エアケントニスの怪物:8


 
 
 手錠は再びサスケの両手を戒めた。
 それは確かに意味のない拘束だ。壊そうと思えば簡単に壊せる。目の自由を奪う包帯もそうだ。単なる白い布、手錠の手でも外すことが出来る。
「ちょっと、やりすぎじゃない…?」
 包帯を巻きながらサクラが呟いた。
 サスケは答えなかった。
「ナルトがおかしいっていうのは良く分かったけど…」
 立ち会った三人の上忍は、サスケに反抗の意志がないということは聞かされていた。だが、記憶を失ったというナルトの奇行を目の当たりにして、問題があるのは捕虜の方ではないと判断せざるを得なかった。
 上忍のうちの一人はテンゾウだ。
 ヤマトという名でカカシ班を率いたこともある。現在も暗部の所属だったが、写輪眼の解放に立ち会うために、サクラに馴染みのあるヤマトとしてここにいた。
 ナルトにかつての面影が全くないことに、ヤマトは驚いていた。
 別人だ、というのが率直な感想だった。
 昏く、激しく、思考よりは感情が勝っていた。本能とでも言うべきか。獣じみた本能? 記憶を失うという現象は、人を野生に近付けるのか。自分よりも絶対的優位の者に対する恭順。些細な拘束を受けるサスケにすら、今のナルトは下位なのだ。少なくとも、ナルト自身はそう感じているのだろう。そして、馴染みのないこの世界でただ一人、頼るべき存在がそのサスケなのだ。
 ナルトは他の者など見ていなかった。
『背景ぐらいにしか、思ってないんだよ』
 ここに来る前に、カカシから言われたことを思い出す。ナルトにとって、サスケ以外は背景の一部にしか過ぎないのだ。サクラに対してすら、一瞥をくれることもなかった。大事に思っていたはずの存在に対してすら。
 それほどまでに、サスケの存在は大きかったのだろうか。
 不機嫌そのもののサスケを見下ろす。
 サスケにはナルトを、ナルトの望むように支配してやる気はないのだろう。唯一与えた命令が『カカシに従え』だったのだ。うまく考えたものだ、と感心する。たった一つ、その命令だけでサスケはナルトと距離を取れる。
「…いっそ、君を拘束しない方がいいのかもね」
「えっ」
 呟いた言葉は、サスケには無視されたがサクラが拾ってくれた。
「…納得しない人も多いと思います。今だって、体が回復したら牢に入れるべきだって言う人もいるくらいだし…」
 サスケの代わりにそう返すサクラは冷静だ。
 サクラはサスケを好きだったはずだ。だが、感情に基づいて行動はしても感情に流されることはない。サクラは大人だった。いや、忍であると言った方が正しいのか。
 それに、虜囚としている状態の方が却って安全なのかも知れない。
「まあ、ね。ナルト一人のためにどうこう出来る問題じゃないんだけど」
「主治医の立場から言わせて頂くと、目の酷使はやっぱり避けたいところです。あと、手錠は…これは仕方ないんですけど、手首の炎症が酷くなる前に、何か別のタイプのを用意して頂けたら助かります」
「ああ…そうだね」
 カカシは、サスケがいずれ木ノ葉の忍として復帰することを考えている。でなければ捕虜の体調をここまで考慮することはない。
 それにしても、サスケの写輪眼を警戒しての立ち会いだったはずが、ナルトを警戒する羽目になるとは。ヤマトは苦笑を残して病室を出た。


「…目を離すなよ」
「ええ…」
 サスケがナルトの何を警戒していたのかは、サクラには分からない。だが、たった今ここにいたナルトの様子は、サスケの言うように記憶喪失だけが問題ではない気がした。
 ナルトのアパートの隣室にはサイが入っていて、夜間の監視はサイに任せてある。あえて気配を殺すようなことはせず、ナルトと同じくカカシ班の一員であったことを前提に、時々部屋を訪ねたりして貰っている。
『本を貸したりしてるよ』
『本?』
『そう。料理の本とか』
 サイによれば、サイに対しては全く関心を払わないナルトだが、生活の上で聞きたいことがあると訪ねてくるのだそうだ。少々意外な気もするが、サスケの生活の世話を任されたことを考えれば頷ける。
『根の者に似てるよ、今のナルト』
 サイは言った。
『多いんだ、ああいう感じのが。あのナルトが、心からじゃなくて…必要に応じて笑えるようになったら、ちょっと手遅れのような気もする』
 それはどういう意味だろう、サクラは不安になる。
 記憶などどうでもいいと言った、それは本心からなのだろうか? ただ写輪眼が、ただサスケがいれば他はどうでもいいのだろうか? サスケと一緒であるなら、木ノ葉の里を抜けることなど些末なことなのだろうか?
 そんなのは嫌だ、サクラは唇を噛んだ。
「…あとで、カカシ先生が来ると思う」
 囁くと、サスケは小さく頷いた。
 

*     *     *

 
「ま、そんな訳で、ちょっとは真剣に記憶を取り戻したくなってきたみたいよ?」
「…」
 余計なことを、と言わんばかりに舌打ちするサスケを見下ろして、カカシは腕を差し組んだ。
 だがはっきり咎めないということは、ナルトが自分の記憶に対して前向きになったことに異議はないのだろう。
「なんかさあ、あいつの中で対人図が出来上がってきてるみたいでさあ。俺のことは『嫌な奴』ていうカテゴリーみたいでねー」
「…だから何だ」
「怖いんだよ、すっごい冷たい目で見るの! 酷くない!? 散々奢ってやったってのに!」
「覚えてねえんだから、仕方ねえだろ」
 大袈裟に嘆いてみせれば、サスケは煩わしそうに顔を背ける。カカシは椅子を引くと腰掛けた。
「ま…実際、『サスケ以外はその他大勢』ってとこなんだろうけど」
 それにしたって、あのまなざしは尋常じゃない。サクラになど目もくれないことを思えば、個として意識されているだけマシだろうか。
(いや、そういう問題じゃないか…)
 今のところ、ナルトが冷酷な目で見る相手は自分ぐらいだろう、とカカシは思う。何がそうさせるのか? 恐らくは、曲がりなりにも木ノ葉のトップ、サスケの拘束を命じている火影代理だからだろう。
 自分だけにそれが向けられているうちはいい。だが、例えば小隊に組み込んで任務に出したとして。足を引っ張る(かつてのナルトのような)仲間を、簡単に切り捨ててしまうような事態になったら? ナルトは忍としては優秀でも、誰からも組んで貰えなくなる。信頼のない忍は木ノ葉ではやっていけない。
「…何か分かった?」
 サスケは一瞬ためらったあと、小さく首を振った。だが、思い直したように顔をこちらへ向ける。
「あんたは…泥は見えたか?」
「泥?」
「見えなかったならいい」
 サスケは思案するように顔を俯けた。
「…ナルトに泥が見えたのか?」
「チャクラとは別のもの…だ」
「始めから?」
 頷く。
 カカシの立ち会っていない、三週間前のことだ。あの時も見えていた?
「初耳だね」
「判断が付かなかった。チャクラとは関係ねえし、たぶん、俺が引っかかってる直接の原因はその泥じゃねえ」
「直接の原因じゃなくても、その尻尾ぐらいではある訳だ?」
「さあな。本当に関係あるのかも分からねえ」
「困ったね、どうも…」
 カカシは軽いため息をついてみせた。
 三週間、うちサスケが直接の監視を一週間続けて、何もない。顕著に出たのはカカシへの敵意ぐらいだ。本人にも自覚はないかも知れないが、あのまなざしを向けられた者なら分かる、あれは敵意というものだ。
 だがサスケの機転で、ナルトはカカシに逆らえない状況だ。今のところ自分は問題ないだろうと思う。
「ナルト、さ。明日からも一応、お前の『監視』に付けるけど、大丈夫?」
「どういう意味だ」
「や、まあ…ナルトがお前に絶対服従だっていうのは分かるけどね」
 不興を買ってしまった、と呟いた横顔を思い出す。
「…記憶が回復できたら、なーんにも問題ないのにねー」
「…」
 サスケは答えない。
 問題がない、はずはないのだ。ナルトについて問題なくなるだけで、サスケ自身を含めれば、ようやくそこから問題が始まる。
 なんてね、と軽口を終わらせようとした時だった。
「カカシ先生!」
「あれ、どうかした…」
「シカマル班から援軍要請です!」
 飛び込んだサクラが、複雑な顔をして小さく叫んだ。
 

*     *     *

 
 国境に向けて暗闇を走る。
 先に行きます、と囁かれて以降、疾うにナルトの姿は見えない。速すぎる。
(これじゃ監視役を買って出た意味がないわ)
 サクラは唇を噛んだ。サクラだけではない、ヒナタと木ノ葉丸も同様だ。姿さえ追えないナルトに、感嘆するよりは驚愕なのだ。
 ヒナタをリーダーとして組んだ小隊は、他の小隊二つと合わせて中隊とし、シカマル班の加勢に向かっていた。実情では、加勢ではなく救助だろう。シカマル班を回収し、敵の足止めをして撤退する。
(せめてサイがいてくれたら)
 大きな鳥を描き出して空を行けたのに。そのサイは、別の任務先から国境へ向かっているはずだ。
 いや、叶うのなら、サスケ君がいてくれたら。サクラはついそう思ってしまう。だがサスケの体は、ようやく骨が繋ぎ合わせられたばかりなのだ。日常生活に問題はなくても、忍として動くにはまだ早い。そして何より、目を使わせたくない。主治医として、そして友人として。
 カカシはアパートに帰ったばかりのナルトを召集した。急の任務に不満そうだったのは、サスケの監視任務を解かれたと思ったせいだろう。
『なーに、朝までに帰ってくればいいじゃないの』
 軽い調子で言われてようやく、ナルトは頷いたのだ。乗り気でなかったことは確かだが、恐らくナルトは本気で朝までにケリを付けるつもりなのだろう。階級で言えば一介の下忍、しかし今のナルトは階級など全く無関係だ。
『ナルトを出してみよう』
 援軍要請の知らせを伝えにサスケの病室に入ると、カカシの決断は早かった。サスケは何も言わなかった。サクラは反射的に「私も行かせて下さい」と口走っていた。
『そうだね。ナルトの様子、見ててくれる?』
『はい』
 サスケはそれを聞きながら、微動だにしなかった。
 任せられたのだ、と思った。
 早く、早く。
 早く追いつかなければ。
「すごい…もう白眼でも追えないわ」
 荒い呼吸でヒナタが白眼を閉じる。ヒナタと木ノ葉丸のペースが落ち始めていた。ここでサクラまで班を離脱する訳にはいかない。
 冷静に、冷静に。
 二人に合わせて速度を調整する。ヒナタ班はシカマル班の回収が担当だ。ナルトが先行して班員を確認・救出、残りの三人とナルトで回収しつつ、他の二班が敵陣の足止め。そういう筋書きになればいいのだ。
 だが。
 三時間を走り続けて辿り着いた国境は、全てが終わったあとだった。
 

*     *     *

 
 包帯はしていても、朝の光はそれとなく届く。鳥は鳴くし、人々の起き出す気配は雑多で、サスケは諦めて体を起こした。がちゃり、と手錠が鳴る。
 疲れるようなことをしていなくても、完治していない体は睡眠を求める。だが、昨晩の眠りは浅かった。
「…」
 足音が近付く。
 コンコン、とノックが二回。扉の開く微かな音のあとに、
「おはようございます」
 とナルトの声が入ってきた。サスケはいつものように、返事はしないで顔だけを向けた。
「…起きていたのですね」
「…悪いかよ」
「いえ」
 いつもと変わらないナルトの来訪。その声も気配も、常と変わらない。仄かな緊張すらも、いつも通りだ。
 昨晩、ナルトは救援任務に出ている。
 成功したのか、失敗したのか。だがサスケは問い質すことはしなかった。あとでカカシかサクラに聞けばいい。いつも通りの手順で着替え、顔を拭われ、髪を梳かれる。だが包帯を取る時の極度の緊張は、もはや感じられなかった。
 慣れたのか。昨日のアパートでの一件で? それとも昨夜の一件で? カカシに従えと言った時には写輪眼ではなかったが、ナルトは従った。
 カカシに従え。
 つまりもうサスケに従う必要がない。そう判断したか?
 どうでもいい。サスケは黙っていつも通りにナルトの世話を受けた。


 さすがに頭痛がする。
 明け方には里に戻ったが、任務報告を済ませた時にはいつもの起床時間になっていた。一睡もしないまま、サスケの監視任務に向かう。シャワーは使ったが、血の臭いは全て落とせただろうか。自分では分からない。
 うまくやれた、と思う。
 多重影分身は便利な術だ。だが分身を解除すると、疲労まで蓄積されるのには参る。
 それでも急いだ甲斐があった。
 いつも通りに監視任務に当たれる。朝食を準備し、着替えを持って病院へ。昨日のことがあって、己(おれ)は気分が沈んでいた。だが、サスケに会えないことの方が嫌だったのだ。
 サスケは、珍しく既に起きていたことを除けば、やはりいつも通りだった。昨日己が損ねてしまった機嫌も、元に戻っていた。元々機嫌が良いところなど見たことはなく、つまり元に戻ったというのは、何を思うのか分からないいつものサスケに、という訳だった。良かった、と己は思った。監視任務でとは言え、側にいることを許されたのだ。火影代理はああ言ったが、己はサスケに拒否されたのなら監視任務に就くことは出来ない。従えと言われた、火影代理の命令でも。
 いつものようにアパートへ連れてゆき、いつものように朝食を食べさせ、いつものようにリハビリセンターへ送り届ける。この一週間で習慣づいた、決められたスケジュール。
 だが、昼食を済ませたあと、常とは違うことが起こった。
「おい」
 食器を片付けていると、声をかけられた。
 二人でいて、サスケの方から己に話しかけるなどということは、今までなかったことだ。己は疲労にぼんやりとする頭で考える。
 ドアの開かれたままの、サスケの寝室。近付くと、それを察したサスケが言葉を続けた。
「俺は寝る。お前も寝ろ」
「…、は?」
「寝不足なんだろ」
 ぎくりとした。
 己の態度から知れたのか。血の臭いが残っていて? いや、知っていた? 昨夜の任務を知っていた?
「…昨晩、別の任務に出たことを…知っていたのですか」
「まあな」
「誰かに聞いた、のですか」
「…まあな」
 己は気遣われたのだろうか? こんな調子では、監視任務を外されてしまわないだろうか。急に不安になる。
「誰に…聞いたのですか」
「…誰だっていいだろ」
「あのひと、ですか」
「どの人だ」
「…担当医、あの…朱鷺色の…」
 一瞬名前が出てこない。
「…サクラのことか。何で」
「朝、起きていらした…から」
 一瞬間を置いて、サスケはフンと鼻で笑った。そのままベッドへ横たわる。
 やはり気遣われたのだ。監視対象が眠っている間は己もすることがないだろう、ということだ。ああ、と思わず吐息が漏れた。満たされる気がした。
「…いえ、今夜、眠ります」
「今夜また任務があったらどうすんだよ。眠れる時には寝ろ」
「…」
 どうせ動く気配があれば目は覚める。
 己は途方もない感情を抑えて、ただ「はい」と答えるのが精一杯だった。

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