指先の悪魔:後編

 

  Give me what I want and I'll go away.

 
「…もうしねえよ」
 急に機嫌が悪くなった───ようだった。
「悪かったな、付き合わせて」
 一体何が不満だったのだろう? オルガの声には僅かに怒気が感じられた。思い返してみてもシャニは彼を怒らせるような事はしていないし、言ってもいない。

(…まあいいか)
 不安定なのはお互い様だ。
 シャニは残されたベッドの中で、やがて訪れるまどろみを待った。

 
 γ-グリフェプタンを投与しての初めての起動実験が終わった時、それは訪れた。昔試した麻薬より酷かった。
 格納庫の決められたケージにフォビドゥンを収容し、降りた時にはまだ何ともなかった。思考はクリアで、目に飛び込む様々な情報を、脳は意図しなくとも同時に処理出来た。
 起きている、という実感を与えられた気がした。
 普段は眠っているのだ、この体も頭も、何もかも。
 投薬以前にフォビドゥンを動かせたのが奇跡にも思える。半分以上眠った状態で動かせる代物ではないのに。いや、実際何度ニーズヘグを壊したか知れない。あの大鎌は、物理的に重力下では使用が困難だった。
 それが、ただあの薬を飲んだだけで───。
 飛行しながらの回避運動を伴うニーズヘグの使用を、自動演算より早く自ら調整し、可能にした。笑いが止まらなかった。フォビドゥンは思い通りに、いや思うより先へと動いてくれるのだ。
 ───薬を飲むだけで。
(…ん)
 パイロットスーツを脱ぎ、最近貸与された地球連合軍とやらの軍服に着替えていた時だった。目の奥に鈍痛を感じた。
(…)
 何故だか急に脈が早くなり始めた気がして、それは十数秒も経たないうちに気のせいではないと知った。
 右手で目を覆い、左手をみぞおちにあてがう。
「…シャニ? どうした?」
 オルガの声が聞こえたが、何と言っているのかは理解出来ない。判断能力が極端に落ちているのだと気付き、γ-グリフェプタンの効果が切れたのだと悟った。脈につられて呼吸も早くなり始める。
「おい、シャニ」
 耳元で声がする。うるさい。不意に右の上腕を掴まれ、その痛みに驚いた。
「ぅあ…ッ」
 痛みは、強く掴まれた時のものではなかった。
 皮膚の表面と、内側の筋肉と、骨が軋む痛みだった。まるで焼け爛れた皮膚を掴まれたようだった。骨折した時に、その骨が肉を裂く痛みにも似ていた。オルガ(だろうか?)の声はまだ何か言っていた。
「…るさい…ッ!」
 怒鳴ったつもりなのに、押し殺したような声しか出なかった。それなのに、自分の声は酷くやかましく頭蓋骨の中を反響した。触れられた腕が痛くて、オルガを振り払い、突き飛ばす。自らの行動ですら痛みを伴った。
 体じゅうがまるで、酸欠のように萎縮した。この冷や汗は痛みのせいだろうか? 本当に火傷しているのではないかと思って腕を見るが、そんな様子はない。だが、熱と痛みは火傷のようだ。どういう事なのだろう。
 立っていられなくなって膝をつく。その衝撃にすら耐え難かった。もはや体の全てが焼け爛れていた。
 皮膚の表面ではないのだろう。この皮の下が爛れているのだ。筋肉と、僅かばかりの脂肪と、乾いた骨が。筋肉が痙攣を始め、内臓が引き攣れる。ああ、もう内臓は焼け溶けてしまったかも知れない───。

 不意に、。

 口元に何かが触れた。
 意識が飛んでいたようだ。どれ程の時間が過ぎていたのだろうか? 触れるそれは当然痛みを伴ったが、冷たく固い感触には覚えがあった。
 薬だ。
 誰かに促されるまま小瓶をあおった。液体が喉を通る激痛にむせ返る。思わず吐き出すと、新たな小瓶が現れそれを飲み下す事をシャニに要求する。何度も咳き込みながらようやく飲み干した。薬の通った喉を掻き毟り、いくら楽になる為とは言え苦痛を与えるそれを恨む。
 だが、薬の効果はシャニが自ら喉を掻き裂く前に訪れた。全身の強ばりが解けてゆくのを感じ、目を開けてみても、眼球の奥の鈍痛はそれ以上酷くはならなかった。
(…)
 目を開けた先に、オルガがいた。
 仰向けに床に倒れ、喘いでいる。自分に声をかけた時には平気そうだったのに、とシャニは苦しむ姿を不思議そうに見つめた。薬効には個人差があるのだろう。オルガの口の端から一筋、薬が流れ落ちていた。力を失った腕が投げ出され、指先がシャニの腕に触れた。
(…)
 シャニの痛みは大分薄れていた。だがオルガの方はまだ激痛が走るのだろう、シャニの腕にぶつかった指先がびくりと跳ねる。オルガの顔がこちらへ向けられた。
(…泣いてる)
 情けない顔だとは笑えないだろう。時折視界が歪むのは、こちらも泣いていたせいだ。
 オルガの口が僅かに動く。何を言いたいのだろう。助けて? 苦しい? ああ、違う。
 シャニ。
 名を呼んだのだ。
 オルガは優しい。さっきだって(突き飛ばしてしまったが)、あれは心配してくれたのだ。何故人の事など気にかける事が出来るのだろう? 自分達は人殺しをする為にここにいるのに。
(こいつ、俺に気があるのかな)
 ふと浮かんだ考えに苦笑する。そうであるにしろ、ないにしろ、今オルガが望むのは早く薬が効く事だ。
 シャニは体を起こそうとして、だが余りの重さに失敗した。全身の緊張が抜けたのはいいが、今度はまともに体が動かない。ようやく寝返りを打つ要領で体をオルガに向ける。そのままオルガの腕を伝って這いずるように近付く、その数十センチの距離は余りにも困難な道程のようだった。
 肘をついただけの距離からオルガを見下ろし、さてどうしようと思案する。だが、考えつくより先に肘が耐えられなくなって、がくりとオルガの胸に崩れてしまった。
 瞬間、オルガは苦痛に呻くが、シャニを押し退ける体力はないようだ。ここはこちらが退いてやるべきだというのはシャニも分かっていたが、どうにも体が動かないので仕方がない。
(踏んだり蹴ったりだね、オルガ)
 オルガの早い心音から、相当の苦痛がまだその体を苛んでいる事が伺える。
 しばらくすると、その音が落ち着きを取り戻し始めた。
 それが心地良い。シャニはオルガの胸に耳をすり寄せ、目を閉じた。まだ幾分早めの呼吸がすぐそばに聞こえる。
 シャニ。
 声にならない呟きは、それでも至近距離で鮮明に聞き取れた。
(…なんか、やらしー)
 目を閉じたままそれらを聞いていて、まるでセックスの後みたいだとシャニは思う。
 そこで、少し想像する。
 オルガはセックスの時、一体どんな顔をするのだろう? 今そうしているように、苦しげな表情をするのだろうか? オルガの顔は綺麗だから、息も荒く励んでも間抜けには見えないかも知れない。
 シャニは、男性としかセックス出来ない。
 別に男が好きな訳ではないのだが、シャニには欠陥があって、セックスというものをしようとするのなら男性に体を提供する事しか出来ない。シャニは、性的に興奮する事が出来ないのだ。
 それはいつからだったろう?
 だがシャニは頓着しなかった。機嫌が良ければ大抵の誘いには応じた。耐えられない痛みではなかったし、それよりも取り澄ました男の間抜け面を見る事や、人によって違う癖などを発見する事は可笑しくて、楽しかった。金や薬の見返りも魅力的だった。
 アズラエルに召集を受けてからはフォビドゥンに掛かり切りで、そういえば最近はセックスとは縁遠い。
 セックス自体は好きではない。
 けれど、今のオルガの様子を見ていると、何故だかそんな気分になってくる。オルガはどうなのだろう。オルガは男ともセックスするだろうか? シャニは、オルガの上に投げ出したままにしていた手を、その腕に滑らせた。
 ぴくりと反応があるが、既に痛みはないようだ。シャニはもう一度、指先でオルガの腕を辿る。鍛えられた筋肉の流れに沿って、腕の付け根から肘の内側まで、セックスの後、女がするように。
「…シャニ…?」
 戸惑った様子が可笑しい。もう一度殊更ゆっくりと撫でてから、シャニは顔を上げた。手を冷たい床につき、力を込めれば体はようやく持ち上がった。
 至近距離でオルガの顔を覗き込む。
 やはり綺麗だ、とシャニは思う。オルガの顔は整っていて、しかし整い過ぎた印象はなく、押し付けがましいものがない。ほつれた髪が汗で額に貼り付いていても、こぼした薬液や涙の後が頬に残っていても、汚らしい気はしなかった。
「…」
 ふと、自分も似たような状況だった事を思い出す。
 汗も涙も薬液の汚れも、すり寄ったオルガの胸で拭ったようなものだ。どうせ洗うものなのだからいいのだが、ほんの少し申し訳ない気がして、大きめの軍服の袖でオルガのいまだ汗の引かない顔を拭ってやった。
(これでおあいこ)
 オルガの方は分かっている様子ではなかったが、シャニは自分の中で完結すると、のろのろと立ち上がった。
「…シャニ」
 オルガはまだ動けないようだ。だが、体が動くようになった事にオルガへの興味を失ったシャニは、ただその場を立ち去った。クロトがいなくなっていた事には気付きもしなかった。

 

 その夜、オルガが部屋を訪れた。
「何?」
 聞いてみても、オルガは口を開きかけたり視線を彷徨わせたりで要領を得なかった。シャニの方も、オルガが本当に自分に気があるとは思っていないので、何の為に彼がここへ来たのか分からない。
「───クロト…」
「はあ?」
 不意に口を開いたと思ったら、唐突にもう1人のパイロットの名を出されてシャニは首を傾げた。
「…あいつ、心臓止まってたって…」
「へえ」
「まだ、処置室にいる…らしい」
「ふうん」
 何なのだろう? そう言ってまた口を噤んでしまったオルガの顔を、まじまじと覗き込む。クロトの現況を伝えに来ただけならもう用はない筈なのに、オルガはドア口に突っ立ったまま、目を逸らしたまま。
「え…だから何?」
 少し考えて分からなくて、シャニは尋ねる。するとオルガは弾かれたように目を上げた。
「何って、お前…ッ」
 怒ったような顔に、苛立ったような声。ぽかんと見つめていると、オルガの顔は泣きそうな気配さえ漂ってくる。
(ああ…? そっか、オルガはクロトが心配なのか)
 ようやくそこへ思い到ったシャニは、思ったままを口にした。
「オルガって優しいね」
「…」
 今度はオルガの方が、ぽかんとしてシャニを見つめた。
 そんなに意外な事を言っただろうか? それとも自覚がなかった事なのだろうか。シャニは、これは手のかかる男だ、と思った。
「する?」
「…え?」
「セックス」
「な…ッ!?」
 オルガとなら嫌な気はしない。
「慰めて欲しいんじゃないの?」
 変な顔をしているオルガの頭を抱き寄せながらそう聞けば、しどろもどろに言い訳めいた事を呟き始める。
(…うざ)
「別に、喋んなくていいよ、何も」
「…」
「する? しない?」
 俯く頭を抱き込んで耳元に問うと、やがてオルガの腕はシャニの背に回された。
 これは本当に手のかかる男だ、シャニは苦笑半分、口を歪めた。

 

 

 2度目は、それから2週間程経った晩だった。
 最中のオルガはやはり、どんなに切羽詰まった顔をしていても思わず失笑してしまうような阿呆面にはならなかったので、シャニとしては断る理由もない。この日は一体どんな訳があって慰めて貰いに来たのか、シャニは聞かなかった。オルガの理由など、シャニには関係ない。
 関係ない、のだが。
「───オルガ」
 どうも様子がおかしかった。はいどうぞと体を差し出すのに、オルガはすぐに始めようとしなかったのだ。見ればオルガのそれは張り詰めているのに、何やら体を撫でたり、首から胸を舐めてみたりしている。
「何してるの」
 何を我慢しているのだろう?
 男女の関係なら相手の機嫌を伺うのも分かるが、男同士でただ肉体的に熱を発散するのには全く不必要なものだ。しかも、シャニの準備は潤滑剤を塗るだけで済む。
「…オルガ?」
 呼び掛けにようやく顔を上げるオルガは、何故だか神妙だ。何って、と口籠るのを押しのけ、シャニは体を起こした。
「するんだろ? 下だけでも脱ぎなよ。汚れるよ」
 する気はあるらしいのに着衣のまま押し倒してきたオルガにそう言うと、戸惑ったような視線が返ってくる。
 何なんだ、本当に。
 薄明かりに慣れてきた目で、自らのジーンズのボタンを探る。さっさと下着ごと脱いでしまうが、何故かオルガはシャニの手元を見つめたまま硬直していた。
「…しないの?」
 しないならそれでもいい。
 だがオルガは、ああとかううとかハッキリしない声を発すると、その軍服を脱ぎ始めた。
 何だ、するのか。
 今日は一体どうしたと言うのだろう?
 ベッドに作り付けの引き出しから、ハンドクリームを出す。ゼリー状のそれは本来の目的で使った事はない。簡単に手に入り、潤滑剤として充分用をなすものというだけだった。
 指先に少し取り、そこへ馴染ませる。
「シャニ…」
 焦れたようなオルガを「待って」と制止して、ハンドクリームを足して更に奥へと馴染ませる。準備をするこの行為は、実はあまり好きではなかった。指の一本ではさほど痛くない代わり、中での動きがありありと分かるのが気持ち悪い。それよりも男性器を挿入する方が、衝撃と痛みがある分おぞましさは感じずに済む。
「オルガ、いいよ」
 俯せになりながら言えば、オルガはすぐに覆い被さってきた。
 ───が。
「…?」
 肩を掴まれたかと思うと、ひょいと体をひっくり返された。そして、思い詰めた顔が近付く。
 オルガは一体どうしたと言うのだろう───?
 唇が触れて、離れて、ああキスされたのだなと思うと今度は更に深く合わせられた。強く押し付けられて口が開く。当然のように舌が侵入して、しかしためらいがちに口腔内を探る。
(…オルガ、歯磨いてきたんだぁ)
 ミントの香りに、呑気にそんな事を思う。
 キスが好きという男もいる。オルガもそうなのだろうか? それにしてはぎこちない気もする。今日、オルガは確実に、おかしかった。
「…オルガ、どうしたの?」
 どこか気味が悪くなる。
「もう入れていいよ」
 これでしなかったら、逃げ出したい気分だ。だがそれを察したのだろうか、オルガは少し躊躇した後、シャニの脚を抱え上げた。
「…」
 どうやらこのままするらしい。男同士で正常位はいささか困難だと思う。
「やりにくくない?」
 一応声をかけてみれば、いいんだよと少々不満そうな声が降ってくる。何がいいのか分からないが、オルガの先端がそこへ触れて、その視線が力を抜けと訴えてきた。シャニは曖昧に頷くと、受け入れる為に体の力みを解いた。
 抱いているのが一目で男と分かる体位で萎えないのだろうかと思うが、どうやら問題ないらしい。オルガの先端は肉の抵抗を押しのけて、シャニの中へ侵入を始めた。
 瞬間、さすがに体が緊張する。オルガが低く呻いて、先端を捩じ込んだ所で動きを止めた。やはり正常位ではやりにくそうに見える。
(俺は、カオ見えて楽しいけど…)
 詰めていた息を吐き、再び繋がる部分から意識的に力を抜く。痛みはダイレクトに背筋を駆け昇るが、それはシャニにとって苦痛のうちには入らない。幾分柔らかくなった内部に、オルガは侵入を再開した。
 必死の形相で縋り付くように体を進めてくる。
 けれど、決定的に深くは入って来ない。
 下半身を抱え上げられた不自然な格好で突かれ、壁に頭がぶつかるのではないかと枕に手をやり、距離を計る。だが、少し揺すっては少し休むやり方で、どうやらシャニの頭はまだ無事だ。何故すぐに快楽を追わないのか不思議に思って、シャニはオルガの顔を見上げた。
(あ…)
 視線が絡む。
 オルガは、それは辛そうで、しかし悦に溺れていない訳でもなさそうだ。
(…早いって思われたくないのかな?)
 気にする男は多い。
 シャニとしては、早ければ早い程体は楽なのだが。
「オルガ…」
 自然と笑みが漏れた。
(頑張らなくていーよ)
 男同士で気にする事ではないだろうに。シャニがオルガの肩に腕を回して引き寄せる動作をすると、誘われるままその顔が近付いた。
「ねえ、中でしていいよ」
 前回は止める暇もなく中に出されてしまったが、今回は敢えて事前に許可を出す。案の定、オルガは複雑そうな顔をした。体の中に収まるオルガが一際興奮するのが伝わる。激しく揺すられてもいいように、シャニはその肩にしっかりと掴まった。畜生、と耳元に聞こえたかと思うと、今まで遠慮がちだったのが嘘のように蹂躙が始まった。

 

 

 耳元の荒い呼吸は、熱が引いてゆくのと連動して治まってゆく。肩口から顔を上げるオルガを見て、シャニは薬の切れたあの時を思い出した。
(やっぱ、やらしー、オルガ)
 オルガはちらりと時計を見ると、力なく溜め息をつく。やはり早い事を気にしているのだろうかと思うと、笑ってしまう。
 だが、体内に収まるものを引き抜かれたかと思うと、オルガの手がシャニの中心に伸ばされて驚いた。
「え?」
 そこで初めて、シャニはオルガの様子がおかしかった訳を悟った。
「…オルガ。俺の事は気にしなくていいって、前の時言っただろ」
 やんわりと肩を押し戻せば、いまだ熱い吐息は戸惑いがちに離れてゆく。薄明かりの中でもはっきりと分かる、オルガのしかめ面。
「俺はいいの」
「何でだよ」
「…ムダだから」
 こんな風に気を使って貰うのは初めてかも知れない。シャニを慰める事を諦めたらしいオルガは、今度は不満げな溜め息をついて、体を抱き込んでくる。思わず笑いが口をついた。
「…お前、さっきも笑ったな」
 ぼそりと呟かれて、シャニは一瞬心当たりを思い出せない。
 さっき?
 ああ、あれか。
「オルガ、かわいいなあと思って」
 自分の中で脈打つ切羽詰まったものを何とか諌めようとしていたオルガを思い出して、なんとも微笑ましい気分になる。
「………何?」
「かわいいなあって」
「…」
 聞き返すのは単に聞こえなかったからなのか、それとももっと言わせたいからなのか。
「オルガ、女の子にもてただろ」
「…は?」
 どちらかと言えば、そのどちらにも当て嵌まらないようだ。言われた事に戸惑っている。耳を疑った、という風情だ。
「くすぐられちゃうんだろうなあ、母性本能とか。…俺が見ても、かわいいなあって思うし」
 オルガは黙ってしまった。
 聞かれたから答えたのに、気に入らなかったのだろうか? だがややあって、オルガから声が返ってくる。
「なあ」
「何?」
「お前、何でやらせるんだよ」
「えぇ?」
 それはたった今の話題とは何の関係もなくて、シャニは肩透かしを食った。
「お前は楽しめない訳だろ」
「ああ…」
 その話か。
 全くオルガは優しいとしか言い様がない。射精が不可能な理由など聞かず、それなら何故体を提供するのかを聞くのだ。答えとして、シャニは少し迷った。
 他の男であるならば、見返りに金や薬が手に入る。しかし、オルガには何も要求していない事を思い出した。前回の時は、そう、オルガのセックスに興味を持ったせいというのが大きい。最中のオルガの顔はやはり綺麗で、今夜も断らなかった。
(…それだけ、だっけ?)
 身じろいでオルガの胸に顔をすり寄せれば、抱く腕が動いてシャニの髪を梳く。
 ああ、思い出した。
「お前、いい奴だからかな」
「…はあ?」
 呆れたような声が返る。
 だがシャニの、オルガに対する感想と言えばその一言に尽きる。優しい、いい奴、そこにいてもいいと思える男。
「俺がいい奴?」
「うん。いい奴だよ、お前」
 聞き返されて、今度は確信を持ってシャニはそう答えた。
 オルガはいい奴だ。
 いつだったか三人同時にシャワー室を使った時、左の獣の目を見られた。クロトは「変わってんな」と言って覗き込んだ。オルガは一瞥しただけで何も言わなかった。
 何も言わなかったのだ。
「…訳分かンねぇ」
「そう?」
 興味を持たれるのが鬱陶しくて隠していた左の金色だった。オルガはただ、ああ色違いなのかと認識しただけで、気味が悪いだとか綺麗だとか、余計な事は言わなかったのだ。シャニにとって、自分に興味を示さない人間は好意の対象に値する。
 いい奴と褒められて何が不満なのか、オルガはぐしゃりと乱暴に頭を撫でてきた。
「またしたくなったら、していいよ」
「…俺がいい奴だから?」
「そう」
 オルガなら、この先も見返りなしでも構わない。
 これは好意からくる厚意だ。
 頭を撫でるオルガの手が、ふと左目を暴く。薄闇の中でかちりと視線がぶつかった。ただ覗き込むオルガの目、やはり色違いの事などどうとも思っていない様子だ。
 だが、オルガは急に困ったように視線を外した。
「…いい奴だったら、誰にでもやらせんの?」
「はあ?」
 何を言っているのか、すぐには理解出来なかった。
 唐突にオルガの機嫌が悪くなった事だけは───分かった。
「…もうしねえよ。悪かったな、付き合わせて」
「…」
 オルガに体を提供する理由は、オルガが『いい奴』だからだ。だが、他に『いい奴』がいたとして、この体を抱かせる理由になるかは分からない。
「…ふうん」
 やっとそう考えたのだが、ベッドを抜け出るオルガに手早く説明する意欲はなかった。
(もうしないんだ)
 着衣を整えたオルガが一度振り返ったが、表情を見るには暗すぎた。
 オルガに対する興味が急速に薄れてゆくのを、シャニは自覚していない。
(まあいいか)
 何故急に不機嫌になったのか、考えようとしてその意志は途切れる。
 不安定なのはお互い様という事だ。
 ベッドの中にはオルガの体温が残っている。それにすり寄って、シャニはやがて訪れるだろうまどろみを待った。

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