恋のいばら道:前編

 

  恋のいばら道

 
 クロト・ブエルは恋をしていた。
 高嶺の花と言うべき人に対してだ。アイスブルーの瞳は酷く冷たい印象だけど、時折キャンディみたいに甘くなる。髪は随分ハッキリした金色で、影が出来る部分なんてキャラメルのよう。白い肌にはシミひとつなくて、触れたらきっとすべらかだろう。
 それがムルタ・アズラエル、クロトの恋する男。
 男だ。
 クロトも男、だけどそれは関係ない。軍なんてホモの巣窟で、始めこそ『絶対染まるもんか』と思っていたけど、一瞬でも気になったら最後だった。
 綺麗で冷たい男、遠くから見ていた時にはそれだけだった。
 いざ直属となって、すぐに認識は改められた。
 綺麗で冷たくて、子供みたいな男。
 黙ってすましていればそれなりに見えるのに、口を開くと本気で子供っぽかった。ちょっと意地悪っぽかったり、一人称が自分と同じく『僕』だったり、ダサいスーツが途端に似合って見えた。そう、本当に綺麗で冷たいだけの大人の男だったら、あのスーツはない。カッコ悪ぅい、と思ったのは一瞬で、すぐに感想は『かわいい』になった。
 かわいい、とクロトは本気で思っている。
 成果が上がらなければ容赦ない『お仕置き』(この言い方もどうかと思う)の命令を下す嫌な男だ、それなのに。
 あの顔が───。
 どうしてもかわいく思えて仕方がない。
(はあ…)
 ここで付け加えるなら、クロト少年も相当かわいい部類に入る。こちらは正真正銘本物の『子供』で、体の作りは全体的に発育途上だ。けれど一重で切れ長の目なんかは、大人になったらそれはそれはカッコ良くなるんじゃないかと自負していたりもする。
(あぁ畜生!)
 普通だったら自身が成長するまでに交流を深めておいて、実はずっと好きでしたなんて告白、「キミももう子供じゃないんですね…」とか言わせてみたい所ではある。けれど今は戦争中で、死の危険はいつも隣り合わせ。いくら腕に自信ありと言っても薬の力を借りてのものなので、イマイチ自分を騙し切れない。過酷な状況下で、ますます思いは募ってゆくばかり。そして───。
(犯りてぇ…!)
 募るのは思いばかりでなく、下半身の情熱とやらもそうだった。
 アズラエルは若い。
 そりゃクロトより上なのは確かだが、あの肌のキメは二十代には間違いない(アレで三十路越えてたら、それはそれで奇跡だが)。なのに軍事産業ナントカの理事だと言う。ハッキリ言って、ありえない! あの体を使ってのし上がったんじゃないだろうか? だって、頭が良いようにも人望が厚いようにも見えない。間違っても見えない。
(ああ、やっぱ顔だよな)
 あの顔がしどけなく喘いだり、腕の中で見上げておねだりなんかされたりした日には、どんな妻子持ちのオヤジだって逆らえないに決まってる。
 想像すると、余計に切羽詰まってくる。
(あーダメだ…こんなじゃ明日出撃出来ない…)
 悶々とするだけして、クロトはがばっと起き上がる。暗闇の中ベッド際のパネルに目をやると、控えめな電光文字は深夜の一時を示していた。隣の部屋では多分、オルガとシャニが宜しくヤってる。
(僕だけ一人なんて不公平だよね!)
 クロトは決心すると、パジャマ姿のまま部屋を出た。


 アズラエルの個室の暗証コードはとうの昔に調べてあった。彼の性格から言って暗証コードを頻繁に変える事はない筈だ…と思った通り、ロックは機嫌良く解除される。中は明るくはなかったが暗くもなかった。照明は随分落とされている。
 いくら偉い人とは言え、その個室はかなり狭い。空母というものはモビルスーツや戦闘機の為にあるのであって、人間の為のスペースなど殆ど考慮されていない。クロト達はパイロットという事で個室を与えられていたが、広さといったら、まあ3畳がいい所だ。折り畳み式のベッドを広げたら、もう通路としてしか使えないスペースが残るばかり。
 それに比べたらアズラエルの部屋は広い方だ。以前間取りを調べた時、特別にシャワールームが付いている事も知った。本当はそこは艦長用の部屋だったらしい。それでも広さはシャワールームを含めて4~5畳程度。
「…」
 侵入する時、電磁式のドアの小気味良い音がした筈だが、中からは何の反応もなかった。
 そろりと仕切りから中へ身を滑らせて、クロトは心臓が高鳴るのを止められない。アズラエルは、アズラエルは、寝ていたのだ!
(まだ一時だよ!?)
 美肌の為に早寝している訳ではない事は、その状況で分かる。何しろ照明は(落としてあるとは言え)付けっぱなし、パソコンはスリープランプが付いていて、極め付けが…一目で風呂上がりと分かるバスローブ姿。シャワーから戻ってすぐ仕事の続きをして、しながらうとうとと睡魔に襲われてゆく様子がありありと想像出来る。
(やばいよ、これ…)
 ドキドキとやかましい胸をぎゅっと右手で押さえ生唾を飲み下す。
 据え膳だ。
 どうやって組み伏せいや説き伏せようかと今まで散々考えてあったのに、全部吹き飛んだ。状況はクロトにこう語りかけている、ヤるなら今だ、ヤった者勝ちだ、既成事実を作ってしまえ、と。
 震える足で三歩進めば、狭いのですぐにアズラエルに手が届く。しゃがんで様子を伺うと、どうやら深い眠りに入っている事がその少ない呼吸数から知れた。
(よし、やろう)
 こういう状況なのだ。神がクロトに与えた機会なのだ。
 あまり逡巡せずに自分に頷くと、クロトはアズラエルのバスローブに手をかけた。紐を解いて前をはだけても、アズラエルは全く目覚める気配がない。
(うわあ…)
 オレンジ色の控えめな照明に、アズラエルの肌は酷くなまめかしく照らし出された。バスローブの下には何も付けられていない。正に据え膳だ。
(神様、僕の為にありがとう!)
 感動に震える指先で、そっと肌を辿ってみる。
 首筋、鎖骨、胸からみぞおち。アズラエルは気付かない。そのまま脇腹、腰骨を辿って腿、膝、脛。こいつ本当に大人の男なのかと疑うのは、胸毛はともかくとして脛毛までないという所だ。うっすらとはある。でも女性に恨まれそうなぐらい、それは産毛の域を出ない。手入れでもしているのか。
 それを考えるとちょっと笑えてしまうが、それより何より自分の切羽詰まった下半身の情熱を優先したい。アズラエルがいつ目覚めるとも限らないのだ。
 クロトは少し考えて、アズラエルのそれに触れた。優しく握り込んで、そっと撫で上げる。ちらちらと顔を伺うが、アズラエルの呼吸は全く乱れていない。
 それはそれで少し癪な気がする。
 強弱を付けて揉みしだく。それを何度か繰り返しても、アズラエルはただ眠っている。呼吸は幾らか早まってきたような気もするが、睡眠中の域を出ないままだ。そしてクロトの手の中にあるそれも、くったりしたまま。
(…舐めたら、どうかな?)
 クロトは決してホモではない。断じてホモではない。アズラエル限定だ。そう思いたい。
 幸いアズラエルは風呂上がりなのだから、つまり体を洗ってあるという訳で、舐めても差し支えないかも知れない。クロトは舌先で、ちろりと先端を舐めた。
(…)
 体はボディーソープの香りがして、特に嫌なカンジはしない。二度三度、確かめるようにちろちろと舐めてみてから、クロトはそれを口に含んだ。
 先端の部分だけを口の中に収めて、舌全体で撫でる。唾液を絡めるようにしてから、もう少し深く銜える。唇で柔らかく扱くようにすると、初めてアズラエルから反応を得た。
「…ん…」
 鼻に抜ける、甘い吐息。
 思わず顔を上げてアズラエルを覗き込む。まだ目覚めるには至らない彼は、少し深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出しながら、首を傾けた。そうしてまたすやすやと、平坦な眠りに入ってしまう。
(…大物なのか、鈍いのか…?)
 少々唖然としたクロトだが、都合がいいと言えばいい。クロトの口淫でほんの少し形を変えたアズラエルのものを、もう一度含んでやる。丁寧に舌を這わせ、唇で扱き、手で袋を揉む。
「んー…」
 声とも吐息ともつかないものが聞こえたが、今度は止めなかった。止めなかったが、やはりアズラエルは起きない。調子に乗ってクロトは更に愛撫を加えた。アズラエルのそれはようやく硬くなり始めた。これで、最中に目覚められても幾らか逃げ場があるというものだ。
 クロトはパジャマのポケットから、シャニお勧めのハンドクリームを取り出す。ゼリー状で具合がいいという話だ。
(そういやあいつら、どっちがどうなんだ?)
 そんな疑問が浮かぶが、据え膳に目が行けばすぐに消え去るものだ。
(えーと…)
 仰向けではやりにくい。しかしアズラエルのアレを少し元気にしてしまったので、俯せにするのも可哀想だ。クロトは片膝を立てさせると、そのまま横へ倒す。腰だけでも横向きになればと思ったが、うーんと唸りながらアズラエルは促された方向へ寝返りを打った。
(よしよし)
 完全に横向きとなった体にクロトは御満悦だ。顔がよく見えないのは残念だが、ハンドクリームを指先に取ると、クロトは意を決してアズラエルのそこへ塗り込めた。
「…ッ」
 瞬間、アズラエルの体がぴくりと震える。指先を含ませたままクロトは様子を伺った。目が覚めたのだろうか? 指をそろりと進めようとすると、またすぐに震えが伝わってくる。
 ああ、もうここまで来てしまえば同じ事だ。
 クロトは思い切りを付けると、一度指を引き抜いてハンドクリームを大量に追加し、そこへ突き立てた。
「う…ぅ…ッ」
 寝惚けたような呻き声が上がる。不愉快そうに身じろいで寝返りを打とうとするのを、空いた手で押さえれば簡単に封じられた。
(うわ…)
 馴染ませる為に根元まで差し入れた指を、ひくひくと締め付けてくる。そこは狭くて、しかし奥は柔らかい襞がクロトの指先をくすぐっていた。
(そうか…)
 つまり、きつく締め付けるこの入り口をほぐしてしまえばいいのだと理解したクロトは、指を二本にしてそこを重点的に攻め始めた。
「ん、あ…ッ!」
 アズラエルの肩が大袈裟な程震えたかと思うと、ようやくその瞼が上げられた。
「え…? なん…」
 訳の分かっていない顔がこちらを向く。
 その顔は本人の預かり知らぬ所で仄かに上気していて、それが余計にクロトの欲を誘った。指を三本にして派手に動かせば、寝惚けて力の入らない体は思いのままにわななく。
「ちょ、ちょっと…え? クロト…ッ!?」
「気持ちいい?」
 クロトはいたずらっ子のように、中を掻き回しながらアズラエルの立ち上がりかけたものに手を伸ばした。
「あぁ…!?」
 唾液に濡れそぼるそれは軽く揉み込むだけではっきりと硬くなる。やはり意識がある方が反応は早いものなのだろうか。
 アズラエルは抵抗するように腕を動かすが、バスローブが引っ掛かってクロトの頭まで届かない。
(…今のうち、だよな)
 本格的に目覚められたら、この夜這いも成功率が下がりそうだ。
「あ、うぅ…ッ…」
 ずるりと指を引き抜くと、クロトは横向きのままの体に「いただきます」をした。

 

「最悪です…」
 終わった後、クロトに背を向けてぐったりと横になるアズラエルの声は、疲れ切った中にも怒りを滲ませていた。
 結局アズラエルは、ろくな抵抗も出来ないままクロトにごちそうしてしまった形だ。しかも、クロトの手によって自身も解放されている。ヨくしてあげたのに何が最悪なのか、クロトには分からない。
「あの…、もしかして、やっぱ痛かった?」
 遠慮がちにそう聞いてみるけれど、剣呑な瞳がちらりと振り返って言う科白がまたすごい。
「キミのそんな細っこいモノが、痛い訳ないでしょ」
「…」
 ただの強がりなのか、それとも真実か? クロトとしてはちょっと複雑だけど、本当に痛くなかったなら取り敢えずは成功だ。
「…あのですねー、アズラエルさん」
 クロトは少しへりくだって話し掛ける。
「僕、無理矢理する気なんてなかっ…」
「寝込み襲っといてよく言うよ!」
 がばっと起き上がって、アズラエルは噛み付くように吠えた。
 うわ、怒ってる。
 ひとまずスッキリして気分がいい所だったのに、クロトはアズラエルのその言い草にムッと来た。
「だって、起きないから悪いんだよ!? 僕だってちゃんと手順とか考えてたのにさ! 寝てるんだもん! 起きないんだもん!!」
「こ、子供が何不健全な事考えてるんだッ!?」
「不健全じゃないよ! 好きな人としたいって思うのは当然だろ!?」
「す───!!?」
 うっかり怒鳴りあいに発展してしまったが、何故かアズラエルは唐突に鎮火した。
(ん?)
 眉根を寄せて、しかめ面で驚いたようにまばたきしている。一体どうしたのかとクロトは首を傾げるが、すぐに重大な事実に気付く。
(…言ってなかった)
「だ…だから…、好きって言って…分かって貰って、それで、えっちしたいな~って…」
「…」
 クロトは最大に居心地の悪さを感じていた。
 余りにも悶々としすぎて、よりにもよって肝心な事を言い忘れていたのだ。それもこれも、アズラエルが寝ていたせい。けれど、仮にアズラエルが起きていたとして、告白したからってヤらせてくれるとは限らない。この夜這いの成功と言える点は、そこだけだ。
「キミ、僕の事が好きなんですか」
「…好き」
 ものすごく呆れた顔をまともに見られなくなって、クロトは俯いた。
「あのねえ…。好きでも、ムリヤリやったら犯罪なんですよ?」
「…」
「考えてもみなさい。眠ってて、なんか変な気がして目が覚めたら、誰かに指突っ込まれてた訳ですよ。どうです?」
「…ぅげー…」
 言われるままに想像してしまって、クロトは顔を顰めた。
 それは、よくない。
 悪いのは一方的にクロトで、アズラエルが怒るのは当然の事なのだ。
「…ごめんなさい」
 クロトはやっと、小さな声で謝罪した。
 アズラエルはそれに溜め息をつく。アズラエルは、一体どう思っているのだろう? 世間一般的な説教をされたクロトは、謝ったそばからふつふつと沸き上がる疑問を振り払う事が出来ない。
 無理矢理やるのはよくない事だ。
(でも)
 だって、それは強姦って事だからだ。
(アズラエルだってイったのに)
 強姦は犯罪で、クロトは今犯罪を犯したという事になってしまうのだ。
「…訴える?」
「───は?」
「だって…僕、あなたを強姦したって事だよ、ね?」
「ご……」
 クロトは意気消沈してそう口を開いたが、言葉にして初めて、アズラエルが怯んだ事に突破口を見つける。
「ねえ、訴える? 16才の子供に強姦されましたって」
「…ッ!」
 上目遣いに様子を伺うと、怒りに顔を歪めた恋しい男が口をぱくぱくさせていた。
(うわ、かわい…)
 彼が本当はどう思っているのか、それは分からない。けれど、こういう言い方をすれば今犯した罪は許してくれそうだ、と根拠のない確信を持ったクロトだ。
「…合意だったって事に、してくれない?」
「な…」
「あなたに、訴えられたくない…」
 しっかりと合わせられたバスローブの胸にすり寄ると、途端にアズラエルの体は硬直する。縋る素振りで、クロトはその胸に「ごめんなさい」と囁いた。
 だが───。
 アズラエルの怒りは頂点に達したようだった。
「…ふざけるなよ、くそガキ」
 髪を掴まれたかと思うと、強い力で抱き着く体から引き剥がされる。そして胸倉を掴まれ、ドアまでずるずると引きずられた。
「いいかい、今夜の事は忘れてやる。今度こんなマネしようとしたら、その時は即殺す。分かったか!?」
 突破口だと思ったものは、実は地雷だった。
 耳元で怒鳴られ、次の瞬間には部屋から放り出されていた。尻餅をついて見上げた時にはもう、閉じられたドアがあるだけだった。
「…嫌だ!」
 クロトは慌てて立ち上がった。
 せっかくここまで辿り着いたのに、そんなのはない。振り出しに戻るどころか、可能性を全く否定されてしまってクロトは殆ど泣き出しそうだった。
「忘れちゃ嫌だ!!」
 インターホンに向かって大声で訴える。深夜だが、クロトは構わなかった。
『部屋に帰りなさい』
 声の低さがアズラエルの怒りを物語っている。
 けれど、クロトは全く引く気がない。ここで引いたら最後なのだという強迫観念に駆られた。
「アズラエル!!」
 暗証コードを打ち込めば、ドアは当然のように開く。唖然として振り返るアズラエルに、クロトはタックルでもするように飛びついた。
「は…離しなさい!」
「嫌だ!!」
「怒っているのが分からないのか!?」
「分かってるよ!!」
 いくら深夜とはいえ、軍隊には夜間勤務というものがある。騒動を聞き付けた警備担当らしい男の声が、インターホン越しに「どうかしましたか」と響いた。
 追い出される、クロトは力の限りにアズラエルにしがみつく。
 だが、この状況を知られるのを避けたいアズラエルは…「何でもありません」と言って、警備を追い払ったのだ。邪魔をされずに済んだ、それ自体はほっとするが、クロトはしがみつく力を緩める気にはなれない。足音が遠ざかっても、クロトは必死に抱きついていた。
「…キミねえ。いつまでそうしている気ですか」
「…」
 頭上から冷たい声が降ってきて、クロトはそれに答えられない。
「やる事やって、目的は果たした訳でしょ?」
 目的?
 クロトは弾かれたように顔を上げた。
 確かにセックスは重要な目的のひとつだ。だが、それが最終目的ではない。
「ちがう…」
 クロトの最終目的は、アズラエルと『イイ仲』になる事だ。
 そう、周囲の目なんか気にする事なく、アズラエルは僕のモノというのを知らしめたい! それはつまり、一言で言えば。
「恋人」
「は?」
 冷たいまなざしに困惑が混じる。
「アズラエルさん、恋人いる?」
「…」
「僕の恋人になって」
 我ながらマヌケなセリフだなー、とクロトは恥ずかしくなる。
 だが、見つめる先の愛しい男はかちんこちんな無表情になってしまって、しげしげとクロトを見下ろすのだ。十秒、二十秒、三十秒が過ぎてもアズラエルから反応は返って来ない。
「…あの…」
 さすがに自分は失敗したのだろうかと諦めかけた時だった。
「分かりました」
「え?」
「なってもいいですよ、恋人」
 耳を疑うとは正にこの事だ───。
 いや、アズラエルがやたらと端正な微笑を浮かべているように見えるので、目の方も疑ったクロトだ。目をぱちくりさせて「本当に?」と問えば、視線を逸らされる事なく「本当です」と返事がある。思わず抱きつき直すと、何とアズラエルが抱き返してくれる。
「でね、クロト」
「はい…?」
「明日出撃のキミは、もう寝た方がいいと思うんですけど?」
 彫像のような美しい顔が、笑みをたたえてクロトを諭す。
 何故アズラエルの態度が豹変したのか、クロトには全く訳が分からなかった。だが「恋人になった!」という衝撃の事実の前に、クロトの心は舞い上がってしまったので気にもならない。素直に頷いて、クロトはずっと抱き締めたままだった腕を解いた。ひょっとして腕を離した途端に殴られるんじゃないかと一瞬危惧したけれど、そんな事はなかった。アズラエルの顔は優しく微笑んだままだった。
「…キスしていい?」
 遠慮がちにそう言ってみると、何故か3秒程の間を置いて「いいですよ」と返される。精一杯背伸びして、少し屈んでくれたアズラエルの首に腕を巻き付ける。顔が近付いて互いの吐息が間近に感じられるだけで幸福感に満たされ、柔らかい唇に吸い付けば目眩さえ起こった。
「…おやすみ、クロト」
「おやすみなさい…」
 緩やかに体を離すアズラエルに逆らわず、クロトは満足げにその部屋を出る。
 かちんこちんの笑顔でそれを見送ったアズラエルが、コーディネーターもビックリのスピードで暗証コードを変更した事を、クロトは知らない訳だけれど。浮かれたクロトがあちこちで恋人宣言してしまう事をアズラエルは知らない訳なので、おあいこと言ったところなのかも知れない。

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