだ。この時ぐらいは、蟲よりこちらに集中して貰いたい。
 念入りに解している場所が、別に与えられる刺激にも反応し、ひくひくとギンコの指を締め付ける。内側の熱い襞は己の精に潤み切ってギンコを誘う。指から伝わる収縮の感触は、そのまま記憶の中の交わりに直結する。
 もう大丈夫だろう、はやる気持ちに押されてギンコはそこから指を引き抜いた。ああ、と漏れる吐息に更に煽られる。
 仰向けの脚を抱え、多少無理のある姿勢での行為に、しかし化野から苦情はない。それどころか腕が伸びてきて、肩に掴まってさえくる。ギンコは濡れる先端を、柔らかく解したそこへ宛てがった。
 ゆっくりと腰を進める。
 肩を掴む指に力が籠る。
 先端を飲み込ませたところで様子を窺うと、化野は唇を噛み、切なげに眉間を寄せ、小刻みに体を震わせている。こういった様子は本当に切なくなっているせいなのか、それとも苦痛に耐えているだけなのか、ギンコにははっきり分からない。こちらの独り善がりなのか、悦楽を共有出来ているのか?
 更にじりじりと奥へ進めば、とうとう引き攣ったような呻き声が上がって、余計分からなくなる。
 ただ、どちらにせよ。
 煽られる事だけは確かだった。
 ぴったりと隙間なく押し包まれ、手では得る事の出来ない感覚に背筋が疼く。化野の放ったもので潤したそこは、普段と違う侵入の感覚を伝えてくる。繋がった場所から脈動を感じるが、一体どちらのものなのか判別もつかない。
「ギンコ…」
 吐息混じりに呼ばれてその顔を覗き込む。
 すると「起こせ」と、浅く繰り返される呼吸の合間で訴えられる。常にはない要求に訝りながらも、ギンコは化野の脚から手を離し、腰を支えて抱き起こしてやる。瞬間ぎりりと締め付けられて息が詰まった。化野の方も、やはり辛そうだ。
 だが、苦しいだろうに、間近で目を合わせ化野は笑った。
 笑って、掴む肩を押してくる。
「…?」
 何がしたいのか、ギンコには本当に分からない。押されるままに、ついには背が畳についた。体を繋げたまま、体勢を逆転させられた格好だった。化野の体重を受け、圧迫感が増す。
 ギンコの肩を畳へ押し付けたまま、化野は呼吸を整えてゆく。着物は肩から落ち、辛うじて袖だけが通っている。深く俯き、表情までは見えない。ただ、ちらりと舌先が覗いて唇を舐める様子だけは、はっきりと見て取れた。
 心臓が跳ねる。
 顔を上げた化野は笑っていた。
 まさに舌舐めずりだ。
 ギンコの頭のすぐ横にも蟲はいるのに、化野はそれを見ない。化野は唇を噛んで、僅かばかり腰を上げた。
「う…」
 思わず呻く。押さえ付けられた体から楔だけが持ち上がる感覚、一拍間を置いて、今度は重くねっとりとした熱の中へ強制的に取り込まれる。同時に化野が、詰めていた息を吐く。
 実際動かせたのは本当に僅かの筈だ。それなのに、ギンコの息はやたらと乱れた。
 分かっている、自分の思うように動けないせいだ。
 化野が再び息を止め、腰を上げる。
 今度はすぐに打ち付けられる。
 ああ、と吐息に声が混じる。
 やがて、そうする事に慣れてきたのか、化野の動きが徐々に大きくなってくる。噛み締められていた唇はほどけ、息を継ぎ、時折呻いた。
「あ、化野…ッ」
 紡がれる動きに慣らされ、体がその気になる。もう駄目だと思った時、不意に化野の動きが止まった。
「…?」
 動かなければ、互いの荒い呼吸は落ち着き始めてしまう。
 寸前で気を逸らされたギンコは、正直に言えば不満だった。
 どうしたのだと窺うと、化野はやはり、笑っていた。肩から手を離し、化野が上体を起こす。途端に分散していた体重が腰にかかり、ギンコは咄嗟に彼の脚を掴んだ。
 すると、化野はその手を外してしまう。
 そして、その手首を掴んだまま、腰を揺すり始めるのだ。
 こちらには何もさせないつもりなのか。
 見れば、その目は欲に潤んでいる。一度達した筈のものも、再び緩く立ち上がっている。
ギンコはそこでようやく、彼が興奮しているのだと知った。
 そうだ、誘ってきたのは化野だ。
 腰を揺らしながら、片手をギンコの手首から離し、己の熱を慰め始める。同時に内壁は不規則にギンコを締め付け、更にゆるゆると揺すられて再び腹の中が騒ぎ出す。だが化野は一方的に高めておいて、ギンコがもう果てるという寸前で、ぴたりと動きを止めるのだ。
 長く楽しもうとしているのか、それとも焦らされているだけなのか。愉悦に笑むのか、ギンコを嗤うのか。
 今まで幾度か彼と交わりを持ってきた訳だが、全てギンコの方から言い出していた。彼はそれを許してきた訳だが、だからと言って全く乗り気でない事もなかった。触れれば反応するし、内にギンコを収めたまま達する事もある。交わるからには己の欲も無視しないのが化野だ。
 だが、今自分の上に跨がる彼を見て、これが本来欲情している化野なのだと思う。それまでの情交では、彼はギンコに付き合ったに過ぎないのだと思い知る。
 果てはすぐそこなのに達する事の出来ない苦しさに喘ぎながら、ギンコは戒めのない手を化野の中心へ伸ばした。
 彼の手の上から握り込むと、びくりと腰が引けてその動きにギンコも息を詰める。その拍子に手に力が入り、それを嫌った化野はどけさせようと自分の手を動かすのだが、却って自らを追い詰めてしまう。悦楽は連鎖し、ぎゅっと締め付けられたギンコは、もう限界だった。
「…化野、すまん」
 え、と小さく驚く隙にギンコは体を起こした。そのまま己の腰を挟む脚を抱え、幾分乱暴にその体を倒す。
「ギンコ」
「あのな、煽りすぎだ、お前」
 上がった声に非難の色は薄く、寧ろ楽しげのような気すらして、ギンコは自分が焦れている事を隠すのはやめた。
「掴まってろよ」
 抱えた脚を肩まで押し付けるように力を込めても、もう化野は逆らわない。促す通りに両腕を伸ばし、ギンコの肩に掴まってくる。笑んだ顔を見つめながら、ギンコは遠慮なく腰を揺らし始めた。
「…、ッん…」
 充分に慣らされ、ギンコの先走るもので濡れた内部は熟れたようになって、急ぐ動きを難なく受け止める。
 ようやく思い通りに悦を追って、ギンコの思考は次第に意味を為さなくなってくる。が、追い立てられ、目を固く閉じ歯を食いしばる化野に、これではいけないとどこか麻痺した頭が告げてくる。ギンコは片手を化野に伸ばした。
「は…ッ、」
 抽挿に合わせて化野の幹を扱く。親指で裏筋を辿り、雫の滴る鈴口を擦る。掌の全体で先端を包んで揉む。
 化野の脚が緊張に固くなり、肩に掴まる腕が更にギンコを引き寄せた。額を合わせ、突き上げる度に漏れ出す化野の震える吐息を間近に感じ、追い詰められているのはこちらの方だとギンコは思う。
「ギ…、ギンコ…ッ」
 呼ばれて目を上げると、潤み切った目にあの片眼鏡がない。化野が外している余裕はなかった筈で、つまり激しい行為に、外れて落ちたのか。
 何故だか嬉しいような気になるギンコだ。
 化野の黒い瞳が揺れる。
 果てが近いのだ。
 切なく眉間を寄せて身を捩るのを合図に、ギンコは熱の籠った吐息を貪るように、口をふさいだ。達したのは珍しく、二人殆ど同時だった。



 縁側で蟲煙草をふかしながら、揺れる洗濯物を眺める。
 集まり始めていた蟲は殆どが蟲煙草によって祓われていた。厄介なものが寄っていなくて良かったと思う。
 空は明るいが快晴ではない。
 花曇りというものだろうか。
 ギンコはぼんやりと、自分の吐き出す煙の行方を目で追った。
 昨晩は急患などの知らせがなくて良かったと、朝になってから化野と二人胸を撫で下ろした。昨晩の情交はそれ程深かったのだ。普段の交わりが淡白だとは思わないが、それでも後始末も忘れて眠ってしまった事などない。化野の方から求めてくるという時点で普段と違ったというのに、その事で自分の方も感じ方が変わってくる事などには気付きもしなかった。完全に引きずられた。
 それを考えると、今まで化野は常に理性を保っていたのだという事も分かる。行為自体時間をかけないし、終わればあっという間に呼吸を整えて後始末をする。
 今朝、目覚めて化野は「あー」とだけ言った。しまったという顔だった。
 床も作らず畳の上で、己の着物にくるまっただけの状態で眠っていたのだ。いくら暖かくなってきたとは言え、夜はまだ多少冷える。一人だったら寒くて途中で目も覚めただろうが、二人寄り添って眠った事で凌いでしまったようだ。
 化野は、黙って別の着物と絞った手拭いをギンコに放った。汚した着物は、そうして昼前に念入りに洗われて、今ギンコの目の前に干されている。
 ばつの悪い顔を思い出して、ギンコの方こそばつが悪い。
 だが、着物と手拭いを洗って部屋に風を通してしまえば、気まずい痕跡もなくなる。たすきを解いた化野は、既にいつもと変わらない表情に戻っていた。
 ゆっくりと食事をとった後、化野は昨日言っていたように患者の様子を見に家を出た。それからギンコは一人、こうして煙をくゆらせている。来客もない。楽な留守番だ。
 立ち上がり、浜の方を見遣る。
 木々の合間から見える海原に、舟の姿はない。漁はもう終えたのだろうか。
 となると、娘たちは今忙しくしている頃だろうか。いおを含む漁師の娘たちの笑い顔を思い出しても、不思議と今は何とも思わない。ただ、やはりこの格好で浜へ下りれば笑われるのだろうな、という事は想像がついた。
 その時、数人の娘の高い声が遠く聞こえてきた。
 次第に近付いているようで、まさかと思う。
 嫌な予感に、庭先に出て確かめる事も出来ずにいると、声の主たちが化野邸の縁側   つまりギンコの目の前に現れた。
 明るく、興味津々といった顔が並ぶ。
 いおが申し訳なさそうに後方で笑う。
 中央に化野が、渋り切った顔で立っていた。
「…どうした、先生。みんな患者か?」
 娘たちの凝視に耐えられなくてそう言えば、何故か大笑いが発生する。面白い事を言ったつもりはないのだが、化野の言う通りならば、それは年頃のせいという事になる。
 が。
「ホントだあ」
「本当に先生の着物を着てる」
「やだぁ」
 ギンコの言った事には全く関係ないと思われる囁きが耳に届いて、訳が分からない。さざめきあって、ギンコを見て、また笑う。つまり、靴がどうこうという訳ではなく、普段は洋装のギンコが着物を着ているのが笑いの原因なのか。
 いや、「先生の」と娘は言った。
「もういいだろう。帰れ、お前ら」
 心底、という風に化野が追い払っても、娘たちは動じない。
「ええーっ」
「良くなあいっ」
「つまんない」
 一斉に駄々を捏ねられて、しかし化野は本当に辟易している様子でむっつりと黙り込んでしまう。
「先生、こういうのは勇気を出さなきゃ」
「そうよ、化野先生なら大丈夫!」
 何だって?
 何故化野が励まされているのか、ギンコには分かりようもない。いおが「もう行こう」と仲間の腕を引いて、集団状の娘たちはようやく移動を開始した。
 最後にいおが、化野の傍へ走り寄って謝罪する。
「あの、済みませんでした、本当に…」
 彼女が「申し訳ない」と思っているのは本心だろう。
「でも私たち、先生の味方ですから!」
 ただ、他の娘たちと同様に、化野に関する何かに興味津々というのも本当なのだろう。目を輝かせてそう告げて、いおは足取り軽く娘たちと去って行った。
「化野」
「…何だ」
「俺には説明を要求する権利があると見た」
「…」
 あああ、化野は低く深く、溜め息をついた。


「まあ…別段、お前に話す訳にはいかないとか、そういう事ではないんだ。ただ、知らなくてもお前に支障はないから、黙ってた」
 実際俺も殆ど忘れてたんだと化野は弁明する。
 囲炉裏に炭を入れて、鉄瓶に湯が沸くのを待ちながら、化野は言いにくそうに切り出した。
「…去年の秋口、前回お前がここを出た後、な。ある家で、子供が生まれた。俺も立ち会ってたんだ」
 障りがあるから誰とは言わんぞ、と前置きして溜め息をつく。
「その家の旦那の弟という奴が、世話になったと言って酒を持ってきた。祝いのものだし、受け取った。まあそれはいいんだけどな。そいつが、まあ…既にかなり出来上がってる状態でな」
 襲われた、と。
 ぼそりと呟いて化野は明後日の方角を向く。
 ギンコは目を丸くした。
「…言い寄られて押し倒されて、絶体絶命だ。だが相手は酔っ払いだし、適当にいなして帰しちまうと思って…」
「…思って?」
「……想い人がいるから、応えられないと言った」
「………」
 想い人。
 不意に、化野に妻があったらと想像した事が脳裏を過った。
「すると、だな。それは誰だと追求された」
「…ほお?」
 読めてきた。ギンコはこみ上げてくる笑いを諌めながら、続きを促す。
「女の名なんぞ、この村のものしか知らんから、迂闊には言えないだろ。それに相手は男だから、同じ男だったら引き下がり易いかと思って、な…。…お前の名を出した」
 化野は気まずそうに頭を掻いて、すまんと呟いた。やはり、とギンコは笑いを堪えるのに必死だ。
「お前ならこの村のものでもないし、そう頻繁に来ねえだろ。…あのな、それからお前の名誉の為にも、俺の片恋だって事にしたんだからな」
 片恋。
 堪え切れずに、ギンコは吹き出した。腹を抱えて畳に伏せる。笑いすぎだ、という苦々しい声が余計に笑いを誘う。
「畜生、オマエ、茶ァ入れろ!」
 引き攣る程に笑いの止まらないギンコを蹴って、化野は命令した。鉄瓶の湯が沸いた事にも気付かなかった。
「…で、その男は引き下がったのか」
「まあな。だが問題はそこからだ。そいつが俺の言った事を真に受けたのも、俺がずっと縁談断ってるせいだったんだ」
「縁談? …お前、縁談話なんかあったのかよ」
「ひとつところに住んでりゃ、いずれ降ってくるものなんだよ。世話好きというのはどこにでもいるからな」
 ギンコが茶匙を使って茶を入れるのは、ここぐらいだ。正しい作法など知らないまま適当に入れても、化野はいつも黙って飲む。適当なのはお互い様なのだ。
「なる程な…。縁談を断っていたのは旅の蟲師を想うが故、と納得したか」
 自分で言って笑いがぶり返す。笑いすぎて死にそうだと思うのは初めてだ。化野は白々と見下ろして、笑い止むのを待たずに話を続けた。
「失敗だったのはな、そいつが酔っ払ってた、という事だ」
「? 何だ?」
 息も絶え絶えに尋けば、苦り切った顔で化野は深く溜め息を吐く。
「…あちこちで、くだ巻きながら、飲み歩いたらしい」
「…つまり?」
「気がついたら村中、『化野先生はギンコさんに片思い』という話が広まっていた、という訳だ」
 茶を啜りながら、化野は遠い目で笑った。
「…壮絶だな」
「だろ」
 自分でも殆ど忘れていたというのが本当なら、その噂はギンコがこの村へ来る事で活性化してしまったのだろう。化野の片恋という事なら、確かにギンコはそれを知らなくても支障はない。ただ多少の座りの悪さを感じるだけだ。
「しかしなあ、化野…」
 いおや他の娘たちのあの様子も、理由が知れれば他愛ない。
 ギンコが可笑しく思うのは、そんな差し迫った状況下で、化野がこちらに迷惑のない言い訳を瞬間的に考え出した事だった。前回ここへ来た時も一度床を共にしていたので、咄嗟に思い付くには最適だった事だろう。
「する事しておいて、片恋も何も…」
 湯飲みを口に運びながら、収まらない笑いがこみ上げる。
 目が合うと、化野はきまり悪そうに「それとこれとは別だ」と嘯いた。
「別かね」
「別だろ」
「そう違いはないように思うが?」
「…」
 笑んだまま言うと、化野は困ったような顔をした。
 

*     *     *

 
 それから一週間滞在して、ギンコは発った。
 とどまっている間、娘たちがこそこそと様子を見に来たり、或いは堂々と差し入れを持って来たり、宴会に誘われたりと普段以上に賑やかだった。
 化野は件の酒について、忘れたように一切要求する事はなかったので、ギンコも何故彼が縁談を断り続けているか、理由を尋く事はしなかった。
 噂についても、ギンコは知らない振りをする事になった。化野の好きにさせておけばいい、実際彼の蒔いた種なのだ。また何か蟲にゆかりする品が手に入ってここへ来る時の、楽しみが増えたと思えばいい。
 品物でなくても、土産話でもいい。
 何かがあればここへ来る立派な理由となる。
 何か、
 或いは何事か。
 旅の途中で彼を思い出す事などは、滅多にない。
 が、どうしたって、ここへの道程はギンコの足が覚えている。
 どうしたって、化野はギンコを待っている。
 何か、
 或いは何事か。
 季節は関係なく、また持ち込む内容も大して問題ではなく。
「じゃあな」
「ああ、またな」
 少し考えて、「浮気するなよ」と茶化して言った。
 大分離れてから、「お前もな」と声が聞こえた。

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