エアケントニスの怪物:7


 
 
「じゃ、始めるわよ」
 サクラは向かい合わせた椅子に座るナルトとサスケを見下ろした。
(…ナルト、今朝に比べてずいぶん落ち着いた…?)
 病室の四隅に立ち会いの上忍、そのうちの一人はカカシだ。目が合うと促され、サクラはサスケの包帯を解く。それをじっと見つめるナルトは、今朝に比べると格段の安定ぶりだった。
 包帯を手に巻き取って、サクラはそっと二人の間から身を引く。
 サスケの目が、ゆっくりと開かれた。
 黒い瞳が、煌々と灯る電灯の下で、そこだけ闇のようにナルトを捉える。ナルトはやはり、落ち着いていた。あの日怯えたのが嘘のようだ、サクラは逆に不安が芽生えた。
「…発動する」
 小さく宣言して、サスケは写輪眼を開いた。
 

*     *     *

 
 まただ、とサスケは僅かに眉間を寄せた。
 ナルトの周囲には黒々とした泥のようなものが渦巻いている。それはチャクラとは別のものであり、淀んでいるくせにぞろぞろと流れを作っていて、ナルトを押し流そうとして見えるのだ。
 その泥は、ナルトの内部にも浸入している。
 これが現実の光景だったら、呑まれたナルトを引き上げるのは困難だろう。引き上げたとして、生きているかは甚だ疑問だ。
 それほどまでに泥は密度濃く、また深く広がって見えた。
 だが、あの時と比べるとまだましだ。怯えたナルトはすぐにも泥に呑まれて呼吸が止まってしまいそうだった。今は、泥の中でただ静かにこちらを見て、重い流れに耐えている。実際にはナルトはこの泥を感じていない様子だが、ともすればこちらまで押し流されそうだ。
 そういえば、カカシはチャクラの変質には触れたが、この泥には何も言及がなかった。
(カカシには、見えなかった…?)
 だとするなら、サスケが引っかかったのはこの泥だろうか。いや、それでは簡単すぎる。泥は、気になりはするが、それ自体は懸念の正体ではない。
 不意に、写輪眼を見つめていたナルトが立ち上がった。
 ゆっくりと二歩の距離を詰め、見上げるサスケの頬に手を伸ばす。夕刻そうしたのと同じように、まるで慈しむ仕草で顔を包む。その親指で目の下を撫でると、ナルトはふと切なげに目を細めた。
「この目(まみ)が…いずれ失われるのか」
(…まみ…?)
 独り言のようなナルトの科白。
 サスケはじっと見返した。ナルトはただ写輪眼を見つめ、サスケもまた青い目を見つめる。お互いを見ているのではなく、目を観察しているに過ぎない、その行為。
「どうにも、ならないのですか」
「…何がだ」
「失明する、と」
 サスケは呆れた。
 写輪眼を見るのは、記憶を取り戻すきっかけになるかも知れないからではないのか。それが何故だか、人の失明の心配にすり替わっている。記憶をなくしてからのナルトは、それまでとは違う意味でもウスラトンカチだ。サスケは小さく笑った。
「じゃあ、失明したら…お前の目を寄越せ」
 嘲笑混じりの要求は、それが冗談だと知らせている。
 だが、ナルトは即答した。

「差し上げる」

 ナルトの背後でサクラが硬直するのが分かった。この返事は、冗談には聞こえない。それなら、とサスケは続けて言った。
「何だ、気前がいいじゃねえか。なら心臓を寄越せと言ったらどうする」
「差し上げる」
 間髪入れず、同じ答えが返ってきた。
 見下ろすナルトは真摯だ。このバカと罵るのも、こちらがバカらしい。嘲笑を引っ込めたサスケは、いまだ顔を包むその手を振り払った。手錠ががちゃりと重い音を立てる。
 すると、今度はその手を掴まれた。
 ナルトの顔が忌々しげに歪み、硬い木と鉄で出来た手錠をぎりりと握る。こんなもの、と呟いたと思うと、ナルトはポケットから小さな鍵を出した。手錠の鍵だ。
「…おい」
 何を、と咎めるよりも早く、ナルトはサスケから手錠を取り払った。立ち会いの上忍が一歩踏み出すが、カカシはそれを制する。硬質な音と共に床に放られた枷を、サスケは見るともなしに見た。
 目の前では、膝をついたナルトが手錠の痕跡の残る手首を睨み、それを撫でている。
「…あなたは、何故、こんなところにいる」
「ああ?」
「出ようと思えば出られる檻に、何故、あなたは」
 意味のない拘束を、ナルトは責めていた。
 確かに、囚われているのはサスケの意志だ。形ばかりの拘束で『虜囚』であることを示し、抵抗しないことで抵抗できないのだと知らせている。
「お前には関係ねえ」
 サスケは言い放った。
 死にたがり、サクラの科白が蘇る。確かにこれでは、死刑という処分を望んでいるのだと思われても仕方ないのかも知れない。
 だが、記憶をなくし事情をほとんど知らされていないナルトは、憤るようにサスケを見上げるのだ。
「一言、言って下さればいい。そうしたら、己(おれ)はあなたを…お連れする」
 手に力が籠もり、サスケは同じだけ気分が重くなる。
「…俺が命じたら、お前は里抜けするのかよ」
「従います」
 泥のうねりが増した気がした。
 ナルトは溺れていて、写輪眼に縋るほかないのだとサスケは思った。だが、こうもあっさりと「里を抜ける」と承諾されると、面白いと思う反面不愉快でもあった。
「…確かにお前は、ナルトじゃねえな」
 記憶のないナルトは、この里に未練も執着もないのだ。それはかつて火影になると宣言したナルトとは、もはや別人としか言いようがなかった。
 どうするべきか迷う上忍を制するように、サスケは至近距離のナルトに言った。
「俺はここにいる。お前も里抜けする必要はねえ」
 だが、ナルトは不満そうに手に力を込めるのだ。責めるようにぎりぎりと絞められ、さすがに痛みを覚える。
「己は、我慢ならないんだ」
 その手に落とされる絞り出すような声は、そうだ、怒りに震えている。
「あなたが…囚われていることが、我慢ならない」
「おい」
「あなたには力がある、なのに何故」
「離せ」
 サスケは苛立った。
 何なんだ。
 顔が上がって合った目をひたと睨めば、ナルトはぎくりと言葉を切る。いまだサスケに対して何かしらの恐怖を持っているのだろう、なのに崇拝とも言えるこの態度は何なのだ。
「…手を、離せと言っている」
 あえて振り払わずにそう言えば、ナルトは従い慎重にサスケの手を解放する。自分の言動がサスケの機嫌を損ねたのだと気付いたナルトは、気まずい顔で俯いた。泥の中に沈んでゆくようだった。
「俺のことはいいんだよ。今はお前のことだろ」
「…記憶など、どうだっていい」
 何だって?
 サクラとカカシが顔を見合わせるのが視界に入る。
「なら、何で写輪眼を見たいなんて…」
 サクラの呟きはそのままサスケの疑問でもあった。だが、そういえば、ナルトは「目を見たい」と言ったのだ。写輪眼とは言っていないし、記憶を取り戻したいからとも言っていない。こちらが勝手にそう解釈しただけだ。
「ただ、見たかった…だけなんだ」
「俺の目を?」
 ナルトはサスケを見上げ、それを返事とする。
「…綺麗だ」
 単純に、赫い瞳に向けられた賛辞。だが言われた方は、たまったものではない。サスケはあからさまに顔をしかめ、写輪眼を閉じた。
 するとナルトは、その色の変わる様にも見とれるのだ。
「この色も、好きだ」
「…」
「己はあなたの目を見て、あなたの目に見られたかった」
 懐かしむ気配すら感じさせるまなざしだった。
 ただひとつ覚えているものがサスケの目であると言うのだ、それはあながち間違ってはいまい。だが、サスケには納得がいかなかった。こんなふうにナルトに見つめられなければならない過去など、二人の間にはないのだ。ナルトの目は、いつでも強くサスケを射ていた。しつこく追ってきた手酷いまなざしは忘れようもない。
 それを、ナルトは、覚えていない。
 サスケは舌打ちをすると、ナルトの頭に手を伸ばした。
 びくり、とナルトの怯えが狭い空気を揺らす。まだ怖いのだ、写輪眼を閉じてすら、サスケを畏れているのだ。怖いのならば排除の対象にすればいいものを。
「てめえ、記憶はどうでもいいと言ったな」
「…はい」
「俺に従うとも言ったな?」
「はい」
 なら従え、とサスケは言った。掴んだ髪を引き、カカシの方へ向かせる。他の上忍の意識が緊張するのが伝わったが、サスケは構わなかった。
「あれは誰だ」
「…、火影、代理…」
「そうだ。じき正式に火影になる、この里のトップだ。お前はあいつに従え」
「そ、れは…」
 口答えをさせる気はない。
 サスケは髪を掴んだまま、その頭を押さえつけた。ナルトの顔が苦痛に歪む。だが肉体的な苦痛ではないことは、分かっている。
「あいつに従え。あいつに逆らうな」
「サス…ケ、己は」
「返事が聞こえねえなあ、ナルト」
「…」
 言葉を切るナルトに、駄目押しで更に頭を押さえつける。
 ややあって、はい、と掠れた声がナルトから漏れた。絶望的な恭順だった。
 

*     *     *

 
 サスケに従う、それが記憶を失ったナルトが下した決断だったのだろう。カカシはナルトを連れて病室を出て、ため息を飲み込んだ。隣を歩くナルトに表情はなく、怯えも影を潜めている。彼はカカシに対しては怯えることもない。
「お前さあ、記憶、どうでもいいの」
 あえてのんびり語りかけると、冷酷とすら言える青い目がカカシを流し見る。以前のナルトからは決して想像も出来ない冷たさだ。カカシはそれを哀れとは思うまい、と受け流した。
「…復帰試験には、合格しました」
「ん?」
「問題ありません」
 ざらついた声だけが、今しがたのナルトのショックを物語っているのだろう。
「…己は、サスケの監視任務を…外されますか」
「え、何で?」
「───彼の不興を、買ってしまった」
 カカシは思わず笑った。今のナルトはサスケが全てであるらしい。
 それを冷ややかに見返すナルトは、だが真剣なのだ。
「サスケの不興なんか関係ないでしょ。あいつは今、捕虜なんだよ? 捕虜が嫌だって言ったって関係ないの」
 という訳で任務は続行、と言えば、少しは喜ぶのかと思ったナルトは視線を下へ逸らしてしまう。
「…でも、サスケに拒否されたら」
「拒否なんかしないよ。だって、お前に任務命じてるのは俺なんだから」
 火影代理に従え。逆らうな。それはサスケ自身が言ったことだ。
 正直、あの場でサスケがああ言わなかったら少々面倒なことになっていたはずだ、とカカシは思う。ナルトの言動はあまりにも不穏だった。捕虜であるサスケに脱獄を示唆したばかりか、自らも里抜けを厭わないと言い切った。サスケはそれを咎めたが、立ち会った上忍は二人を危険視するかも知れない。
 渋々納得したように頷くナルトに、カカシは今度こそため息を隠せなかった。
「全くお前ときたら…記憶があってもなくても、サスケサスケだね」
 どれほどの思いでサスケを追い続けたのか、その記憶がないはずのナルトであると言うのに。方向性は違うが、今もまだ、ナルトはサスケを追い続けているのだ。
 ふと、ナルトの足が止まった。
「…あっても、なくても…?」
 一瞬意味が分からない。
 だが、ああそうか覚えていないから、とカカシも歩みを止めてナルトを振り返る。
「…己は、以前も…?」
「んーまあ、今の感じとはちょっと違うけど」
 ナルトの目が怪訝に眇められた。
 数秒ためらってから口を開く。
「サスケは、己たちは…最悪の関係だった、と…」
「はは、サスケからしてみればそうかもな。振り払っても振り払っても追いかけてくるんだから」
 アカデミーを卒業したての二人は喧嘩ばかりしていたものだ。だが、仲良くなければ喧嘩もない、とカカシは思う。
 追いかけた? とナルトは声もなく呟く。
 カカシは頷いた。
「己が、里抜けしたサスケを、追いかけた? では…半年前、サスケを連れ戻したのは」
「お前だよ、ナルト。お前がサスケを取り戻したんだ。分かるな? この意味が」
 サスケがただ何もせず、虜囚の立場に甘んじている意味が。
 愕然と目を見開いたナルトが、病室を振り返る。
「駄目だ、ナルト」
「でも! サスケが囚われているのは己の」
「今は駄目」
 俺の言うことに従えって言われたでしょ。駄目、という言葉を強調すれば、ナルトもサスケの『命令』を思い出す。
 だが睨めつけるまなざしには底冷えのする光が宿っていた。邪魔者は消してしまおうか、と考えているのだと思わせるほどの剣呑さだ。
(…危ういな)
 この危うさは、サスケが危惧する『何か』に関係するのだろうか。
「…記憶、思い出したくなってきた?」
 宥めるようにそう問えば、小さく、だがはっきりとナルトは頷いた。

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