エアケントニスの怪物:5


 
 
 何かおかしい。
 これは何なんだ。
 ナルトか?
 本当にナルトなのか。
 支配されたい?
 記憶が戻ったら恐らく頭を掻き毟って自分の科白を否定するだろう。
「…」
 ああ、だが、今は。
 ナルトには記憶がない。
 人格や性格を決定付けるのに欠かせないのは、環境だ。そして、その中を過ごしてきた記憶。自分を形成する根本を、ナルトは失っている。今、ナルトにはこの環境しかない。三週間前に目覚めてからの記憶しかないのだ。
 その三週間分のナルトが、サスケに支配されたいと言う。
 意味が分からない。
 サスケを前にして、あれほど怯えた男が。
「そうね…一日に一時間の範囲であれば許可します」
「写輪眼は」
「主治医としては嫌だけど、まあ多少なら問題ないわ。でもこれはカカシ先生の許可と立ち会いが必要よ」
「だとよ」
 医局でサクラを呼び出してナルトの希望を伝えると、だいたい予想通りの返答があった。はあ、とナルトは覇気のない声でサスケに答える。
 何だ、その気のない返事は。
「…カカシは?」
「火影邸にいると思うけど」
「じゃあ許可貰ってこい。…おい、聞いてんのか?」
「あ…はい、ですが、己はあなたの…監視、が、任務で…」
 どこか気を落としたような、力ない声だ。サクラも当然それには気付いている。
「監視は病院内では無用よ。サスケ君は火影邸への出入りは出来ないし、ここで待たせておくから、行くなら行ってきて」
「…はい。お願い、します」
 ナルトを送り出して、サクラはふうんと息をついた。
「ナルトが目を見たいって言ったのよね?」
「ああ」
「何だかねえ…」
「様子、おかしいだろ」
 一瞬間があって、サクラがこちらを見たのが分かる。
「二人っきりが良かったみたいね」
「あ?」
「ナルト。写輪眼は立ち会いが必要って、言った途端に肩落としたから」
「…」
 なるほど。
 記憶を取り戻すきっかけになるかも知れない、赫の瞳。それを「見たい」と思うのはごく自然ななりゆきだ。それが衆人環視の中では、落ち着かないというのも分からなくはない。
 だが、写輪眼の性質上、監視の目がなければ他の者が黙っていない。
「…ねえ、サスケ君」
 サクラは椅子を促して自分も座ると、多少の逡巡ののち口を開いた。
「どうしてサスケ君は、ここにいて、ナルトに協力してくれるの…?」
 てっきりナルト自身についての話題かと思っていたサスケは、虚を突かれて口を噤んだ。
「私、時々怖かったのよ。サスケ君、怪我を治そうって意識が全くないんだもの」
「…どうせ処分されるんだ、治したって意味ねえだろ」
「やっぱり、そんなふうに思ってたのね」
 静かな声だ、サスケはそんなサクラの声を聞いたのは初めてだった。大人のような声だな、と思う。そういえば、記憶をなくしているとは言えナルトだってそうだ。自分ばかりが、あの頃のままのような錯覚。
「処分は下るわ、当然ね。でも『処分される』って言い方はやめて。何のために連れ戻したと思ってるの」
「何のためだ。仲良しフォーマンセル再結成か?」
「あら、サスケ君にしてはいい線ね」
 サクラが笑う。
「エゴよ」
 何だって?
 笑いが消えもしない声で、サクラは言った。
「エゴなの、私とナルトの。サスケ君が勝手に死ぬのは嫌なの。覚悟してね、絶対死なせないんだから」
「…お前、頭、大丈夫か」
「サスケ君より十倍マシよ。死にたがりの癖に、ナルトがおかしいからって協力してるの、すごい矛盾なんだから」
 矛盾、ではない。
 処分が下るまでの暇潰しだ、そう言おうとして、だがサスケは黙った。
 死にたがり。
 そんなふうに見えるのか。
「ま、でも、ナルトが目覚めてくれて助かったわ。サスケ君も一緒になって回復してくれるから」
「…」
 そうだっただろうか。
 いや、確かにこの三週間でかなり回復している。だがそれは、別にナルトのお陰という訳ではないはずだ。ナルトのせい、と言うべきは、食生活の変化だろうか。病院食よりは明らかに変化に富んでいる。
「ねえ、ナルト、どうなの? もう一週間になるのよね。どんなこと話してるの?」
「…別に、特に…」
 サクラは、辛いはずなのだ。それをふと思い出す。
 本当ならサクラがナルトの側にいたいのだろう。それとも、自分を覚えていないナルトの側にいることは苦痛なのだろうか。
「…今日、初めて会話らしい会話になった」
「ええ?」
 それで、目を見たいと言われたのだ。
 だがサクラについては、名前が上がった程度でしかない。ナルトにとっては入院中に世話になった医療忍者である、というぐらいの認識しかないのかも知れない。
「つうか、お前ら、ナルトに何も話してねえのか」
「何も…って、ああ…。経緯はだいたい教えてあるけど、ちょっと追い詰めちゃったみたいで…」
 サクラは申し訳なさそうに声のトーンを落とした。
「あんたは明るくてうるさくて忍者らしくない忍者だったけど、里の英雄だし結構みんなから好かれてるし、とかって…。何か思い出すきっかけになればと思って、ナルトがどんな奴だったか話したんだけどね…『すみません』て謝られちゃって、それ以来話をしようとしても顔背けられちゃって」
 焦りすぎたのかも、とサクラはため息をついた。
 ナルトにとっては、人物像を聞かされたところで、そのナルトは他人なのだろう。聞かされる通りの『ナルト』にならなければ、周囲に受け入れられない。そう思わせてしまったのならサクラのミスだ。長い意識不明から醒めたばかりで、ただ意識が混濁していただけならそれも有効だったかも知れないが、三週間経った今も何も思い出さないのなら。
 だが、それは結果論でしかない。
「そんなもん、どうしようもねえだろ」
「そうなんだけど、ちょっと不用意だったのは確かね。医療忍者の名が泣くわ」
 いくらサクラが医療に特化して修行をしたとは言え、忍の治療は怪我が殆どだ。精神を侵す忍術にかかっているなら専門の医療忍者に引き継ぐことも出来るが、純粋に記憶障害であるならここよりも火国の病院に入院するのが正解だ。
 だがナルトは、それを拒否した。
 里を離れたくないのだと言う。
 だが、その理由までは言わない。
 検査結果を火国の病院に送り、専門の医師に問い合わせたが、基本的にはやはり様子を見るしか出来ないという返事だった。以前と同じ環境に置いた方が良いという説もある。だからこそナルトの希望が通ったのだが、サクラは今になってその『理由』が見えてきた。
(サスケ君、なんだわ)
 記憶をなくしたナルトが、唯一反応を見せた人物、その瞳。あれほど恐れたくせに、その相手に固執する。
「…サスケ君の『監視』は、あいつにとっては一番の刺激になるのかもね」
 サクラは『余計な心配』はひとまず横に置き、サスケの包帯の下の目を見つめた。サスケ本来の目的であるナルトの監視については、衆目の前では話題に出来ない。
 たとえば。
 サスケが「ナルトを監視する必要がある」と言わなかったら。
 記憶喪失といえどもナルトは生きていかなければならず、その生活の糧は忍として働いた対価を充てることになる。それが無理なら、一般人としての別の働き口を探さなければならない。幸い忍としての能力には問題がなく、こうして『任務』にも就くことが出来ているが。
 ナルトとしての記憶がないまま、自分が誰であるのか分からないまま、陰鬱と言って過言ではないほどの今のナルトとして生きてゆくしか、ないのだ。それはサスケの懸念が杞憂であった場合にも当てはまる。
 そして記憶を取り戻せないまま、一年、二年、十年と過ぎてゆくのなら───。
 それはもう、自分たちの知っているかつてのナルトとは別人と言えないのか。
「…ねえ、サスケ君、ナルトの復帰試験のこと聞いた?」
「…ああ?」
 黙ってしまったサスケに問いかける。
「まあさ、何しろ下忍だし、復帰試験もそんなに難しい訳じゃなかったんだけど」
「立ち会ったのか」
「一応、担当医としてね」
「…問題なかったとは聞いてる」
 そう、問題はなかった。
 アカデミーを卒業し、晴れて下忍となった日が脳裏を過る。
「びっくりするのはね、試験の前よ」
 サスケは僅かに顔を上げ、サクラを窺った。
「アカデミーの教本と、あいつが使えてた術の忍術書を渡してあったの。試験の一週間前、まだ入院中にね。そしたら、退院する時に全部返されたの」
 全部読んだの? 読みました。全部覚えられた? はい。やりとりを思い返してサクラは乾いた声で笑った。サスケは怪訝そうに眉を寄せている。
「ナルトが、よ? 術はともかく、教本の内容なんか半分も覚えてなかったアイツがよ? 何の冗談かと思うじゃない」
「…忍としては問題ないって、そういうことか」
「問題ないどころじゃないわ。術の発動時のムラっ気のあったチャクラコントロールも完璧、威力も数割増し、指示書の把握も冷静。中忍飛び越えて上忍レベルね」
「…」
 そうやって、ナルトは全く別のナルトとして、これからを生きてゆくことになるかも知れないのだ。
「…正直、複雑よ。忍としてこれだけ優秀なら、記憶なんかなくてもナルトは生きていける。今は不安そうだけど、私たちや里のみんなとも新しく繋がっていけるし、そうしなくちゃ、やっていけないもの…」
「…『でも』?」
「うん…。でも、なの」
 サクラはそっとため息をついた。
「寂しいじゃない。私たちは知ってるんだもの、ナルトがどんな奴かって。全然知らない人が新しく仲間に加わるのとは訳が違うわ。どうしたって比べちゃう」
 サスケは黙って聞いていた。
 こうなってしまった原因は、サスケにあるかも知れないとは誰も言わない。九尾を無理矢理に押し返した結果かも知れない、とは。サスケがナルトを助けたのだということは大々的に報じられている。だが、具体的に「九尾を押し込めた」と喧伝されている訳ではない。ナルトは、運良く助けられたものの、記憶を失ってしまったのだと───思われているのだ。
「もちろん、私たちがどう思うかよりも、ナルト本人がどう思うかってことの方が大事よね。一番辛いのは、本人だもの」
 そうだろうか? 本人は、辛いというよりはただ戸惑っているだけのようにも思える。サクラの方が余程辛そうだ、とサスケは思う。
「それでも…記憶さえ戻ればって思っちゃう。焦っても仕方ないし、急かしたっていいことないのも分かってるけど…」
 サスケが九尾をナルトの腹に押し戻した弊害かも知れないことは、このサクラやカカシが考えないはずはない。封印とは全く関係なく、写輪眼で従わせたのだ。
 だが、それをサスケの前で彼らが話題にすることはないので、サスケも自ら口にはしない。
「ま、なるようにしかならないわよね。私もちょっと気になる治療法があって、色々調べてみてるけど…アイツのことだから自分で何とかしちゃいそうな気もするし!」
 サクラが声のトーンを変えて言った。
 目で応えてやれない分、せめて微笑みかけるような真似でも出来たらいいのに。苦々しく口を歪めると、サスケは僅かに俯いた。そんなふうに思うことすら、今更だった。
「さて…ナルトはいつ戻ってくるか分からないし、先に検査始めちゃいましょうか!」
 この一週間、ナルトを伴って朝晩の基本検査を受けている。一時は生死の境を彷徨ったとはいえ、体はどこかが欠損した訳ではない。だが、生きているのではなく、ただ、生かされている。運が良いと言うべきか、それとも。
 促されて立ち上がると、サクラの指先がふと頬を辿った。
「…サスケ君、顔色だいぶ良くなってきたわね。肌の荒れも治まってる」
「…」
 いい傾向ねと呟くサクラに、揶揄するような響きはない。だがカカシの言う『肌ツヤ』を思い出し、サスケは反射的に顔を背けた。

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