エアケントニスの怪物:6


 
 
 目覚めてから、ナルトは拠り所のなさに途方に暮れた。
 それは三週間経った今も変わらない。朝目覚める度に、ああ己(おれ)は誰なのだ、と喘ぐようなため息が零れる。宛てがわれた部屋は小さなアパートの一室で、それは『ナルト』が元いた住居ではない。半年前に戦で大破して、作り直したものだった。場所としては同じだが部屋自体は新しく、また内装品もかつてと同様という訳にはいかなかったと聞いた。記憶を失っていなかったら、己はそれを悲しんだのだろうか。あれがないこれがないと、不便に思うのだろうか。
 だが、今のナルトには何もかもに覚えがない。自分の所持品が全て失われていても分からない。逆に、何か残っていても、気付けない。
 記憶をなくしたことにも、ただ不安で戸惑うばかりで、それについて何か感想がある訳ではない。『ナルト』を知っている人々に話しかけられる度、申し訳ない気持ちが沸くよりも、困惑する方が先だった。サクラの言った人物像を思い描いても、ぴんとこない。
 記憶を取り戻すことなど出来るのだろうか。
 意識不明だった半年の間に、記憶は溶けて流れ出てしまったのではないか。たとえば、木ノ葉の額当てを返されて手にした時、やはり何の感慨もなかった。細かな傷は、確かにそれが使用されていたと物語る。だがそれが自分に拠るものだとは、どうしても結びつかない。溶けて流れて、失われたのだとしたら、それはもう戻りはしないのではないか。
『じゃあ今夜、病院に戻ったらでいい?』
 今すぐは無理だと言われ、許可だけを得てナルトは火影邸をあとにした。
 もし、記憶が戻るきっかけがあるとしたら。
 それはうちはサスケの『目』しかない、とナルトは思う。ほとんど直感だ。強烈に人を従わせる赫い瞳、見つめれば目を逸らすことも許されない黒い瞳。
(あれを、己は、知っている)
 禍々しいと言って間違いではないチャクラ、なのにその本質は清冽だとすら感じてしまう。
『そうか、写真もなかった?』
『…写真』
『見る?』
 フォーマンセルのことを聞くと、そう言われて一枚の写真を見せられた。今とそう変わらない火影代理のカカシと、子供が三人。あどけなさを残した医療忍者のサクラ、仕方なしにこちらを見ているサスケ、そして屈託なく笑う───ナルト。
 何だ、これは。
 毎日鏡に映る自分とは、似ても似つかない。
 別人だ。
 これは己ではない。
 不愉快だった。
 そう、不愉快だ。ナルトを知る者は、このナルトが帰ってくるのを望んでいて、それは己ではない。己を見て、己と話して、失望している。
『よければ、持っててもいいよ』
 無神経にもそう提案するカカシに、ナルトは不機嫌を押し隠して写真を突き返した。
『あれ、いいの』
『必要ありません』
 ここに、この里に忍として居続けるのであれば、人間関係は潤滑にしておかなければならないのは分かっている。だがそれには、かつての『ナルト』が邪魔をする。
 どうすればいいと言うのだろう。
 ここにいなければならない、と思う。それは、ここにいた方がいい、ということとは違う。己はここにいなければならないのだ。
 ここ。
 こことは、この里だろうか。うちはサスケの近く、ということだろうか。自分でも判別の付かない、その思い。
 だがその反面、サスケに出会った時のことを思い出す。
 ここにいてはいけない、と。
 確かにそう感じた。
 ここにはいられない、と。
 矛盾している、ナルトは昏く笑んだ。
 いなければならない、いてはいけない。自分でも意味不明だ。だが、忍としてこの里にいるのだと自分で決めた。決めた以上は、己はナルトにならなければいけないのだ。彼らの望む『ナルト』ではないかも知れないが、せめて忍として役に立てば、己でも存在意義が出来るはず。
 だから、あの赫い瞳を見てやはり何も思い出せなくても、己は気にしてはいけない。周囲がどんなに失望しても、己はここにいるしか、ないのだ───。
 

*     *     *

 
 ナルトが病院へ戻った頃には、サスケの検査は終わっていた。
「じゃあ、また今夜」
 カカシの伝言に了解して、二人はサクラと別れた。
 サスケの監視を始めて一週間。
 それまでは病院の一室に閉じ籠っていたサスケだが、ナルトが監視に付くことで、ある程度の自由が許されている。ここでおかしいのは、サスケは病室に閉じこめられていた訳ではなく、自らの意志でそこに留まっていたということだ。初めて出会ったあの日、車椅子を押す男の他に更に二人の監視が付いていたのは、写輪眼を発動するための立ち会いだったらしい。ナルトが監視任務に就いてからは、他の要員は配置されていない。
 本当には、監視など必要ないのだ。
 サスケの世話をする人間が必要なだけで、それを自分が命じられたのは、やはり試されているのだとナルトは思う。
 世話と言っても、サスケは呆れるほど手がかからない。
 日中は、リハビリという名目で病院を出る。すぐ隣の区画にあるアパートの部屋を与えられており、待遇としてはナルトと同程度だ。朝、サスケを連れて病院を出て、そのアパートへゆく。サスケを迎えにゆく前に用意しておいた朝食を与え、アパートに隣接するリハビリセンターへ。彼がそこで指導を受けている間に、アパートで簡単に掃除と洗濯をし、昼食の準備をする。神経を凝らせば、サスケがリハビリセンターから出ていないことぐらいは分かった。昼食後は、サスケは何もしない。リハビリの疲れからか、うたた寝をする時もある。だがナルトがほんの僅かでも物音をたてれば、サスケの意識は瞬時に浮上する。忍であれば、誰でもそうだろう。ナルトは必要以上にサスケに気を使うのはやめた。扉を開け放った寝室にいるのを横目で確認しながら、ナルトは風呂と夕食の準備をするのだ。
 当初はあからさまにナルトの『世話』に顔をしかめたが、もはや文句は出てこない。態度は横柄で尊大だが、火影代理の方針には逆らわないし、問題を起こしそうな気配もない。
 だが、気が向かなければナルトの言葉に返事もしない。
(…そうじゃない、のか)
 それは違うのだ、とナルトは今朝気付いた。
 返事など意味がない言葉には、返事をしないだけなのだ。
『おはようございます』
 それはナルトが病室へ来たことを知らせているだけの言葉。
『着替えです』
 サスケは与えられた服を着る以外にない。
『包帯を取ります』
 嫌だと言っても仕方がない。
 自分がサスケに対して過度の緊張を持っていることは、彼にも知れている。それを疎まれてのことだろうと思っていたが、違うのだ。現に今朝、目のことで話しかけた時には応えてくれた。見たい、と言っても拒否はされなかった。サスケは始めから、拒絶などしていない。
「写真を───見ました」
 午後、すべきことを粗方終えてしまったのち、開かれた寝室に向かってそう声をかけてみた。ベッドの上に座り、壁に背を凭せかけているサスケの顔が僅かにこちらへ向けられる。
 アパートの部屋の中では手錠を外していい、というのも待遇が良すぎる気がする。彼は本当の意味では虜囚ではないのかも知れない。
「…あなたの言う、フォーマンセルの」
 目を隠された顔からは、何も感情らしきものは窺えない。だが、こちらに顔を向けたということは、己は無視されている訳ではないのだろう。返事も相槌もないまま、ナルトは言葉を続けた。
「ですが、何も、思い出せない」
 己は何を言いたかったのだろう。
 ただ話しかけたかっただけなのかも知れない。そう思うと、少し可笑しかった。
「…あなたは、あまり変わっていなかった」
「…背は伸びてる」
 むっとしたように言われて、あの写真の仕方なさそうな顔が重なる。
「お前は…」
 その不機嫌をごまかすように、今度はサスケが口を開いた。
「…昔の自分を見て、どう思った?」
「───何も」
 何も?
 いや、何も思わなかった訳はない。
 言っても許されるのだろうか。
 少なくとも、火影代理には言えなかったことだ。
「不愉快でした」
 昏い気分が再現される。
 サスケは笑った。
 すう、と口の両端が僅かに上げられる、ただそれだけの笑みだった。ああ包帯が邪魔だ、とナルトは思った。足を踏み出す。開かれているとは言え、サスケがいる時に寝室に足を踏み入れるのは、これが初めてだった。サスケは気配が近付くのに気付かない訳がない、だが、入るなとは言われなかった。
 ベッドの際に突っ立って、座るサスケを見下ろす。
「不愉快、か」
「あれは己じゃない」
「だろうな」
「…」
 ナルトは軽く目を見開いた。
 否定されなかった。
 まるで別人だ、そういう意味だろう。だがナルトは、それでも充分だった。
「…あなたは、他の人とは…違う」
「違わねえよ」
「違う。あなたは、特別だ」
「写輪眼のことなら、カカシだって特別だぜ」
「あれは特別じゃない」
 あれ。
 仮にも里のトップを指す言葉ではない。だがサスケは咎めなかった。それに気を良くする。
 記憶を失った自分がただ一人覚えていた相手、という時点で特別だった。そしてそれ以上に、サスケは特別なのだと感じる。この里で、もしかするとこの世界中で。それは自分を支配できるまれびとだからなのか。
「…うちはサスケ」
 ああ、包帯が邪魔、だ。
「あなたは、己と…どんな関係だったのですか」
「どんな?」
「何か特別な関係が…あったように思う」
「ふん…。特別、か」
 サスケは嗤った。
「最悪って意味じゃ、特別だったな」
 最悪?
 今朝のやりとりが脳裏に蘇る。俺の怪我はお前のせい、お前の怪我は俺のせい。その結果が、記憶喪失と虜囚の身なのだ。
 では、その前は。
 やはり最悪だったのか。
「お前は俺が嫌いで、俺もお前が嫌いだった。なのに編成で同じチーム組まされた。最悪だ。仲間だ何だ言ったって、俺たちは結局馴染まなかったんだよ」
 淀みなく流れ出る悪意のような科白は、しかしナルトにとっては心に傷の付く類のものではなかった。サスケからは悪意は感じられなかったし、蔑む響きもなかった。たぶん事実なのだ、とナルトは納得した。
「…今の己も、あなたは、嫌いなのか」
「さあな」
 はぐらかされた? いや、本当に分からないだけなのだろう。
 ああ───包帯が。
 邪魔だ。
 手を伸ばしてから、自分が何をしようとしているのかに気付く。いけない、と思うのに止められない。
「…お前はどうなんだ」
 包帯に手が触れるのと同時に問われる。牽制されたのだとは思うが、止められない。今朝自分が巻いた包帯を、するりと解いてゆく。
「まだ俺が怖ぇんじゃねえのか」
「…分かりません」
 怖いのではない、正確には、それは畏怖だ。
「…サスケ」
 ベッドに膝で乗り上げて、恭しく白い布を白い顔から取り払う。サスケは、だがはっきりとは咎めない。
「サスケ」
 瞼はそれでも開かれない。
 目を見たい。
 白い顔を両手で包み、上向かせる。
「…まだ早えだろ」
 今夜病院に戻ってから、カカシと数人の忍の立ち会いの元でのことを、サスケは言っている。ナルトは目を眇め、指先に力を込めた。
「写輪眼でなくてもいい」
「…」
 一日一時間の範囲でなら許可します、と担当医は言った。サスケは迷っているようだった。そもそもは禁じられている行為なのだ。許可されるのも病院内で、とは、だが言われていない。
 果たしてサスケは、逡巡ののち、目を開けた。
 黒く艶やかな瞳が、目の前にあった。
「…俺は今、手錠をしてねえ」
「あっても、あなたには無意味です」
「バカか。俺は捕虜だぜ、今なら写輪眼使って逃げ出せる」
 だがサスケの鼓動は落ち着いていて、逃げ出す気配などまるでない。ナルトは指先を滑らせ、黒髪を梳いた。
「…本当は、己の方が捕虜ではないかと、疑った」
「ああ?」
「記憶を失ったのをいいことに、この里で監視するつもりなのかと」
 何を言っているのだという瞳が、己を見ている。
 ああ、今、目が合っているのだと自覚する。黒曜の瞳と。目が離せない。何度も髪を梳き、頬に触れる。
「ナルトという形を与えて、俺をこの里のナルトという忍に仕立て上げようと…しているのではと、疑った」
 サスケの口から、最悪だったという特別な関係を聞くまでは、そんな妄想すら抱いた。
「…面白いことを言うじゃねえか」
「あなたも…己の記憶が戻らないと、困りますか」
「俺は困らねえな」
「良かった」
 ナルトは、ここでようやく、安堵した。
 目覚めて一番の緊張を強いられた相手、なのに安堵を与えてくれるのも同じ相手。
「…いい加減、離せ」
「…すみません」
 離せと言われて、自分がサスケの頭を掴んでいた事実に気付く。ぱっと離すと、サスケはベッドを降り立った。
「…どこへ、」
「風呂。包帯取ったついでだ」
 いつもよりは早い時間だったが、それもそうだとナルトは頷いた。サスケの横顔を見送ると、彼の瞳は律儀に閉じられていた。

line_b04_1.gifline_b04_1.gifline_b04_1.gif
txt_10_back.giftxt_10_next.gif